部屋に着いてからもぶつぶつと不平をたらしている芦原を無視して、緒方は窓際に椅子に腰をかけた。
下を見ると、ヒカルとアキラが仲良く連れ立って駐車場を横切っていく。彼らが向かうその先には、ここからも見えるように配置
させておいた、緒方が予約してあるビーチパラソルがあった。二人はそこへ向かうところなのだろう。
ここからだと殊更に小さく見える少年達の背中を眺めて、内心一人ごちる。
(全く…あいつらときたら……いつまで煮え切らないラブコメカップルをし続けるつもりなんだか)
アキラがヒカルを意識していることに、緒方が気づいたのは随分前のことだ。中学に入ってからのアキラが急にやる気を出し
たり、覇気がなくなって上の空になったりと、これまでにないほど落ち着きのない彼の様子を緒方は間近で見てきた。
そんな中、色々と観察して出てきた答えが進藤ヒカルだったのである。
尤も、それを確信したのはヒカルが院生になってからだ。ものは試しと、アキラをヒカルに引き合わせてみれば、何ともわかり
やすい反応が返ってきたのである。まさかあそこまで顕著にアキラが反応するとは緒方も思わなかった。しかしこれはこれで、
自分にとっては実に面白いものを見つけた瞬間でもあった。
それ以来、何かにつけてヒカルのことでアキラをからかうのが緒方の楽しみになり、ヒカルもまたアキラを少なからず意識し
ているという事実に気づくと、この二人の関係を眺めるのが娯楽になった。
さっきのアキラの反応も実に愉快なものだった。ちょっと他人がヒカルにふ触れそうになっただけであの剣幕である。独占欲
もあそこまでくると立派だ。わかりやすくて本当にからかい甲斐がある。
緒方としては、ちょっとヒカルを突くことで、アキラが噛み付いてくる反応が面白いのだ。周囲からすると、余計な真似はする
な、と思っているだろうが、そんな事は知ったことではない。これが楽しみで最近では棋院に足を運ぶことすらあるのだから。
あからさまともいえるアキラのアプローチが、とことんまで鈍いヒカルのお陰で空振りしている様は実に楽しい。
アキラが自分で意識してやっていないところがこれまた面白いのだ。意識的にヒカルにアプローチしようとすると、毎回焦っ
て失敗している姿も笑える。『キミが好きだ』と告白するところで、『キミが好き……な食べ物は何だ?』と尋ねる様子を見た時
は笑いを堪えるのにどれだけ忍耐を要としたことか。
衆目の一致する見解として、かなりわかりやすい秋波をヒカルに送っているにも関わらず、一向に二人が納まらないのは、
アキラの告白下手が原因の一端を担っているのは間違いない。
アキラはアキラで、変なところで鈍いのもいけない。ヒカルの無意識の言動にアキラが反応するかと思いきや、色気の欠片
もない碁の話で応じて、周りががっくりくることもしばしばだ。
喧嘩をしたかと思うと仲直りをして、夫婦漫才をしたり、無自覚なままいちゃついたりしているなんて日常茶飯事である。
それなのにお互いに意識しあいながらも告白もせずに、着かず離れずのまま進展していく兆候もない。
そんな二人を、ヒカルの院生時代からの仲間の少女(奈瀬と呼ばれていた)と、以前棋院に遊びに来ていた幼馴染の藤崎
あかりが、こんな風に慨嘆していた。
『進藤も塔矢も、煮え切らないラブコメバカップルなんてしてないで、さっさとくっついちゃえばいいのに』
『無理だよ…だって塔矢くん奥手そうだし、ヒカルは鈍感だし』
『塔矢もさー…碁は攻撃的で積極的なのに、私生活じゃ空振り続きなんて情けないわよ』
『威力抜群なのにね、塔矢くんの一手なら』
美少女二人の可憐な唇から零れた台詞はとんでもなかったが、緒方も全くもって同感だった。アキラ君も男なら、とっとと
押し倒せばいいものを、と彼の碁とは雲泥の差の不甲斐なさに何度呆れたことやら。
アキラは柔らかな物腰と大人しげな外見とは相反して碁は攻撃的、性格も積極的だ。ヒカルも元気で活発な現代っ子風
の見た目とは違い、落ち着いた碁を打つし、性格は素直で明るい。
彼らが出会ってからでも足掛け四年程になり、ヒカルがプロになってからでも既に一年以上経つというのに『この二人なら
三ヶ月と経たずにくっつくだろう』、という誰もが思い浮かべた予想は、悉く裏切られている。
緒方に分かっていることは、他の棋士や棋院関係者にも密かに知られている。しかし誰も文句を言わないし、引き離そうと
もしない。表立っては知られていないが、棋士の世界では意外と同性同士の恋愛に寛容なのだ。
遥かな昔から連綿と受け継がれている長い歴史の中で、同性同士の関係は現代ほど白眼視されることはなかった。
江戸時代においては男娼のいる陰間茶屋に通うことは、身分の高い官僚などにとっては一種のステータスにすらなってい
たくらいだ。江戸幕府に重用されていた時代では特にその傾向は高かっただろう。
そういった背景もあることから、勝負の世界に影響さえなければ問題ないとして、敢えて無視というか見ないふりをするの
である。真剣勝負になるとむしろ互いに意識しあって白熱した戦いを行う点から、密かに擁護する動きすらあるほどなのだ。
余りにも進まない二人の関係に最近では『先に告白するのは塔矢か進藤か』や『上になるのは塔矢か進藤か』という、実
にくだらない賭けすら横行している。知らぬは当の本人達だけで、緒方も勿論一枚かんでいた。
アキラはヒカルと手合日が重なると、その日は指導碁などの予定をいれずに対局以外はフリーにして、ヒカルと待ち合わ
せて二人で帰るという。『二人で帰る』とはつまり、ヒカルも同じようにしている証拠だ。これは芦原からの情報で、他にも、
ヒカルはアキラの家にもよく遊びに行っているらしく、碁会所でもしょっちゅう見かけると市河から聞いている。
緒方自身も、芹澤九段の研究会にヒカルとアキラが一緒に行っていることを知っていた。
これだけ揃っていれば、疑う余地などとこにもありはしない。あの二人は完全な相思相愛である。
二人揃って黙って立っているだけなら、あれほど見事な美少年二人組みもそうそう居ないに違いない。
あくまでも、二人とも『猫の皮を被ったまま何も言わずに黙っていれば』なのだが。
ヒカルは元気で可愛く屈託がないという印象の中に、どこか儚げな危うさを見え隠れさせる綺麗な少年だ。
アキラも女の子のように見えた昔とは違って男らしくなってきた。そろそろ大人の一歩を踏み出してもいい頃合だろう。
ホテルの一室というものは家とはまた違う雰囲気を醸し出す。自宅では例え二人きりでも囲碁一色に染まってしまう可能
性が高いが、ここではそういかない。検討に使うからと言ってヒカルのマグネット碁盤も取り上げておいたし、他に手ごろな
碁盤もないからいざという時の逃げ口上に碁を持ち出すこともできないだろう。
念には念を入れてアキラが読んでいた詰碁集も回収しておいた。これで舞台装置はほぼ揃った。
(見ている分にはこういう関係もいいが、そろそろ何か進展があったほうが面白いからな)
「さて、明日の朝が楽しみだ……」
緒方はビーチパラソルの影に隠された二人の方向を見やり、低く押し殺したような忍び笑いをもらした。
緒方と芦原の漫才のような一幕には驚きはしたものの、ヒカルとアキラは荷物を置いていくついでに着替えて海に出るこ
とにした。折角ここまで来たのだから、楽しまなければ損である。
薄手のパーカーにトランクスタイプの海パンという出で立ちでビーチに出る時、駐車場の傍を通って車を見た二人は今更
ながら納得した。緒方が派手な車に乗ってこなかったのもわかる。こんなリゾート地では、緒方のいつもの赤い車では逆に
悪目立ちして注目を集めてしまうのだ。確かに四輪駆動車なら浮いて見えることもない。
「なぁ塔矢。緒方先生に四駆って似合わねぇよな」
「うん、そうだね。……ところで進藤、キミは泊まりだって聞いてた?」
「そのつもりで用意してきたぜ。おまえも明日は手合ないから平気だろ?」
「……それはそうなんだが………」
まさかヒカルとの二人部屋を用意されているとは思わなかったのだ。てっきり四人部屋だとばかり思い込んでいただけに、
ツインの客室を見た時は動揺で顔が赤くなりそうだった。
しかもヒカルは自分の目の前で無防備に着替えるしで、眼のやり場に困ってしまった。
今も、パラソルの日陰にあるデッキチェアに座るすんなりとしたヒカルの足が、気になって仕方がない。
「飲物を買ってくるよ。進藤は何がいい?」
ヒカルに意識を集中しすぎて不埒なことを考えないように頭を冷やすため、離れる口実をアキラは口にした。
「炭酸系ならなんでもいい」
「わかった。じゃあちょっと待ってて」
「うん」
素直に頷いたヒカルに見送られ、アキラはその場を後にする。アキラが居なくなると、誰も傍に居なくなるので手持ち無沙
汰になってしまう。昔なら、ヒカルを大切に見守ってくれた藤原佐為が話し相手になってくれたものだ。
他の誰かがヒカルを一人残して離れても別に平気だが、アキラが傍から離れるのだけはどんな理由にしろ落ち着かない。
佐為を喪った時の喪失感をどうしても思い出してしまうのだ。何故アキラなのかはヒカルにもまだよくわからない。もしかし
たら、アキラだけがヒカル以外に佐為を見つけ、佐為を感じた――だからかもしれない。
それにヒカルにとっての囲碁関係者の中で、一番付き合いが長いのはアキラになる。和谷や伊角とも院生時代から親しい
ものの、出会いそのものはアキラの方が一年以上早いのだ。
ヒカルは気づいていないが、様々な経緯がヒカルの意識をアキラへと誘っていった。それは単なる偶然というべきなのか、
それとも何かの導きがあったのか、誰にも答えは分からない。ただ、ヒカルが真剣に碁を打ちたいと思い、プロになるという
意識を持つきっかけを与えたのはアキラであるのは間違いないだろう。
(でも……ただ付き合いが長いだけでもないんだよな)
アキラはヒカルのことが好きらしい。それもただの『好き』ではなく、恋愛感情の対象としての『好き』だ。そのことに気づいた
のは佐為が消えてしばらくしてからだった。
以前にも佐為に言われたことがある。アキラがヒカルのことを『好き』だということを。でもその時は、ヒカルが聞き流すような
軽い感じで佐為も言っていたし、意識なんてしなかった。碁盤を通して語り合い、手合の後も一緒に食事をしたり話をしたりし
ているうちに、何となくだが感じることもあったが、さほど気にもしなかった。
アキラの気持ちを確信した決定打はバレンタインだ。
手合帰りに市川さんから預かったと言ってアキラに紙袋を渡され、家で開けるとチョコは何故か二つもあった。
一つは市川さんのもので、もう一つは無記名。明らかに義理とわかる市川さんのチョコとは違い、無記名のはラッピングも
凝っている輸入ものの高級チョコレートだった。本命相手でも奮発しにくいような、バレンタイン特別仕様のネット限定販売と
いう値段もはる代物である。
何故そんな事を知っているのかというと、幼馴染のあかりが『こんな高級なのを渡しても相手が気づかなきゃ意味ないよ』
と文句を言いながらも羨ましそうに眺めていたからだ。同年代の少女には変えないし、職を持っている大人でも躊躇うような
値段のチョコレートでは、高給取りない限り臆面もなく買える筈がない。
女の子の知り合いにそこまで奮発する相手が居ないとなると、ヒカルの脳裏を過ぎったのはアキラだった。
紙袋を渡してきた時のアキラの様子も変だったような気もした。何よりもヒカルはおぼろげながらもアキラの気持ちに気づ
いていた。不快だと思ったことは一度もない。
不思議なほど嫌悪感もなくアキラの気持ちをヒカルは無意識に受け入れていたのだ。
あの時、アキラに違いないと確信した途端、いつかの佐為の言葉から『好き』の意味に得心したのである。
さすがのヒカルも改めて考えてみると焦った。嫌悪による焦りではなく、照れ臭さからくる焦りであったが。
渡されるまでバレンタインなんて忘れていて、偶然とはいえ、チョコをヒカルからアキラに渡していたからだ。
おやつのチョコをアキラと分け合って食べたということは、つまりそうともとれる。お互いにチョコレートの交換をしていたな
んて恥ずかしい現実に、頭を抱えたものだ。とはいえ、恥ずかしかったけどイヤではない。ヒカルもアキラのことは嫌いで
はない上に、どうやら『好き』らしいから。
ヒカルはアキラに確認しなかった。アキラから面と向かって告白をされたわけではないし、アキラも追及されたくないよう
だった。ホワイトデーのお返しも、もらったものに比べてみすぼらしかったが一応したし、アキラもさりげなくしてくれた。
とはいえ、ヒカルの勝手な思い込みという可能性もある。だから敢えてアキラの気持ちは考えずに、自分の気持ちを分析
してみると、『好き』だけどまだよくわからないというのが本音だ。
自分の想いもちゃんと理解できていないのに、少なくともヒカルからアキラに告白するつもりは毛頭なかった。