秋特有の抜けるような青空に、羊の綿毛を思わせる雲が浮かんでいる。
ふわふわと漂う雲はゆったりと流れ、穏やかな昼下がりの校庭を照らし出している。
そんな昼の明るい陽光が照らす校門を、塔矢アキラは颯爽とした足取りで潜った。警備の為に門に立っている職員に来訪の理由を
告げ、丁度通して貰ったところだった。アキラは今日、自分の母校である海王中学校の系列校である海王高校で指導碁をする予定に
なっている。職員に教えて貰った通りに、グランドの脇を通るようにして校舎へ足を向けた。
秋本番となり風の中に季節の香りが色濃く滲む季節でありながら、昨今の地球温暖化の影響か、気温は少し高い。だがアキラはき
っちりとスーツを着込んでいるにも関わらず、若武者めいた彼の涼やかな容貌には、外気を窺わせる気配はないようにも見える。
歩を進める度に女性でも持ち得ない、絹糸のように艶やかでまっすぐな黒髪がさらりと揺れる。
陶器のような硬質さを感じさせる白い肌には汗一つ浮かんでいないが、秋の涼しさとは裏腹な暑さの為であろう、うっすらと上気した
頬からは極自然に人間らしい温かみが伝わってくる。黙って立っているだけでも自然と人目を引くのが塔矢アキラだ。
彼の特徴的な髪型も印象深いものもあるが、何よりも鮮烈に力があるのは、その揺るぎない意志の篭もった力強い瞳だろう。
日本人形を髣髴させる凛とした物静かな容姿とは裏腹に、黒い瞳には打ちに宿る苛烈さが滲み出ている。
男としては嫌味なほどに整った顔立ちは、小学生くらいの頃は愛らしい少女と見紛うほどのものだった。最近では随分と男らしさが
加わり、彼を女の子と間違える者はいない。身体つきも細身であるが男のもので、顔の個々のパーツはそれぞれ女性的ともいえるほ
どに整っているが、女性的ななよやかさというものは感じられなかった。
元から醸し出されている独特の雰囲気に際立った容姿が加味され、アキラは校門から一歩足を踏み入れただけで周囲の高校生の
注目を浴びていた。放課後の部活動に勤しむ生徒の大半が、校門から正面玄関に悠然と歩いていくアキラを視線で追いかける。
しかし、トップ棋士の父が居るアキラは育った環境が特殊であったこともあり、多くの眼に晒されても少しも動じない。動じないどころ
か幾つ者目線を無意識に受け流し、気づくことさえなくなってしまった。道を行く人々が振り返って彼を見ても、アキラはいつも知らず
にそのまま通り過ぎる。アキラがほんの些細な視線にも感じて反応する相手は、この世界にただ一人しか居ない。
正面玄関で来客の受付をする職員は既に顔馴染みで、簡単な挨拶を交わして出されたノートに記帳する。
最近は何かと物騒で、アキラがこの高校に通う少年少女と例え同年代であっても、外部からの訪問者であることには変わりない。
その為、必ず記帳ノートに来訪時間や理由、身元住所と氏名を記入することになっている。
書き終えると革靴から来客用のスリッパに履き替えて、目的の部室に向かった。
案内に立つ職員はいない。アキラ自身がそれを断ったからだ。部活に励む体育系クラブの威勢のいい掛け声がグラウンドから聞こ
えてくる以外は、校舎内はしんと静まり返っている。アキラが歩くスリッパの微かな音だけが、人気のない廊下と階段にこだました。
十月といっても日は長く、その上今日のように部活動時間延長のための短縮授業のあった日だと、まだ明るい時間帯だ。
海王高校は進学率も非常に高いが、部活動にも重点をおいており、文化部、運動部共に全国に優秀な成績で名を馳せている。
その為、必ず週に一度部活動を長くできるように短縮授業を取り入れているのだ。
廊下に入る光は穏やかで、開け放した窓からは爽やかな秋の風が運ばれてくる。
海王高校のような有名私立校だと、当然のごとく冷暖房完備なのだが、今日は入れていないらしい。実際、校舎内に入ると外の暑
さは嘘のように消えうせ、程よい温度になっている。窓はおろか扉も開け放しているからだろう、三階の一番奥にある大きな部室から
は、階段を上ってきただけで碁石を打つ音が聞こえてきた。
それに知らず淡い笑みを浮かべ、アキラは全開になっている扉を軽くノックした。
途端に部員全員の注目を浴びてしまったが、アキラは少しも頓着せずに営業用の機構自然とした柔らかな笑顔を振り撒く。
「指導碁に伺いました。塔矢アキラです」
「やあ、塔矢君。ありがとう、来てくれて嬉しいよ」
「いえ…こちらこそ精一杯やらせて頂きます。それで今日は……」
囲碁部の担当教諭と握手をかわして、アキラは如才なく笑いかけて予定を尋ねた。
「そうそう、今日は尹さんが来ることになっているんだよ。皆の成長ぶりと君に是非とも会いたいと仰ってね」
人好きのする笑顔でにこにこしながら、教諭は重大な秘密を打ち明けるように声を潜めて言う。
芝居がかった仕草に思わず笑みが零れた。
「尹先生が来られるんですか……」
どことなく感慨深げに、アキラは小さく呟いた。尹は海王中囲碁部の指導者である。優しげな風貌の韓国人青年で、進藤ヒカルと
洪秀英の対局を見せてくれた人物でもあった。彼らの成長を暖かく見守ってくれている人々の一人だ。
「いやあ…実はね、私は急遽出張に行かなければならなくなって、尹さんに指導を頼んだんだ。今日は中学の囲碁部が休みだった
から、本当に助かったよ。じゃあ、私はこれから行くから。後は頼むよ岸本君」
教諭はアキラに早口で事情を粗方喋り終えると、部長の岸本薫に声をかけと慌しく部室を後にした。
「…………久しぶりだな、塔矢」
「そうですね。お久しぶりです、岸本先輩」
教諭が去ってから、微妙な沈黙の後に口を開いた岸本に、アキラは挨拶を返しながら内心首を傾げていた。どうも岸本の様子と
態度がいつもと違うような気がする。夏休み中に指導碁に来た時と比べて、やけによそよそしい印象だった。
眼も逸らしがちで、アキラの顔をまともに見ようとしない。
(………?…どうしたんだろう……)
どこかで一線を画したような奇妙な緊張感をもって話しかける岸本を眺めながら、アキラの心の中は疑問符だらけだった。彼には
岸本がこんな態度をとる理由が分からない。さほど親しいわけでもなく、大体からして滅多に会うことすらないから、さして気にする
ほどのことではないのだが、不思議と引っかかりを覚えて気になった。どうもおかしい、妙な感じがするのだ。
本来なら先月に指導碁に赴く予定だったものの、外せない別の仕事が入り、結局十月まで長引かせてしまったので、ここに来る
のは約二ヶ月ぶりになる。この二ヶ月ほどの間に、彼に避けられるようなことがあっただろうか?しかし岸本とは八月の指導碁以来、
会うのはおろか一言も話すらもしていないのだが。
他に原因が考えられるのは八月の指導碁になるものの、あの時は全く普段通りだった。何もおかしいところはなく、岸本もいつもと
変わらなかった。ならばやはりその後だろう。アキラの気付かなかったところで何かがあり、それによって、岸本はよそよそしい態度
になっているのだ。だからといって、そこには悪意は全く感じられない。
本人はこれまで通りに精一杯接しているつもりらしいのだが、無理に取り繕っているお陰で余計に目立って分かり易くなっている。
この点から考えても、岸本がアキラを嫌って態度がおかしいのではなく、ただ単に接し方に困っている風だった。
岸本が普段通りにアキラに話そうと思っても、何らかの原因が心の枷となってそれを阻んでいるのだろう。海王中時代の先輩の複
雑な心境を汲みとり、アキラは敢えて気付かないフリを貫くことにした。無闇矢鱈に他人の領域に踏み入っていいものではない。
教諭から引き継いだ岸本が部長らしく囲碁部の面々に打つように指示を下し、アキラには数人の女生徒の指導碁を頼む。
そこからは部室内には静かに碁石を打つ音だけが響き、窓からは秋の風が柔らかく吹き込んだ。
尹は海王中に一旦戻った足を忙しく動かして、すぐ隣の敷地にある海王高校に向かっていた。顧問の代理で行ったのはいいが、一
時間程度居ただけで仕事で呼び戻されてしまい、再び中学に帰る破目に陥ってしまった。
プロになった元生徒が指導とにやってきて久々に会えたのに、これでは殆ど話せないままで終わる気がする。
いくら今日の部活が長めになっていても、もうしばらくすると下校時間になってしまうからだ。昨今は色々な事件が多発し、下校時間
についても、安全のために生徒に厳しく守らせる傾向が高い。海王高校と中学は隣同士で隣接しているといっても、大きなグラウンド
をや体育館などを隔てていることもあり、結構な距離がある。中学の通用門を出てからしばらく歩いて、やっと海王高校の正門付近に
まで歩を進めると、そこで見知った顔を見つけて眼を瞠った。
仕事が長引いて予定していたよりも遅くなって焦っていたことすら忘れ、尹は正門近くで所在なく佇む人物に声をかけた。
「進藤君?」
突然聞こえた声に身体を強張らせ、金色の前髪を揺らしながら弾かれたように少年が振り返る。その姿を眺めて、尹は束の間唖然
とした。自分が知っている中学二年生の頃とは大きく印象が変化していて、驚きの余り声が出ない。
大きな砂色の瞳も、線の細い小柄な身体も相変わらずだ。元気でやんちゃそうなところも変わらない。しかし、その中にはどことなく
儚げな雰囲気が見え隠れして、不思議と眼が惹きつけられる。小さく子供らしかった体型は少年から青年の狭間へと移り、背も随分
と伸びて細くしなやかになった。丸い顎の線はすっきりとして、彼の顔立ちが大人に近付いたことを感じさせる。
何よりも変化したのは印象だ。男の彼に対して失礼かもしれないが、信じられないほど綺麗になっている。元々持っている明るく元気
な陽性の雰囲気の中に儚い印象が加味され、少年らしい華奢さを残した肢体の更なる奥には、勝負の世界に身を置く男の厳しさをも
内包している。だからだろうか、少女の持つたおやかさとはまた違い、一本強い芯の入った凛々しさがあるのは。
それが益々綺麗で魅惑的な魅力に繋がるのだ。
あの頃の彼にはまだまだ誰かに甘えているように思えるところがあったが、今はその甘えはない。
愛おしみ慈しんだ者の庇護の下から自立し、この少年は自らの力で大地を踏みしめ、歩んでいる。或いは大空を力強く羽ばたいてい
る。変わっていないように見えた砂色の瞳も、大人でも持ち得ないような深みを湛えて、彼の成長の度合いを如実に表していた。
その深遠はまるで神の領域と繋がるように神聖な印象すらある。
会わなかった二年の間に何があったのかと、尹が訝しむほどに少年に瞳は美しく澄んで、神秘的になっていた。
尹自身は一切与り知らぬことだが、獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすという言葉のように、彼の自立には並々ならぬ経緯があっ
たのである。無論、多くの人々の後押しや力添えもあっただろう。しかし最終的には、自らの心が要になる。
這い上がる意志や覚悟のない者では、自らを奮い立たせて身体を押し上げることはできない。
彼は庇護者であり導き手であった藤原佐為を喪ったことから、底なしの奈落に落ちる苦しみと懊悩を経験し、必死に這い上がってきた
のだ。自分自身の意志と力で。だからこそ、今の進藤ヒカルという少年は在るのだ。
ヒカルは突然背後からかけられた声に、驚いて振り返った。自分とはすっかり縁の遠くなった学校を、不審者のように覗いている後ろ
めたさもあって、必要以上に驚愕してしまった面も否めない。身体ごと向きを変えて声の主を見ると、海王中囲碁部の顧問である尹が
立っていた。以前碁会所で会って以来の再会で、ヒカルは懐かしい人物の姿に驚きから笑顔へと表情を変える。
「……尹先生」
ヒカルの明るく人懐こい笑みにつられるように尹も笑い返し、数歩の距離を詰めて傍に立った。
「やあ、久しぶりだね。今日はここに用事なのかい?」
「え?あ、いや……用事はあるような、ないような……」
気さくに話す尹に、ヒカルは困ったようにしどろもどろに話す。こうしている姿は以前と少しも変わらなくて、尹はなんとなく安心した。
彼の変化が本質を捻じ曲げられたせいではないだろうかと危惧していたのだが、それは杞憂であったらしい。やはり少年は有りのまま
でいる。基本的に素直で明るく、優しい真っ直ぐな気性はそのままなのだ。
「囲碁界の竜虎とも噂されているように、君と塔矢の活躍ぶりは最近目覚しいね。忙しいとも思うが元気なようで安心したよ」
「活躍って……オレは塔矢ほどじゃ……」
照れ臭そうに頭を掻くヒカルを微笑ましげに見詰めながら、尹は今日海王高校来ている人物を思い出し、答えに辿り着いた。
すぐにぽんと手を打ち、長身の尹よりも目線の低い少年を見下ろして笑いかける。
「――ああ!もしかして塔矢と約束でも?」
「あ……は、はい。指導碁が終わってから、打つ約束してて」
「そうか。………そろそろ終わる頃だが、下校時間までしばらくかかると思うよ。中に入って待つかい?」
時計を見ながら提案してみると、ヒカルは慌てて両手を振って断ってきた。
「いいです!オレの手合が早く終わって勝手に来ただけだから、適当に時間つぶします!」
彼の言葉の端々から、今回のように時間ができれば打ち合っているのだと何となく伝わってきて微笑ましい。
中学囲碁大会の時の二人を知っているだけに、ヒカルとアキラが和解して互いに切磋琢磨しまっているのは嬉しい限りだ。
実のところ、ヒカルにとって尹の申し出は彼の好奇心を的確に射るものだった。いつもの碁会所で待ち合わせていたものの、アキラが
どんな風に指導碁をしているのか興味もあって、碁会所に立ち寄る前にそろそろ終わる頃かと様子を見に来たのである。
それだけにかなり心惹かれたが、高校の敷地内に足を踏み入れるのは少なからず気後れを覚えてつい断ってしまった。
中学を卒業してから一度も『学校』というものに行っていないからか、変なところで中学生気分が抜けきっていない。
ヒカルにとっては、高校は何だか近寄りがたい印象を受ける。高校に進学していればそうでもなかったもしれないが、中学生からみると
高校生はやはり『大人』な感じがするのだ。尹からすると、ヒカルの感覚はかなり奇異に映るだろう。
中学生の頃からプロになっているヒカルの方が、一足先に大人の世界に入っているのだから、高校生よりも大人びていると思ってもお
かしくない。親の庇護を受けて高校に通い、将来を模索する若者とは違って、既に自分の道を見つけて先に進んでいるヒカルとアキラは、
自立した一人の大人ともいえるのだから。適当に時間を潰すと言ったヒカルをしみじみと眺め、尹は顎を撫でながら尋ねてみた。
「――進藤君。時間があるなら、君にも少し指導碁をお願いしたいんだが……構わないかな?」
「……へ?オレ?」
自分を指差して小首を傾げるヒカルの愛らしい仕草の中にある子供っぽさに微笑ましさを感じて、尹は笑みを浮かべて頷く。
「そう、何といっても北斗杯の代表の一人だからね、君も…それに塔矢も。是非とも頼むよ」
「でも……」
躊躇するヒカルに、熱心に尹は話しかけた。
「北斗杯で負けた碁を褒められて嬉しくないかもしれないが、実に心躍る一局一局だった。君があの短期間で著しい成長を遂げたのが
伝わってくる内容だ。あれから君はまた強くなっている。君や塔矢の強さによって、碁を楽しむ人の力を引き上げてくれないだろうか?」
笑顔で諭す尹の姿を見て、ヒカルは不思議と佐為を思い出した。彼も生徒を指導する立場であるからだろうか、その笑みがどことなく、
佐為がヒカルを見守ってくれる時の眼を思い起こさせる。中国戦も韓国戦でもヒカルは負けたが、佐為は負けた碁を叱るよりもまず上手
くできた面を褒めて評価し、そして失着などを直すように的確に指導してくれただろう。優しく穏やかに、時には厳しく厳格に。