プロローグ
夜の帳の下りた闇の中、『彼』はゆっくりと愛しい者の胸元から顔を上げた。周囲はしんと静まり返り、開け放った窓辺でカーテンがさわさわと風で揺れる
以外は、何の気配もない。
煌々と照る月の光を受けて、部屋は深い海に沈んだように青く染まっている。長くのびた影が、床に奇妙な幾何学文様を作り上げていた。
『彼』が周囲を見回すと、瞳に宇宙の光が移るように宿って、夜の闇の中で鮮やかに輝く。どこか猫科の動物を思わせるように。
星の瞬きが窓から垣間見え、そのすぐ真下には銀河が流れていた。
夜の景色を、まるで鏡のように湖面は映し出し、さながらそこにはもう一つの宇宙が存在して、別の世界を作っているように見える。
宇宙の中に彼らが二人きりで存在しているとすら、錯覚しそうだ。
『彼』は小さく欠伸をすると、すぐ隣で眠る恋人を見下ろした。
数時間前の激しい情交もあってか、恋人はまだ寝息をたてている。
枕に絹糸のような黒髪を散らして微動だにせず寝る姿も相俟って、青白い月明かりに照らし出されたその横顔は、眠り姫のように美しい。
やっと手に入れられた、愛しい恋人。
待って、待って、待ち続けて、やっと自分だけのものにできたのだ。
本来『彼』にとっては数千年などさしたる時間ではない。だが、待つ時間はいかに『彼』といえども長く感じるほどだった。
そっと恋人の頬を撫でると、温かく滑らかな肌の感触と同時に、命の鼓動が伝わってくる。
『彼』の命との繋がりは完全に行われ、誰にも断ち切られはしない。
愛しい人が『彼』の元から去る日は二度と、永遠に来ない。
悠久の歳月の流れに恋人が耐え切れずに解放を望んだとしても、手離すつもりは毛頭ない。
どのみち、『彼』が傍に居れば愛しい人は満足する。
最高級の誘惑者である『彼』の魅惑の力に逆らえる存在はないのだから。どんな者でも惑溺させる魅力が『彼』にはある。
既に身も心も恋人は『彼』だけのものだ。
『彼』は嫣然と微笑み、愛しい人の唇に自分のそれを重ね合わせた。
もしも、終りがくるとすれば、自らの命が尽きる時である。
いつか命が尽きるなら、その時は全ての世界が消えるだろう。『彼』の存在なしに世界は成り立てないのだから。
けれど、その日は来ない、来るはずもない。
『彼』は世界の理、自然そのものであり、世界を統べる者。
この世に万物を生み出した創造者であると同時に、破壊者でもある。
『彼』にとってこの世界は飽きれば捨てるだけのものに過ぎない。
何百、何千、何万と存在する世界は、いつもどこかが消えては生み出されている。『彼』にはそれすらも瑣末な出来事に過ぎなかった。
『世界の王』にとって、宇宙の消滅と創造は当り前のことだ。
人智の及ばぬ神々と魔の存在すらも、さしたる事象ではなかった。
この世に神と悪魔をも作り出した『世界の王』は、善でも悪でもない完全な中立者である。双方の言い分など最初から聞き入れない。
ほんの僅かですら意識を傾けない。
それらは『世界の王』にとって、関心を及ぼすほどの事柄ではない。
僅かな興味すら持たなくなれば、消去するだけのものだった。
人間がノートに書いた文字をあっさりと消してしまうように。
創造主である『世界の王』は無限の愛を持つが、常に無関心なのだから。そしてその無限の愛は、たった一人の相手にしか注がれない。
『彼』の関心事は恋人に関することだけである。
横たわる恋人の額に掌をのせ、彼の内に秘められたある特殊な能力に直接触れてみる。力の胎動は感じられるが、まだ完全な目覚めには至っていない
ようだった。普通の人間では決して持ち得ない恐るべき力は、これまでに幾度となく生まれ変わってきた彼が、常に持っている能力である。
魂そのものが持っている特異な才能だ。
ただの人間には何の役にも立たなくとも、『彼』の伴侶にとっては、これほど必要な力はない。
『彼』以外にその力を持っているのは、恋人のみである。
その事実がどれほど特異であるのか、自覚していないのは本人だけだ。気づかぬまま力を内に秘して、今も眠っている。
転生してきた彼は、これまでの記憶を断片的に取り戻したものの、大切な力の存在はまだ思い出してもいない。
自分が何かの才能を持っていたと分かっていても、それが『何』かまるで気づくことができていないようだった。
それも仕方ないだろう。彼にある過去の記憶はとても曖昧で、恋人との逢瀬が中心となっていることもあり、彼自身が持つ力についての記憶は殆どないに
等しいのだ。けれど、記憶はなくてもその才能は彼の中に確かにある。
遠い過去に世界の理から様々な術を編み出した、稀代の天才にとって、それらの術はあくまでも彼本来の能力を補佐するためだけのもの。
彼の才能が開花して使いこなされてこそ、生かされる。
無意識に封印した扉の鍵を持つのは、自分自身だけだ。
『彼』がその力に目覚めさせるのも一つの方法だが、あくまでもそれは最後の手段である。自ら扉を開け、使いこなしてもらわなければ。
恋人のためにも、そろそろ力が覚醒してもいい頃合だろう。
自由に力を使える方が、愛しい人にとっても動きやすいに違いない。
多少荒療治になるかもしれないが、それは仕方のないことだ。
自分自身の力は自ら起こさなければ意味がない。
再び胸元に頬を摺り寄せ、胸の鼓動に耳を傾ける。
命の繋がりを何度も確かめながら『彼』は瞳を閉じた。
愛しい人と共に過ごすこと。
それが『彼』の唯一の幸せであり、全てだった。








