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『天化……天化…、起きなさい……』 
 優しい声が耳に心地よく響いてくる。母の柔らかな声のようであり、父の暖かみのある豊かな声のようでもあった。この
 
声には、夢うつつの天化の意識に、ゆっくりと緩やかに覚醒に導く力強さも含まれていた。
 
 それでももう少し眠っていたくて、天化はすぐ傍にある温もりに頬を摺り寄せた。半分以上は夢の中に居る天化の感覚で
 
は、そのぬくもりは母の柔らかな胸の筈だった。だが現実は全くの正反対で、安心できる心音と暖かさは同じでも、弾力とい
 
うものが殆ど(というより全く)ない。
 
 まるで鋼鉄か岩の塊、百歩譲っても硬いゴム板に頭を押し付けたような感じである。夢を彷徨う天化はその違和感に、現実
 
へと自らを送り出していった。
 
「……むぅ〜」
 
「ほら、そろそろ起きなさい。またお昼寝をすればいいから」
 
 小さな手で瞼をこする愛弟子の姿に微かな苦笑を浮かべ、道徳はサラサラとした髪を撫でてやる。
 
 まだ眠り足りない様子で頭を胸に押し付けてくるが、道徳はそのままゆっくりと身を寝台に起こした。すると胸元にしがみ
 
付いていた天化の身体も自然と起こされる。
 
 夜着に殆どぶら下ったままぺたんと膝の上に座り、天化は大きな欠伸をしながら伸びをする。
 
「…おはようございます…師父」
 
 幼い舌っ足らずな話し方ながら、師匠と両親の教育が行き届いているのか、ちゃんと礼儀正しく朝の挨拶をした。5歳とい
 
う年齢だと、こうした言葉は中々言い難いものだが、それでも一生懸命喋るところが可愛らしい。
 
「おはよう、天化」
 
 眠そうに眼をしばたく少年の瞼を撫でると、道徳は朝の爽やかな空気そのもののような笑顔で応え、頬に触れるだけの口付
 
けをする。天化の両親から、朝や夜の挨拶、出かけや帰宅の時は頬や額に接吻をするのだと聞いていたので、親代わりに育て
 
ることになった道徳も産みの親に倣って毎朝天化にしていた。
 
 しかも天化はこれを抜かすと途端に機嫌が悪くなる。幼いこの子にとっては大切なスキンシップの一貫なのだろう。それで
 
なくても子供は身体をくっつけたがるものだ。
 
 寝台で一緒に眠るのも、未だ幼く安心できる温もりを欲している天化の為である。雛が親鳥の庇護の下、すくすくとその翼
 
を成長させているのに似ている。
 
 事実天化は道徳の庇護がなければ生活などできる筈もない。道徳としても、こんな小さな子供をだだっ広い部屋の大きな寝
 
台に一人で寝かせるのは忍びなかった。甘いとは思いつつも、成長すればそのうち一人で眠るだろうと考え、いつもこうして
 
添い寝をするのが日課となっている。
 
 道徳は着替えをしながら天化の着替えも手伝ってやり、洗面所へ向った。その後をとたとた歩いて天化も続く。
 
 洗面台の前には立派な椅子が置いてあり、天化はその上に身軽に乗って顔を洗った。背が低いので、まだ何か足場がないと
 
幼い天化にはとてもではないが洗面台には届かない。
 
 洗面所は実に広く、二人が並んで顔を洗っても十分にゆとりがある。二人して似たような仕草で顔を拭き、同時にガラガラ
 
とうがいをした。妙に息がぴったりしているところがさすがは師匠と弟子であろうか。
 
 朝の洗顔を済ましてさっぱりしたところで、道徳は天化を抱き上げて椅子から降ろしてやる。
 
 遊びの一貫として簡単な初歩的な修行を始めている天化にとって、こんな椅子から降りるぐらいなんともないことだったが、
 
どうもこの師匠は変なところで過保護で、時折思い出したように馬鹿丁寧にこうして降ろしてくれる。
 
 顔を洗うと次はやはり朝食である。道徳は食べなくても生きていけるが、天化は育ち盛りの少年だ。よく食べて遊んで、寝
 
ることが仕事のようなものだ。
 
 その為道徳は毎食腕を奮い、栄養たっぷりの食事を天化に与えている。友人の仙人から貰った卵(正確には卵によく似た木の
 
実)で目玉焼きを作り、野菜炒めや粥といったものを用意して、テラスの円卓に並べていった。
 
 季節は折しも春。庭の花々は咲き誇り、気候も穏やかで外で食事をするにはうってつけである。
 
 丁度三人分の食事が並んだところで、
 
「おっはよ〜うさーん!」
 
 と、妙な関西弁訛りの元気そうな声が近づいてきた。
 
 道徳の霊獣である玉麒麟は人間に変身した姿で、颯爽とした足取りで既に席に着いている二人に笑顔を振りまき、ちゃっか
 
り空いた椅子に腰を下ろした。
 
「おはようさ、たま」
 
 『玉麒麟』では幼い天化が呼び難いため、道徳が強引につけた『たま』という相性で玉麒麟は呼ばれている。玉麒麟自身はこ
 
の愛称が余り好きではないが、天化が気に入っているので渋々受け入れているのが現状だ。
 
 どんな霊獣だろうが仙人だろうが、小さな子供の笑顔と泣き顔の前では無力な存在なのである。
 
「来たな、ただ飯食らい」
 
「失礼やな〜、わてはちゃんと色々働いてるで」
 
「そう主張するなら食事の手伝いにぐらい来い、穀潰し」
 
「へっへーん。わて料理なんかでけへんもんね〜」
 
 大きく胸をはってけろっとした顔で笑うと、いただきますと一声かけて早速料理に箸を伸ばしている。
 
 天化もちゃんとそれに倣って手を合わせて言い、粥に口をつけた。幼さゆえに猫舌の天化でも食べられるぐらいの暖かさの
 
白粥を一口味わい、おかずにも手をつける。
 
 道徳と玉麒麟の漫才めいた会話を聞き、他愛もない話をしながら彼らは食事を行った。食後にお茶を飲むと、道徳はさっさ
 
と片付けを行い、天化もそれをちゃんと手伝う。やんちゃながらも、この点はしっかりしている弟子のようだ。
 
 道徳の仕事はこれからが本番である。何せ洗濯、掃除、天化の服の繕いもの、12仙としての雑務などが山積みになっている。
 
しかも今日は夕方から雨だ。洗濯を一番最初に干し終えてしまわなければならない。
 
 何故雨になるのが分かるのかというと、道徳は並の仙人以上に天気や気候に敏感な能力を持っているからだ。
 
 これは今に始まったことではなく、子供の頃からできたことである。空を見て雲の動きを見、頬にあたる風を感じ、大地を
 
踏みしめて土の匂いを嗅いで育った彼は、僅かな周囲の変化だけで予測することができた。
 
 親からも天気の予測に関して教わってもいたし、雨が近くなると風に水の匂いが混じってくる。昨夜は一日持つかと思った
 
が、予想より雲の動きが早かったらしい。夕刻には雨が降りだすに違いない。
 
 天化の相手は玉麒麟に任せて、道徳は朝食の洗い物を手早く済ませてしまうと、山盛りに溜まった衣類を選別して洗い始め
 
た。子供はすぐに服を汚すので、一日に二回も三回も着替えさせねばならないことが多々ある。
 
 天化は腕白で、すぐ服を土まみれにしたり水でビショビショに濡らしたりする。しかも木から落ちて服を破いたり。ボロボ
 
ロにしたりするなんてことはしょっちゅうだ。だが、彼はそれを怒ったことは一度としてない。
 
 子供が服を汚したりするのは元気な証拠といえるからだ。特に天化のようなやんちゃ坊主が家で大人しくしていたら、反対
 
に病気ではないかと心配になる。洗濯をするのも裁縫をするのも道徳には苦にもならないし、むしろ12仙としての書類仕事を
 
後回しにできていいとすら思う。
 
 道徳は書類を片付けるのが好きではないのだ。だからといって決して処理能力が低い訳ではない。スポーツ仙人と呼ばれ、
 
脳みそまで筋肉だと一部の仙人が皮肉っている事実が不思議なぐらい事務仕事も正確にこなす。しかも字は達筆で読みやすく、
 
処理も早く内容も理解しやすい。
 
 だが道徳は机の前に張り付いて書類と格闘するのがどうも性に合わなかった。額に縦皺を寄せて小難しいことを考えるので
 
はなく、大空の下でのびのびと剣などの修行をするか、黴臭い書物に埋もれて術の勉強をするか、極端なこのどちらかの方が
 
好きなのである。書類の山とにらめっこするぐらいなら、洗濯や料理をしたり、掃除や針仕事の方がもっと有意義だ。
 
 それに天化に新しい服を作ってやるのは実に楽しい。以前作ったサイズよりも大きくなるのを確認する度に、天化が少しず
 
つ育ってゆく姿に眼を細めた。
 
 昨年天化が来た当初、地上は春の息吹が芽吹いていても、青峰山ではまだ雪が残っていた。その当時に作った手袋が今年は
 
もう弟子には小さくなり、新しく編み直した時は子供の成長の早さに驚いたものだ。一応大きめには作って追いたが、来年も
 
使えるかどうかは甚だ疑問である。
 
 先日太乙から貰った(半ば脅し取った)洗濯機を横目で見ながら、特に汚れのひどいものを洗濯板で丹念に洗うと、脱水機に
 
どんどん放り込んでゆく。そうやって人力と機械と双方の力を使って素早く洗濯を終え、道徳は水気を含んでずっしりと重く
 
なった衣類の入った大きな洗濯籠を持ち、物干し場に向おうとしてふと足を止めた。
 
「こーち、師父。おれっちもてつだう!」
 
 ぱたぱたと走ってきて、足元にまとわりついてきた天化を見下ろし、次にバツが悪そうに片手を顔の前で立てている玉麒麟
 
へと瞳を移す。洗濯などの家事をしている間天化に余り構えないので、玉麒麟に預けていたのだが、この様子だと、どうやら
 
天化が道徳の傍に行きたがって言うことを聞かなかったらしい。
 
 天化は道徳の邪魔をすることはない。むしろちゃんと手伝ってくれるのだが、家事の最中は話しかけてもやれないし遊んで
 
もやれないので、可哀想に思って玉麒麟を相手に遊ばせてやることにしていたのだ。
 
 しかし反対に天化には寂しい想いをさせてしまっていたのだろう。道徳の道服のズボンをぎゅっと掴み、唇を噛み締めてじ
 
っと見上げてくる姿は必死に離されまいとしているようで、とてもいじらしい。
 
 微かに吐息を吐くと、道徳は洗濯籠を持ち上げたまま天化ににこりと笑いかけた。
 
「じゃあ手伝って貰おうかな。今日は洗濯物も沢山あるし、用事が多くて大変なんだ。天化が手伝ってくれると大助かりだよ。
 
悪いけど、まず玉麒麟をよんできてくれないか?」
 
 家事をするのが大嫌いな玉麒麟がこっそり逃げようとしているのを眼の端に捉え、道徳は弟子にはあくまでも優しい笑顔を
 
絶やさず頼むと、天化は大喜びで玉麒麟を捕まえに行ったのだった。