「…う…ん……」
「おはよう、進藤」
「あー…はよ……」
(……へ?)
かけられた声に無意識に返事をして、ヒカルは奇妙な事に気付いた。ぼんやりとした視界に入る風景は自分の部屋ではない
し、自分に朝の挨拶をした声も本来ここに居るはずのない人物のものである。ここはファーストフード店で、アキラがこんな場所
に居合わせるなんてまず有り得ない話だ。
「…起きた?進藤」
堂々巡りの思考の中でぐるぐる考えていると、再び彼の声が聞こえてくる。
「と……塔矢…?」
まさかそこに座っているとは予想外で内心ひどく驚き、咄嗟に頭を上げられずに息を詰めて硬直する。何故か急に心臓の鼓動
が高鳴り始めたのを訝しく思いながら、今更のようにゆっくりと瞳を上げると、塔矢アキラがさも当り前のように平然と座っていた。
『平然』というのは実際は大いに違う。眠っているヒカルに触れていた後ろめたさもあってかなり動揺していたのだが、ヒカルの
前では常に格好よくありたいというアキラなりのポーズであったのだが、それにヒカルが気付かなかっただけのことだ。
こんな心理が働いている時点で、アキラは自分の想いを自覚しても良さそうなものだが、彼は全くそれにすら気付いていない。
自分の気持ちに鈍いだけでなく、妙なところでへそ曲がりで頑固な男なのだった。
「久しぶりだね」
これ以上にないほど素晴らしく上機嫌な笑顔で笑いかけてくるアキラを見詰め、ヒカルは失礼なことに『こいつ何かおかしなもの
食ったんじゃねぇだろうな』と考えてしまう。アキラを怒らせた記憶が印象に残っているだけに、記憶の中のアキラは怒っていたり
気難しい顔をしていることが多い。
しかしよくよく考えれば、夏祭りに一緒に行った時や、図書館で英語を教えてくれた時や、写真のモデルをさせられた時も、アキ
ラは笑顔を見せてくれた。多分、怒った顔よりも見ていると思う。
「どうかしたの?」
アキラはじっと自分を見詰めるヒカルに、僅かに小首を傾げて微笑みかけてきた。その笑顔に知らずに見惚れてしまい、ヒカル
は視線を逸らして慌てて言い繕う。
「あっ…いや……何でねぇよ」
「そう」
何かいいことでもあったのか、にこにこ笑って頷く姿は機嫌がいいというより、浮かれているといった方が良さそうな感じだ。
アキラが浮つくほど喜ぶなんて、余程嬉しい出来事があったに違いない。
「おまえ、何かいいことあったのか?えらく機嫌いいけど」
「そうかな?いつもと変わりないと思うけど」
「あーえー…そっか…」
どこから見ても普段とは明らかに違うように見えるのだが、本人が気付いていないのだから無理に認めさせるのも何だか気が
引けるので、ヒカルはそれ以上これについては追求しなかった。
実は、ヒカルと会って話すという行為だけで、アキラは上機嫌になって浮かれているのだが、本人には全く自覚はない。反対に
ヒカルに会えないと機嫌が悪いという反応も、一部の人々にはバレバレであった。それをネタにアキラをからかう物好きな人もや
はり居るわけなのだが、アキラはからかわれていることは分かっても肝心のネタには眼を向ける余裕がない。
そういったこともあって、他人にとっては彼の機嫌に左右されて傍迷惑に感じていたのもしばしばだった。特に迷惑を被っている
のが、彼と対戦する大多数の棋士である。
ヒカルがプロ試験の最中、全く会えない状態であっただけに、アキラの機嫌は地を這っていた。これまでも決してご機嫌麗しい
こともなく、むしろ気になって仕方がない存在のヒカルに、会いたくても会えずにいたので、上辺はともかく内心はかなり斜めに向
いていたのは確かだ。だがプロ試験の最中はそれを更に強まっていた。偶然の再会から、心を奪われているヒカルと楽しく夏祭り
に一緒に行ったりして、二人きりの時間を満喫した後だっただけに、余計に不機嫌だったのである。
それの憂さ晴らしをする勢いで八つ当たりのように徹底的に叩かれ、追い込みをかけられた多くの対局者にとって、この期間は
まさに地獄の様相を呈していたといっても過言ではない。逃げ道を悉く防ぎ、取り囲んで袋叩きにする、というような恐ろしい真似
をされては、堪ったものではなかった。
捩じ伏せられた上で勝利をもぎ取られ、力の差を感じて自信喪失をした者は、二度とアキラと対戦したくないと心底思ったもの
である。そういうこともあってか、アキラは順当に勝ち進んで20連勝も達成していた。
元の実力に加えてヒカルへの執念も入った数字であったので、一部はヒカルのお陰ともいえるかもしれない。
「ところでさ、塔矢。おまえ学校帰りなんだろ?こんなとこに寄ってていいの?」
ヒカルに指摘されてみて、自分がいつもとはまるで違う行動をしていることに気がついた。学校の帰りだというのに、ファーストフ
ード店に立ち寄るだなんて、今までしたことなんてない。
「確かに学校帰りに寄るのは初めてかな。でも碁会所には普段から行っているし、問題はないと思うよ」
「クソ真面目なくせに、相変わらずヘンなとこでいい加減だな、おまえ」
「臨機応変だと言ってくれ」
ストローに口をつけながら、いけしゃあしゃあと答えるアキラに「しょうがねぇなぁ」と呆れ混じりに呟いたものの、ヒカルはついつ
い笑ってしまう。こういうところが何だかアキラらしく思えるのだ。それにしても、ヒカルの通う葉瀬中は土曜日の今日は休みなの
に、海王中は休みではないのだろうか。私立と公立とでは、そういったところがやはり変わってくるのかもしれない。
「なあなあ、海王中って土曜は休みじゃねぇの?」
「いつもは休みだけど、今日は模試があったんだよ」
「げろ~模試かよ……」
「模試は進路に重大だから、海王中じゃ休みは厳禁なんだ。ボクも例外なく」
アキラは軽く肩を竦めると、どことなく不服そうに息を吐いた。
「塔矢、進学するの?確かにおまえなら高校も行けそうだもんな」
アキラが模試に行ったことと『進学』という単語を使ったことが、ヒカルは意外に思えて首を傾げる。
「その口ぶりだと、キミは進学する気はないみたいだね」
「オレ勉強嫌いだもん」
唇を尖らせて言い切ると、落ち着かない仕草でストローでカップの中身を掻き回した。模試を受けるということは、アキラは進学
するつもりなのだろうか?そう思うと、久し振り会えて嬉しかったというのに、急に気分が塞がってくる。何故だか、アキラが進学す
ることが嬉しく感じられない。ヒカルとの時間を削られてしまいそうで、面白くなかった。
今まででも大してアキラと会っているわけでもないし、むしろ会っていないことの方が多いだろう。それなのに、彼が自分を置い
て遠くに行ってしまうような気がして嫌だった。
「囲碁も一生勉強だよ?」
アキラはそんなヒカルの様子にも気付かず、不思議そうに尋ねる。勉強という点においては、学生時代よりも囲碁の方がずっと
長く、それこそ死ぬまで勉強を続け精進を重ねていかなければならない。一時的な学校の勉強よりも遥かにハードなのだ。
「学校の勉強と囲碁の勉強は別なの!プロ試験に受かったら進学しないって決めてたし」
ヒカルにもアキラの言わんとしていることが察せられているが、ついついムキになって反論してしまう。
「ボクもプロとして活動しているからには、囲碁一本に絞りたいのが本音だ。学校の先生が進学を推してくるから、模試も受けるこ
とになっちゃって……」
「おまえ頭いいもんな、進学させたい先生の気持ちも分かるかも。ちなみに塔矢の成績ってどこら辺?」
「学内だと大体10位以内かな?」
「……進学しねぇの勿体ないよな、それじゃ」
自分と違ってアキラはとても頭がいい。進学を勧める学校の先生の気持ちも分かるのだが、ヒカルにはそれがひどく不快だった。
アキラが悪いわけでもないのに、話し方も嫌味な感じになってしまい、自分自身が嫌になってくる。けれど、アキラはヒカルの口調
に関してさほど気にしていないようで、さらりと穿った見識を述べた。
「ボクの友人の二人は必ず5位以内に入っているけど、先生には進学の話は訊かれたことがないんだって。多分、囲碁のプロが系
列の海王高校に通ったら外聞がいいから進学させたいだけなんじゃないかと思うよ」
「冷めた見方だな、オイ」
中学生という年齢とは裏腹な、ひどく冷徹な見解にヒカルの方が驚く。
「そんなものだよ、学校経営なんて。どのみち進学するつもりはないけど」
「なんだ、進学しないの?」
ヒカル自身、不思議なほどホッとしながらストローをかき回していた手を止め、改めてアキラを見やった。
「しないよ。ただでさえ対局も増えてきて、学校に行く時間も削っているのに」
「勝ちすぎなんだよ、おまえ」
「打つからには勝とうとするのは当然だ。キミも最初から負けるつもりで打つわけじゃないだろう?」
「あ、当り前じゃねぇか!」
アキラが改めて進学しないと答えたことが嬉しくて軽口がうっかり零れてしまったが、それを聞きとがめて大真面目に返され、ヒカ
ルは慌てる。ちょっと冗談で言ったことでもアキラがすぐに本気でとらえるところは相変わらずだ。こうやって棋士の世界に足を踏
み入れ、あの時の自分の台詞がいかに考えなしなものだったか分かるだけに、迂闊な事も言えなくて焦ってしまう。
「ボクも同じだよ。負けた碁からも学ぶ事が多いのは分かっているけど、負けたくないからね、誰にも」
(特にキミには一番負けたくない)
アキラは想いを声には出さずに、鋭さの増した瞳を隠すようにそっと瞼を伏せる。
ヒカルと打ったのは3回だ。2回は碁会所で、3度目は大会で海王中だった。この中で一番印象に残っているのは、初めて会った時
のものでも、2度目に一刀両断にされた時のものでもなく、3度目の失望させられた大会の時のものである。
どうしてだか、アレが一番気になって仕方がない。失望させられ、裏切られたとすら思った一局。
あの一局がアキラの中で強く根付いているのだ。思い出すと不思議な高揚感が訪れる。雛が殻をコツコツと叩いて孵ろうとしている
のを、傍で見ているような…そんな錯覚に陥りそうになる。
ヒカルと打ちたい。今の彼の実力を知りたい。それと同時に、あの時の失望を再び味わうかもしれないと思うと怖くなる。
また失望したくない。希望を失いたくない。あの喪失感を再び味わいたくない。
幻を見ただけだった、と感じたあの頃の自分。本当にそうだったのだろうか?大事な何かを見落としてはいなかったか?
ヒカルとの出会いが全ての始まり。彼との初めての対局が最初のきっかけ。2度目の対局が引き金。3度目の対局で宿命の歯車が
回り始めた。あの一手から…奇妙な一手。突然崩れ始めた一手が終わりのない道への導き手。
それまでにない何かがあの手にはあった。アキラが考えもしなかったあの一手が歯車を動かしたのだ。
見つけたと思った。自分と切磋琢磨し合える好敵手を。生涯のライバルを。玉石混交の中からたった一つの輝ける石を。
けれど、本当の意味でアキラはまだヒカルを見つけることができていない気がする。こうして彼と話しても、まだどこか不安が残る。
いつになれば、アキラは『進藤ヒカル』と対峙できる日がくるのだろうか。
「おい、塔矢?どうしたんだよ、ぼんやりして」
「あ…ごめん。少し考え事をして…」
「おまえ試験とかでくたびれてるんじゃねぇの?」
「平気だよ。それより進藤。さっきからキミが大事そうに持っているそれは何なの?」
アキラはヒカルが握ってくしゃくしゃにしてしまっている紙を差して、小さく笑って尋ねた。
「うわ~皺になってるよ。あちゃー」
ヒカルはすっかりヨレヨレになっている棋譜を広げ、丁寧に皺を伸ばしながらアキラの顔を覗き込む。
「なあ塔矢。おまえ記録係とか秒読みとかしたことある?」
「記録係?…そういえばプロに成り立ての頃に一度だけしたな。秒読みは経験がないよ」
本当に最初の頃に一度して以来、今ではまるでその手の仕事は回ってこない。実際対局の数も増えてきて、とてもできる状況では
なくなってきている。指導碁も断る事が多いほどで、越智の所に行ったのは、はっきり言ってしまえば特例だ。ヒカルの最終戦の相手
が越智でなければ、恐らく指導碁に行くこともなかっただろう。
アキラが形振り構わず動く時は、大抵ヒカル絡みだ。ヒカルに関わりがあると思えば必死になるが、それ以外のことだとすぐにどう
でもよくなってしまう。本当に厄介だと自分でも思うのだが、改められないのが現状だった。
何故ヒカルのことになるとこんなにも必死になるのか、自分でもよく分からない。ただ実力が気になるだけだと自分に言い聞かせて
も、最近ではそれにも自信がなくなってきている。心の有様がどこにあるのか、アキラ自身にも理解できずに混乱するばかりだった。
ヒカルと一緒に過ごすとこの混乱が収まり、ただ彼だけを瞳に映せる。今はそれだけで充分な答えのような気がした。
「それは記録係の棋譜だね」
「うん」
「キミは覚えられるのか?」
言ってから失言だと思ったが、もう遅い。言ってしまった言葉を引っ込めることはできないのだから。怒って帰ったりしないかとアキラ
は内心冷汗を流しながら、ヒカルの顔をこっそりと窺うが、彼は反対に悪戯っぽくにやりと笑った。
「おまえ、オレがこんな事できると思うわけ?」
「……無理だな」
「だろう?そう思うよな?けど覚えなきゃいけないんだってさー。こういう仕事が回ってくるから」
「ボクには来ないけど」
「おまえは対局で忙しいからだろ?だからこないんだよ」
「ならキミも勝っていけばいいだけの話だ。対局が忙しければ自然と煩わしい仕事は来なくなるよ」
平然と言い切るアキラを、ヒカルはまじまじと見詰める。大人しそうな外見をしているというのに、この台詞はどうだろう。何とも鼻持ち
ならないもので、彼の傲慢ともいえる性格の片鱗を垣間見た気がした。確かに、アキラは外面は柔和で品が良くて大人しいが、中身
はとんでもなく激情家で不遜で頑固で強引だ。よくもまあ、周囲の大人を上手く騙しているものである。
優しいところもあるのだけれど、厳しい方が目立つのでそんな風に見えないのも難点のような気がした。
「……おまえってマジでイイ性格してるよな。どっから来るかね、その自信」
「キミもいい加減自信家じゃないか。それも根拠のない」
「ム、何だと?」
「キミと初めて対局した時……キミは正真正銘、初対局という話だったけど、自分は強いと言い切ったよね。それとも、あれにはちゃん
とした根拠があったのか?」
「あ…あれは…その………」
「別に無理に答えろとは言わないよ。キミの謎については対局ができたら、そのうちじっくりと聞かせて貰うつもりでいるから」
アキラはわざわざ『じっくり』という言葉を強調すると、ヒカルの瞳を真剣な鋭い眼で射抜いてきっぱりと言い切った。
(ひぇぇぇ~)
対局したいと和谷に盛んに語っていたのだが、早まったような気がする。いくらなんでも、最初の2回はとり憑いていた幽霊が打って
いました、なんて答えられるわけがない。
「ふざけるな!」とまた怒鳴られたりしないように、今のうちに何とか誤魔化す方法を考えておいた方が良さそうだった。