7月下旬――梅雨も明けて刺すような夏の日差しが、アスファルトを容赦なく焼き、否応もなく温度を上昇させている。ヒート
アイランド現象で発散されることのない熱は、道路を熱したフライパンへと変化させていた。
それでも地面が土に覆われた公園は、周囲にある街路樹や芝生などのお陰で、まだ比較的涼しい。明るい太陽の光の中、
瑞々しい木々の青葉が輝き、木漏れ日をむき出しの地面に落としている。
涼やかな音を立てる噴水の傍には、欧州風にアレンジしたと思われる、簡素な東屋が建てられて確実な日陰を作り出して
いた。夏には暑い太陽から日陰を確保し、冬には冷たい風を防ぐように設計されているらしい。
塔矢アキラはその東屋の中にある、木製のベンチに腰を下ろして一人本を読んでいた。
本といっても詰碁集である。プロ棋士であるアキラとはどうしても囲碁は切り離せない。両親も海外から帰ってきての久々
の休日ではあったものの、家に閉じこもりがちなアキラは母から散歩するように言われてしまい、こうして少し遠目の公園ま
で足を運んで一休みしているところだった。
この公園は、アキラにとっては思い出深い場所だ。半年前に改修工事が行われて噴水がこれまでより大きくなり、周囲の
木々が増えて洒落た東屋ができ、公園の規模もすっかり広がっている。それでもアキラの思い出は変わらない。
アキラの密かな思い人である進藤ヒカルにモデルを頼み、写真を初めて撮ったのがここだった。
その後もヒカルと何度か噴水の傍で待ち合わせをして、一緒に夏祭りに出かけたり、写真のモデルとして付き合って貰った
り、偶然に会っては時を忘れてお喋りに興じたりした。ヒカル自身はアキラの専属モデルみたいなものだと思っているようだが、
アキラにとってヒカルをモデルに撮るのは、彼を少しでも身近に感じたいからかもしれない。
以前はこの公園で会ったり待ち合わせていたが、プロになったヒカルとの因縁の初対局依頼、碁会所が待ち合わせ場所に
なっていることが多い。碁会所で対局や検討をした後、映画を観に行ったり、食事に行ったりして、帰りが遅くなってしまうこと
もしばしばある。お互いに棋士としての生活も忙しくなってきているので、会うとなったら囲碁の話ができる碁会所や棋院にな
りがちだ。色気もへったくれもないとは思うのだが、アキラも男手ヒカルも男なのである。
これで色気のある展開にもっていける方がおかしい。男同士で、友人以上の付き合いになんて、常識的に考えて滅多にでき
るわけがない。けれどアキラはヒカルのことをライバルや友人だけでなく、それ以上に思っている。つまりは恋をしているのだ。
だからといって、一方的に自分の想いをただぶつけていい相手でもない。
好きで、好きで、好きで、堪らない。ただ会うだけなんて物足りないとすら、感じている。ヒカルに触れたい。口付けて、あの未
だに少年期の華奢さを残した細い身体を抱き締めたい――そう思う自分がいる。
いや、思うだけでなくじこうしようとしてしまいそうになるのだ。日記で自分の想いを吐露することで何とか平静さを保ってはい
たものの、それすらもこの頃ではあまり効果がない。日記を読み返すと、自分はいつからこんな変態じみた男になったのかと、
呆れて涙が零れそうなほどひどい内容だというのに、気持ちを押さえられなくなっているだなんて本当に情けない。
北斗杯の合宿を経たこともあり、最近はヒカルが泊りがけで碁を打ちにくることも多く、アキラとしては忍耐力を試されている
気分である。男同士では告白にすら躊躇してしまうというのに、欲だけは深くなっていくから困りものだ。
大きな溜息を無意識に吐いて、アキラは詰碁集を膝に置いた。
アキラ自身がヒカルへの想いを自覚してから、一年以上経つ。今思えば、アキラはヒカルと初めて出会った時から彼のことが
好きだった。ありていに言えば一目惚れだったのだ――だからこの想いはもう四年越しになっていまう。
初めて会った時から可愛いとは思っていた。会う度にどんどん惹かれて、ヒカルに心を奪われていった。
ヒカルのプロ試験の本線の頃は、自分の想いを必死に否定しようとしては失敗し、ぐるぐると堂々巡りのことを考えた挙句に煮
詰まるなんてしょっちゅうだった。七転八倒して悩みに悩んだこともあるけれど、それは単にヒカルに会えない辛さ故であったこ
とも否定できない。ヒカルに会えない間は麻薬の禁断症状のように彼のことばかり考えてしまう。
ヒカルが五月頃から手合に出なくなり、アキラはそれを半ばきっかけにしたように自分を受け入れ、自覚し認識するに至った。
あれはある意味ショック療法のようなものだったのかもしれない。ヒカルが二度と打たなくなる、自分と神の一手を目指さない、
ヒカルと共に歩めなくなる。この危機感がなければ、アキラは一生自分の想いを否定して生き続けていっただろう。
認めて受け入れたら、それはそれで居直りはしたものの、今度は別の苦しみに悩まされる日々だ。
誰からも好かれるヒカルの周囲の者に嫉妬したり、彼の一挙一投足に鼓動が激しく揺れ動く。この間など、ヒカルの指にあった
碁石にすら苛々して、いつもなら夢中になる碁の話すら疎ましくなり、強引に話題を打ち切ってヒカルを怒らせてしまった。
(………末期だな……)
ヒカルの眼が自分以外に向けられるだけで、囲碁にすら嫉妬するだなんてどうしようもない。男同士というだけで自分の想いも
告げず、一生隠したままで過ごすなんて、考えるだけで気が滅入ってくる。ヒカルが誰かを妻にして、幸せに暮らす日々を指を
銜えて見ながら生き続けるなんて、想像するだけでぞっとした。
この苦しみと死ぬまで付き合うのと、玉砕覚悟でヒカルに想いを告げ、ライバルという関係も友人としての関係も潰してしまうの
と、どちらがいいのだろうか?自分かヒカルのどちらかが女だったなら、こんな想いもしなくて済んだというのに。
アキラは聖人君子ではなく、好きな相手の幸せのために、自分の心を殺せるほど悟りきっているわけでもない。
嫉妬もするし、ヒカルを自分だけのものにしたいという、独占欲もかなり強い。
さっさと玉砕覚悟で告白した方がいいと、分かっている。そうすれば自分なりに踏ん切りがつけられると、納得もしている。
アキラは今の自分とヒカルの微妙な関係について、それなりに理解していた。実のところ、脈がないわけではない。むしろ、ヒカ
ルはアキラのはっきりとした態度――つまり告白を望んでいる節すらある。しかしその先に進むのがアキラには難しい。
いざとなると肝心な言葉は一切出ずに、適当に誤魔化して違う話題をふるなんて殆ど当り前になりつつある。だからといってヒ
カルから告白をしてくるかというと、そうでもない。尤も、それは仕方のないことだった。告白はアキラからというのは、二人の間
にある暗黙の了解事項だからである。これは囲碁の先番をとったことと同じで、変えられない。
一体どうすればヒカルにちゃんと告白することができるのだろうか。
もう一度溜息を吐いて、アキラは家に帰る為に重い腰を上げる。東屋を出ようとしたところで、公園の入口に一台の四輪駆動車
が停まった。そこから見知った青年が降りて、大きく手を振って声をかけてくる。
「あっ居た!アキラ、こっちこっち」
まさかこんな活動的な車に芦原が乗っているとは思わず、驚きながらアキラは小走り近づいた。わざわざ車を横付けにするな
んて何の用なのだろうと、車を横目でちらりと見て疑問を口にする。
「芦原さん……どうしてここに?」
「おまえのお母さんから聞いたんだよ。散歩の時はこの公園に来てるだろうって」
「……そう…」
アキラは適当に相槌をうって、いつのまにか自分とかなり目線の高さが揃ってきた芦原を見上げる。多分、芦原にとっての用事
はアキラに会いにきたことだけではないのだろう。案の定、芦原はすぐに口を開いた。
「そんな事よりもさ、アキラ。これから海に行かないか?」
「海……?」
正直あまり気乗りしない。こんな気分のまま海に行っても楽しいことなどありそうもなかった。大体からして海辺では若い男女が
いちゃいちゃしていて、ヒカルに告白もできずに悶々としているアキラ自身と比較して、余計に見につまされる思いをしそうだ。
「………折角だけど……碁の勉強もしたいし……」
アキラが断りの文句を口にのせた途端、後部座席の扉が勢いよく開いた。
「えぇー!?塔矢来ないの?だったらオレも行かない。芦原さんから塔矢も来るって聞いたから、用意したのに」
「し、進藤!?」
車から降りてきた前髪を金髪にした小柄な少年の姿に、アキラは上ずった声を上げた。
ついさっきまで彼のことを考えただけで、自分の今の状況に情けなくなってしまっていたというのに、本人を眼の前にすると一瞬
にして憑物が落ちたように気持ちが明るくなる。
「芦原さんと緒方先生の邪魔するみたいで悪いもん。オレも行かない……帰る」
「――だってさ。……アキラどうする?」
「ど、どうするって………」
芦原はにこにこと可笑しそうに笑いながら、アキラの耳元でヒカルに聞こえないようにこっそり囁いた。アキラはというと、何と答
えたらいいものやら、もごもごと口を動かすが言葉にはならない。
ヒカルが行く予定だというのなら、アキラの返すべき答えは一つしかないのだが。
はっきりしないアキラの態度に、車の窓越しに彼らの様子を見守っていたもう一人の人物が動く。
「そう言うなよ、進藤。これから行く所には名物の海産ラーメンもあるらしいぞ。オレ達と食いに行こうじゃないか」
運転席から兄弟子の緒方が姿を現し、これみよがしにヒカルの肩に手を回そうとする。この瞬間、無意識のうちにアキラは足を
踏み出していた。ヒカルに自分以外の存在が触れる寸前、緒方の腕をさりげなく払い、薄い肩をしっかりと抱き寄せる。
そして緒方を剣呑な眼で睨みつつ、顔だけは営業用ににっこりと笑顔を振りまいてみせた。
「やっぱり息抜きも大切ですし、ご一緒させて頂きます。進藤も来るよね?」
肩に手を置いて間近から訪ねてくる少年にヒカルは多少面食らったが、すぐ嬉しそうに破顔した。
「ああ!思いっきり泳ごうぜ!」
「そうしろ、そうしろ」
咄嗟とはいえ、露骨といえるほどアキラが反応したというのに、緒方は平然と煙草に火を点けて納得した風に頷く。はたからみる
と、かなり投げやりな態度に見えるが、これがいつもの彼だった。
喜びを全開に表したヒカルの笑顔に、アキラも柔らかな微笑で応える。見詰め合っている二人の姿を眺め、緒方がにやりと人の
悪そうな笑みを浮かべたのも露知らず、アキラは後部座席の扉を開けてヒカルを先に入れた。
「あ……でも荷物持ってきてないし、取りに帰らなくちゃ」
膳は急げとばかりに車に乗り込んだものの、着替えも何も持っていない。
「大丈夫、先生の奥さんから預かってきてるから」
にっこり笑ってアキラの旅行鞄を出して押しつけると、芦原は助手席に座ってシートベルトをしめる。
「じゃあ出発するぞ」
運転席に座った緒方は、ヒカルとアキラが照れ臭そうにしながらも盛んに喋っているのをバックミラーで確認すると、どこか愉快
そうな笑みに口元を緩ませつつアクセルを踏み込んだ。
車で走ること一時間半ほどで、目的地の海の傍にあるホテルに着いた。
「オレは海でバシャバシャするのは好みじゃないからな、車を駐車するついでに休む。昨日地方から帰ってきたばかりで疲れてる
んでね。鍵をなくさないようにな、アキラ君」
「あ、はい」
チェックインを済ませてしまうと、緒方はルームキーを徐にアキラに渡した。さすがにタイトルを持っているからか、四人部屋など
とせせこましいことはせずに、ツインをとっている。
アキラはヒカルと、緒方は芦原とだ。部屋は中々いいものだし、ちゃんとオーシャンビューにしてあった。
鍵を渡されたアキラが、一瞬固まったのを敏感に感じ取り、緒方は内心笑いを堪える。
(……どうやら二人部屋ということを意識しだしたようだな)
ツインルームということは、夜はヒカルとアキラは二人きりである。アキラが意識しないはずがない。本当はダブルをとって反応
を見たかったのだが、それはまた今度の楽しみにとっておいた。しかし今夜のためには、布石として昼間からなるべく二人にさせ
ておく必要がある。芦原がこれから海に一緒に着いて行くのはまず却下だ。
「じゃあ、お年寄りはおいといて、オレ達は海に行こうか、進藤君」
やはりといおうか、何気に失礼な台詞を吐いて、うきうきしながら芦原はヒカルに話しかけている。緒方はそんな芦原の襟首をむ
んずと掴んだ。自分の計画を邪魔させるわけにはいかない。
「芦原、お前はオレとこの間の対局の検討につきあえ。ついでに肩も揉めよ」
「何言ってるんです、海に来たなら泳がなきゃ意味ないじゃないですか」
イイ大人のくせに、年下のヒカルと一緒になって遊ぶ気満々でいる芦原の鈍さには感心すら覚える。だが緒方は芦原に有無を
言わせずにさっさと踵を返して歩き出した。
「あっ!ちょっと……緒方さんのいけず。進藤君と遊びたかったのに〜」
情けない声を出して抗議する芦原の声はしっかりと無視する。
(あいつらの邪魔になるんだよ、お前がいると)
それでも文句を垂れ続ける芦原に、本音を漏らしそうになった緒方は言葉を喉の奥で飲み込むと、足を早く動かして弟弟子を
強引に部屋に連行して行った。呆気にとられて立ち尽くす若い二人をその場に残して。