T 虎と少年
鬱蒼と茂る暗い森の中を、幼い少年が歩いていた。恐らくまだ六歳か七歳くらいだろう。まさに『とぼとぼ』という表現が当て
嵌まる、すっかり疲れきり、ひきずるような足取りで歩いていた。
少年の名は塔矢アキラ。両親と共に海外旅行に来て、一人で散歩に出かけたものの、道に迷って帰れないまま現在に至
っている。普段のアキラは幼いながらも利発で注意深く、一人でふらふら出歩くような愚行はおかさない。特に、初めて来る
土地で両親の傍を離れるなど、したことなど一度もなかった。
恐らく、初めての海外旅行で彼にしては珍しく、ひどく浮かれていた部分もあったのだろう。子供ながらに冷静で大人顔負
けの落ち着きのあるアキラも、やはり一人の少年なのだ。
初めて異国の風景を見れば大人でも舞い上がるというのに、子供のアキラが好奇心を掻き立てられない筈がない。
滾々と湧き出る美しい泉、芳しい香りを飛ばす草花、木漏れ日から落ちる日の光、空の色、森に住まう動物達。
まるで森の自然がアキラを呼び、迎えているように思えた。
全てが新鮮で、驚きだった。余りにも美しい森の風景に、ついつい奥へと足を踏み入れてしまい、気がつくと自分が今どこ
に居るのかさっぱり分からなくなっていた。
闇雲に歩き回っているうちに夕闇が迫り、周囲はどんどん暗くなってくる。親とはぐれて道に迷ったらその場を動かずに大
人しくしておく、という迷子の鉄則もすっかり失念していた。
歩けば歩くほど、それまでは美しいと思っていた森が、恐ろしい牙を剥いてヒタヒタと迫ってくるように感じられる。
両親がこの国の偉い人物と話している間、少しだけ外を散策しようと思っただけなのに、こんな事になるとは考えもしなか
った。森の外はさほど暗くなかったとしても、奥に入ると大きく枝葉を広げた木々に日光が遮られ、夜が来るのも早くなる。
見知らぬ土地に一人で居るという心細さも加わり、刻一刻と濃くなる闇は不安と恐怖を着実に煽っていった。
暗い森ではだんだん視界も悪くなる。加えて疲れに注意力も鈍り、切り株に疲れきった足がとられて草地に転倒する。
その弾みで、懐中電灯を出そうと腕に持っていたリュックが手許から離れてしまった。薄闇の中ではリュックがどこに転が
り落ちたのか見当もつかず、さっぱり分からない。加えて草地に倒れた衝撃と驚きで、一気に不安が増して益々心細くなる。
滅多に泣かないアキラですら、目元にじんわりと涙が浮かんだ。
しっかりしていても、小学生に上がったばかりの子供である。
ここまで我慢して堪えていただけでも十分賞賛に値するに違いない。
しかしアキラの負けん気とプライドの高さは筋金入りだった。持ち前の気丈さで涙を素早く拭うと、しっかり立ち上がる。
けれど、アキラは立ち上がったところで思わず硬直した。
眼の前の藪の中から何かが彼を窺い、のっそりと姿を現したのである。
眼が合った瞬間、足に根が生えたように動けなくなった。
まるで自分達の間だけ時が止まったかのごとく、眼が離せない。
どれだけ見詰め合っていたのかは分からない。それは一瞬とも、永遠にも感じられる時間だった。
鳥の羽ばたきで我に返り、改めて姿を現した獣を眺めると、絵本でも見たことのある東洋の百獣の王、虎だった。
子供のアキラですら、その威容と迫力に声も出ずに固唾を呑んだ。虎は巨体を感じさせないしなやかな動きで、アキラの
傍に一歩、また一歩と近づいてくる。
最初は驚きで怖さも感じなかったが、虎が足を踏み出す度にガイドから聞いた話を思い出して身が竦んだ。
野生動物の持つ威圧感に、言いようのない恐怖が心にわき上がる。何も知らない無邪気な子供であったら、恐れなど抱
かなかったかもしれない。ただ残念なことに、アキラは余計な知識を持っていたのが、非常に厄介でもあった。
こんな時にどうすればいいのかなど、日本の都会で暮らしてきたアキラに分かるはずがない。しかし少なくとも、虎という
生物が獰猛な肉食獣で、他の草食動物を捕食する存在であることは知っていた。
立場で言えば、アキラが捕食される側であることも。
野生動物が多い地域に入るからには、相手が子供であっても説明を怠ることはない。ガイドの職業意識は確かに立派な
ものではあっただろう。通常ならば賞賛に値すると言えるに違いない。しかしそれが今ではアキラに恐怖を植えつけている。
眼前に現れた獣が、一つ対応を間違えればとてつもなく危険な存在になると、聞かされていただけに恐ろしさも増した。
この国では神獣として保護され大切に扱われているとはいえ、元々敬愛されるようになったのは、虎の持つ絶対的な強さ
に対する畏怖が根底にあるからなのだ、と知らされているから。
背筋に走った戦慄と、本能的な防御意識が身体に逃げろと働きかける。咄嗟に踵を返して別方向に走り出したアキラの行
く手を阻むように、虎は素早く動いて潅木に先回りし、進路を防いだ。
すぐさま方向転換して藪を掻き分け、虎から逃れようと再び走る。
今度も虎は逃がそうとせずに、軽々とアキラの上を飛んで先回りした。
どう足掻いても、人間の子供が虎の足に勝てるはずがない。
静まり返った緊張感の中に、どこからか川の流れる音が聞こえた。
川沿いに下れば人里に降りられる可能性もあるのだが、今のアキラは助けを求めに逃げることなど、できない状況にある。
アキラの眼の前には大きな切株があり、それが一匹と一人を隔てる唯一の障害物だった。とはいえ、そんな物は虎にとっ
てみれば易々と飛び越えられる物体で、障壁としては全く役に立たない。
アキラは考える間もなく、最初に虎が行く手を塞いだ潅木の隙間に向かって、勢いをつけて跳躍した。一旦切株に下り、続
け様に足を蹴りだす。身体が空に浮くと同時に、虎が動く気配がした。
アキラは囲碁ばかりしているが、決して運動神経が鈍いわけでもなく、機敏に動けないわけでもない。段階を踏んだお陰で、
着地でその場にこけるという失態はおかさなかった。足が着いたと同時に走り出そうとした瞬間、地面を踏みしめる筈だった足
が宙をかく。小石が音を立てて滑り落ち、下を見ると、そこは低い木々に隠された断崖絶壁であった。
遥か下方では濁流が流れ、水音が轟々と轟いている。背中にヒヤリとした刃のような戦慄が走った。
踏み外した足はすぐ元に戻せたものの、身体がバランスを崩して大きく傾いだ。心許ない足元の草が水気を含んで滑り、両
足が崖の淵からずるりとずれ落ちる。
「う…わ……ぁ!」
がくんと下がった身体を支えようとした手は空を掻いた。谷底への落下を予想して思わず眼を瞑ったアキラだったが、想像し
た水の衝撃も、岩にぶつけられる痛みも全く感じなかった。恐る恐る瞼を開けると、足は地に着いておらず、宙吊り状態で崖の
淵にぶら下がっている。高所恐怖症の人間ならそのまま気を失いそうな光景が眼下に広がっていた。
何が何だか分からずに唖然としていると、身体がふわりと浮いて、アキラは眼を白黒させた。首根っこを何かに掴まれて違う
場所へと強制的に移動させられ、思わず背後を振り返る。
するとそこには、上着の襟首を口に咥えて運ぶ先刻の虎が居た。
余りにもとんでもない状況に暴れるどころか、借りてきた猫のようにアキラは大人しくしていた。下手に暴れて刺激したくない
という打算よりも、驚きが先に立って動けなかったのである。安全な場所まで戻ってくると、虎はアキラを切株の上に座らせる
ようにそっと放した。ちょこんと切株に腰を下ろし、自分を見下ろす虎の瞳を見詰め返す。
その金色がかった砂色の瞳には、アキラに危害を加えようとする獰猛で危険な輝きはなかった。むしろ自分を労わり、心配
するような、慈しみに満ちた優しく柔らかな光が宿っている。
もしかして、この虎は最初からアキラを救うつもりで近づいてきたのだろうか?
アキラがもしあのまま歩いていたら、気付かずに崖に向かって足を踏み出していたに違いない。それだけでなく、先刻虎が先
回りして潅木の隙間を塞がなければ、まっ逆さまに転落していた筈だ。
逃げようとして跳躍したアキラが、奇跡的に崖から落下せずに済んだのも、虎が首元を咥えて防いでくれていたからである。
虎は固まったまま動けずにいるアキラを安心させるように頬を大きな舌で舐めると、果物を木の幹に叩きつけて硬い皮を器用
に割ってみせ、少年の膝にそっと載せた。どうすればいいのか分からずに膝に載った果物を見ていると、虎は残る半分を美味
しそうに食べ始める。そして促すようにアキラを見た。
これを食べてみろと言っているように思えて、虎の様子を窺いながら、アキラは果物の果肉を震える手で摘んで口に運ぶ。
信じられないほど甘くて、美味しい果肉だった。空腹もあってか、一口食べると夢中になって残りもすぐに平らげてしまう。
糖分を補給すると、鉛のように重かった身体も楽になった。
アキラが残さずに食べたのを確認したら、虎は眼の前で身体を屈め、服の裾を引っ張った。
今度は背に乗れと言われている気がして、怖々柔らか毛の上に跨る。虎はアキラが座っても暴れずに大人しくしている。
この間観たアニメ映画で、猫の形をしたバスに主人公の少女が乗り、ふかふかした毛並みの座席に座るシーンがあった。
あの少女もこんな風に温かくて柔らかい毛の感触を感じたのだろうか。
信じられない出来事の連続で、思考が飽和状態に陥っているのか、アキラは他人事のようにとりとめのないことを考えていた。
虎にとってはアキラが現実逃避気味に脳裏に描いたアニメ映画のことなどどうでもよく、少年が跨って掴まるとすぐ走り出す。
朽ちて倒れた巨木を軽々と飛び越え、低い枝葉の中を縫うようにして駆けた。密林の王者と呼ばれるだけあって、人間ならば
数メートル進むだけでも苦労する難所も、難なく擦り抜ける。
余りの速さに、アキラは必死になってしがみ付くしかない。恐らく、速度の遅い車など追い抜く勢いで走っているだろう。
風の勢いで髪が靡き、薄目を開けると周囲の景色がみるみる近づき、また遠ざかっていく。凄まじい勢いに必死に毛を掴むが、
速さの割には信じられないほど衝撃がこない。
虎のバランス感覚は絶妙で、手を離しても振り落とされないと思えるほど、安定感があった。
走り出してしばらくすると、急に視界が開けた。虎が再び伏せたので意図を汲み取って茫然としたまま降り、周囲を見回す。
薄暗くなってはいるが、先ほどまで居た深い森ほどではない。まだ何があるのか判別できる明るさは充分ある。
夕日に照らされて紅色に染まったそこは、どうやら古代遺跡の中心部のようだった。
一体いつの時代のものだろうか?実に独特な趣がある。
足元は石畳に覆われ、遺跡全体に敷き詰められている。整備された都市の名残であるのか、背後を振り返ると森林の中に埋
もれるように大きな門が見えた。
随分と遠い場所にあるのに、樹の中から突出して確認できるあたり、相当な規模を誇っているに違いない。
その門から伸びた道が、今アキラが立っている場所だった。この古代都市のメインストリートらしく、一直線に中心にある巨大
で豪奢な建物に向かって伸びている。多分、都市の最高権力者が居住していた場所なのだろう。
虎はその建物に向かって悠々と歩き始めた。
アキラが遺跡の巨大さと造形美の素晴らしさに見惚れてぼんやり突っ立っていると、一声鳴いて呼びかけられ慌てて後を追う。
アキラには既に、虎に対しての警戒心は全く無くなっていた。
それどころか、無条件に信頼すらも寄せている。勘の鋭いアキラですら、この虎には少しも警戒を抱けない。
ただの野生の虎とは思えない知性と行動も、勿論あるだろう。命を救ってくれただけでなく、虎にははなから殺意の欠片もない。
まるで虎の皮を被った人間だと思えるほど、虎の動きには明らかな意図と思考が見え隠れしていた。だが、何よりも一番の根拠
は、アキラの無意識下にある、ある種の本能であったに違いない。
この虎は自分を絶対に傷つけない、という確信があったのだ。
先導されるままに城砦の前に鎮座する門を通り抜けようとして、壁に描かれたレリーフに眼が吸い寄せられた。
神話を題材にしたものか、人々が新天地を求めてこの土地に来たと示すレリーフが、物語形式で幾つかの場面で連なっている。