COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)   勝利を呼ぶ者U勝利を呼ぶ者U勝利を呼ぶ者U勝利を呼ぶ者U勝利を呼ぶ者U
 塔矢アキラにとって、その朝はこれまでの人生の中で最良のものといえた。 
 長年想いを寄せていた、誰よりも愛しい進藤ヒカルと結ばれ、初めて迎えた記念すべき朝だったからである。
 
 布団の中でヒカルを背中から抱き締め、首筋に顔を埋めて昨夜つけたばかりの所有印にもう一度唇を落とし、碁石を持つ指先
 
を撫でて感触を確かめながら、うっとりと満足気な溜息を吐いた。
 
 ヒカルは昨夜の疲れが残っているのか、未だに深い眠りの中で、アキラが起きたことにも気付いていない。
 
 触れ合う素肌の温かさが心地よくて、無意識のうちに抱き締める腕を強くしてより身体を密着させる。
 
 クーラーの程よくきいた室内は、素肌と素肌が触れている温かさも心地いい。
 
 アキラはもう一度寝ようと思いなおしたところで、ふと何かに引っかかりを覚えて眉を顰めた。ヒカルの爪の磨り減った指先を愛
 
おしげに触れながら、しばらく考え込む。そうしてようやく出てきた答えは『囲碁』だった。
 
 『囲碁』という言葉から連想されたものに、ひくりと頬を引きつらせた。これまでの幸福感はどこへやら、背中を冷たい汗が流れ
 
落ちる。アキラはごくりと生唾を呑み込んで、恐る恐る先ほどから確実に時を刻んでいる懐古的な壁掛け時計に瞳をやった。
 
 そして、衝撃の余り数瞬固まり、喘ぐように小さく呟く。
 
「………て…手合……」
 
 眼に飛び込んだ時計の針の位置は、午前8時を大きく回っている。いつも起きる時間よりも1時間以上遅い場所を差す針は、今
 
すぐ支度をしないと下手をすれば遅刻という現実を御大層に示していた。そう、アキラにはあるまじきことに、彼は大事な大手合
 
の朝を、愛しい恋人との惰眠を貪ることを優先する余り寝過ごしてしまったのだ。
 
 塔矢アキラ一生の不覚である。
 
 だがしかし、ここでのんびり反省している暇は既になかった。手合が始まるのは午前十時。どんなに遅くとも5分前には対局室
 
に着いて座り、精神統一をしておかなければならない。ここから棋院に行くまでに約30分の道程だ。つまりあと一時間もしないう
 
ちに全ての支度を終えて家を出なければならないのである。
 
 朝食も何もとらず、着替えて行けば焦る必要のない時間だが、今日はかなり勝手が違った。
 
 アキラはヒカルを起こさないように身体を離して素早く布団を抜け出たものの、部屋の惨状に愕然とした。
 
 いつもなら整理整頓されているアキラの自室は、普段とはまるで違う様相を呈していたのである。
 
 今まで寝ていた布団の横には、昨夜の情交の名残がありありと残っている乱れた布団と敷布。その周囲にはアキラが脱がせ
 
たヒカルの浴衣や帯、更には自分が脱ぎ捨てた衣服や下着、情事の後に軽く風呂に入った時に使ったタオルなどなど、あちらこ
 
ちらに色々なものが散らばっている。余りにもひどい有様に、アキラは貧血を起こしそうになった。
 
 昨夜は慣れない行為に二人とも疲れていて、何も後始末をせずに眠ったことを、今更ながら思い出す。とはいえ、溜息をついて
 
いる時間もない。何故なら、ヒカルが目覚めた時にこの部屋の惨状を見せるわけにいかないのだ。
 
 ヒカルにだらしない男だと思われない為にも、即刻片付けて整頓しなければならない。
 
 アキラは手早く衣服を身につけると、まずヒカルの浴衣と帯を着物専用の洗浄液で軽く拭いて汚れをとり、着物ハンガーにかけ
 
て皺がよっていないか念入りにチェックする。幸いにも皺は殆どなく、着物ハンガーに吊るしておくだけで充分いけそうな感じだ。
 
 青い布地に孔雀の羽に似た白い花を描いたこの着物は、殊の外ヒカルに似合っていて、思い出すだけで心が洗われる。
 
 できれば来年もこの浴衣を着たヒカルと、夏祭りに行きたいとアキラは思った。
 
 着物の始末が一段落すると、休む間もなく乱れている布団を畳んで庭に運ぶ。庭先に朝露に濡れて、綺麗に咲いていた朝顔
 
を見る余裕もなく、物干しに布団を干してシーツを引っぺがし、帰りに洗濯機に放り込んでお湯とりホースを湯船に突っ込み、ス
 
イッチを押した。部屋に戻ったらすぐ様散らばった自分のパジャマと下着を拾い集めて洗濯機にまとめて入れ、洗剤を投入する。
 
 ここまで僅か15分足らずの行動だった。
 
 再び部屋に戻って片付いていない物をしまい、いつもの整理された部屋になっていることを確認して、アキラはやっと安心した
 
ように息をつく。ヒカルはアキラが一人でバタバタしているのにも関わらず、全く起きる気配もなく気持ち良さそうに布団の中で眠
 
っていた。思わず寝顔を覗き込んで幸せを噛み締めてしまうアキラだったが、和んで見ている場合ではないと、はたと我に返る。
 
 ヒカルを起こさないように足音を忍ばせながらも、素早く動いて今度は台所に向かった。
 
 幸いともいうべきか、昨日芦原が美味しいと評判のドーナツをお土産に持ってきてくれていたので、それをヒカルの朝食代わり
 
に自室に持っていくことにする。ヒカルが眼を覚ませば、きっとお腹もすかせているだろうし、喉も渇いているだろう。昨夜は散々
 
声を上げさせたから、喉は特に渇いていると思う。
 
 ついつい昨夜のヒカルの媚態を思い出して、顔がにやけてしまいそうになり、アキラはあわてて顔を引き締めた。
 
 いつ起きるか分からないが、冷えたオレンジジュースとドーナツをヒカルの枕元に置いて、起きたら電話が欲しいという旨を書
 
いた短い手紙を添えておく。
 
 記念すべきこの日は、アキラにはアキラなりに『二人で迎える初めての朝はこうしたい!』という希望があった。ヒカルが起きる
 
までたっぷりと寝顔を堪能し、手作りの朝食を二人で一緒に食べて、できればパジャマの上下だって二人で分けて着たいなどと、
 
密かな野望を抱いていたのである。
 
 それが今朝はどうだ。起きた直後に昨夜の情交の後片付けである。その上ヒカルの寝顔も殆ど見れず、パジャマも上下で分け
 
られず、朝食も一緒に食べることができなかった。手合がなければ、もっと甘い雰囲気を味わうことができたというのに。
 
(何だって今日みたいな大事な日に大手合があるんだ!?ボクへのあてつけか?)
 
 とんでもない八つ当たりである。傍迷惑なことこの上ない自分勝手な言い草だ。
 
 アキラは悔しさに歯噛みしつつも、台所に戻って暖めたミルクを一杯飲んで、朝食代わりにする。今朝は余り食欲がないのだ。
 
 起き抜けから落ち着かない行動をしたこともあるが、のんびり食べる気分でもない。一つ溜息を吐いて腕時計を見ると、起きて
 
から30分以上経っていた。棋院にはなるべく早めに着いておきたいので、歯磨きなどをして手早く身支度を整え、脱水までした洗
 
濯物を干して部屋に戻る。
 
 最初に考えていたよりも一つ早めの電車に乗れそうだと安心したのも束の間、アキラはさる光景を眼にして硬直した。
 
 ヒカルが布団を跳ね飛ばして、背中の線を晒してあられもない姿で眠っていたのである。幸か不幸か腰の辺りから下は布団に
 
隠れていたが、艶かしい首筋やほっそりとした儚げな肩、すらりとした背中は完全にさらけ出されていた。
 
 そういえば、記念すべきヒカルと初めての夜を過ごした朝の、彼の寝顔を写真におさめていない、とアキラは気付いた。
 
 だがこんなことを考える自分はかなり変だし、変態の仲間入りだと思う。それに家を出なければならない時間に差し迫ってもい
 
るのだ。のんびり写真を撮っている時間はないだろう。
 
 しかし、目の前のヒカルの姿は余りにも魅惑的だった。今後も撮ろうと思えば撮れると自分に必死に言い聞かせて自制しようと
 
するが、ヒカルとの初夜を迎えた朝は一生に一度だけだなのだ。そう、これ一回こっきりなのである。
 
 結果、アキラは誘惑に負けた。
 
 時間がないというのにフィルムを二本まるまる使ってヒカルの寝姿をばっちり撮りまくったのであった。
 

 家の玄関の鍵を閉めて、駅に向かって必死に走る。学校を卒業してからは、運動不足にならないようにジョギングをしたり、護
 
身術に合気道の道場などに通っているので、走ることは苦にならない。学生時代も足が速い方であったし、間にあえば棋院には
 
15分前ぐらいには着ける電車に乗れる筈だ。
 
 九時過ぎともなると、かなり気温も高くなり、走っていると暑い。しかし文句も言ってはいられなかった。手合に遅刻はできない。
 
 駅までの距離をもどかしく思いながら走り続けたが、アキラは駅前で急に目的地を変える。馴染みの写真屋に昨日と今朝撮っ
 
た写真を現像に出しに行ったのだ。この後に及んで、そこまでするとは天晴れな根性である。
 
 ここまでくると彼は立派なヒカルマニアといえるに違いない。
 
 控えを受け取って店を出ると、猛ダッシュで改札機を通りホームの階段を駆け上がる。生まれて初めて、アキラは駆け込み乗
 
車というものを経験したのだった。
 
 電車に乗っている間に呼吸を整え、精神統一を始める。棋院に着いた頃には、アキラの顔は完全に棋士のものになっていた。
 
「おはようございます」
 
「…おはよう」
 
「おはよう、塔矢」
 
 いつものように営業用の笑顔を振りまいて、若手棋士達がたむろっている脇を通る。彼らの顔をアキラはちゃんと知っている。
 
 彼にしては非常に珍しいことに。
 
 低段棋士の殆どの顔をアキラは覚えていないが、この付近で喋っている者達は明らかに別格だった。ヒカルの同期の友人で
 
ある和谷、院生仲間の伊角、同じ門下生の冴木、この間から彼らの仲間に加わった門脇といった具合で、ヒカル繋がりでしっかり
 
と記憶に留めてある。碁においても、彼らは低段者の中でも突出した棋力の持ち主で、気の抜けない中々の実力者達が揃ってい
 
た。どうもヒカルの周囲には、そういった才能豊かな存在が集まる傾向にあるらしい。
 
 ヒカル自身が持つ無限の才能に惹かれるように。
 
 尤も、一番強くヒカルに惹かれ、求めているアキラ自身がその最たる例と言えるのだが。
 
 アキラが颯爽と対局場に向かった後姿を見送り、ふと和谷が小首を傾げて伊角の顔を見上げた。
 
「何か…塔矢の奴、凄く機嫌良くねぇ?伊角さん」
 
「そうかな?いつも通りだと思うけど」
 
「和谷君は勘がいいから、案外当たってるかもね」
 
「こういう時は進藤が居たらすぐに分かるんだけどな〜。あいつ今日は手合がないから休みだし」
 
 門脇が頷くと、冴木は今日の対局表を見て肩を竦める。
 
「進藤は休みか…ってことはあいつらがいちゃつく姿は見なくていいわけだな」
 
 和谷はしみじみと頷いて、ほっとしたように息を吐いた。
 
「あのさ、本当にあの二人ってそうなのか?そりゃ二人とも美形なのは認めるが……いくらなんでも…」
 
「門脇さん…信じたくないだろうけど、棋院全体で認められてるんだ」
 
「昔から意外と多いらしいからな、棋士には」
 
 信じられないという様子で首を振る門脇を諭すように伊角が言うと、その横で冴木が諦めた溜息を吐いていた。
 
「しかしだな…」
 
「進藤の信奉者は大抵まともだけど、一部に変なのが混じってるのが微妙なんだよ」
 
 納得できずにいる門脇に、伊角はのんびりと話して聞かせる。
 
「それも北斗杯以降、両方ともうなぎ上り増えてるらしいし……」
 
 和谷がうんざりしたように補足説明を加え、冴木が止めを刺した。
 
「なっつっても『女王様』だもんな」
 
「じょ、女王様〜!?」
 
 門脇が素っ頓狂な声を上げたのを素早く制止し、彼らは極力小声で説明してやる。
 
「進藤に囲碁で叩き潰されるのが最高にイイんだって…人の趣味をとやかく言う気はないけど、変態じみてるよな」
 
「まともに進藤の実力を評価してる信奉者が殆ど占めてるけど、中にはそういうアブナイ趣味の奴らが居て、そいつらにとっては
 
進藤は『女王様』らしい」
 
「実際あいつの碁は魅力的だし、勉強になるし、オレも好きだけどさ…わかんないよな〜」
 
「そりゃまあ…オレも進藤君に弄ばれたいとかって思ったことはあるけど…女王様って……オイ」
 
 背中にだらだらと冷汗を流す門脇だった。まさかそんな趣味の奴まで居るとは、世の中は分からない。
 
「ま、塔矢がそういう奴らは真っ先に排除してるみたいだけどな。あいつ独占欲の塊だし」
 
「オレ達は進藤の世話焼き兄貴みたいなもんだと思われてるから、塔矢から矛先向けられなくて良かったよ」
 
「それも進藤が大分と言い聞かせて納得させたんだろうさ。一時はマジで碁界に居るのヤバイって思ったし」
 
 和谷はアキラに睨まれ続けた過去を振り返って、身震いする。それに冴木も疲れたように同意した。
 
「去年の秋頃ぐらいからだっけ?睨まれなくなったの」
 
「あの頃から進藤と塔矢がつるみだしたからな〜」
 
「このままずっと一緒に居てくれるのが一番だよ。オレ、巻き添え食いたくないし」
 
 冴木と和谷はどこか遠い目をして語るのを横で聞きながら、苦労人らしく伊角は深々と溜息を吐く。
 
「進藤が手合に出なかった頃の塔矢ときたら…マジでやばい状態だったしな」
 
 その頃囲碁界に居た冴木と和谷は、アキラのあの頃の暴走ぶりを思い出しただけで、ぞっとした。本気で早くヒカルが戻って
 
こないと、どうなることかと危惧したものである。戻るにしても反目しあうのではなく、一緒に居ないと更に状況が悪くなるだけに、
 
どれほど戦々恐々としたか。
 
 伊角と門脇は居なくて幸せだったと、こればっかりは羨ましく思わずにはいられない。
 
 あの二人が本気で諍いを起こしたらどうなることやら。アキラの暴走はアレの比ではないだろうし、それにヒカルが加わったり
 
したら、最悪の一語に尽きる。きっとぺんぺん草も生えない荒廃した砂漠のような世界になるだろう。ヒカルもアキラも、碁の才
 
能も含めて我の強い負けず嫌いな性格や傍若無人なところなど、根本的な部分では似たもの同士なのだ。
 
 龍と虎とはよく言ったものである。東洋において最強の生物なのだから。
 
「確かに…龍と虎で全面戦争なんて起こったら……怖!」
 
 考えただけで恐ろしい事態に、門脇は大きく身震いして顔色を青褪めさせた。そんな門脇に、一年早めにプロになった和谷と、
 
院生時代からヒカルと一緒に居る伊角、同じ門下である冴木はどこか達観したしたり顔で乾いた笑いを浮かべる。
 
「だから一緒にしといた方がいいんだって」
 
「痴話喧嘩に巻き込まれるのはうんざりだけど」
 
「囲碁界の平和の為には、多少の犠牲と迷惑は我慢しよう」
 
 彼らは互いを慰めるように肩を叩き、大仰に頷きあう。
 
「そうだな、痴話喧嘩で収まってくれるだけまだマシだ。これも世界平和の為だよな……」
 
 以前、藤原佐為が全く同じ境地に至っていたことを、しみじみと語り合う彼らは知らない。