パチリ、パチリ、と室内に石を置く音が響く。
関西での手合いを兼ねた小旅行から戻ってすぐに、ヒカルは塔矢邸に訪れていた。自宅には着替えを取りに帰ったのと、アキラ
も含めて夕食を摂っただけである。美津子がアキラを気に入っていることもあり、夕食は終始和やかだった。
それだけでなく、美津子はアキラの母親である明子とも馬が合って友人付き合いをしている。ヒカルやアキラとしては、いつの間
にという思いだったが、きっかけは北斗杯でたまたま会ってからだそうだ。碁打の息子を持つ母親同士通じるものがあったのだろ
う、それ以来意気投合して今ではすっかり携帯のメル友になっている上に、一緒にショッピングなどにも出かけているらしい。
互いの息子が無理をしようとしたり、言うことをきかなかったりすると、これ見よがしに目の前で電話するのが最近の二人の作戦
だ。たとえばつい先日にはこんな出来事があった。
「聞いて明子さん!ヒカルったら夕飯も食べずに碁三昧なのよ!?」
ヒカルが横で「後で食うって言ったじゃん!」と文句を言っても当然のごとく無視で、美津子は電話に更に愚痴を零す。
『まあ…ちゃんとご飯も食べないと身体にもよくないのに』
「そうでしょう?折角作ったのに、打ってるから後で食べるですって!そのまま忘れて寝ちゃう時もあるのに…。しかも今日は久し
ぶりに親子揃っての夕食だっていうのに、ひどいと思わない?」
『それはひどいわ。アキラさんも夢中になって食べないことがあるのよ?芦原さんがたまに来てくれるからまだいいけど、私達が
居ない間どんな食生活をしているかと思うと、もう気が気じゃなくて…。几帳面だけど意外に面倒くさがりなところもあるし、本当に
心配なの。美津子さんなら分かって下さるわよね?』
明子はパソコンに座ってひたすら棋譜整理をしている息子の傍に座り込み、ここぞとばかりに大仰に溜息をついた。
「ええ、分かるわ。面倒くさいから後でいいだなんて、何て親不孝なことを言うのかしら」
『うちでも親子揃って食べる機会なんてそうないのに、棋譜整理の最中だから後で食べるって言うのよ、アキラさんったら。パソコ
ンでしてるんだから、途中でも保存すればいいじゃないの。ねぇ?』
「覚えてるんだし、ちょっとご飯を食べてからでも罰はあたらないわよね」
二人は揃って、場所は違えど気まずげな顔をしている息子を見やる。二人の母親に責められる状況に耐えられなくなったのか、
息子達はそれぞれ碁石を片付けたりパソコンを切ったりという行動をおこした。ヒカルもアキラも、根は素直なのでこの辺りの聞
きわけはいい。
「分かったよ!」
『今から行くから』
ヒカルとアキラが重い腰を上げて部屋を出ると、それぞれの母親は心でガッツポーズを決めたのだった。そんなこんなで、母親
同士の共闘作戦に連戦連敗している息子達である。いつの時代でも、母は強し、ということだろう。
そんな両家の交流もあって、今日の夕食はアキラも交えてのものとなったのである。その後はアキラの家に向かい、風呂に入
ったりなどして寛いでから、こうして盤を挟んで打っている。いつでも寝られるように、ヒカルはジャージ、アキラはパジャマに着替
えていた。二人して対局と検討を終えると潰れるように布団に潜り込んだり、対局の興奮を引きずって肌を重ねることもあり、夜に
なってから一戦を交える時は大抵こんな感じだ。
帰りの新幹線で途中まで打ったものの、珍しくアキラが眠って打ちかけにしてしまった、その続きだ。形勢は五分と五分。ほんの
僅かな隙も許されない、緊張感が室内には満ちている。
対局時計なしの碁で、まさに無制限の一本勝負といったところだ。それだけに、二人の間にある空気はピリピリとしたもので、針
が一つ落ちることも許されそうにない雰囲気である。静かな室内は、秒針が進む音だけですらやけに大きく響いていた。
真剣な表情で盤面を見つめ、ヒカルは扇子を口元に当てて瞼を少し伏せた。脳裏にはこの先に行く幾筋もの道程が描かれてい
る。ヒカルはゆっくりと扇子を置き、冷たい黒石を持って盤面に涼やかな音を立てて放った。
この一手に、アキラの闇夜の瞳に三日月のように冴え冴えとした輝きが宿る。ヒカルの手に気圧されることなく、殆ど間髪入れず
に白石が黒の一団に斬り込むように置かれた。強手である。
(喰らいついてきやがった…)
決して引くことのない踏み込みに、ヒカルの背筋に冷たい汗がじんわりと浮かぶ。まさに竜の牙が喉元にくい込んできたような錯
覚すら覚える一手だった。だがここで引くような真似はしない。反対に爪で喉を掻ききるつもりで石を打つ。
互いの気迫のぶつかり合いだ。実力も放つ気概も拮抗している相手だけに、それはまさに死力を振り絞った激闘となる。
虎の繰り出す鋭い爪を逃げずに迎え撃つ。竜の打ち落とす雷を間一髪でかわしつつ、牙で鱗を破って喰らいつく。
どちらも譲らない、故に致命傷を与えられない、そんな一進一退の攻防が続いた。
二人が肌を寄せ合い、互いの体温を分け合う関係であると、全く感じさせない凄まじい死闘であった。
既にヨセへと盤面は向かっている。僅かに、ヒカルが悪い。このままでは一目足りない。アキラの勝ちを引き寄せる力強さにじり
じりと差をつけられはじめている。既に終局図は見えているが、ヒカルは諦めきれずに何とか抗っていた。
石を置いて、扇子を握り締める。次のアキラの一手を待っていると、不意に彼が口を開いた。
「誕生日おめでとう」
「は?」
ヒカルは何を言われたのか分からずに、大きな瞳を見開いてアキラを見つめた。
「12時だ。もう9月20日になったから…誕生日おめでとう」
アキラは少し頬を赤く染めながらも、心底嬉しそうにヒカルに微笑みかけてくる。
言われたヒカルも何となく恥ずかしかったが、アキラも恥ずかしいのだろう。普段は白い頬に朱を滲ませて、恥じらい加減に瞼を
少し伏せながらも、柔らかな微笑を浮かべて真っ直ぐに見つめてくる。
その笑顔だけで、ヒカルの心は温かな幸福感に満たされた。とても照れ臭かったが、こうしてアキラから直接言葉を貰えたのは
初めてのことだった。何だかそれが不思議であると同時に、涙が出そうになるほど嬉しい。
どんな時であっても、アキラの真っ直ぐで純粋な瞳が自分を捉えているのだと、不思議と実感できた。
「……うん…サンキュ」
アキラの顔をまともに見れなくて、俯き加減に答えると、唇に柔らかな感触が掠める。口付けられたのだと分かって慌てて顔を上
げた。いつのまに傍に来ていたのか、再びアキラの顔が近づき、瞼を伏せた。アキラの少年期の細さを残した背に腕を回し、何度
も唇を重ねる。やがてゆっくりと互いの身体を離して、ヒカルは甘やかな余韻にしばし浸っていた。頬を押し付けた彼の胸からは、
命の鼓動が確かに伝わってくる。
安心感にうっとりとそれに聞き入っていると、唐突にパチリと盤面に石を置く音が聞こえた。
はっと顔を上げて見下ろせば、アキラが黒の急所に白石を放ったところだった。
「あぁ!この野郎っ!」
ヒカルの非難をものともせずに、アキラは涼しい顔で告げる。
「これで決まりだね。ボクの二目勝ちだ」
「おまえ、ずるいぞ!」
「ずるくない。ボクは別に石をずらしてもいないし、二手打ったりもしていない。次の一手を打っただけだ」
アキラの言葉は逐一尤もだった。ヒカルが次にアキラが打つのだと忘れてしまっていただけで。
全てが真実ではあるのだが、しかしそれだけに人間というものは中々認められずにいきり立ってしまうものなのだ。
(ぐぬ〜ムカツク!)
腹は立っても負けは負け。ここは男らしく潔く認めねばならない。
「はいはい!オレの負けですっ!マケマシタ!」
ヒカルの半ば自棄の籠もった言葉にもアキラは至って冷静で、黒髪を揺らして礼儀正しく頭を下げた。
「ありがとうございました」
アキラは綺麗な笑顔でさらりと答えると、手早く碁石を片付け始める。いつもならすぐに検討を始めるのに、今日はやけに引き際が
いい。ヒカルは不審に思いつつアキラの様子を窺った。
何を考えているのか、アキラは碁笥を盤面に置くと脇に押しやり、じりじりとにじり寄ってくる。
「な…何だよ」
ヒカルはアキラの醸し出す雰囲気に思わず気後れして、少しばかり上にある黒い瞳を上目遣いに見上げた。
「これからプロ試験に合格できたかどうか、キミに決めて貰いたいんだ」
「……え?」
自分の手をとり、これ以上にないほど真剣な面持ちで告げるアキラに、間の抜けた声を出す。さっぱり何のことだか分からない。何
だって今更プロ試験なのだろうか?アキラはとうの昔に合格して、既に三段。昇段点をとって四段に上がってもおかしくはない。
ヒカルは訳が分からず、内心首を傾げる。こうもくそ真面目なアキラを前にして「ごめん何のことだっけ?」と尋ねるだけの勇気はな
かった。普段は無神経に何でも口の端にのせるのだが、この状況ではさしものヒカルでも躊躇してしまう。
何よりも相手はあの塔矢アキラである。下手なことを訊いて、また「ふざけるな!」と怒鳴られるのも避けたい。
しっかりと手を握りしめるアキラから微妙に視線を逸らしながら、ヒカルは必死に考えた。
(プロ試験か…何かひっかかるんだよな〜。そういや最近………あっ!)
はたと思い出したことに、思わず頭を抱えたくなってしまう。本当にアキラはどんな事にも真剣で、あんな馬鹿げたことにまでヒカル
に応えて真面目に取り組んでいるのだ。実際、彼はこの一月にも満たない間に随分と上達したのは確かなのだが。
「いいよね、進藤」
アキラは手を握ったまま、ヒカルの意見も聞かずに半ば以上決めてしまっていた。相変わらず自己完結の早い男だと突っ込みを入
れることはおろか、返事すらもできずに、呆然としたまま現実逃避気味に一月前の自分の言動を振り返る。
以前、アキラと初めて肌を重ねた翌日に、ヒカルはアキラに技術を向上しろと要求した。
一番最初はお話にもならないので囲碁部の三将戦程度。次に院生試験、一組16位、プロ試験予選、といった具合に少しずつレベル
アップし、最終的には初段になれと言い渡したのである。
その判断基準となるものが、ヒカルの感じる身体の痛みだ。何せ、初めての夜はお互いに慣れないこともあって痛みが相当なもの
であった。している最中はそんなに気にならず、快楽も感じられたのだが、終わった後の翌日がとんでもなく辛かった。
立つこともできず、寝返りすらも慎重にせねば激痛に苛まれた。その苦しさに、ヒカルはつい言ってしまったのだ。
自分の誕生日をリミットに、プロ試験に合格して初段になるようにと。
(わ……忘れてた……)
今朝(正確には昨日)までは覚えていたが、そういえば今日(というか今夜)がそのXデーだったのだ。碁を打っている間にすっかり忘
れてしまっていた。冷汗が今更のようにたらりと背中を伝うが、時は既に遅い。
アキラはヒカルの沈黙を諾ととったようで、手を離して気合十分な様子で立ち上がっていた。
(スゲーやる気満々じゃん!)
傍目から見ても、アキラはこれ以上ないくらいに気合を入れて燃えている。恐ろしいほどに真剣だ。
こんな事にまるで人生の全てをかけて臨むかのように、御大層に大真面目に取り組もうとしているのが伝わってくる。
アキラがヒカルのことに関しては、特に常識の範疇を超えてとんでもなく真剣に、必死になるということをヒカルはすっかり失念して
いた。最初に出会った頃から、彼の形振り構わない直情的な猪突猛進ぶりや、一点集中する執着心、涼やかな美貌の下に隠され
た激情を、思わず逃げ出したくなるほど見ていたのに。
アキラは厳しく小うるさいところもあるが、基本的にヒカルに対して甘くて優しいものだから、忘れがちになっていたのだ。一緒に行
動するようになってからは、彼はヒカルが傍に居ることで余裕を持ったようで、余りそういった面も見せなくなっていたのである。
だが根本が変わっていたわけではない。アキラは昔と変わらず、或いは以前以上にヒカルに想いを抱いているのだ。
ただヒカルにとっては苦笑したくなるのが、そんな彼の強い想いが不快になるどころかむしろ受け入れたくなってしまう自分だ。
アキラがヒカルを欲すれば欲するほど、自分に縛り付けたくなってしまう。
気がつけば、アキラはテキパキと碁盤を片付け、布団を敷いている。ついさっきまで対峙していた頃の鋭い雰囲気を彷彿とさせなが
ら、着々と準備を整えていった。どうやら彼は本気でこれから取り組むつもりであるらしい。
確かに、ヒカルも最初に言い出した時はこれ以上にないほどに本気で、冗談のつもりで言ったわけではなかったが、この状況に放り
込まれてしまうと、どことなく滑稽さを感じずにはいられない。しかし、アキラの手際の良さと行動の素早さはどうだろう。余りの展開の
早さについていけずに、ヒカルは何もできずに座ったままで唖然とするばかりだった。
そんなヒカルを尻目に、アキラは布団の脇にピシリと正座した。まるでこれから世紀の対局に向かうかのように。
「お願いします」
アキラが深々と礼をして頭を下げる。
「お…お願いします」
アキラの真剣な瞳につられて、思わずヒカルも居住まいを正し、頭を垂れて丁寧に挨拶を返す。
それを合図に部屋の明かりは消され、漆黒の闇が周囲を覆った。そっとのしかかってくる体温に、ヒカルは瞳を閉じた。