Ⅰ   誘惑者


 人生とは、常に様々な誘惑との戦いの日々であるのかもしれない。
 
 若干十六歳の塔矢アキラ少年は若さに対して不釣合いな、妙に老成して達観した考えを脳裏に浮かべて、ふと溜息を吐いた。
 
 日本人形の若武者めいた凛とした美貌をしているアキラが、物憂げな溜息をついていると一服の絵画のような趣がある。
 
 さらりとした黒髪は艶やかな光沢を放ち、姿勢よく真っ直ぐに立っている姿は、日本的な潔さを感じさせる。だが、アキラ自身の思考は先ほどから迷いや誘惑
 
との戦いを余儀なくされている。
 
 今日も今日とて、アキラは悩める修行僧のように眉間に縦皺を刻んで、誘惑者との攻防を慮って年齢とは不似合なことを考えていた。
 
 彼がこのように老成した思考に至った経緯は、日々の生活にあった。
 
 アキラには、毎日のように彼を誘惑してくる相手がすぐ傍に居る。
 
 とにかくこの相手は手強い。悉くアキラのツボを鷲掴みにする方法を使って、彼を魅惑的に誘ってくる。
 
 自分の傍から片時も離れないよう、アキラを留めておくために。
 
 アキラ自身もまた、本心ではその相手の傍から離れたくないと思っているものだから、余計に始末が悪い。
 
 愛しいと想う相手だからこそ、自分もまた片時も離れたくない。
 
 好きで愛しいと想っているからこそ、離れる時間は辛い。それは彼も同じで、引き止めてくる恋人の気持ちは痛いほど分かる。
 
 何をおいても優先したい恋人から、傍に居て欲しいというアピールを盛んに貰えるのは、まさに男冥利に尽きる幸せだ。
 
 万人に訪れることのない幸せに頭を悩ませているだけ贅沢なことである。だがそれ故に、アキラにも誘惑にのってしまいたいという願望がふんだんにある。
 
 だから困るのだ。誘惑に負けたくても負けるわけにはいかない事情があるからこそ、アキラにとって毎日の生活は誘惑者との戦いの日々だった。
 
 そして、今もまた彼の眼の前には、超絶的に可愛い仕草で誘惑してくる相手が平然と摺り寄ってきていた。アキラの足に頭を擦りつけ、しなやかな尻尾をゆら
 
ゆらと揺らしている一匹の動物――虎である。
 
 並の感覚なら、成獣になった虎にくっつかれて可愛いと感じることは滅多にない。むしろ襲われやしないかと怯えるだろう。
 
 足元に纏わりついている虎がもし猫ならば、猫好きな者にとっては堪らないほど愛らしいと思うに違いない。
 
 しかしながら、構ってくれと言わんばかりの仕草で頭を擦りつけ、ごろごろと喉を鳴らしているのは立派な体躯をもつ虎だった。
 
 猫科の動物の中でも獰猛さと強さ、大きさにおいても百獣の王と呼ばれる獅子と比肩する存在であり、東洋においては虎こそが百獣の王である。
 
 そんな猛獣が少年と一緒に居るのだ。
 
 体格においても、恐らく立ち上がればアキラよりも身体は大きいに違いない。勿論それだけでもなく、力や敏捷性においても人間とは比べものにならないほど、
 
圧倒的な力の差がある。これだけ近くに居ると、襲われた時は逃げる暇もなく攻撃に晒され、ひとたまりもない。
 
 大きな身体を支える四肢は太く、しなやかな筋肉に覆われている。
 
 その気になって腕を振れば、鋭い爪が人間の身体を易々と引き裂き、体重ののった力で弾き飛ばされ、あっさり薙ぎ払われるだろう。
 
 けれどアキラは全く危機感を覚えている様子もなく、虎の眼の前で登校するために制服へと着替えを続けている。
 
 バルコニーに面した大きな窓からは朝の光が入って室内を明るく照らし出し、外からは鳥のさえずりが聞こえてくる。時折、爽やかな秋の風がレースのカーテン
 
を揺らして、室内に緑に染まった新鮮な空気を送り込んできていた。朝の風景としては決して珍しい部類に入るものではない。
 
 広い室内にはベッドと衣装箪笥、パソコンや勉強机などが据えられ、豪華だが歳相応の作りといえる。ただ一つ奇異なのは、ベッドが豪勢なキングサイズのダ
 
ブルベッドという点のみだけだ。たかだか十六歳の少年が一人で寝るには広すぎるベッドである。
 
 アキラの傍から虎が先ほどからずっと離れずに張り付いたままでいるのも、部屋の風景とそぐわない。
 
 アキラの太股にさりげなく尻尾をくっつけているこの虎はまだ若い雄で、人間の年齢に換算するならば、恐らくは十五歳から十七歳。
 
 若さゆえに多少小柄といっても、身体は成獣と同等の大きさだ。
 
 バランスのとれたしなやかな肉体を持ち、黄金と黒の縞模様を描く滑らかな毛並みは実に美しい光沢を放っている。
 
 金色がかった砂色の瞳には動物とは思えないような知性の輝きが宿り、気品すら感じるほどに澄んでいた。
 
 それでいて威風堂々とした野性的な貫禄を醸し出し、まさに密林の王者と呼ばれるに相応しい気風に満ちていて、ただ飼育されているだけの虎には持ち得
 
ない威厳がある。野性的でいて綺麗な虎だが、アキラに盛んに擦り寄る姿は愛嬌があって、猫じみた仕草は確かに可愛らしかった。
 
 頭をこすり付けてくる虎の顎を少し屈んで撫でてやりながら、アキラは器用に上着のボタンを留めていく。彼にしてみると、虎を構いながら制服に着替えるの
 
は既に慣れっこだった。白を貴重とした制服に虎の毛がつくとか、汚れるといった余計な遠慮は一切しない。そんな事を気にしていたら、この虎は聡くそれに気
 
づいてより一層アキラに身体をくっつけてきたり、地面に倒してもう一度着替えさせるくらいのことはやりかねない。
 
 それはもう悪戯ではなく、確信犯としてあからさまにやっているとしか思えない所業だ。――というよりも、明らかにわざとである。
 
 アキラの可愛い虎は、とんでもなく高い知性を持っているから、この程度の意趣返しめいた悪戯をしかけるなど朝飯前なのだから。
 
 虎が少し離れた頃合を見計らってズボンを素早く穿きかえる。そのままの流れから鞄をとろうとして、くらりと眩暈を覚えた。
 
 何だって猫科の動物は、自分が手に持とうとしているものや、読もうとしている本や新聞などの上で寝転がるのだろうか。
 
 この虎も例に漏れず、アキラの学校鞄の上にでんと寝転がっている。
 
 離れたのも、きっとこうするのが目的だったに違いない。
 
「はあぁー……」
 
 思わず零れたのは盛大な溜息だった。疲れからくるものではないが、人間は時折如何ともし難い感情の潮流の中で溜息を吐く時がある。
 
 アキラの目の前では、行動を読んで先回りした虎が厚かましく学校鞄の上に寝そべっていた。前脚や胴体を舌で舐めて毛づくろいをしながら、すっかりご機
 
嫌でお寛ぎの体勢である。
 
 顔を前脚で洗って気持ち良さそうにしているその下では、鞄が毛皮に埋もれているだけでなく、押し潰されてぺったんこになっている。
 
 教科書とノートにも体重の負荷はかかるだろうが、紙類は影響があってもたかだかしれている。ただ、ペンケースは潰れていそうだ。
 
 今更だが、昔のCMにあった象が乗っても潰れない、という謳い文句のペンケースが欲しかったと思わずにいられない。
 
 しかしながら、彼は怒る気にはなれなかった。何故なら、虎の仕草が愛らしくて堪らなかったから。鞄の上に大きな身体を載せ、これは自分のものだと言わ
 
んばかりに上でころり、ころりと寝返りをうっては身を擦り付けている姿を見て、反対にどうしようもない愛しさで頭が一杯になる。
 
(か……可愛い…!)
 
 心で思わず大声で叫んでしまうくらいに、虎は可愛かった。
 
 猫が飼い主の前で、構って欲しいと腹を晒してころころと転がる姿を髣髴させるその様子は、虎とは思えないほど愛嬌たっぷりである。
 
 柔らかそうな白い腹を撫でたくなる衝動を堪えるだけでも、大変な忍耐を要する。足元に擦り寄ってきている時も、本当は顎や頭を撫でたりするだけでなく、
 
抱き締めて構い倒したくて堪らない。
 
 思わずアキラは握り拳をぐっと作り、虎の超絶的な愛らしさから逃れようとするように顔を背け、唇を噛み締めた。
 
(くぅっ!可愛すぎる!何で登校しようとする直前に限って、こんなにもツボをつく攻撃をしかけてくるんだっ!)
 
 アキラのツボを理解している虎ならではの愛らしい仕草には、飼主心(飼っているわけではないが)を擽る誘惑がたっぷりと満ちている。
 
 アキラと時々大きな眼を合わせて、行くなと訴えかけるように見上げてくるのも、これまたいじらしくてツボなのだ。
 
 学校に行くよりも虎を撫でたり遊んだりして可愛がって、思う存分構い倒したい!という誘惑にぐらぐらしながらも、アキラは自分を落ち着かせるように深呼
 
吸をした。だが、そうそう誘惑に敗北する訳にはいかない。
 
 今日は一限目に模擬テストがあるのだ。遅刻はさすがにまずい。
 
 アキラは虎に近づいて、鞄へと手を伸ばす。しかし敵もさるもの、意図を見抜いてころんと寝返りをして巨体の下に鞄を隠してしまう。
 
 それでも何とかこの攻撃を凌いで、一瞬早く鞄の持ち手を掴んだ。
 
 残念ながら虎の体重に阻まれて中々鞄は出せないが、勢いよく引っ張れば抜き出すことは不可能ではない。しかし、虎は甘くなかった。
 
 跪いたアキラの膝に頭を摺り寄せ、甘えるようにくっつくという新たな技を繰り出してきたのだ。柔らかな毛並みが手に触れ、温かな体温が直に伝わってくる。
 
 こんな事をされると決心が揺らぎそうだ。
 
 呼吸のたびに緩やかに起伏する、無防備に晒された真っ白な腹を撫でたくなりそうで、アキラは鞄を握る手に力を込めた。
 
(ここで負けるわけには……!)
 
 必死に誘惑と戦いながら、虎の下から鞄をじりじりと引っ張り出す。
 
 虎はその間もアキラの手に頭を寄せたり、前脚を引っ掛けたりして、盛んに引きとめようとしていた。
 
 苛烈な攻撃に果敢に抵抗しながら、アキラは鞄を虎から取り戻すと、なるべく目線を合わせないように顔を逸らして立ち上がる。
 
 そしてそのままの勢いで踵を返した。
 
 背後で寂しげに鼻を鳴らし、小さく虎の鳴いた声が聞こえたが、聞こえないフリをする。ここで振り返ってしまうと、全てが水の泡だ。
 
 きっと虎は、金色がかった砂色のつぶらな瞳をうるうると潤ませて、アキラをじっと上目遣いに見上げているに違いない。
 
 想像するだけでいじらしさが可愛くて堪らないのに、現物を見て踏み止まれる自信は殆どないと言いきれる。一瞬でも早くこの部屋から出なければ、アキラ
 
に勝算はない。心を鬼にして、鞄を抱えて歩き出そうとした。
 
 だがしかし、歩き出そうと一歩足を踏み出したところで、何かに足を取られて動かすことができない。思わずアキラは振り返ってしまった。そして後ろを見る
 
のではなかったと、心の底から後悔した。
 
 振り返ったアキラの眼に映ったのは、前脚でアキラの足を引っ掛けて、大きな眼で自分を見詰めてくる虎だった。
 
 四肢を絨毯に長々と横たえて、前脚の肉球を足の甲と足首に軽く添え、小首を傾げるようにして見上げてきていた。
 
 自分を射抜くような視線が、行くなと訴えかけている。
 
 爪で傷つけないようにアキラの足を引っ掛け、離すまいとするように身体ごと擦り寄って甘えてくる。
 
 できることなら、その場で地団太を踏み、或いは机をばしばしと叩いて悶絶しそうになるくらい、虎の仕草は可愛かった。
 
 何もかも放り出したくなるほど、凶悪的に愛らしい姿であった。
 
(どうしよう…可愛い…)
 
 心で滂沱と涙を流して一人ごちる。正直言って、鞄なんぞ放り出して虎を抱き締め、柔らかな毛並に頬を摺り寄せたくて堪らない。
 
  ここまでくると、立派な飼主バカの思考に陥るアキラだった。
 
(ダメだっ!耐えろ!)
 
 美しい黒髪を乱すほどに激しく頭を振って、必死に自分を押さえる。
 
 ギリギリで強靭な意志の力で何とか踏みとどまると、大きく深呼吸し、睨むような視線で虎を一瞥するや否や、大声で叫んだ。
 
「ごめん!進藤!いってきます!」
 
 眼を瞑って悲鳴のような声で告げると同時に踵を返し、虎の一瞬の隙をついて部屋の外へと駆け出した。
 
 こんな場合でもアキラの礼儀正しさは変わらないようで、ちゃんと出かける挨拶をするあたり、育ちのよさが窺える。
 
 虎は挨拶よりも、アキラに負けじと追いかけようと立ち上がった。
 
 だがほんの鼻先で扉は閉じられて、逃げるように廊下を走り去る足音が反響して部屋の中にまで響いてくる。
 
 扉が閉まった直後は諦め悪く扉のノブに前脚を伸ばした虎であったが、すぐに思い直したのか脚を引っ込めた。
 
 扉の前にちょこんと座って喉を後脚で軽く掻き、足を舐めて毛づくろいをしている様子からして、諦めたらしい。
 
 その間も物凄い勢いで廊下を走る足音が遠のき、玄関の扉が派手な音を立てて閉まる。どうやらアキラは全速力で学校へ向かったらしい。
 
 やがて虎が残った室内では、チッと小さく舌打ちする音が零れた。
 
「塔矢の奴…またオレのこと放ったらかして行きやがった…」
 
 つい先ほどまで虎が居た場所には、何故か全裸の少年が胡坐をかいて座り込み、膝に腕を立てて不貞腐れたように頬杖をついていた。
 
 むくれた顔でアキラの出て行った扉を睨みつけ、不満げに鼻を鳴らしながら、ぶつぶつと文句を言い続けている。
 
 バランスのとれた肢体は完璧に整い、健康的な美しさに満ちていた。前髪は金色で、それ以外の髪は黒という少し変わった髪形は、どことなく虎を思い出
 
させる。大きな砂色の瞳に宿る輝きは不可思議でいて神秘的な色合いを湛えていた。
 
 ふっくらとした桜色の唇は、リップグロスを塗っているわけでもないのに艶光り、愛らしさの中にどこかしら妖艶な艶かしさをも醸し出して、とてつもなく魅惑
 
的だった。寛いだ様子で扉の前に座っている姿は、ついさっきの虎とひどく似通っている。まるでこの部屋の主のような趣すらある。
 
だがしかし、儚げな雰囲気を身に纏いながらも芯の通った強さを感じさせるその少年は、紛れもなく人間だった。
 


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