COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)   日向Ⅱ日向Ⅱ日向Ⅱ日向Ⅱ日向Ⅱ
 折角の土曜日の昼下がり。ぽかぽか陽気で外で遊ぶのにはもってこいの天気だというのに、ついていない。 
 ヒカルは内心そう思いながら、和谷に渡された紙を見て、今日何度目になるのか分からない溜息をついた。
 
 今回のプロ試験に一緒に合格を決めた和谷に呼ばれて来てみれば、プロになったら回ってくる仕事の一つ、記録係について
 
延々と教わることになったのである。
 
 和谷が善意で教えてくれているのは分かっているのだが、如何せんヒカルはこういったものを覚えるのが得意ではない。二時
 
間以上説明を聞いていたにも関わらず、殆ど理解できずにいた。和谷はそんなヒカルを半ば呆れ顔で見やったが、何気なく腕
 
時計を確認した途端、慌てた様子で手早く自分の荷物を片付け始める。
 
「わ…和谷…?」
 
「悪いな進藤!オレこれから約束あるんだ。やべぇ!遅刻しちまうよ~」
 
 ヒカルの疑問の視線に気付いて一息にまくし立てると、ワタワタと忙しなく席から立ち上がった。
 
「とにかく、プロになったらこういう仕事もしなきゃならないこともあるんだから、覚えとけよ!」
 
 和谷は後姿で片手を軽く挨拶代わりに上げ、泡を食って店をバタバタ走りながら出て行く。一人残されたヒカルは、和谷の勢
 
いについていけずに茫然とその場に座ったままだった。
 
 しばらく固まったままでいたヒカルだったが、やがて我に返り、眼の前に置かれた記録係の仕事としてつける一枚の棋譜を見
 
て嫌そうに眉根を寄せる。この棋譜は普段見る棋譜とはまるで違って、一手にかける時間や合計などを記したもので、ヒカルに
 
とってかなりややこしい代物だった。
 
 こんなもの、自分が覚えられるわけがない。自慢にもならないが、ヒカルは棋譜を覚えるのは得意だが、学校の勉強だとかに
 
関しては、殆ど記憶力が働かないある意味便利な頭脳の持ち主なのだ。
 
 呼び出してきたくせに、さっさと帰ってしまった和谷を恨みがましく思いつつ、大きな溜息をつく。
 
 プロ棋士の仕事は対局や指導碁だけだと思っていたのに、まさか記録係という難儀な仕事も回ってくる可能性もあるとは、考
 
えもしなかった。正直言って、こんな仕事なんてしたくない。やっぱり棋士は対局してこそだと思うし、ヒカルは秒読みや記録係
 
の仕事よりも、強い対局者と打ちたい気持ちが強い。中でも一番戦いたい相手は、塔矢アキラだ。プロ試験を合格した今、来年
 
の春になればヒカルはアキラと同じ舞台に立つことになるのだから。
 
(佐為、オレ塔矢とはいつ当たるんだろうな)
 
――………
 
 ヒカルはすぐ横に座る囲碁幽霊に話しかけるが、彼はどことなく沈んだ顔で物思いに耽っているようで、返事はなかった。
 
(……ちぇっ!)
 
 ヒカルは頬を膨らませると、傍に女子高生の団体が座ったので、静かな窓際に席を移動する。後ろを振り返れば佐為は無言
 
のままついてきて、ヒカルが座った隣に腰を下ろした。
 
 和谷が出て行った時点で、本当はヒカルも店を出て行こうかとも思ったのである。しかしさっき買ったばかりのジュースも飲み
 
終えていなかったし、もうしばらく居座る事に決めたのだ。それにこのややこしい棋譜のおさらいもしておいた方が良さそうだと、
 
思い直したのもあった。
 
「はぁ~」
 
 見れば見るほど溜息の出る記録係の仕事に、情けない気分に一層の拍車がかかってくる。そのまま見慣れない棋譜から眼
 
を逸らし、頬をひんやりとしたテーブルに押し付けて、人の流れる外の風景を見るとはなしに見詰めた。
 
 幸いな事に、この窓際の席の周囲には観葉植物の生垣が出来ていて、一人ぼんやりとしているヒカルは殆ど隔離されている
 
ような状態になっている。周囲のざわめきもさほど気にならず、人の眼にも晒されない、フーァストフード店にしては静かで落ち
 
着ける場所だった。
 
 どれくらいそうしていたのか、ふと気がついて眼を何度も瞬く。どうやら少し眠りかけてしまったらしい。瞼を擦ろうとして、視界
 
の隅に見知った顔が入った気がして、頭を上げて慌てて窓の外に眼を凝らした。道路を挟んだ向いの通りを颯爽と歩く人影。
 
 ついさっきまで打ちたい相手だと和谷に連呼していた塔矢アキラ本人だった。
 
 自分に用があってそこを通っているのではないとは分かっていたのだが、無意識のうちに眼が彼を追ってしまう。そんなヒカル
 
の視線に、アキラは気付いた様子もない。
 
 気付くはずもないだろう。向かいの通りにある店に居る他人の存在など、誰も意識をしたりしないのだから。
 
 アキラの存在に唐突に心が掻き乱されて、無理やり彼から眼を引き剥がした。そのままアキラを最初から見なかったとみなし
 
て、眼前のややこしい棋譜とのにらめっこを再開することにする。どうして自分がそんな風に意地になるのか分からないのだが、
 
答えが分からないのだから考えようがない。
 
 無理に別のことを考えないと、アキラを見つけても会えたことにはならなかった事実に、余計不貞腐れてしまう。本当は覚えた
 
くもない仕事だが、いざしろと言われてできないのも格好悪い。そう口実をつけて無理やり棋譜を見ないと、またアキラを見てし
 
まいそうだった。しかし嫌な事というのは中々集中できないもので、見慣れない棋譜を見ていると程なく睡魔が襲ってくる。
 
 先程の眠気もとれていなかったこともあり、いつの間にかヒカルは机と腕を枕にとろとろとまどろみ始めていた。
 
 そんなヒカルを佐為はぼんやりと眺める。見詰めてはいたけれど、実際にはヒカルの姿は眼には映っていなかった。自身の思
 
考の中に没頭していて、窓辺でうたた寝をしてしまっているヒカルの様子にも気付かない。
 
――ヒカルは気付いていないけれど、塔矢もまたヒカルを望んでいる。この世界で棋士達が待つのは私ではなくヒカル。つなが
 
っているのはヒカルだけなのだ。あの対局から塔矢は私を追ってきたけれど、求めているのは紛れもなくヒカル…
 
 自分との出会いにより碁に目覚めたヒカル。アキラとの出会いにより、真剣に囲碁に取り組み彼を追いながら成長を続け、ヒカ
 
ルは棋士として立つことになった。自分と打った為に大きな挫折を知り、大きく成長していくアキラ。囲碁部の大会でヒカルと打っ
 
たことにより、今度はヒカルを導くようにアキラは先を歩いている。
 
 佐為もまた、彼らとの出会いにより自らの力を更に高め、進化させている。まるで二人の棋士を、そしてより多くの棋士を導いて
 
いくように。自分の存在は、彼らをそうして引き合わせ、導く為にここに居合わせるているのかもしれない。
 
 無邪気なヒカルの寝顔に微かに笑みを浮かべたが、先刻のヒカルと和谷の会話が頭について離れなくてどうしても気になる。
 
 ヒカルが自分に碁を打たせる気がなくなったのではないかという不安。自分に時間ならたっぷりあると言い聞かせても、漠然
 
した不安はどんどん増してくる。ここ最近のヒカルの成長ぶりに、より一層それは強くなっていた。
 
――何故こんなにも焦燥にかられるのだろう…。まるで誰かに急かされているような……
 
 ふとした時に、不安と共に訪れる焦燥感。それが一体何なのか、今の佐為には答えを出す術はなかった。
 

 暖かくて気持ちよくて、ヒカルは幸せを噛み締めていた。その夢の中で遠慮がちに窓を叩く微かな音が聞こえて、誘われるよう
 
に瞳を向けると、そこにはアキラが立って自分を見下ろしている。アキラはぼんやりと見上げるヒカルと眼が合うとにっこり笑い、
 
黒髪をさらりと揺らして立ち去った。
 
(あれ?塔矢……?)
 
 何で塔矢が居たんだろう?とヒカルは纏まらない思考の中で考える。夢だというのに、自分が見たものが夢か幻かも分からな
 
いまま、深い眠りの中へとヒカルは惰性的に落ちていった。
 
 それから数分後、ヒカルが眠るテーブルに一人の人物が現れた。椅子をカタンと小さな音を立てて引くが、ヒカルはまるで起き
 
る気配がない。気持ち良さそうに、窓辺の暖かな日向で微かな寝息を立てて眠ったままだ。投げ出されたヒカルの手を気にした
 
風もなく、店のロゴが大きく描かれたカップをテーブルに置き、その人物は音もなくするりと向かい側の席に腰を下ろす。
 
 テーブルを挟んだ自分のすぐ前の席に誰かが座ったというのに、ヒカルの眠りが乱されることはなかった。規則正しい寝息が、
 
静かに空気の中に溶け込んでいく。ちょっとやそっとのことでは起きないぐらいに、熟睡してしまっているらしい。
 
 そんな彼に微かに苦笑して、真向かいに当然のように腰を落ち着けた人物はのんびりと飲み物に口をつける。しかし、彼はそれ
 
を飲んだ途端に何とも言い難いものを味わったように、形のいい眉を顰め、小さく呻いた。
 
「……不味い…」
 
 塔矢アキラの放った台詞は、店員が聞けば決して良い顔をするものではない。しかしそれがアキラの正直なまでの感想だった。
 
 はっきり言って、これがコーヒーと呼ばれるものなのかと思うと、この飲み物を開発した古代の人々に対する冒涜だとすら、アキ
 
ラは感じる。不味い、不味過ぎる。こんなものコーヒーと呼ぶのもおこがましい。
 
 眉間に縦皺を刻んだままもう一口飲んで、口元を歪める。とてもではないがこれ以上飲んでいられなくて、アキラは見るのも嫌
 
だとばかりにカップを遠ざけるように自分の傍から離した。
 
 ヒカルが眼を覚ますまでの時間潰しに、詰碁集を読みながらコーヒーでも飲もうと思ったのに、ものの見事に当てが外れてしま
 
った。まさかこんな不味いコーヒーに遭遇するとは思わなかったのである。
 
 まだ口の中であのどうしようもなく不味い物体の味が残っていて、何とも不快極まりない。だからといって、他の何かを口につけ
 
ようにも、この店ではどれも似たようなものであることは窺い知れる。どうしたものかと思っていると、ヒカルが飲んでいたらしいカ
 
ップが眼に入った。持ち上げるとかなり重く、半分以上は残っているようだ。
 
 アキラにとっては軽い口直しのつもりで、ヒカルのカップに口をつけてみる。間接キスのことなど頭に思い浮かびもせず、コーヒ
 
ーよりマシならそれでいい、という安直な考えで実行したのが浅はかだった。
 
「…甘……」
 
 不味いコーヒーと甲乙つけ難いほど、アキラの味覚と合わない代物を飲んでしまった結果に、悔恨を滲ませて苦々しげに呟く。
 
 炭酸系の甘い飲物はヒカルは好むのだが、アキラにはどうしても受け付けられないものだ。先ほどのコーヒーの残滓と炭酸系
 
の甘さが混ざり合い、気が狂いそうなほど気色が悪い。どうしてくれようこのチェーン店、と八つ当たり気味に物騒な思考にすら
 
陥りそうになったところで、ミネラルウォーターを注文する声が耳に入った。
 
 アキラにとってそれはまさに天の啓示であり、救いの神の声であったに違いない。彼は飲みかけのコーヒーを躊躇無く捨てて
 
しまうと、ミネラルウォーターをすぐさま手に入れて戻る。これで落ち着いてヒカルが起きるまで待っていられそうだった。
 
 だがしかし、口中の不快感を全て洗い流して本を開いたものの、眼はどうしても詰碁集よりも眠るヒカルに向かってしまう。太陽
 
の光に反射する金と黒の混じった髪、白く細い指先、微かな吐息を零すあどけない寝顔。それらに眼が吸い寄せられ、詰碁を解
 
くどころではない。アキラは少しも集中できない本を閉じてしまい、頬杖をついてヒカルの姿を食い入るように見つめた。
 
 アキラがヒカルを見つけたのは偶然だった。通りを歩きながら何となく向かいの店に眼をやり、窓辺で居眠りをするヒカルを見か
 
けたのだ。通りの向かい側からでも、アキラははっきりとヒカルの姿をとらえることができた。ことヒカルに関しては、アキラの視力
 
は普段とは比べものにならないほどよくなる傾向がある。
 
 通りの向かいなんて生易しい方で、小さな米粒大ぐらいにしか見えないほど離れていても、彼はヒカルをその他大勢から瞬時に
 
見分けられるのだ。ただし視野は恐ろしく狭く、ヒカル以外の存在は全て視界の外に放り出され、認識すらされない。
 
 アキラ自身はその事実に全く気付いていなかったが。
 
 ヒカルを見つけると同時に、アキラは近くの信号を渡って窓際に寄り、彼の顔を覗き込んでみた。恐らくまだ夢現の状態だったの
 
だろう。瞼は殆ど閉じられていたが、視線を感じたのか焦点の合わない瞳がうっすらと開いた。アキラはそんなヒカルの意識を自分
 
に向けようと窓を軽く叩いてみる。あわよくば起きてくれればいいとも思っていた。
 
 ヒカルの眼は音に反応して、アキラを捉える。大きな砂色の瞳が一瞬だが明確な意思の力を宿して自分を見詰めた満足感にア
 
キラは微笑むと、ヒカルの元へ向かうべく店の扉をくぐったのだった。
 
 そして今、こうして彼の寝顔を眺めている。あどけなく幼い寝顔だ。大きな砂色の瞳は緩く閉じられ、淡く色づいた唇はうっすらと
 
開いて寝息を零している。無防備で、警戒心の欠片もなく、安心しきったように眠っていた。アキラはそんなヒカルを見詰めながら、
 
何の気なしに手を伸ばして投げ出された腕を取り、指先に触れてみる。
 
 碁石を摘むようになった爪は磨り減り、少し堅くなっている。――碁打の手だった。
 
 初めてヒカルと出会い、二度目の対局で触れた手の感触とはまるで違う。あの手はまるで碁石に触ったことのない手だったが、
 
今はすっかり碁を打つ者の手に変わっていた。アキラの眼の前に、ヒカルは明確に存在を示し始めているように感じられる。もうす
 
ぐヒカル自身と打つことができる――彼の手からはそれが伝わってくるようだった。
 
 指先を無意識に撫でていると、暖かい体温が伝わってくる。それに唐突に、ヒカルに触れているのだという意識が芽生えて、アキ
 
ラは頬に朱を散らして手を離した。心臓の鼓動がヒカルの耳に入って眼を覚ますのではないかと思えるほど、激しく脈打っている。
 
 自分でもどうしてこんな行動をとってしまったのか分からない。眠る相手の手を握って撫でるだなんて不埒な行為だと分かってい
 
るのに、どうにも名残惜しくて、自ら離しておきながらも、アキラは再びヒカルに腕を伸ばしていた。
 
 今度は手ではなく髪にそっと触れてみる。想像したとおりに柔らかな髪だった。人差指で金色の前髪を巻くと、掴みどころのない
 
彼自身のようにするりと擦り抜けてしまう。軽く撫でると日差しの中で不思議と温かい感じがして、妙にくすぐったい。
 
(……ひよこみたいだな…)
 
 金色と黒の頭は一見すると虎という印象もあるというのに、寝息はまるでピヨピヨと鳴く小さなひよこを連想させるのが可笑しくて、
 
ついつい口元が緩んだ。
 
 柔らかな髪を指先で摘んだり、掬ったりしながら、頬杖をついてヒカルの顔を食い入るように見詰め、今度は頬に手を移す。滑ら
 
かな肌触りと体温に不思議なほど安心した。整った鼻梁をなぞり、色づいた唇を指先でそっと撫でてみる。途端に脈が激しく打ち
 
始め、指で触れるだけでなく別の方法で触れたくなって、慌てて頭を振って思考を散らした。
 
(何を考えてるんだろうボクは…進藤は男だっていうのに……)
 
 大きく嘆息しながらも、そのまま自然に閉じられた瞼を撫で、意外にも長い睫毛に指先で触れる。
 
 すると、微かにヒカルの睫毛が震え、アキラの指に呼応するようにうっすらと砂色の瞳が開いた。