リムジンが走る場所に普通の住宅街は似つかわしくない、と崑崙商店街で電化店を営む太乙は思う。
こういう車が通るとしたら、財界人や芸能人の住む高級住宅街のはずで、そっちの方が道も広くて丁度いいに決まっている。
それに一般人にとってはこんな物体の存在そのものが嫌味である。
余計な事と分かっていても彼がそう思うのは、自分の良く知る友人宅のド真前に駐車されたリムジンが邪魔で仕方が無いからだ。
車が二台スレスレで通るような道に、でかいリムジンなど通行の障害になるだけである。
愛用の小さな軽自動車でも、リムジンの横を通るのは難しい。朝の出勤時間の最中で忙しいのに、わざわざバックして別の道を
通らねばならないだなんて、今朝はすこぶる運がない。
太乙にはリムジンの横を通る勇気は微塵もなかった。下手に擦ったりしたら、持ち主にどんな目に遭わせられるか想像するのも
恐ろしい。その憂き目に会っている人物を知っているだけに、同じ轍を踏みたくないのだ。何せ相手はただの人間ではない。なるべ
くならばお近づきにはなりたくない、世界で最も危険な怪物だ。
リムジンの主人が友人なら横をさっさと通り抜けるのだが、生憎と彼はこんな車は好きではなく、いつあてても当てられても惜しく
ない、丈夫さだけが取柄の国産の安物にしか乗らない。
つまりリムジンはこの一戸建てで一人暮らしと独身生活を満喫している清虚道徳の持ち物ではないのだ。
バックをするために、太乙が嫌々ステアリングを握ろうとしたとき、門から人影が滑り出た。長く伸ばした漆黒の黒髪がヒールの音
に合わせて颯爽と風を切り、スーツを隙なく着こなした女性がリムジンに素早く乗り込んだ。
誰が見ても、「絶世の」だとか「類まれな」という形容詞をつけるであろう美女である。大抵の男なら瞳を奪われてしまうところだが、
太乙が咄嗟にとった行動は、ステアに顔を埋めて身を隠すというものだった。
世間一般からすると失礼極まりない行動をするのも、下手な暴力団が赤ん坊のように無垢で可愛らしい存在に見えるぐらい、今
の女性が恐ろしいことを彼は知っているのである。世界で最も危険で恐ろしい美女が彼女なのだ。
リムジンの姿が見えなくなるまで、太乙はそうやって身を隠し続けた。
「……おい太乙。お前何をやってるんだ?」
音が完全に聞こえなくなった頃、窓を叩く音と共に友人の声が耳に入る。恐る恐る顔を上げると、リムジンが前に停まっていた家
の住人で、同じ商店街でスポーツ洋品店を経営する道徳が不振げに覗き込んでいた。
「何って……隠れてたに決まってるだろー。君のお母さんから」
友人の情けない声に、道徳は大げさに嘆息する。
「いくらあのお袋でもな、ただ後ろに居たってだけでインネンつけたりはしないぞ?」
「本当にそうだって断言できるのかい!?道徳……」
疑わしげな念押しに道徳は黙り込んだ。彼の母は見かけは大変にお美しいが、中身がゴヂラでも甘い人物である。今までに数多
の人が、理不尽かつ不当な理由で、口に出すのも憚られるような極悪非道な目に遭っているのだ。それを考えると、やはりここは訂
正が必要だと気が付いた。
「やはり隠れていて正解。それだけでお袋には理由になるな」
顎に手を添えて導き出された道徳の答えに、ほれみろという具合に太乙は胸を張ってみせる。
先刻の美女が道徳の母親だとは、ぱっと見には分からない。顔の造作自体は似ているが、持っている雰囲気や印象が違いすぎて
母子だと一本線に繋がりにくいのだ。道徳としては密かにそれを喜んでいたりもするが。
顔自体は似ているから道徳もかなりの美形の範疇に入るのだが、いかんせん容姿に無頓着なので本人は余り意識していない。
ビシッとスーツでも着こなせば今の十倍はもてるだろうが、彼の服装はいつも適当だった。
道徳と幼馴染の太乙は子供の頃から彼の母親を知っている。自分自身や家族に被害が及んだことはないものの、不当な扱いを受
けた人を沢山見ていた。警戒するのも無理はないだろう。
二人して過去を振り返り、嫌な思い出に浸りかけてしまいそうになったところで、太乙は我に返って時計を見た。
「………うわ〜もうこんな時間!道徳も急いだ方がいいよ」
ツッカケにどてらという出で立ちの上に、ぼさぼさの寝起きの髪ではどう足掻いても遅刻である事は確かだ。急かすだけ無駄である。
しかし道徳は慌てる風もなく、のんきにどてらの袂から煙草を取り出した。
その姿はまるで、受験に失敗し続けた浪人生が人生を諦めて全てを投げ出した様子に見える。だが、太乙の知る限り、道徳ほど諦
めが悪く、しぶとくしつこい男はいないのが現実だ。決して悪い意味ではなくいい意味で。
「俺の所は店舗内整理の為、本日より三日間休業だ。頑張って稼いでこい」
「このサボり魔」
余裕の表情で煙草に火を点けて紫煙を吐く道徳に憎まれ口を叩きながら、再びステアリングを握る。しかし、アクセルは踏まずに窓
から身を乗り出して友人を見上げた。遅刻は嫌だが、好奇心は抑えられそうにない。
「あのさ道徳、君のお母さんって何しに来たの?」
「ちょっと届け物。今日あっちに取りに行こうと思ってたんだけど、持って来たんだよ。顔見についでだってさ」
「へぇ〜珍しいね」
煙草をもみ消す道徳の横顔を視界に収め、槍でも降るんじゃないか上目で空を確認した。本当に道徳の顔を見に来たのだとしたら、
それぐらいは起こってもおかしくない。幸いな事に空はとてもよく晴れていた。
その届け物が何か気になるところだが、道徳がこういう抽象的な言い回しをする時は、どんなに頼んでも教えて貰えないので諦める
事にする。だが太乙は伊達に幼馴染をやっている訳ではない。何の為で、誰に渡すのかはすぐにピンときた。
「……届いたのは天化君へのホワイトデーのプレゼントかな?お熱いことで」
道徳が本家筋に頼むとなると、かなり気合を入れた品物だろう。或いは特注品かもしれない。そんな物を渡すとしたら、大事な恋人
の天化以外には考えられないのだ。デバガメ根性丸出しの顔でニヤニヤ笑いながら扇いでみせると、やはり図星だったようで、僅か
に顔を引きつらせながら窓越しに自分を睨みつけてくる。
「怖いなーもう。じゃあ私はお仕事、お仕事」
商店街に着いたら皆に言いふらしてやろうと思いつつ、アクセルを目一杯踏み込んで走り出した。とてもあり難い忠告を残して。
「道徳、その格好全然似合ってないよー」
「ほっとけ!このオタク!」
暖かな友情(?)に満ちた忠告を寄こした太乙への罵声は、排気ガスに蹴散らされて電化店の主人に届くことはなかった。
折角の休日に朝からややこしい人間の訪問と、お喋りな友人とのやり取りで、道徳の機嫌はいまや最下層だ。
あの太乙のことだから、さっきの事は今日中に商店街の連中に知れ渡ることになるだろう。休業明けはきっと質問攻めになるに違い
ない。その事を考えると今から頭が痛くなってくる。
恨みがましい気分のまま包丁を握り、キャベツを太乙の頭に見立ててザクリと真っ二つに切った。それを千切りにして、ガラス鉢に
盛り付ける。ブロッコリーやカリフラワーも添えて簡単なサラダを作り、コーヒーや目玉焼き、パンを用意して朝刊を読みながら食べる。
膝に上ってきた飼い猫の玉麒麟の背中を撫でてやり、用意したプレゼントを天化にいつ渡すべきが考えた。
ホワイトデーは明日ではあるのだが、モノがモノだけに渡すときどうすべきか熟考しておく必要があるのだ。
朝起きてすぐ……では天化が寝惚けているので却下。もう一つ業者に頼んだものが14日に届けられるから、その時一緒に渡すの
も手だ。だがああいったものを渡すときは雰囲気も考えた方がいいだろうし……。
「なあ……玉麒麟…お前はどう思う?」
人差し指で頭を撫でつつ、ぐるぐると喉を鳴らして擦り寄ってくる猫に尋ねてみる。答えは勿論あるはずもなく、玉麒麟が膝の上で丸
くなっただけだった。それに苦笑したものの、考えを打ち切って柔らかな毛並みを楽しむことにする。猫や動物に話しかけたり抱き上げ
たりすると、不思議と心が和むからいい。
道徳はしばらくそうしていたが、玉麒麟が飽きてしまい、さっさと下りてストーブの前を陣取り寝そべってしまった。
「さてと、ホワイトデー用のケーキでも作るか」
立ち上がって大きく伸びをすると、道徳は材料を冷蔵庫から取り出し、用意に取り掛かる。――とその時、玄関の呼び鈴が鳴り響い
た。静まり返っていただけにやけにその音は大きく聞こえたが、自分とは反対に玉麒麟は変わらず寝たままである。受話器を取ろうと
電話機に向かいかけたものの、聞きなれた足音に作業を再開した。
「コーチ、おっは〜」
いつもどおり呼び鈴だけを鳴らして家に入ってきた天化の第一声に、道徳は片眉をピクリと吊り上げた。
「……おはよう」
爺臭いと言われるかもしれないが、道徳は最近流行っているこの挨拶が苦手だった。言うだけならまだしも、手振りをつけてするな
ど、とてもではないができない。自分と同世代の太乙が平然と身振りつきでしている姿を見ているだけに、余計に自分が老成している
ように思えてしまう。
天化と同年代の女子高生は身振りつきであっさりとして下さる。さすがに天化は身振りは無く、言葉だけで助かるが。
道徳からするとその台詞を気楽に言えるだけで、十分年の差感じずにはいられない。
「何作ってんの?」
「ケーキだよ。……お前学校は?」
とうの昔に学校に行っている時間だけに、声に詰問じみた響きが籠もっていたが、天化は平気だった。
「今日から試験休み。コーチの家庭教師のお陰で追試もないし、終業式まで行かなくていいみたいさ」
卵を泡立てる手つきを見ながら、手馴れた様子で紅茶を用意する。いまや道徳は天化の第二の家のようなものだ。専用の皿から歯
ブラシまで揃っている。道徳とそういう関係に至ってからは、殊の外物が増えた。
道徳は天化が愛用のマグカップに紅茶を注ぐ仕草を何気なく眺めて、ふと首を傾げた。
「………なあ天化……」
「なんさ?」
牛乳をたっぷりと混ぜて、美味しそうに一口啜る。道徳の家にあるのはティーパックではなく、ちゃんとした茶葉の紅茶なので、とて
もいい味と香がするのだ。それに自分の家だと、朝の忙しい時間にのんびり紅茶を淹れる暇も無い。味と香を楽しむのなら、道徳の
傍で他愛もない話をしながらゆったりと過ごす時が一番だ。
ほんわりとした顔で満足気に飲む天化をもう一度じっくり観察し、道徳は口を開いた。
「お前、胸でかくなったか?」
予想だにしなかった言葉に危うく紅茶を吹きかけ、器官に入った為に激しく咽る。
「…ゲホッ!ケホッ!……な、な…いきなり変なこと訊くんじゃねぇさ!」
咽たのと羞恥で真っ赤になりながら無意識に胸元を隠し、天化はがなりたてた。今日もセーターにジーパンという格好で、別に日頃
から着慣れている普段着だしそんなに変わった服装をしているわけではない。
しかし道徳はそれとは裏腹に上から下まで眺め回している。