彼ならきっと、高永夏との対局の後、こう言ってくれたに違いない。
――胸を張りなさい、ヒカル。素晴らしい戦いぶりでしたよ
例え負けても、ヒカルの成長の糧となる見事な一局だったと、佐為は優しく微笑んだだろう。
――でも、私なら勝っていましたけどね
そして、茶目っ気たっぷりに笑いながら告げるのだ。
(……そうだな、佐為。おまえならきっと勝つよな。だって本因坊秀策なんだから)
ヒカルは心で佐為に語りかける。自分の碁の中に居る、思い出の中に居る大切な佐為に向かって。
確かに佐為自身が打ったのなら二戦とも勝っただろう。しかし、ヒカルは佐為ではない。佐為という棋聖に育てられ、碁を受け継ぎ、
吸収したが彼とは全く異なる別の人間だ。
一年前、いみじくもアキラがヒカルに語ったように、佐為はヒカルの中に居ながらにして違う存在なのだから。
アキラとの初対局だった名人戦で理解していた答えだった。いや、もっと前から分かっていた。
佐為と初めて出会った時点で既にそう認めていたことだ。何よりも、彼が消えてしまった時に否応なく再認識させられた。
だが、余りにも佐為はヒカルの傍に居過ぎた。だからずっと一緒に居るのが自然だと思い込んでしまった。
保証もないのに勝手に信じ込み、役目を終えた佐為を追い求めて、自分自身を壊してしまおうとしたほどに……。
あれから分かっていながらも、認められなかったのかもしれない。アキラと対局しながらずっと――。
何故ならアキラは既にヒカルと佐為を別の存在であると認め、その上で何もかもを受け入れた。
彼のあの言葉が全ての想いを集約している。
『キミの打つ碁がキミの全てだ。それは変わらない。それでもういい』
アキラがそう言ってくれたから、ヒカルは打っていられた。『ヒカルの碁』を初めて認めてくれたから。
佐為への純粋で無垢な思慕は死ぬまで捨てられない。碁を捨てられないのと同じように。
同時に、ヒカルはアキラを切り捨てることはできない。どれか一つを選択するのは不可能だ。
貪欲と罵られようとも、できないものはできないのだから。
けれどそれはアキラも同じ。アキラもヒカルと碁を捨てるなど、天地がひっくり返っても有り得ない。
だから余計、ヒカルは最も傍に居るアキラの存在を求めるように、無意識に甘えていたのかもしれない。自分でもそんなつもりは微
塵もなかった。アキラもそう感じていなかっただろう。
だがヒカルの中には確かに、気付いていない甘えがあったのだ。
自分の中の甘えをはっきりと自覚したのは、北斗杯の中国戦だった。自分の足で立っているつもりだったのに、ヒカルはちゃんと立
てていなかった。佐為に、アキラに、知らず寄りかかっていた。
あの時、ダメだと、自分の力で立ち直せないと思った瞬間、ヒカルは佐為に託された扇子を思い出した。
佐為はもう居ない。役目を終え、ヒカルに全てを託して去ってしまった。
けれど佐為は自分の碁の中に居る。彼から受け継いだ碁を生かすも殺すも、ヒカル次第なのだ。
(オレしかいない。この碁を投了するのも立て直すのも、ここにいるオレしかいない!)
改めて再確認した。碁は相手が居なければ打てない。しかし、打つのは自分自身なのだ。
誰にも頼れない。ヒカルが打たなければならない。逃げてはならない、迎え撃たねば――。
ヒカルは無意識に頼っていた佐為とアキラから、この時初めて自立した。自分自身の足で大地を踏みしめ、飛び立った。
それをきっかけに、韓国戦での高永夏との戦いで、ヒカルは更に大きく飛躍した。結果は負けではあったが、ヒカルに少なくない糧を
与え成長を促すものだったに違いない。 ヒカル本人は気付かなくとも、周囲の眼にははっきりと分かるものだった。
ヒカルの力はまだまだ成長過程にあり、『ヒカルの碁』の真価は決しておらず、進化し続けることを。
だからこそ、ヒカルの進化のためには、より多くの才能が必要なのである。
神の寵児の成長の糧になる相手は、強ければ強いほどいい。彼の無限の才能を引き出すには、生半可な相手ではなんにもならな
い。生贄が上質であればあるほど、神の寵児の輝きは増す。
ダイヤモンドの研磨に同じ硬度のダイヤモンドが必要なように、神の愛し子にはそれ相応の相手がいる。
相応しい対等者として、神は『塔矢アキラ』という存在を用意した。最も上質の生贄であるからこそ、代償に同等の才能と一番の特
権を与えて。碁は対局相手が居なければ打てないのだから。
故にアキラの才能の研磨のためにも、北斗杯は重要だった。彼らがこの大会で著しい成長を遂げたのは、誰の眼から見ても明らか
である。これを期に、二人は囲碁界の竜虎と密かに呼ばれるようにもなった。
尹も北斗杯での棋譜の凄まじさに、正直感服した。若い才能を目の当たりにして感動も覚えた。
自分の眼の前に、何よりも輝く才能を持つヒカルがいる。彼の碁に触れるだけで、輝きの片鱗に照らされるだけで、生徒達は何かを
多く得られるだろう。それが分かっているのに、ヒカルをむざむざ放っておくような真似はしない。
「どうだろうか?進藤君」
尹はにっこり笑って、ヒカルに再度答えを促した。
「棋院を通していないのが不安なら、すぐに連絡して掛け合うけれど」
「えぇぇ!?そんな、お金なんかいらねぇし!…あ、えーっと……いりません!」
まさか棋院を通すとまで言われるとは思わなくて、ヒカルは慌てた。別にお金が欲しいとかそんな事はない。
ただ、高校生を相手にするのがちょっと不安なだけだ。だってグラウンドに居るような人ばかりなのだろう。
北斗杯でも年上を相手に激しく戦い、碁会所ではもっと年上の人々に指導碁を行っているという事実を、ヒカルはすっかり失念して
しまっているらしい。彼らに比べれば、ただの高校生など可愛いものなのだが。
考えてみればヒカルにとって、尹の申し出は有り難い。
何もせずにぼんやりするつもりもないが、どうせなら指導碁ができるのはいいことだ。
ヒカルは河合などの馴染みの人々が居る道玄坂では指導碁をすることがあっても、他では余りしたことがない。地方のイベントに
行くにしてもさほどあるわけでもなく、棋院を通してヒカルに指導碁を頼む客も増えたといってもそんなにいないのだ。
勿論、自分の勉強は疎かにできないし、休む時はきっちり休まないと対局にも響いてしまう。
その上最近は手合スケジュールも過密になってきて、益々指導碁ができる余裕がなくなってきている。
経験が少ないという自覚があるだけに、ヒカルとしてもできればこういった機会は逃したくない。
尹の言葉通り、囲碁を楽しむ人の向上に自分の力が役に立つならそうしたい。ならば少しでも楽しんで貰えるように指導できた方が
いい。ちょっとでも多くの人に囲碁の楽しさ、面白さを分かって貰えるように。
佐為は指導碁も喜んでしていたから、きっと同じような気持ちだったのだろう。
「……オレでよければ、お願いします」
「ありがとう、こちらこそどうぞよろしく」
頭を下げてきたヒカルに対して、尹も深々と返した。
「本当に嬉しいよ。じゃあ、早速行こうか」
ヒカルを促して、尹は正門からグラウンドに入った。尹の後を、ヒカルは落ち着かなく周囲をきょろきょろ眺めながら着いて行く。
学校の敷地に入るのは久しぶりで、中学を卒業して以来だった。
幼馴染の藤崎あかりに頼まれて指導碁に行く約束もしているが、次もきっと今と同じようにどきどきするかもしれない。
自分と同年代の高校生に指導碁をしたことが殆どないだけに少し不安だが、メインのアキラが来ているからヒカルの出番はそんな
にないと予測できるので、気分的に楽なのが助かる。
そんな風に考えながら尹の後を歩くヒカルを、周囲の生徒が興味津々で眺めていたことに、彼は少しも気づいていなかった。アキラ
とは違って慣れているのではなく、ただ自分のことに手一杯で視線を浴びている事実にまで、意識が及ばなかっただけの話であるが。
本人には全く自覚はないが、ヒカルの容貌は人目を惹きつける。
元々から金色の前髪が目立っていたが、碁の才能が開花したことから独特な異彩を放つようになり、ただそこに居るだけで注目を
浴びる傾向にあった。これまで明るい元気さに紛れがちだった顔立ちの良さが、佐為を喪った頃から急激に表面に現れ始め、いつの
まにかどこか儚さがただ良く綺麗な容姿になっていた。
特に対局時は、独特の神聖な雰囲気を醸し出し、アキラとの対局では相乗効果で感嘆し見惚れるほどの美しさである。
五月頃に行った若手を集めた宣伝用ポスターカレンダーの写真撮影でも、ヒカルとアキラを撮ることになったカメラマンはすっかり
二人に惚れ込み、今回の撮影は桜だと頑固に譲らない一幕すらあった。
季節外れだというのに、満開に花を咲かせた桜を無理矢理探しての撮影決行となり、周囲も諦め気味に付き合っていたほどである。
北の地域には満開になった桜がまだあったお陰で無事に撮影を終えたのは、棋院にとってもカメラマンにとっても幸いだった。
芸術家って大変だな、とヒカルがややずれた認識を抱いたのはこの際関係ない。
金木犀や紅葉も非常に捨てがたいとカメラマンは語っていたが、所詮ヒカルにとってはどうでもいいことで、むしろそれを口実にして
アキラと一緒に過ごせた方が印象に残っている。
だがそこまでして撮っただけに、写真の出来栄えは素晴らしかった。誰もが唖然として言葉を失って写真に見惚れてしまうほどに。
ヒカルの顔立ちの良さにも注目が集まり始めた矢先だけに、効果はまさに覿面だったといえる。
カメラマンは自分の仕事ぶりにすっかり満足して、次回もヒカルとアキラを撮らせて欲しいと棋院に願い出たほどである。
桜の淡い色合いと二人のコントラストは絶妙で、神が愛を捧げる神童とその対等者に相応しい綺麗な姿だった。
だが誰もが見惚れる写真も、ただ一人ヒカルだけが、全員が卒倒しそうな感想の台詞をけろりと吐いていた。
『塔矢イイ男に撮れてるなぁ。皆が言うからなんだーどんなにスゴイのかと思ったら、オレ全然普通じゃん』
(――普通って何!?普通って〜!)
その場に居た全員が、彼の美的感覚に驚異を感じずにはいられなかった、衝撃的な一幕であった。
平安の天才棋士の彼の人は雅やかな美しい麗人で、そんな彼と四六時中一緒に居たお陰で、ヒカルは無自覚ながら大層な面食い
だった。それもアキラのような凛々しい和風美形が一番の好みときている。ヒカルの美的基準は並と比べてもかなり厳しい。
そんな厳しい批評家の目とは裏腹に、一般的な感覚の人々には宣伝効果の高い若手美形棋士を集めたポスターカレンダーは売れ
行きも上々である。アキラとヒカルなど若手の台頭や様々な改革などで、囲碁界の歴史はこの頃から大きくうねり始めていた。
ポスターカレンダーに登場した若手棋士達が、後の囲碁界での群雄割拠時代を築くことともなる。
後世の囲碁関係者には、『不動の竜虎』と『星の群雄割拠』時代の到来の過渡期であったと、語られている。
アキラは指導碁を殆ど終え、少し疲れた横顔をさらして窓辺で休んでいた。
囲碁部の部室は校舎の中庭にも面していることもあり、景色はそう悪くない。窓際に一人佇んで、アキラはぼんやりと中庭を眺めて
いた。時折入ってくる風が黒い髪を揺らし、どことなく物憂げな表情をしているアキラの頬を撫でた。
古風な感じのする髪型のアキラだが、彼自身が持つ落ち着いた日本的な和の雰囲気にとても似合い、他の髪型など想像もつかな
い。漆黒の絹糸のように艶やかな直毛の髪質も、若武者のようなアキラにしっくりくる。
女子部員の殆どがアキラを遠巻きに見詰めて、うっとりとしていた。
アキラは顔一つにおいても、一般の男など比べものにならないほどランクが高い。それに加えて、天下無敵の貴公子の微笑、気品
すら漂う柔らかな物腰、穏やかで理知的な口調、少年期の高さを微妙に残しつつも少し低めの甘い声、すらりとした細身の体躯。
成長過程でまだ多少は低めとはいえ女性よりも上背は高く、しかも既に収入も高額になりつつあるらしい。しかし、それはあくまでも
世間から見た評価に過ぎないことを、彼女らや一般の囲碁関係者は知らないのだ。
アキラは確かに評価通りの外面を持っているが、その内面には凄まじい執着心と悋気、激しい気性がある。
彼の全てを知っている者はただ一人だけ。そして塔矢アキラという人物が世間一般の当たり障りのない、上辺だけを見た通りの存在
でないと知る者は、決して多くはない。
その数少ない者の一人である、囲碁部の女子部員がアキラに声をかけてきた。
「お久しぶりね、塔矢」
アキラは中庭を見るともなく見ていた視線を、声の主である中学囲碁部時代の先輩であった日高由梨に移す。
「はい、お久しぶりです。日高先輩」
海王囲碁部時代は日高よりも低かった背も、ここ三年ほどの間にいつのまにか追い越していたようで、気がつくと日高と話す時は目
線が少し下になっていた。それでも相変わらず日高の態度は高飛車なままで、そこが何だか彼女らしくて微笑ましい。
そんな思いが自然と表れたのか、営業用でない笑顔を日高に向けていた。アキラの柔らかな笑顔を見た日高は、内心感嘆した。
(ちょっとの間に……すごいイイ男になったわね……)
今年の盆前にアキラが指導碁に来た時よりも、一皮も二皮も剥けて雰囲気が良くなっている。
男としての余裕ができたのか、更に大人びた貫禄もついてきて、しかも綺麗にまでなっている。
恋の成就というものは、ここまで変化をもたらすものなのだ。アキラは元から顔立ちも綺麗で女性的な趣すらある方だが、最近では
男らしさが加わって、女の日高から見ても嫌味なほどの美形ぶりである。
自分の後背がイイ男になるのはとても嬉しいが、女としては、彼のような男性が既に一人の人物のモノであるのは非常に残念だと思
わざるを得ない。尤も、、それは相手にもよる。
相手がさる特定の人物である限りは、日高にとっては何よりも楽しい娯楽なのだ。
これが日高が認めている相手以外だったら、ちっとも面白くない。アキラの恋人がさる人物だからこそ、日高は納得しているのだ。
アキラが想い人と既に出来上がっている情報も掴んでいるので、彼の変化も彼女にも十分頷ける。
彼らの関係を眺めるという新たな楽しみを見つけた今、アキラの指導碁はまさに絶好の機会だった。指導碁が忙しいようで中々話が
できる状況にならなかったが、終わってしまえばこっちのものである。
「八月下旬にあった夏祭り、塔矢も行ったでしょ?」
「――え?あ、はい……」
前置きなしのいきなりの質問にアキラは一瞬固まって眼を丸くしたものの、日高の確信のこもった態度に、下手な誤魔化しはせず
に素直に頷いた。アキラが夏祭りに行ったのは事実なのだから。
「私ね、あんたが青い浴衣の子と一緒に歩いているのを見たの」
「……そうなんですか…」
平然とした顔でさらりと答えたアキラを眺めて、日高は内心舌打した。
これが二年ほど前なら事態は大きく変わり、アキラはさぞや焦ったに違いないのに。
既に目的の人物を手に入れただけに、アキラには心理的な余裕があるらしい。
二年前、日高は同じ夏祭りでアキラと仲良く手を繋いで、夜店を回る人物を見たのだ。二人は初々しい雰囲気がとても可愛らしくい
い感じで、彼らは付き合っているに違いないと密かに確信していたのだ。
そして二年後の今年、日高は再びアキラと青い浴衣の人物が一緒に夏祭りを堪能する姿を見かけたのである。
背格好は少し変わっていたが、明らかに二年前にアキラと夏祭りに来ていた相手と同一人物だった。以前よりも親密度が増した感
のある二人は、傍目から眺めても暑苦しくなるくらいに仲睦まじかった。