今日のアキラは早打ちの鬼だった。いつも彼は早い方ではあるのだが、本日はそれに輪をかけている。
手合開始のブザーが鳴ると、「お願いします」という礼に始まって対局となるのだが、この日の対局者である鈴木五段は、対面
に居るアキラの凄まじい気迫にしょっぱなから気後れしていた。鋭い目線に晒されながら打つだけでも生きた心地がしないのに、
アキラの手はとてつもなく早く、しかも容赦がなかった。
午前中で殆ど形勢が決まりそうな気配でありながらも、五段の意地で必死に守り続けて、何とか乗り切ったという状態である。
彼にとっては、盤面の進み具合の早さと同様に、ひどく長い時間碁を打っていたような気すらした。実際はまだ午前中だけを打
った状態なのに、進行の速さは既に午後でもおかしくないほどのものだった。
アキラは午前中で決められなかったことが不満だったようだが、どのみち昼から更に苛烈に叩き潰しに来ることが気配で伝わっ
てきて、鈴木は背中に冷たい汗をびっしりとかく。昼食のために立ち上がろうとしながら、足が動いてくれない事実に溜息が出た。
(…本当に15歳なのか?あれで……)
伝説の神獣の攻撃に散々に晒されて、必死の防御を続けたお陰で精根尽き果て、食欲もない。休憩の一時間の間に休めるか
どうかすら不安だ。一発逆転の手を考えてはいるが、それに効果があるかどうかも分からない。今は首の皮一枚でやっと生命線
を繋いでいる状態である。勝算は薄い。
だからといって、碁打としてあっさり負けを受け入れるわけにはいかなかった。いくら塔矢アキラに才能があるからといっても、自
分の方が段位も上でプロとして生きてきた年数も長く、意地だってある。そうそう簡単に負けてはやれない。
鈴木はもう一度息を吐いて、鈍重な動きで立ち上がって休憩室に向かった。
休憩室は多くの棋士で賑わっていた。最近躍進目覚しい若手棋士達が居る一角から少し離れた一番奥で、塔矢アキラは凛と
した空気を纏って端然と座っている。こうして見ると、彼も年相応の少年だ。見目が良くて目立つ点を除けば。
さらりとした漆黒の髪に、日本人形めいた白い肌。確かに外見は少女のように整った顔立ちで男の割には細身だが、切れ長の
黒い瞳に宿る力と光は強く激しい。彼を見て女だと見間違える男はどこにも居ないだろう。女性が格好いいと騒ぐ気持ちも分から
ないでもない。それに、最近の若手棋士は美形揃いで有名なのである。実際、あの一角だけどこか別世界のように華やいだ雰囲
気があった。皆若くて容姿も良く、碁の実力もあるだけに、囲碁人気はどんどん増しているそうだ。
5月に開催された北斗杯を節目にしてブームの到来の予感があるのは間違いない。
北斗杯といえば、アキラとライバルであると昨今評判の進藤ヒカルも神か鬼を宿していると評されるほどの才能の持ち主で、虎
とも称され、彼らは囲碁界の龍虎と呼ばれている。外見においても一対ともいうべきもので、ヒカルも際立った容姿の持ち主だ。
以前見かけた彼は、見目はいいが普通の少年で、年相応の男の子という感じだった。だが、この間彼と対峙した時は余りに以
前と印象が変わっていて、正直度肝を抜かれた。
前髪だけが金髪で色素の薄い砂色の眼は変わらないのに、瞳は不思議と深い何かを感じさせて、少年の元気さの中に中性的
で儚げなものが見え隠れし、ただ単に成長して大人っぽくなったというよりも華麗に進化したと表現した方が相応しい。
男の子らしい格好よさもあるが、何よりも綺麗になっていた。
対局中の進藤ヒカルは何と神秘的で美しかったことだろう。凄まじい気迫と彼の放つ一手一手に呑まれたことも事実だが、何よ
りも対局中に見惚れてしまいそうになるほどに綺麗なのだ。棋譜もまた素晴らしく美しい。対局時の彼の持つ、内側から光輝くよ
うな独特の雰囲気は、一度味わうと惹かれずにはいられない。対局の度に確実に成長し、進化していく彼の碁は、実に魅力的だ。
虎の爪で切り裂かれ、踏みつけれた散々な内容の負けだったというのに、また対局したいと思う。他の相手だったら二度と見た
くないと思うような棋譜でも、彼と対峙した棋譜なら毎日でも眺めていたい。どんなに悲惨な内容であっても。
力の差を見せ付けるかのような、高慢さすら感じさせる一手を急所に叩き込まれたと同時に、鋭い目線に射抜かれた感覚は未
だに忘れられない。それは畏れよりも陶酔、或いは恍惚。背筋は冷汗を流すどころか、這い上がってきたものは何ともいえない
悦びだった。また彼の美しい碁で打ち負かされたい。勝ちたいと思う反面、思い出すだけで堪らないほどに魅惑的な一手一手を味
わいたい。傅いて崇め、そして高みから見下ろされ弄ばれたい。それはどこか被虐的で甘美な誘惑であった。
ヒカルの碁は時と相手によって、対局者に崇拝や畏怖という影響を及ぼすことがある。それはまるで、神の寵児の才能を伸ばす
踏み台として生贄に捧げられる者に対し、代償として悦びを味あわせるかのように。
その一番の恩恵に与っているのは、彼の対等者である塔矢アキラだけなのかもしれないが。
鈴木はない食欲を無理矢理奮い立たせて食事をし、アキラの方をちらりと見やる。彼は静かに読書をしており、何かを口にしてい
る気配はない。せいぜい唇を濡らす程度にお茶を飲むくらいだ。
アキラは打ち掛け途中の食事はしないと噂に聞いていたが、どうやら本当らしい。
午後からの対局開始まで後15分。棋士達がばらばらと対局場に向かう姿を見送り、鈴木も10分前になったら席を立とうと心に決
めて、盤面を脳裏に描いて心を高め始める。まだ若手棋士達は話していて、席を立つ気配はない。
時計がきっかり10分前になると、鈴木も含めて若手達も対局場に向かおうと立ち上がりかけた。
そこに携帯電話の音が鳴り響く。どこかで聞いたことのあるクラシックのメロディの出所を無意識に探ると、塔矢アキラが携帯を耳
に当てるところだった。若手達も同じように彼のことを見ていて、アキラが電話をとると興味を無くしたようにそのまま立ち上がる。
鈴木も立ち上がりつつ、内心どこか呆れた気分で、アキラへのこれまでの評価を下げていた。別に対局前に電話をするなと言うつ
もりはないが、どこか緊張感が欠けているような気がして、気に食わない。
そんな鈴木の気分を知ってか知らずか、アキラの電話は実に簡潔で短かった。
「はい。……うん。…………ああ。……勿論そのつもりだ」
アキラは答えながらちらりと鈴木を見ると、プツリと携帯を切る。その瞬間、鈴木はこの場に居たことを心底後悔した。
ゆっくりと立ち上がり、足に根が生えたように立ち尽くす鈴木の脇を、アキラは普段通りに通り過ぎる。その身体からは、先程の対
局とは比べられないほどの闘気が立ち昇っていた。鈴木が金縛りにあったように動けなくなるほどの凄まじい威圧感を。
若手棋士達はそんなアキラを見て何かを察したように肩を竦め、鈴木に憐れみの籠もった同情の視線を向けると、何事もなかっ
たように対局場に向かって行った。
本気で息の根を止めに来る。今までも本気でなかったわけではないのだろうが、こちらの抵抗など全て捩じ伏せて、勝利をもぎ取
りにくるに違いない。生唾をごくりと呑み込んで、まだ成長途中の背中を見送り、何故午前中に投了しなかったのかと今更後悔した。
中途半端なプライドにしがみ付いて、首の皮一枚を残したのが間違いだったのだ。
ちらりと自分を一瞥したあの鋭い眼が、全てを物語っていた。
(…碁の鬼………いや、龍に八つ裂きにされる…!)
ぞっとする。あの電話が何だったのかは知らないが、あれがきっかけで塔矢アキラは午前中とは比べられないほどの闘争心を剥
き出しにしてきている。朝の対局でもとんでもない気迫だったのに、今はそれ以上である。
鈴木は今日アキラの前に座った自分自身は、世界で一番不幸な棋士だと思った。その思いの通りに、形勢はあっという間に決ま
った。午後からのブザーが鳴って僅か30分後には、アキラは盤面を片付けて対局場を後にしていた。殆ど動くこともできないほど茫
然と虚空を見据える鈴木五段を残して。
数人の棋士が彼らの対局を眺めていたが、余りに凄まじい内容に誰も声が出なかった。まさに龍の顎に噛み砕かれ、食い千切ら
れ、爪で切り裂かれ、長い胴体で締め付けられ、止めとばかりに強烈な火炎か冷気か酸のブレスを浴びせられ、骨も残らない状態
にされたも同然である。八つ裂きにされるなどまだ生易しい表現であった。
一体どうすればここまでの碁が打てるのか、彼らにとっても信じがたい思いで一杯だ。龍と称されるのも頷ける。
午前中からの状態で殆ど形勢が決まっていたとはいえ、それでもここまで徹底的に叩き潰すとは、凄まじいの一語に尽きた。
その盤面を作るきっかけの一つが、たった一本の電話であったことを、彼らは知らない。
アキラは棋院を出ると急ぎ足で自宅に向かった。一刻も早く彼は家に戻りたくて堪らなかったのだ。その為なら、相手を再起不能
なまでに潰す事もまるで辞さない。むしろ、午前中に投了しなかった判断の甘さが招いた結果だとすら思う。しつこく喰らいついて打
ち続けることも大事な局面もあるが、引き際が肝心な局面もある。彼はそれを見誤った。それだけのことだ。
アキラの碁は対峙した者の奮起を促し引っ張っていく圧倒的な力があると同時に、相手によっては自信を喪失させ、恐怖を刷り込
むほどの苛烈さがある。鈴木はそれの後者に当て嵌まっていた。
相手の棋士は盤面を見詰めて唖然としたままで、検討をできる状態でもなく、アキラはさっさと棋院を出ることにした。対局した棋
士の顔も名前もアキラは既に覚えていない。記憶に留めているのは勝利した棋譜のみ。後はヒカルの元に戻るだけだ。
最寄の駅に帰り着き、朝に現像に出した写真を受け取って、家までの距離を走って帰る。
玄関の鍵を開けて再びきっちり閉めると、アキラは廊下を一気に駆け抜けて自室の襖を音を立てて引いた。
「…ただいま…進藤」
整わない呼吸のまま、布団に入った姿で自分を見上げるヒカルの脇に正座をする。
「おかえり。勝ったか?」
当り前のようにアキラをうつ伏せに寝転がったまま迎えて、ヒカルは声をかけた。
「ああ」
アキラが力強く頷くと、ヒカルは悪戯っぽく笑ってアキラの襟首を掴んで引き寄せ、そっと口付けた。
「勝つのは当然だけどな、今日は特別サービスだ」
考えもつかなかった行動に、唇を離したヒカルを見下ろして、アキラは顔を真っ赤にしたままおろおろしている。とてもではないが、
ついさっきまで厳しい一手を放っていた人物と同一には見えない。そこに居るのはただの恋する一人の少年だった。
「電話してから一時間ぐらいしか経ってねぇじゃん。随分早く終わったんだな」
「…キミが早く終わらせろって言ったんだろう?」
「バカ。オレは『とっとと勝て』って言ったんだ」
「似たようなものじゃないか」
年相応のどことなく拗ねた口ぶりでアキラは言い返すが、ヒカルは無視して自分の要求のみを伝える。
「んなことどうだっていいだろ。腹減った、メシ」
「ドーナツは食べた?」
「食った。けど全然足りねぇ。誰かさんのお陰で死ぬほど身体が痛くて動けないから、おかわりもできねぇし」
「………すまなかった」
言葉の端々に見え隠れする鋭い棘に、アキラはヒカルの機嫌が麗しくない理由に思い至って素直に謝った。
「今はその話はいい。とにかくメシ」
寝転んだまま居丈高に言い放つヒカルは、侍従に用をいいつける我侭な女王様のようである。ただし、相手は侍従ではなく王子
というのが、この二人の関係が一方的でない現れともいえた。
「分かった」
『今は』ということは、つまり後でたっぷりと話があるという意味なのだろう。折角の初夜を迎えたその朝の幸せが殆どなかったば
かりか、昼からはヒカルの余り楽しくない話を聞かせられる羽目になりそうだ。恐らくそれは、珍しくも説教であるに違いない。大抵
はそれをするのはアキラの方なのだが、今回は滅多にないことにヒカルがアキラにしそうな気配である。
アキラは観念したように頷いて、ヒカルと自分の遅い昼食を作るべく、立ち上がった。
ヒカルは意気消沈気味に部屋を出て行くアキラの背中を見送り、多少は溜飲を下げて喉の奥で小さく笑った。しかしまだまだ許し
てやる気はない。とにもかくにも、死ぬほど痛かったのである。今後の為にも、アキラにはきっちりと知らしめておく必要があった。
確かに気持ち良かったのも認める。が、わざわざ教えてやって付け上がらせてやるほど甘くもない。
ヒカルが起きたのは、アキラが出て行って1時間ほどしてからだ。目覚めた時には既にアキラの姿はなく、眼だけを動かして部屋
を見渡すと昨夜のことなど何も無かったように部屋は片付いていて、唯一の名残は壁に丁寧にかけられた浴衣と帯だけであった。
この様子だと、早起きをしてきっちり部屋も綺麗にしてからでかけて行ったに違いない。
何となく取り残されたようで、ヒカルは面白くなかった。実際はアキラは一時間以上も朝寝坊をし、普段の姿とは想像もつかないよ
うな慌てぶりだったのだが。
ヒカルの真横にあった情事に使った布団を運び出し、着物と帯は丁寧に綺麗にしても、それとは対照的にあちらこちらに散らばっ
た衣服やタオルは全自動の洗濯機に乱暴に放り込んでいたのも、爆睡中のヒカルが気付く筈もない。布団を運ぶ際に焦る余り、枕
元の箱ティッシュを誤って踏み潰し、新品と入れ替えて体裁を整えていた事も。
有り得ないような手早さで部屋を片付けて、写真は撮っても朝食はとらずに出て行ったのだが、すっかり熟睡していたヒカルはそ
れらを全く知る余地もなかった。むしろ、知られなくてアキラ的には幸せだろう。
ヒカルがもしも起きていたら、その慌てっぷりを大笑いされたに違いないから。
アキラの名誉を傷つけることを何も知らずに済んだヒカルが枕元を見ると、盆に載せたドーナツとオレンジジュースが置いてあり、
小さなメモが添えられていた。
『おはよう進藤。大手合に行くので、眼が覚めたら電話が欲しい。なるべく早く帰る』
散文的で素っ気無い文章で書かれたメモを見て、ヒカルは苦笑を洩らす。
「……ったく色気ねぇな〜」
アキラの性格を現しているような几帳面な字で書かれたそれは、内容もアキラらしくて、口では悪態をつきながらも笑いがこみ上
げた。甘い言葉なんて書かれていたら、恥ずかしくて即効破り捨ててしまったかもしれない。
ヒカルは何度もそれを読み返して、照れくさそうにしながらも嬉しげに微笑んだ。
「さてと…腹も減ったし。その前に服着るか」
佐為が傍に居た影響でか、ヒカルはどうも独り言が多いようで、無意識に自分の考えを口に出してしまう。
「よっ……って!いっだぁ〜!!」
身体を起こそうとしたところで、ヒカルは下半身の激痛に布団に突っ伏した。余りの痛みに瞳に涙が浮かぶ。
「痛い!い〜た〜い〜!…チクショウ!あんのバカー!!変態!おかっぱ星人!座敷童!こけし!絶倫野郎!下手くそ!」
つい先ほどまでどことなく甘い笑みを湛えていた唇からは、アキラを罵る罵詈雑言がぽんぽんと飛び出した。しかしヒカルの持つ
ボキャブラリーではこの程度が精一杯で、悪口の域を出ていない。
寝起きで痛みまで身体の感覚がついていっていなかった分、意識が鮮明になると、痛覚は余計鋭敏になっているようだった。
「うう…痛い…。絶対!しばらくさせてやんねぇ!」
ヒカルは枕を力一杯叩いて、一人で怒鳴り散らす。
「〜〜〜〜〜〜っ!!」
が、枕を叩いた動きだけで走った痛みに苦しげに顔を歪め、声にならない呻きをあげた。
(痛い…マジで。けどトイレ行きたいし、服も着たい、腹も減った……)
ヒカルはそろりそろりと動いて布団からもそもそと這い出す。リュックから着替えを取り出し、普段の倍以上の時間をかけて下着と
シャツを着込んだ。ジーンズを穿くにも腰の痛みがひどくて、仕方なく諦めて膝丈の短パンを穿くことにする。これ以上動かなくて済
むように必要なものを枕元に出しておいて、壁伝いに何とか立ち上がり、よろよろしながらトイレに向かった。
本当は立つのも辛いし、歩くのはもっとしんどくて、歩く度に鈍痛が響いて涙が出そうだった。何とか部屋まで戻った時はへとへと
に疲れていた。身体の痛みに座ることもできないので、寝転がったままドーナツに手を伸ばす。身体が栄養を求めていたのか、一人
で食べるのは不味いかもしれないと思ったのに、ことのほか美味しかった。
アキラが残してくれたメモがあるからか、何だか一人でいるという気も余りしない。
食べ終わってからしばらくごろごろして時計を見ると、午後からの対局が始まる10分程前を針は差している。
メモに電話が欲しいと書いてあったのを思い出し、ヒカルは枕元から携帯電話を取ると、短縮でアキラを呼び出す。程なく繋がり、
朝から一度も聞いていない声が耳に伝わってきた。
『はい』
「塔矢?オレ」
『うん』
「さっさと勝負決めてこい」
『ああ』
「勝てよ」
『勿論そのつもりだ』
「じゃあな」
ヒカルはアキラの返事を待たずに電話を切り、枕元に携帯を置いてマグネット碁盤で棋譜並べを始めた。痛くてどうせ動けないの
だし、ただじっとしているのも暇だから、いつものように本因坊秀作こと藤原佐為の棋譜を丁寧に並べていく。
そう、鈴木五段を完膚なきまでに叩きのめすきっかけを作った電話を寄こしたのは、ヒカルである。元からアキラにも勝つ気は充
分過ぎるほどにあったが、それを更に増やしたのはヒカルだったのだ。
龍の闘争心を焚き付けたものは、ヒカルの勝利を求める声に他ならなかった。