「コ……コーチ…。師父!」
天化の呼び掛けに彼はゆっくりと振り返り、
「大丈夫か?あんまり無茶するんじゃないぞ」
と微苦笑を交えながら言って、少年の額を指先で軽く小突いた。
その笑顔を見た瞬間、天化は道徳の胸元に縋りつき、存在を確かめるように抱きついていた。
「これこれ。従者のことをそう呼んじゃ駄目だって言ってるだろう?」
「そんなの関係ねぇさ!俺っちにとっては師父は師父さ!大体からして師父はちっとも従者らしくなくて、師匠みたく偉そうなんだか
らお互い様さねっ!!従者だって言い張るんなら、どう呼んだって俺っちの勝手さ!」
滅茶苦茶な論法に道徳は笑うしかない。別に呼び方がどうこう拘っているわけでもなし、天化の好きにすればいいだろう。崑崙12仙
としての立場がばれても大して困ることもないのだから。
「分かった、分かったから。……とにかく傷を治そう。ひどい火傷だ」
道徳は天化の細い顎をついと上げ、唇を重ねる。
「……ん………」
掠めるだけの口付けを受けたその一瞬で、傷の痛みは霧散した。
きれいに傷が消えたのを確認すると、道徳は満足げに頷く。お互いの気の相性がよいと、回復術は効果が高いだけでなく、患部に直
接触れずに治すことができる。別に接吻する必要はないが、冗談半分で使って以来、天化がこの方法以外での治療を受け付けないのだ。
「傷も治ったし、さっさと決めておいで。防御さえできれば、お前にとって奴は敵じゃない」
「言われなくても分かってるさ。この依頼は俺っちが受けた仕事さね。俺っちがきっちり封神しないと意味ねぇよ」
霧が晴れて、少しずつだが視界がはっきりしてくる。霧が切れる合間から見える劉環の姿を見とめた天化は、不敵な笑みを口元に滲
ませて、師の言葉に力強く頷いた。
室内に入った時、まず眼に入ったのは赤い炎。それに立ち向かおうとする一人の戦士の姿だった。
蓮涼が術を唱えると同時に道徳は動き、炎の鳥に立ち塞がるようにして天化を庇っていた。
二人の様子を見て咄嗟に鳥の前進を止める術を使った為に、劉環から殺意を向けられて、蓮涼は正直自分の人生はこれでお仕舞いだ
と思った。いくらなんでも、自分にはあの攻撃をかわす自信は全くない。が、そうはならなかった。
その瞬間、道徳の髪がふわりとなびき、腕を一閃させた。劉環の周囲に鑚心釘が突き立ち、妖魔は一旦動きを止める。僅かな隙を逃
さず道徳は不動の術を唱え、劉環を完全に足止めした。
鑚心釘を使ったのは、結界陣の触媒として術を強化し、より長く動きを封じる為である。
だがその間に蓮涼の術が切れ、一旦止められていた炎は再び天化と道徳に迫ることとなった。劉環はあの時勝利を確信していたに違
いない。もう誰にもあの鳥を消す力がないと彼は思っていた筈だ。例えその力があったとしても術を唱える暇がない。どう足掻いても、
中級以上の術でなければ無理なのだ。強力な術になればなるほど詠唱に時間がかかるのは道理。術を唱えている間に彼らは火だるまだ。
蓮涼が絶望し諦めかけた時、道徳の瞳が刹那金色掛かり――炎の鳥をも覆い尽くす巨大な水球が出現した。信じられなかった。いくら
なんでもあの短時間で水系の上級術など唱えられる訳がない。
何よりも驚いたのは、微かに聞こえた詠唱が初歩の術だったことだ。初歩の術なら一言で済むから早いことは早い。だがあれほどの
威力を発揮するわけがない。いや、決して有り得ない話でもなかった。術力によっては可能だ。
術の威力はランクによっても変わるが、個人の持つ能力にも左右される。自分と道徳だと、自分が1で彼は千(少なく見積もって)と
しても過言ではない。こればかりは修行で伸ばすにも限界があり、生まれ持った才能が大半を占める。崑崙12仙は仙人の中でも特に高
い能力を持ち、一般の仙人の数千倍或いは数万倍の能力を持つという。間違いなくあの男は12仙の一人だ。
鳥が断末魔の絶叫を上げて消滅し、辺りが霧に包まれるのをぼんやりと眺めながら、背筋を伝う冷たい汗に身震いした。もしも道徳
が上級術を唱えたりしたら、と想像しただけで恐ろしかった。
そして今。あれが数十秒の間に起こった出来事であった事を、蓮涼は夢か幻のように感じていた。霧が晴れようとしている。すぐ傍
で身体を強張らせている蝉玉を守るように立ち、霞むように見える人影に眼を凝らした。剣を構えた少年道士と劉環が対峙している。
劉環にかけられた術は既に効力が切れているらしい。彼は宝貝を携えて攻撃の瞬間を狙っていた。
どこからともなく入った風の悪戯で、互いの姿がはっきりと見える。その一瞬、彼らは動いた。
「行け!火鴉壷っ!!」
煮え立つ溶岩が劉環の声に応えるようにむくりと浮き上がり、翼を広げた鳥へと変態する。これまでにない強力な攻撃技にも天化は
怯まなかった。
「師父!防御と援護はよろしく頼むさっ!!」
「はいよ、お任せあれ」
唇を舐めて好戦的な微笑を湛え、前を向いたまま言い放った弟子に、道徳は軽い調子で頷く。天化にとって背を預けられる相手は道
徳だけだ。今の己は守られてばかりだが、いつかは道徳の背中を守れるようになりたい。互いの背中を預けあえるようになるのが天化
の目標なのである。その為にも多くの敵を倒して経験を積み、少しでも強くならなければいけない。でも今は、こうして道徳に守って
貰えることが心地よくもあった。
天化は道徳に笑い返すと鳥に飛び込み、莫邪で斬りかかる。溶岩がかかろうが火の粉が飛ぼうがお構いなしに前へ進んだ。道徳の結
界に守られているからこそできる攻撃である。灼熱の溶岩の只中を突き進むとは一見無謀にも見える行為だが、これには天化なりの計
算があった。自分の身体がすっぽり隠れる深さに達すると、溶岩を両断して大きく上へ跳躍する。
「馬鹿が!その程度で陽動したつもりか!?」
それに気付いた劉環が、万里起雲煙の炎の矢を抜き放つ。天化は逃げる素振りすら見せず、火矢に向かってきた。
「いやあぁぁぁー!」
炎に包まれ床に落下した天化の姿に、蝉玉が悲鳴を上げ顔を背ける。
だが落ちてきたものは、半壊した祭壇であった。祭壇の残骸が床に叩きつけられ、派手な音を立てて粉々に砕ける。その瞬間劉環の
顔は強張り、蝉玉と蓮涼はほぅっと安堵の吐息を吐いた。
劉環はゆっくりと斜め後ろに視線を向ける。そこには、自分の胸に深々と刃を突き立てる崑崙の戦士の厳しい顔があった。
いつのまになどと考える必要はない。自分が上空にある木偶に注意を逸らし、音に気を取られたあの隙に、彼は横合いから背後に回
ったのだ。気配を殺し、獲物を狙う黒豹の俊敏さをもって。
大量の血を吐き出して、膝をついた劉環に天化はとどめの一撃を見舞う。
その顔にはいつもの飄々とした人懐こい少年の面影はなく、敵を完膚なきまでに叩きのめす一人の戦士としての非常の面があった。
完全に命を絶たねば何をするか分からない怖さが怪魔にはある。道徳ならもっと情け容赦なかったに違いない。自分が相手であった
だけ、劉環はまだ幸運だったのだ。
劉環の身体が崩れ去りチリとなって溶岩の中に落ちてゆく。主人の使わなくなった宝貝の効力が切れて溶岩は急速に冷え、炎は小さ
な火となりやがて消えた。天化がとどめを刺す寸前、劉環は蝉玉に向かって手を伸ばし、最期の瞬間まで彼女への執着を捨てなかった。
例え元は人間であっても、怪魔となった者は現世に肉体を残せない。愛情ゆえに魂までも怪魔と同化した劉環を倒す権利が自分にあ
ったのか天化には分からなかった。誰にでも劉環のようになる可能性を秘めているのに。
遣り切れない思いに頭を振ると、身体がぐらりと大きく傾いだ。今更ながら疲れがどっと出てきたらしい。
力強い腕に抱き留められて見上げる。道徳がねぎらうように笑いかけて、よく頑張ったね、と耳元に囁きを吹き入れてきた。その笑
顔だけで天化は満足だった。自分の気持ちと同じ、それ以上に彼は応えてくれる。傍にいて共に戦ってくれるのが何よりの証拠だ。
しかし、もう少し援護して欲しいと思うのは我儘なのだろうか。
「……にしても、あんたがあいつを倒した方が早かったように思うが?」
天化の考えよりも過激なことを尋ねる蓮涼に、道徳は悠然とした態度でぬけぬけと告げた。
「それじゃ天化の修行になりません。私としても、術の1、2発で倒せるような相手では面白くないですし……ねぇ」
道徳の正体に気付いてしまっただけに、蓮涼は何も言えない。尤も、彼の正体がどうあれ、弟子を身を挺して守ろうとした行動は賞
賛に値する。今の身分はどうあれ、従者風情などと考えていられないではないか。
恐らく劉環など、彼にとってはその辺りの石ころを潰すよりも簡単に倒せる相手だろう。
非常に癪だが、道徳の言葉は誇張でも虚勢でもなく、己の実力を理解し、それに裏打ちされた自信からくる当然のものなのだから。
12仙という輩が皆こんなとんでもない奴ばかりだとしたら、地上に滅多に降りてこない点も頷ける。怪魔との戦いで街中で暴れられ
たりしたら、凄まじい被害が及ぶに違いない。……ある意味怪魔より厄介である。
道徳のような危険人物が野放しになっていると知ったばかりに、蓮涼は寿命が縮む思いだった。しかも本人は自分が如何に凶悪な存
在か無自覚なのも恐い。12仙全員がこれだと最悪だ。道徳の様子では力の大部分は封印されているようだから、そんなに心配する必要
はないかも知れない。だが、もしもその封印が解けたりしたら……余り想像したくなくはなかった。
「とにかく早く出よう。居城は主人と運命を共にするのが常道だ」
怪魔の城は主人の力によって支えられている。よって、主人が消滅すれば城も崩れるのだ。
無駄な考えを打ち切った蓮涼の声に同意するように、城のあちこちから軋む音が聞こえてきた。
轟音を立てて崩れる城を眺めていた天化は、肩を貸して支える道徳の顔を覗き込んだ。
「師父、ご褒美欲しいさ」
「ご褒美ね。何でもいいよ、言ってごらん?今回も凄く頑張ったから」
弟子の戦いぶりに満足した体で、道徳はにこにこしながら大きく出る。自分に見えないところで悪戯っぽい笑みを浮かべているとは
露とも知らずに。
「……仕事が終わって万事解決したし、アレはもう解禁さ。勿論、今夜は絶対に寝かさないでくれるさねぇ?コーチィ?」
「え、えーっと、つ、次の仕事の準備をしないと。寝る暇もないぐらい忙しいんだよね、私」
身体をぎくりと強張らせ、あたふたと仕事の話をしだす道徳に、天化は切り札を出した。
「今んとこいそぎの依頼はないから、適当にあちこち回って仕事見つけろって言ってたぜ。昨日、普賢さんに確認したさ。……という
訳で、いいさね?」
「………頑張らさせて頂きます……」
観念したかのように項垂れる道徳は、何故か凄く可愛い。格好良いかと思うとこんな表情を見せたり、とぼけて何を考えているか分
からなかったり、子供みたいに悪戯好きなところもある。けれど、道徳のこんな顔を知っているのは天化だけだろう。自分だけの特権
に嬉しくて堪らない。次は両親のいる周にでも行こうか、2年前に顔を見せたばっかりだし、家族団欒で過ごすのも悪くないだろう。
両親ともに道徳のことを気に入っているから、歓待してくれるに違いない。自分の考えに満足すると、安心したのか急激に睡魔が襲
ってきた。長旅の疲れも手伝って、師に肩を借りたまま微かな寝息を天化はたて始める。
道徳は寝入ってしまった天化を腕の中に抱き上げると、土煙を上げて倒壊する城から背を向けて歩き出した。
新たな戦いへ向けての、それは戦士の僅かな休息の時であった。
2000.6.10