審判を待つように瞳を閉じ、ゆっくりと杯を下ろしてテーブルに戻す。
「小僧……おまえは確かに正しい選択をした。じゃが、若い身空では決して良い選択とはいえぬぞ?」
「……分かってるよ。けど、こればっかりは確実な答えを得るには、自分で試すしかねぇだろ?」
老人の言葉に苦く笑って答えながら、ヒカルはほっとしたように大きく息をついた。本物の聖杯でなければ、ヒカルはアキラを救うことも、緒方と倉田
を助けることもできない。一先ず第一関門はこれでクリアしたことになる。
第二関門は、アキラの命と倉田と緒方を救い、どうやって聖杯を悪用させずに死守するかということだ。
既に次のことを考え始めているヒカルの後悔を宿さない瞳を読み取ると、老人は肩を竦めて小さく笑った。
「まあ、それもおまえさんの宿命なんじゃろうて。選んだからには自分で責任を持つがよい」
今更言われるまでもない。この選択をしたことを、後悔するつもりもなかった。
「なあ、爺ちゃん。この聖杯ちょっと借りていい?必ず返しに来るからさ」
内心聖杯と呼んでいいものなのかどうかと悩みながら確認をとると、老人は拍子抜けするほどあっさりと頷いた。
「構わんぞ。床の星の印の外に持ち出しさえせねばな。……ところで、おまえさんはこれを鞘に与えるつもりか?」
「そうだよ。聖杯の力であいつが受けた傷を治してやるんだ」
質問に質問で答えた老人に、ヒカルは頷いてみせる。これを使ってアキラを救えるなら、何とか救いたいから。
「先に言うておくが、使ったところで効果はないぞ」
「え?」
予想もしなかった言葉を聞いて、驚愕に眼を見開いた。
「ど……どういうことだよ!?それっ!!」
「人の話は最後まで聞かんかい。おまえは最後の言葉を読んだんじゃろう?」
掴みかからんばかりで勢いで縋ってくるヒカルをやんわりと諌め、老人は飄々と訊く。
「『一度は神の長き愛を受け、二度は永遠に神の愛を得られるだろう』という文句だがの」
「読んだよ。意味は分かんないけど……」
「これは正しい選択をした者にのみ教えることじゃからな、おまえさんが分からぬのも無理はなかろうて」
「教えてくれるの?」
年相応の仕草で小首を傾げたヒカルに、老人はくしゃりと相好を崩した。
「おまえさんには聞く権利がある。その上でどうするか決めるがいい。聞くかの?」
大きく頷いたヒカルに応えて、老人はゆっくりと話し始めた。
「『一度は神の長き愛を受ける』とは、一度目の選択はあくまでも長寿を得られるという意味じゃ。老いとも死とも無縁ではない。わしは千年近く生き
ておるが、最初に飲んだ時より随分と歳をとったし、いつかは死を迎えることになる。ただし、一度目の選択をした場合は、人間離れした能力を得ら
れるのじゃ。わしと剣で戦ったおまえなら分かるじゃろう?この歳では普通、あんな動きはできんからの。しかし、一度飲んだからといって不死にな
るわけではない。暴力的な行為による死も、病による死も、決して逃れられない。瀕死の重傷を負った怪我人に与えたところで、効果は得られんのさ」
「じゃあ、受けた傷を治すことはできないの?」
あからさまに落胆した顔を="-1">
「………生きてるの?」
「生きておるとも。わしらの話も聞いているさ」
「ふーん。ねぇ、一つ聞きたいんだけど……この遺跡の仕掛けとか魔鏡を作ったのは誰?」
彼が疑問を抱くのも頷ける。遥かな過去、自分もまたこの疑問を覚えたのだから。こんな底意地の悪い仕掛けや暗喩を残し、世界各地に伝説
をばら撒き、人間の欲望を翻弄し、踊らされ死にゆく者を嘲る、見えない存在の正体が何者なのかと。
死へと導かれる者は確かに不死と力を得るに相応しくない人格の者ばかりで、不老不死を得る者は確かに納得できる人物しかいない。
だが、人間にそんな宿命を負わせることに、何の意義があるというのか。
「この女性でも男性でもないことだけは確かじゃな。彼女も前の護人から引き継いだだけで、その前の人物も分からんかったようだ。少なくとも、人
間ではあるまいよ」
見えないその何者かの正体は、人智を超えた者であることだけは確かだ。神と呼べる存在かどうかはともかくとして。
「――さて、おまえが大事な者を救いたいのなら、二度、聖杯の雫を飲ませるがいい。そうすればすぐに傷も治って生き長らえるだろう。ただし、絶対
に死ねぬ身となるがな。わしは選択に必要な材料は与えた……後は自分達で決めて好きにするがよい」
ヒカルは聖杯と呼ばれるお猪口のような杯を握り締めた。
気付かない間に中に入っている水のような透明な物体は、なみなみと溢れんばかりに縁ギリギリまでに達している。思いついて逆さにしてみると、
それは盛り上がって雫の形を形成して落ちそうになるものの、決して離れなかった。
杯と透明な液体のような物質とあわせた形だけを見ると『8』のじに見える。だが、全く別のことを示している事実にヒカルは気付いた。
これは数字ではなく記号だったのだ。
無限大、或いはメビウスの環――永遠という意味を一文字で表したものであった。
どうしても選択できない答えを抱えながら、ヒカルはふらつく足を叱咤してアキラの元に戻った。
座間は聖杯を持つヒカルに手を出そうとはしなかった。騙される可能性を考えて、まずアキラの経過を窺うつもりだったのだ。
聖杯が本物でアキラが死ななければ、それでいい。ヒカルと彼の関係を考えると、成功すれば必ず本物を持ってくると予想していたが、念のため
にアキラを実験台にし、その経過次第で聖杯を奪うつもりだった。
贋物ならば当然ながら、この場で全員を皆殺しにする。尤も、例え本物でもこの場にいる者達の命を抹消する心積もりでいる点は、変わらないが。
全員が固唾を飲んで見守る中、ヒカルは聖杯を傾けてアキラの口元に持っていったが、飲む体力も残っていないのか口唇すら開かない。
ヒカルは聖杯から雫を一口含み、口移しで飲ませようとした。
しかし、いざとなると助かっても長い年月を生きる結果となることを考えてしまい、踏ん切りがつかない。
ギリギリまで顔を近づけて触れかけた唇を離しかける――が、唐突にアキラの腕が伸びて引き寄せられ重なる。
逡巡するヒカルの口腔から、器用に舌で雫を掬い取られてしまった。
僅かに残った血の味が、アキラの状態をヒカルに理解させる。
ギリギリの状態で腕を上げることすら辛いだろうに、彼はヒカルの想いを知っているからこそ、力を振り絞って飲んだのだ。
ヒカルを一人にさせないために。
しかしその想いも虚しく、老爺が言った通り、アキラの顔色は悪いままで回復する気配もない。荒い息をついて、血も止まらずに流れ続けて床に
真っ赤な水溜りを作っていた。出血がひどい。このままだと、恐らく何分ももつまい。
背後でカチリ…と銃の安全装置を解除する音が聞こえた。
アキラの身体が回復しないことに、座間が騙されたと考え、自分達を殺そうとしているのだ。
アキラの傷が治らなければ、緒方も、倉田も、勿論ヒカルも殺される。
だが、アキラに永遠という業を背負わせたくはなかった。ヒカルが先に死ねば残された彼はどうなるだろう?
あの男女の像が脳裏に浮かび、どうしてもそれだけはしたくないと、本心から思った。
どのみち座間は、成功しようがしまいが、全員殺すつもりでいるのだ。どうせ死ぬのならアキラと一緒がいい。
しかし、ヒカルの勝手で緒方と倉田を巻き添えにするわけにもいかない。何よりも、ヒカルはアキラの命を救いたかった。
何もせずに、むざむざ彼が死んでいくのを指を咥えて見ていたくない。見殺しになんてしたくない。生きる方法があると分かっているのに。
けれど、その選択をするのは余りにも重い。今のままの姿で永遠に生き続けるなど、アキラは不老不死なぞ、端から望んでいない。
それはヒカルも理解している。ヒカル自身もまた、望んでいない。
しかし同時に、不老不死を選択すればアキラは生き長らえるとうことである。アキラの『生』はヒカルの心からの望みだ。
二つの相反する願いにヒカルはどうすればいいのか分からない。分からないが、どうしてもアキラを救いたかった。後でどれだけ憎まれても、ヒカル
はアキラに生きていて欲しい。
悩みぬいた末に再び杯から雫を含み、アキラに顔を近づけた。一度は決意したというのに、そこまでしながら躊躇してしまう。
老人の言葉が何度も頭の中でこだまし、ヒカルは唇を噛み締め雫をそのまま飲み込んだ。
アキラを一人で生かすなら、永遠の孤独の中に置くという残酷な目にあわせるくらいなら、ヒカルが永遠の業を背負う。その方がいい。
(ごめん……倉田さん、緒方先生。――塔矢)
心で謝りながら聖杯を渡す決意をした瞬間、どこにそんな余力が残っていたのか、アキラの血塗れの指がヒカルの手首を信じられないほどの強さ
で掴んだ。振り解けないほどの力強さで。
死ぬ間際の人間の力ではなかった。それだけに、ヒカルはより一層の驚愕で咄嗟に動けず固まる。
断固たる決意と、意志を宿した黒い瞳と目線が交錯した時には既に遅かった。
彼はヒカルの腕を支えに、聖杯を傾けて自ら飲んでいた。
変化は劇的であった。夥しく流れていた血が見る間に止まり、白い肌に刻まれた傷口が塞がっていく。
青褪めた顔色に赤みが差し、荒かった呼吸が落ち着きを取り戻して穏やかになる。
それを間近で眺めていた緒方と倉田は、驚愕に声もなく息を呑んだ。
聖杯の持つ神秘的な力を目の当たりにしても尚、現実を受け入れきれない。それほどまでに、アキラの身体に起こった劇的な現象は信じ難い。
事実だと頭では分かっていても、納得できるものではなかった。
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