モニターが幾つか配置された部屋で、二人の少年が外の様子を鈍く光る画面越しに窺っていた。その部屋は俗に言うパニック・ルームと呼ばれるものである。
屋内に設置された、緊急避難用の密室だ。この施設の中にはそういった設備が他にも何か所かある。生き残っている者がいるとすれば、恐らくそこに居るだろう。
外壁は厚く、巨大な金庫のようなものだ。外部からの攻撃ならば、バズーカー砲にも耐えられる代物らしい。
本当かどうかは分からない。彼らは元々この施設に居たわけではないのだ。緊急事態の発生で、たまたまこの部屋に身を寄せているのである。
パニック・ルームには何日も避難できるように食料を備蓄できるものもあり、ここもそれだけの設備が整っている。彼らがいる部屋の食料や水などは、収容人数
十名に対しておおよそ十日分。二人だけなら、一ヶ月以上食いつなぐこともできる。
彼らがいるパニック・ルームの内部は二部屋に分かれており、一つは主に食料などが保存されている倉庫。
隣接して汚物などを処理できる小部屋のようなものがある。侵入者を排除するため密室となっている部屋には、上下水道もなければ通風孔もない。このままだ
と酸素がなくなり窒息死してしまうが、食料庫の奥には濾過装置が設置されて循環供給される仕組だ。
外部電力から自家発電装置にも切り替えられるが、稼働することだけを確かめて、今のところは自家発電ではない。外部電力が使えるうちはこちらを使用する
べきだった。何故なら、施設自体は全く問題ないからだ。問題があるとするなら、それは中に居て運用するもの。即ち人間である。
モニターのある部屋は主に居住空間として使われるものであるからか、施設の誰かが入れたらしいソファベッドが備えられていた。
映し出される画面は三つ。一つは部屋と外部を繋ぐ唯一の手段である扉とその前に続く病院を思わせるリノリウムの白っぽい廊下。
LED電球に照らされた無人の廊下は、寒々しい明るさだった。
奥はT字路になっており、左右に分かれる廊下とその先にある部屋の様子を、残る二つのモニター画面が映し出している。
彼らがここに隠れてから三十時間以上経過していた。正確には三十三時間だが、三時間の差は大した問題ではない。二人にとって重要なのは、ここからどうや
って脱出し、外へ出るかということだった。緊急事態により現在この施設は閉鎖され、外部へ何人たりとも出られないようになっている。
この厳戒態勢はウィルスの隔離閉鎖とよく似ていた。それもその筈、ここで起こった事態は実験中のウィルスが施設内に漏れ、充満してしまったことなのだから、
当然といえる。この施設はさるウィルスの研究と実験のためのものだ。つまり当然ながら、ウィルスを外部に出さない防疫措置もとられている。
三十時間前、何らかの原因でウィルスが漏れ出したのを感知したホストコンピューターは、施設を完全に封鎖。
空気中にいるウィルスが死滅するまで外部との接触を遮断した。空気中を漂うウィルスの活動時間はおよそ一時間弱程度。
しかし、念を入れて三十時間、確実に封鎖は解除されない。
ウィルスが死滅したら、外部からの侵入は可能になる。だがしかし、外からの迎えがない限り、中からは絶対に出られない。
「なあ……進藤」
ソファベッドに座って、モニターを眺めていたヒカルに、背後から声がかかった。振り返ると、拘束具のような物を着せられ、更に頑丈な手錠で太い金属製の支柱
に足を繋がれた少年が見上げてくる。パニック・ルームであっても部屋だからか、或いは誰かが居住性を求めた結果か、床はフローリングだ。
そこに敷かれた小さな座布団に腰を下ろした少年は、小柄なヒカルとは対照的に、背も高く体格もがっちりとしている。服装と手錠以外は、彼と同じ極ありきたりな
普通の少年だった。ヒカルの視線を受けて小さく怯んだ表情を見せた彼だったが、果敢にも眼を逸らさずにもう一度口を開いた。
「あの…そろそろ外してくれてもええんちゃう?」
ヒカルの視線は、どうにもこちらを落ち着かない気分にさせる。
かといって不快なわけではない。居心地が悪いのに、時折光りを受けて光彩を変える、深い砂色の瞳から目線が逸らせないのだ。
最初はそうは思わなかった。騒ぎに乗じてどさくさ紛れに逃げ出し、ここに辿り着いて初めて彼に出会った時は、そんな余裕もなかったのは確かだ。とにかく恐ろ
しくて、パニックに陥っていた。正常な精神状態ではなかったのだから当然だろう。細かいことを気にする余裕なんて少しもなかったのだから。
だが、それが自分に対する言い訳だと彼――社清春は気付いている。しばらくして落ち着きを取り戻し、ウィルス対策を講じて貰って眠りにつくまでは、何ともなか
ったのだ。眼が覚めてから、明らかに自分は以前の自分とは変わっていた。
ヒカルに見詰められるのが居心地悪くもあり、同時に妙な心地よさも感じてしまう。おかしな意識だが、彼に逆らう気が全くしない。
まるで飼い犬が主人に命令されるのを待っているような感覚は、これに近いのかもしれない。
社が拘束具を着ているのは、ここで非人間的な実験をさせられようとしていたからである。
抵抗を防ぐ目的と、その後の経過観察時には凶暴に暴れるという理由で、拘束着を着せられた。この服のお蔭で奴らに噛まれずに済んだとはいえ、脱出する時
は足の拘束こそ外れたものの、手は動かせないまま現在に至る。足の拘束は、奴らが社を襲って偶然外れただけであり、たまたま運が良かっただけだ。
その後闇雲に走ってここに辿り着き、ヒカルにウィルス対策をして貰えたのも、運が良かったと言える。
一般的に不幸と表現される自分の人生の中でも、最悪な出来事の数々であったが、ある意味強運を持っていたお蔭かもしれない。
ここに社が連れてこられた経緯は、親戚が借金のかたに人身売買組織に彼を売ったからだった。
両親の事故死をきっかけに親戚中をたらい回しにされた挙句に、こんな所で人体実験の道具にされるなんて、数年前の自分は思わなかったに違いない。
とんでもない出来事の積み重ねは、出来の悪い三流小説の主人公のようですらある。生き残っても自慢したくもない。
社がウィルスに感染させられたのは、およそ二十時間前。
ウィルスが何らかの原因で空気中に飛散したのは約三十時間前であり、逆算すると彼が感染したのは空気中での活動後になる。通常ならば感染する筈のない
時間が経過しているのに、彼が感染したのは、実験のために特殊な無菌室に閉じ込められ、そこで人為的にウィルスを打たれたからである。
飛散する一時間前に数人の研究員に無菌室に連れて行かれ、そこで様々なデータを取るための検査を受け、ウィルスを接種された。
その間、社も彼らも何も知らずにいた。一度実験を始めれば、余計な雑菌を持ち込まない為にも、完全な隔離状態で行うからだ。
数人いた研究員の中のリーダー格の男は饒舌だった。
楽しげに説明してきた研究員によると、社に打たれたものは元々同じウィルスから作られた亜種であり、ここでは様々なパターンの亜種ウィルスを研究している
という話だった。ただし、最も強力な力を持つオリジナルウィルスは今では入手不可能で、一番近いT型のウィルスがベースとなっているそうだ。
基本的に直接感染させるのが主で、空気感染させるタイプは亜種の中でも弱く、持続性も低くてすぐに死滅してしまう。
つまり、ベースとする遺伝子は全て同じものが使われている。その反面、遺伝子が変化しやすいのも特徴だが、どれだけ強力に変化しても、オリジナルの力に
は及ばない。インフルエンザと違って、遺伝子型が違っても、オリジナルの抗体は全ての亜種に対して影響し効果を及ぼすのが、それを証明している。
どうせ何時間か後には何も分からなくなると思っていたからか、研究員は好き放題に症状などについてあれこれ喋ってくれた。
オリジナルの保菌者――キャリアーこそいるものの、この人物からオリジナルウィルスを取り出すことも、ワクチンを作り出すこともできないのが困りものらしい。
全てに有効なオリジナルの抗体があれば、例え不測の事態で感染しても怖くないが、作れない限りこれほど始末に負えないウィルスはないからだ。
T型から作られたワクチンは、ある程度こそ効果が期待できるものの、オリジナルの足元にまるで及ばない。感染者から感染者に伝染し、変化し強力になった
ウィルスに対しては、T型ワクチンを打っても効果が得られない場合もあるのだ。
このウィルスの症状は非常に恐ろしく、社は話を聞いただけで、舌を噛んで死にたいと思った程だ。しかし幸いにも、今もこうして自我を失わずにいる。
ヒカルのしてくれたウィルス対策のお蔭だ。研究員の話が真実なら、社はとうの昔に奴らと同じになっている。
感染後、三〜五時間の間に発症するか、或いは死に至る。そして周囲にいる人間を襲うモンスターになるのだ。
外で徘徊する、ゾンビのような奴らと同じようなモノに。
このウィルスの恐ろしいところは、死んだ人間にも影響を及ぼすという点だろう。例えウィルスによって死亡したとしても、死亡時点で感染前であっても、ウィルス
に汚染されれば歩く死体となって動きだし人間を次々に襲うのだ。
専門用語の羅列で意味がさっぱり分からなかったが、結論だけを言うなら極端に細胞を強化し、活性化できるウィルスらしい。
だから、死んで動かない筈の死体も、死滅した細胞がウィルスによって浸食されて新たに活動し、動き出すのだという。
厄介なのは動くだけに留まらず、次々に生きた人間を襲う点である。詳しいことは分からないが、食欲だけが残り、新鮮な肉を求めて貪り食らい続けるらしい。
それもあって、奴らは正常な人間は襲って食い散らかすが、腐食したものには興味がないので共食いはあまりしないのだ。
滅多にいないが、感染しても発症しない者もいる。とはいえ、現在確認できているキャリアーはたったの一人だ。
その人物の血液からワクチンを作る研究をしているが、成功例はまだない。T型のワクチンすら社のウィルスには効果がなく、社が助かるにはキャリアーから
直接血液を輸血して貰うか、変化したウィルスに対応したワクチンを接種するしかないのだ。
更に厄介なのが、キャリアーの血液抗体が期待できるのは感染者に対してのみで、予防効果を得られない点である。
研究員は何故予防効果が得られないのかは、社に教える必要がないと判断したのか、これについては放さなかった。或いはまだ研究段階だったからか?
その人物が強力な抗体を持っていても、ウィルスに感染している事実は変わらず、健康な人間に与えると感染者となってしまう可能性もありそうだ。
だが、それはオリジナルの持つウィルスがどんなものか知識を持たない社の憶測でしかない。
このウィルスの特徴に、感染すると体内で遺伝子変化を起こし、また違うタイプのものへと変わるという特異性がある。
変化したウィルスには近い型のワクチンを接種すれば効果は期待できるが、絶対とはいえない。百パーセント発症を防ぐには、感染後二時間以内にキャリアー
の血液を輸血するのが絶対条件となる。オリジナルウィルスの抗体がいかに強力であるか窺える一面だ。
このウィルスの一番の特性と怖さは、インフルエンザなどの一般的なウィルスの常識が全く通用しないことである。
まともなワクチンもないのに、よくもこんな危険なウィルスの実験をできるものだと、社の感覚では神経を疑わずにいられない。
実験室で研究員に聞かされたのは大まかにそんなところだが、実験体としてどんな目に遭うのか恐怖に慄いていた彼を、更に怯えさせどん底に突き落とすの
が大半の目的だったのだろう。そして彼は社を見てニヤニヤ笑いながら、こうも言った。
『けどお前は実験体だから、症状を確認するためにもワクチンは打たないけどな。尤も、ここまで遺伝子変化を起こしたウィルスじゃT型も効きやしない。まあ、
運が良ければ発症せずに済むさ』
そんな奴は百万人に一人いるかいないかだけど、と言外に告げて。
研究員達は、ウィルスの感染後の変化を『進化』と呼んで憚らず、社に接種した新種がどう変化するのか興味津々の体であった。
非道な行いをした彼らは、ウィルスを接種した社を経過観察するため、別室に運ぶ作業をする際、感染者に襲われ殺された。扉を開いた瞬間、雪崩れ込むよう
に奴らは中に入ってきたのだ。打たれた直後の社もやはり襲われた。頑丈な拘束服のお蔭で手足を噛まれても平気だったが、無防備な頭と首筋を襲われかけ
た時は本気で肝が冷えた。丁度その時噛みつかれていた足の拘束が外れ、社はストレッチャーから転がり落ち、壁伝いに立ち上がって全速力で逃げ出した。
どこをどう走ったのか覚えていないが、気が付くとこのパニック・ルームの傍にまで来ていた。
社を追いかけてきた奴らも、上手く撒けたらしくこの近辺に近付くと丁度居なくなり、すぐにヒカルが部屋に入れてくれたのである。
奴らの動きは鈍く、本気で彼が走ると追いつかれることはない。ただ厄介なのは、数が圧倒的多数である点だろう。
ヒカルとの出会いは衝撃的だった。この近辺まで走って来た時にマイクで声をかけられ、天の助けとばかりに申し出に躊躇なく飛びついた。今思い出すと、既に
あの時点で自分は彼に逆らえなくなっていたのかもしれない。
パニック・ルームの扉の前に来るとすぐに招き入れられ、礼もそこそこに安堵で床にへたり込んで息を整えていた矢先だった。
中に入った自分を一瞥して開口一番、
「おまえ、感染してるな」
社には自覚症状もないというのに、当然の如くヒカルは指摘した。瞬間、背筋が凍りつき、身体が硬直して声も出せなかった。
驚愕と同時に外に放り出される危険性が脳裏に過ぎり、これまで味わった恐怖を味わいたくない一心で顔も上げられずにいた。
そのままの体勢で何分黙っていたのか分からない。ヒカルは社が言葉を発するまで、ただ静かに佇んでいただけだ。
「……何で分かんねん」
激しい動揺だけでなく、必死に逃げ回って体力も限界に陥っていた社は、心を安定させて返答するまでに随分と時間がかかった。
少しずつ冷静さを取り戻すにつれ、疑問点が幾つも浮上してくる。空気感染する時間を経過した上で正常な状態、尚且つ噛み傷などの外傷もないのに、一目見
ただけでどうして感染者だと分かるのか。何の知識もなければ、社が感染者だとは思わない筈である。
それなのにヒカルはあっさりと社の感染を言い当てたのだ。疑問を口にするまでもなく、彼は平然と解消する答えを出した。
「オレも同じだから」
さらりと告げられ、一瞬で腰が引けた。ここを出ようかと本気で思い、身体が無意識に逃げを打とうとしたほどだった。
余程怯えた顔をしたのだろう、安心させるように彼は笑った。
「大丈夫だって、おまえを襲ったりしないよ。感染してるけどオレには抗体があるんだ。……で、抗ウィルス薬は持ってるの?」
「あったら打っとるわ。ないから困るんやないか」
「じゃあ、いつ感染したか分かるか?」
「たぶん…一時間半くらい前やと思うわ」
ヒカルは少し考え込むように細い指を顎に添える。
「………おまえ、血液型は?」
「O型やけど…?」
唐突な問いに、怪訝に思いながら答えると、彼は緊急医療キットを倉庫から持ってきて、輸血用の注射器を取り出し破顔した。
「おまえ運がいいな。オレも同じO型。輸血してやるよ」
「そんなんできるんか?」
「ああ。いざという時のために、佐為から習った」
佐為とは誰なのか疑問を覚えるよりも、助かりたい一心だった。研究員から聞いていた話を思い出し、小さいが希望を見出した喜びに一も二もなく頷いた。
ヒカルから血を与えて貰うと安全な場所で緊張から解放されたのか、そのまま意識を失ってしまった。
次に眼が覚めた時、足が手錠で繋がれていたのには面食らったが、ヒカル曰く念の為だとのことだった。もしも輸血の効果が間に合わず発症してしまった時に
備えての、予防策を講じたのだろう。彼の気持ちも分かるので、社は何も言わずにおいた。
とはいえ、あれからほぼ半日経っているのだから、そろそろ外して貰いたいと思うのは、社の我儘だろうか。
居心地の悪い思いをしながら窺っていると、社の意見にヒカルは一つ頷き、小さな鍵を取り出して手錠を外してくれた。
拘束服も何とか脱いだが、下に着ているのは入院患者のような服だけだった。パニック・ルームには衣服が数着と布団もあり、その中でサイズの合いそうな服
を適当に物色して着替えることにする。
この際、デザイン性についてあれこれ文句を言うつもりはない。とにかく動き易くて、全身を覆う服があればそれで良かった。
社が着替えて戻ってくると、ヒカルがモニターを鋭い目で見詰めていた。
さっきまではぼんやりとただ何となく見ているという感じだったのが、明らかに注視している。







