(ミテハナラヌモノヲミテシマッタ……)
それが、元海王中囲碁部部長、岸本薫の正直な感想だった。
まさか、自分の元後輩が暗がりの中でアンナコトをしている姿を見ることになるとは、全く考え付かなかったのである。
夏祭りで見かけた時の彼の行動にも度肝を抜かれたが、まさかこんな所で……。
(いくらなんでもここでそれ以上はマズイからやめろ……)
岸本は内心疲れたように呟き、早くこの場から離れた方がいいと伝えるべく、冷汗を流しながらそっと隣を窺った。だが
しかし、そんな思いも無視するように、彼の横では元海王中囲碁部の日高由梨が瞳をキラキラと輝かせて彼らの様子を
見入っている。もうすっかり野次馬根性の塊と化し、手に汗握ってわくわくしているのが丸分かりだ。
救いを求めるように彼女の斜め後方に居るもう一人の人物に視線を向けると、今回一緒に夏祭りを回った元海王中囲
碁部の青木が青褪めた顔で硬直していた。岸本の目線に彼も気付いたようだが、無言のままゆっくりと頭を横に振る。
日高は自分が満足するまで梃子でもこの場から動かない様相を呈している。ここは離れた方がいいのでは、という岸
本の思いを乗せた視線に、青木は諦めろという意味合いをこめて、頭を振る仕草で伝えてきたのだ。
岸本は観念したように嘆息し、花火の光と月と星明かりだけが光源という、暗い神社の境内から背を向ける。青木も同
じように背中を向け、二人の様子を見ているのは日高だけになった。しかし、彼女はそんな事は一切気にしていない。
とても楽しそうにしながら、階段の影から神社の本殿に居る後輩の行動を逐一チェックしている。
岸本は藪蚊に咬まれた腕を掻き、石の階段に座ったまま、鬱蒼と茂る木々に阻まれて見えない花火の音だけを虚しく
聞きながら、大きな大きな溜息を吐いたのだった。
「ねぇ、岸本。あれって塔矢じゃない?」
事の発端は、一年に一度この近辺で開かれる規模の大きな花火大会で、海王中囲碁部の後輩を見かけたことからだ。
現在はプロ棋士として活動している塔矢アキラを、日高が見つけたのである。
今年の北斗杯での活躍ぶりも目覚しく、プロとしても高みへと登っていく後輩の姿を、海王高校に進学してからも彼らは
見守っていた。囲碁部では様々な蟠りがあったとはいっても、それはあくまでもあの頃だけの話だ。
アキラがプロになると、高校や中学の囲碁部に指導碁に招かれもするようになり、彼の立場がアマからプロになったこと
で部員の雰囲気はガラリと変わった。
元からの実力差を、目に見える形で晒されたことにより、部員達は素直に彼を受け入れるようになったらしい。
最近では、アキラの指導碁はいつになるのかと、部長の岸本に尋ねてくる者も多い。
海王は中学で中より上の成績を収めれば、上の海王高校に自動的に進学出来ることもあり、囲碁部の部員も中学時代
からの者も結構居る。とはいえ、海王中で中より上の成績をとるのは中々に厳しい。他校から進学を希望する生徒も多い
だけに、尚更だった。アキラの囲碁関係以外の友人で、津川と中村という二人の少年も海王高校に進学し、アキラのこと
で日高と色々と連絡をとりあっているらしい。以前彼らにはアキラのことで抗議された経験があるので、印象に残っている。
「ああ、そういえば…塔矢だな」
「本当だ。とう……」
「ダメよ!」
珍しい奴が居るものだと思いながら岸本が頷くと、青木も気付いて面倒見のいい性格故か、早速声をかけようと口を開
きかけた。しかし日高の鋭い声に制止され、慌てて口を噤み、眼を白黒させながら疑問を無言のまま訴える。
「あんた気が利かないわね。よく見なさい、塔矢は彼女連れでしょ。邪魔する気?」
そう言われて見ると、アキラの横には青い浴衣に金色の帯を巻いた人物が一緒に居る。すらりとした少年めいた印象の
後姿で、アキラより頭半分ほど背が低く、少女としては背が高い部類に入るだろう。
二人の雰囲気からして恐らく恋人同士なのだとはすぐに分かった。何せ彼らは仲良く手を繋いで夜店を散策していて、
アキラの彼女と思しき少女は扇子でアキラを扇いでやったりしているのである。人波で暑い夏祭り会場だけに、彼女のい
ない男から見ると羨ましい光景なのは間違いなさそうだ。
ただ残念なことに、少し遠目であることと、人込みの中であるお陰で、肝心の彼女の顔がよく見えない。余り近づくと顔見
知りであるだけにばれやすいし、これぐらいの距離は離れていないとマズイだろう。あの堅物の塔矢アキラの恋人に対す
る好奇心は相当にあるが、二人きりでいる彼らの邪魔をして、恨み(特にアキラの)を買いたくもなかった。
「なるほど…あの子が例の『浴衣の君』ね。……うん、一昨年の子と同一人物に間違いないわ」
「何だ?『浴衣の君』って……」
聞きなれない単語に岸本は眼鏡を指先で上げ、一人納得して頷く日高を見下ろす。
「『浴衣の君』は、津川と中村がつけてる、塔矢の彼女の別名よ。塔矢は強情で、名前はおろか写真も見せてくれないから、
彼女の話題になるとこのニックネームを使うんですって」
「そうか……」
「塔矢は一昨年の夏祭り…中学二年の時も彼女と一緒に夏祭りに来てたのよ。私あの時も見かけたし、絶対に間違いない
わ。あいつらの情報通り、二年以上付き合ってるんだ…でも塔矢はまだ告白ができてないらしいのよね……」
日高はニヤリと楽しげに笑い、岸本と青木はそれを見て僅かに頬を引きつらせた。何だか凄〜く嫌な予感がする。
「よし!今夜は夏祭りついでにあの二人の後をつけるわよ。津川と中村に詳細を教えてやろうっと」
反論する間もなく、うきうきとした声で一方的に決められてしまい、男二人は絶句した。しかしそんな彼らのこともお構いなし
に、日高はずんずん先を歩いていく。果たして、どっちがついでなのかツッコミを入れることすらできずに、岸本と青木はがっ
くりと肩を落として日高に続いていった。
アキラと彼の想い人こと『浴衣の君』は、熱帯夜だというのにぴったりくっついて手を繋いだまま、人込み中を縫うように歩い
ている。その後を一定の距離を保ってついていきながら、日高は何とかアキラの相手の顔を見ようと躍起になっていた。
二人は夜店街の一番奥の大きな神社までやってくると、お参りだけを済ませて引き返してくる。三人の尾行者は危うく鉢合
わせしそうになって、慌てて夜店を覗く振りをしてやり過ごし、また後輩の後ろをこっそりとついていく。
「ちっ!この距離なら顔が見れるのに…あの親父邪魔!」
少年のように舌打ちして悔しがる日高を横目で眺めつつ、岸本と青木は諦めたように大きな溜息をついた。もうこうなった
ら、日高を止められる者は誰も居ない。最後まで付き合うしかないだろう。しかしまあ、岸本も青木もアキラの彼女に対して
の好奇心がないわけではない。どんな人物か知りたい気持ちも確かにある。その為敢えて日高を止めようと思わなかった。
何せ、あの塔矢アキラだ。堅物で頑固で真面目で囲碁馬鹿の彼に、恋人(まだ告白もしていないようだが)という存在が居
ること自体が岸本と青木にとっては晴天の霹靂ともいえる。それぐらい驚きの事実なのだ。どんな人物なのか、興味を持た
ない方がおかしいだろう。
あの雰囲気で告白もしていない点もびっくりだし、客観的に見ても、二人の様子は仲睦まじい恋人同士である。だからこ
そ、余計にどんな関係なのか知りたくなってしまうのかもしれない。
そんな彼らの思惑に応えてか、早速のように『浴衣の君』は意外なアクションを起こした。
『浴衣の君』は神社から折り返してすぐに、烏賊焼きをいきなり購入したのである。それもまるごと一つ。
(こ、恋人の眼の前でそれって…)
アキラの横で愛らしい唇を大きく開けて烏賊焼きにかぶり付き、平然と咀嚼する少女に三人はさすがに驚いた。だがアキ
ラにとっては『浴衣の君』の行動はいつものことなのか、笑顔で見詰めている。
今の様子で分かったのは、いかにも大和撫子な浴衣姿とは裏腹に、『浴衣の君』は男っぽい性格をしているということだっ
た。人を第一印象の外見で判断してはいけないと、彼らは肝に銘じた。
余程お腹がすいていたのか、烏賊焼きをたちまち食べ尽くすと、『浴衣の君』は今度はお好み焼きを購入し、更にはたこ
焼きの屋台にまで入って注文している。少し離れた場所から見ても大きな舟に入ったたこ焼きは結構な量だった。これを一
人で食べるつもりなのだとしたら、随分食い意地の張った少女であるといえよう。
烏賊焼き、お好み焼き、たこ焼きをバクバク食べる美少女というのは健康的で可愛いといえなくもないが、岸本と青木は
ちょっとだけ、こんな彼女は遠慮したい…と思った。遠目からでも、顔立ちの整っているアキラと並んで全く遜色のない美
少女というのが分かるだけに、男前な行動の数々に彼らは認識をどんどん変えていかねばならなくて、困ってしまう。
話の途中で、アキラに向かって軽く拳を繰り出していたりなど、よくしている。アキラは見かけの割りに反射神経が良いよ
うで、素早く避けて事なきを得ているものの、こういった仕草だけを見ても元気で男勝りな少女のようだ。
岸本や青木にしてみれば、アキラの好みとしてはかなりずれているように思えて、相当に意外の感がある。
楽しそうに話しながらたこ焼きを食べる『浴衣の君』を、アキラは微笑んで見詰めている。きっと彼女にしか向けないであ
ろう、極上の蕩けるような笑顔で。
アキラは若武者のように凛とした整った顔立ちをしていることもあり、擦れ違った少女達は大抵振り返っている。それだけ
に、横を通りがかった少女は『浴衣の君』に嫉妬の視線を刃のように突き立てるかとおもいきや、どういうわけか好意的な
憧れの眼を向けている。もしかして『お姉さま』のように見えるのだろうか。
しかし、『浴衣の君』はその視線にも全くほんの少しも気付く様子もない。どうやら鈍感というか、かなり鈍いようだ。
アキラが告白もできずにいるのは、もしかしたらこの鈍さも原因の一端にあるのかもしれない。
その鈍さ故なのだろうか。『浴衣の君』は周囲の少女達が恥ずかしげに絶叫し、男達が羨ましさに逆上しそうなとんでも
ない行為をごく自然に行ったのだ。尾行者の三人もこれには唖然としてしまう。
なんと、『浴衣の君』はアキラの口元にたこ焼きを差し出してきたのである。これはまさに言うまでもなく、「アキラくん、
あーんして(語尾にはハートマークが大乱舞)」という新婚夫婦の如く甘ったるい行動に他ならなかった。
周囲にどれだけの男女がいるのか、全くほんの少しも頓着していない。それだけに彼女の振る舞いには潔いものがあ
り、余りに自然で堂々としていて、甘い雰囲気というものが欠片も感じられなかった。しかし行為がコレなだけに、さしもの
アキラも驚いたようで、一瞬顔を強張らせると、困ったような曖昧な笑顔で躊躇っている。
ところが、『浴衣の君』にはまるで伝わっていない。更に唇に近づけ「早く食べて」というように小首を傾げてアキラを見
上げる。アキラはそんな『浴衣の君』の愛らしい仕草に負けてしまったのか、照れくさそうにしながらも少し屈んでたこ焼
きを口にした。この瞬間、アキラに多くの男達から嫉妬と羨望の入り混じった目線が飛ばされていたが、アキラは照れと
羞恥で気付く余裕すらもないようだ。
(……塔矢が!あの塔矢アキラがー!?……信じられん!)
(うぅ…ちょっと羨ましいかも……)
(……馬鹿馬鹿しいほど無自覚バカップルだわ……)
岸本は内心驚愕の絶叫を放ち、青木は男としてもの悲しいものを感じ、日高は二人とは対照的にとてつもなく冷静に
指摘する。岸本、青木、日高の三人三様の思いなど、当事者の二人に聞こえている筈もない。二つ年下の後輩に、何だ
か先を越されているようで悔しい気分も味わっている岸本と青木の複雑な心境も。
知られていたら、二人はきっと再起不能になっていただろう。
実に鈍い『浴衣の君』は、周囲の視線に毛ほども頓着せず、当り前のようにたこ焼きを再びアキラに差し出す。アキラ
は今度も躊躇していたが先ほどよりも素直に食べていた。
この行為を歩きながら繰り返すうち、アキラは『浴衣の君』に自らたこ焼きを要求するようにまでになり、挙句の果てに
は、『浴衣の君』が食べようとしたたこ焼きを口で奪うという大胆な真似までしてみせたのだ。
(ヲイッ!)
慣れというものは恐ろしい。とはいえ、これには咄嗟に、先輩の御三方も呆れて裏手ツッコミをせずにはいられなかっ
た。公衆の面前で殆ど口付ける寸前の距離まで顔を近づけるいちゃつきぶりを発揮しておいて、平然としている二人に、
15歳のガキが何を色気づいてやがる、と言いたくなる大人がいてもおかしくないだろう。しかし悲しいかな、そんな勇気の
ある御仁はここには居ない。例え居たとしても、下手に邪魔をした日には、アキラの恐ろしい絶対零度の視線か灼熱の
睨みに、射殺されていたに違いあるまい。
彼らがたこ焼きを食べ終わった頃には、ペットボトルのお茶を分け合って飲む姿にも、間接キスごときで騒ぐのも馬鹿
らしいと達観するにまで、日高、岸本、青木はすっかり免疫ができてしまっていた。
それにしても、『浴衣の君』の旺盛な食欲には男である岸本と青木も驚く程だった。アキラよりも小柄だというのに、実に
よく食べよく飲む。たこ焼きは二人で分け合ったといっても、量は相当多そうに見えたし、その前に烏賊焼きとお好み焼き
だって食べているのだ。たこ焼きの後に大盛の焼きそばを食べ終わると、次は焼きとうもろこしに手を出し、デザートにた
いやきと大きなクレープをぺろりと平らげて、やっと満足した様子でいる。
痩せの大食いという言葉は、きっと『浴衣の君』の為にあるに違いないと、気分が悪くなりそうになりながら彼らは思った。
あのしつこいメニューは、ただ食べるのを見ているだけでもうんざりする。
よくもまあ隣に居る塔矢アキラは平然としているものだ。もしかして、これが惚れた弱みといおうか、あばたもえくぼという
境地なのかもしれない。