プロローグ
『彼』にとって待つことは既に慣れた行為であった。
何万年、何十万年にも及ぶ、忘却の彼方に過ぎ去ろうとする果てしない時の中、ほんの数百年など一眠りに等しい時間だ。
どれほどの悲しみと孤独に満ちていても、待ち続ければ必ずそれを報いて余りある、幸福な一瞬が訪れるのが分かっている。
だから待てる。
後にくる苦しみすらも、その一瞬の前では些細な事象でしかない。
待っていれば必ず会えると、信じているから。
『彼』は夜空に浮かぶ星々を見上げた。中空には満月が黄金色に輝きながら、青い光を地上に振り落としている。
鬱蒼と茂る森は光の中で、黒々と存在を主張していた。
澄んだ湖の湖面には、銀河と月が鏡のように反射して輝いている。
まるでもう一つの宇宙がそこにあるかのようだ。
月の光も星々も、『彼』の鼓動に呼応するように輝き、闇に閉ざされた森と湖面が吐息に誘われたかのごとく静かに揺れる。
『彼』の存在はまるで大自然そのもののようだ。
宇宙に浮かぶこの星が愛を一心に注ぐかのごとく、大気に、大地に、水に、森に溶け込み、完璧に馴染んでいる。
それ故に、『彼』には人には理解できない多くのことが分かる。
予感があった。もうすぐ待ち人が降臨する。
愛しい『彼』の恋人がおよそ百数十年ぶりに戻ってくる。
どの地に降りるかも分かっていた。誕生の時がすぐそこまで迫っているのも――いや、彼の人は今再び舞い降りた。
これまでにない、異例のサイクルでの降臨である。
今までは五百年から千年は待たねばならなかった。
待って、待って、待ち続け、ほんの数十年の幸せな逢瀬と耐えがたい別れを、幾度となく繰り返してきた。何百回も何千回も、
恋人と再会し、死による別れを経験した。
別れの度に、何度後を追おうとしただろう。
何があっても死ねない身体であるのに、一層死にたいと数え切れないほど思った。決して叶えられない願いだと知りながら。
苦しみの中でも生きていれば、再び会えると一縷の望みにかけて、ただ恋人を待ち続けるしかなかった。
『彼』が愛するただ一人の人。
あの稀有な魂が、この異常な早さで降りたのならば、するべきことは唯一つ――既に心は決まっている。
愛しい恋人をこの地に呼び寄せなければならない。
初めての出会いからどれほどの時が経ったのか。もうすぐ、『彼』の望みは叶う。永遠の孤独から開放される。
『彼』の美しい唇に、うっすらと綺麗な笑みが浮かんだ。
清艶でいて優雅な微笑は、夜空に瞬く星々だけが見詰めていた。