ヒカルを自転車に乗せて、アキラが自宅に戻った時、既に10時半を過ぎていた。 
 夏祭りが終わってからヒカルの祖父の家に寄って荷物を受け取り、帰路に着いたので、これぐらいの時刻になるのは当然
 
といえば当然だ。花火大会の最中に神社の本殿でヒカルと打ってアキラの家で検討をする約束をしたまでは、いつもの展開
 
だった。しかし、その後にちょっとした諍いの果てに告白、勢い余ってヒカルに手を出してしまいそうになったのには、如何に
 
アキラでもヨミきれるものではない。
 
 さすがに途中で理性が戻り、屋外で行為に及ばなかったのは、自分にとってもヒカルにとっても良かったと思う。
 
 幸いな事にヒカルはアキラの想いを受け入れてくれた。だからこそ、今こうしてヒカルは普段通りにアキラの自室に足を踏
 
み入れている。それはそれで嬉しいものの、青い浴衣姿に似合わないリュックを部屋の隅に放り出して、早速のように碁盤を
 
出し検討しようと瞳をキラキラさせているのには、何か一抹の寂しさを感じずにはいられない。
 
 告白をして受け入れられ、ヒカルからも返事を貰えた。これ以上にないという最高の応えは、アキラにとって一生忘れられ
 
ない大切な宝である。だからこそ、あの言葉はアキラとヒカルの間だけの秘密だ。
 
 こうして互いに想いが通じあったばかりなら、もうちょっと甘やかな感じになってもいいような気がする。それなのに、このど
 
うしようもなく色気のない雰囲気は何なのだ。
 
 既にヒカルは碁盤を前に検討に入る体勢である。それは悪くない。検討に寄るように誘ったのはアキラだし、その時点では
 
何もやましいことは考えなかった。いや、全くこれっぽっちも考えなかったわけではないのだが。
 
 あの時はともかくとして、今は既にアキラもヒカルもお互いの気持ちに気付いている。ヒカルが泊まるとなると、自然にそう
 
いった雰囲気になってもおかしくない。実際、力強く相手を捩じ伏せる碁の通りに、想いのままにヒカルを抱き締めたかった。
 
 しかし、アキラは強引にヒカルに触れることはとてもできそうにない。そうするにも、アキラにとってヒカルは、余りにも大切で
 
愛しい存在に過ぎた。好き過ぎて触れられない事もあるのだと、アキラはこの時初めて思い知ったのである。
 
 神社で、勢いのままに任せて全て奪っていたら、今はどうなっていただろう。ヒカルはもしかしたらアキラから離れていたか
 
も知れない。身勝手な想いのままに突き進んでも、相手の心が伴わなければ意味はないのだ。
 
 それが分かっているから、今は触れられなくて臍を咬んでも、自分が間違っていたとは思っていない。
 
 とはいえ、アキラも健康な若い男だ。好きな相手を前に大人しく我慢できる自信もない。だが、どうもヒカルにはそんな考え
 
は少しもないようだった。ヒカルらしいといえばらしくて、アキラは内心肩を竦める。
 
 ヒカルが碁盤を出してきた時点で、半ば以上、今はこれでいいと達観した心境に陥ると、妙に吹っ切れた気分になった。
 
「進藤、こんな時間だし、検討が終わったらすぐに眠れるようにボクはお風呂に行くけど……キミはどうする?」
 
「オレはいいや。さっきじいちゃんとこでシャワー浴びたから」
 
 ヒカルは慣れた仕草で石を盤上に並べていきながら、アキラを見上げて答える。
 
「……でもキミ……。浴衣のままだよね?」
 
 花火大会の時と変わらない、青い浴衣姿のヒカルをまじまじと眺めて、アキラは小首を傾げた。
 
「人様の御宅にお邪魔するのに、汚い格好で行くなって、ばあちゃんにまた着せられたんだよ」
 
「ああ、なるほど。ボクは普段のままでもいいと思うけど、やっぱりその年代の人は気になるんだろうね」
 
 アキラは碁会所で多くのお年寄りと接していることもあり、しかめっ面でヒカルに注意する彼女の姿が思い起こされて、苦
 
笑する。自分達の年代だと祖母の言葉に逆らってもおかしくないのだが、ヒカルは基本的に素直な性格なので、照れて面
 
倒くさがっても祖母の言う通りにしたようだ。
 
 澄んだ深い青の浴衣は、孔雀の羽を思わせる真っ白な花模様を裾や襟元に的確に配置した、凝った意匠のものである。
 
 男が着るにしては艶やかで清廉、女性が着るにしては華やかさが控えめなのだが、鬱金色の帯と相俟ってヒカルが着ると
 
不思議なほどに映え、際立つように綺麗だった。
 
 アキラとしては、ヒカルの浴衣姿を長く堪能できるので、浴衣で訪問するよう諭したヒカルの祖母に感謝したくなるほどであ
 
る。それほど、この浴衣はヒカルに似合っていた。
 
「じゃあ、ボクはお風呂に行くよ」
 
「んー」
 
 アキラは支度を整えている間に湯をはり、言葉通りに部屋を後にする。ヒカルはそれに生返事をしながら、一人で棋譜並べ
 
に没頭していた。碁盤を前にすると、ヒカルは持ち前の集中力で、どこか上の空で返事をすることが多い。こんな事で一々目
 
くじらをたてるアキラでもなく、むしろヒカルの集中を乱さないように静かに襖を閉めたのだった。
 

 アキラが風呂から上がり、白熱した検討も終えた頃には、時計の針は午前一時近くにまで進んでしまっていた。
 
 エアコンのきいた室内に自分の布団を敷くと、アキラは碁盤から離れずに打ち続けているヒカルに声をかける。
 
「進藤、キミの布団は客間に敷いてあるから、今夜はそっちで寝てくれないか」
 
「え?いつも通りここでいいじゃねぇか。何だよ、急に」
 
 どこかしら拗ねた顔で訊いてくるヒカルから微妙に視線を逸らすと、アキラは返す言葉に窮して押し黙った。
 
 さすがに、傍で寝られると手を出しそうで困るから、とは答えられない。
 
「オレがお前の傍で寝るのに、何か不都合でもあるのかよ?」
 
 アキラが答えないことに業を煮やし、ヒカルは更に畳みかける。今までもアキラの自室で布団を並べて寝ていたのに、急に
 
客間で寝ろと言われても、ヒカルにしてみれば困惑するばかりだ。アキラの立場としては「不都合だらけだ!」と叫べるものな
 
ら叫びたい。が、それはあくまでもアキラの事情である。
 
 理由はヒカルにも関係なくはないものの、普段の行動を捻じ曲げて自分勝手に決めたことだけに、納得させるようにうまく説
 
明するのもまた難しい。赤裸々に本心を語るには、覚悟も足りない上に気恥ずかしく、結局曖昧に頷くことしかできなかった。
 
「あの……キミがいいならボクは別に……」
 
 ヒカルは不審げに眉を顰め、検討直後から態度がおかしいアキラを見詰めて小さく嘆息する。
 
「オレはここで構わないぜ。おまえが嫌だってんなら客間で寝るけど?」
 
「そんな事はない!」
 
 激しく頭を振って否定してから、「しまった!」と思ってももう遅かった。ここで、実は風邪気味で…などと嘘バレバレの誤魔化
 
しをすれば多少はマシだったのに、馬鹿正直に本心のままに行動してはどうしようもない。素直なヒカルが相手なら、他人には
 
不審がられる嘘でもあっさりと頷いてくれる可能性があったというのに。
 
 とはいえ、ヒカルに無用な心配をかけるわけにもいかないので、こんな嘘をつかなくて済んだのは良かったのかもしれない。
 
 往生際悪く、今からでも何とかできないものかと考えてしまうのは、生来の諦めの悪い性格所以だろうが。
 
「その…都合が悪いとか、嫌ということもないんだが…。でも、あの…そういうわけにもいかなくて……」
 
「都合も悪くなけりゃ嫌でもないなら、敷いても問題ねぇじゃん」
 
 碁になると不遜できつい物言いと明晰かつ明確な言葉も、恋愛問題になると絡まって遠回りする傾向がアキラにはある。しど
 
ろもどろで言葉を繋ぎながら必死に思考を巡らせるアキラは、普段とは想像もつかないほど歯切れの悪い口調だった。それに
 
ヒカルは苛々したように立ち上がると、さっさと押入れに向かった。アキラはその行動を眺めて今度こそ諦めたような息を吐き、
 
浴衣姿で動きにくそうなヒカルから布団を取って隣に並べた。
 
 残暑で気温の高いこの時期だと、出す布団の数も少なく、準備を整えるのも早い。ヒカルが泊まる日と変わらぬいつもの状態
 
にあっさりとなってしまう。今までと違うのは、互いの想いに気付いている二人の関係だけだ。
 
 アキラは二つの布団が我が物顔で鎮座する畳を見下ろして、落ちつかなげに視線を彷徨わせた。こうして布団が並んでいる
 
と、普段と違ってひどく淫猥な光景に見えてくる。自分の気の持ち方次第だと頭は分かっていても、理性とは違ってヒカルに向
 
かう心は納得してくれない。
 
「進藤……本当にここで寝るの?」
 
 荷物の中から寝巻き代わりのシャツを出したヒカルは、改めて尋ねられてアキラを怪訝そうに見やった。
 
「当り前だろ。さっきからヘンだぞ、おまえ。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
 
「ボクとしては、その……やっぱりキミは別の部屋で寝た方がいいと思うんだ」
 
 いつもなら自分の思ったことはぽんぽん口に出すくせに、時折アキラは妙に口が重いことがある。それは決まって恋愛に関
 
することなのだが、常に鈍いヒカルは未だに気付いていない。だからこそ、訊き難いことも平然と尋ねられる。
 
「……?何でだよ?」
 
「何でって……つまり、えっと……同じ部屋だと歯止めがきかなくなりそうで………」
 
「はあ?」
 
「……続きがしたくなったら、その…マズイと思うし……」
 
「続き!?検討ならもうしたじゃん。こんな時間からもう一回するつもりかよ」
 
 ヒカルは胡乱げにアキラを見て、呆れきったように溜息を吐いた。自分には体調管理を徹底しろと怒鳴るくせに、おまえはそ
 
れか、この囲碁大好きっ子の囲碁馬鹿め、とヒカルの砂色の瞳は痛いほどに語っている。
 
 アキラにとって、ヒカルの視線はかなり厳しい。ここまで鈍いと物悲しさよりも脱力してしまう。
 
「……検討じゃなくて、別のことだよ…」
 
「は?おまえさっきから何が言いたいんだぁ?分かんねぇぞ」
 
「だから!神社でキミにキスした後のことをしたくなったら困るって言ってるんだ!」
 
 頬を紅潮させてヒカルから眼を逸らすと、アキラは一息にまくしたてる。
 
「神社?……後?……――あっ!」
 
 アキラの言葉を眉根を寄せながら反芻し、ヒカルは唐突に思い至って口元に手を当てると、首筋まで鮮やかな朱に染め上
 
げた。二人とも視線を合わせないままその場に立ち尽くして、気まずい沈黙が室内に満ちる。
 
 しばらく壁掛時計の針の音だけがこだましていたが、静寂を破って口を開いたのはヒカルだった。
 
「……塔矢、おまえさ……したいわけ…?」
 
「………………」
 
「黙ってないで答えろよ」
 
「……したいよ」
 
 観念したように大きく息を吐き、正直に頷いて自分の気持ちを吐露する。
 
「いいぜ」
 
「――は?」
 
 余りにも短いヒカルの言葉の意味を把握できずに、ひどく間の抜けた声をアキラは返した。切れ長の眼が大きく見開かれ、
 
ヒカルを茫然と見詰めてくる。そんな表情をするといつもよりも幼く年相応な感じが強くなって、何だか可愛らしい。
 
「したいんだろ、来いよ」
 
 戸惑って逡巡しているアキラのことなど委細構わず、ヒカルはアキラのパジャマの襟元を掴んで強引に引き寄せると、顔を
 
傾けて触れるだけのキスをする。
 
 アキラの想いに応え、言葉を伝えた時点でこうなる可能性は既に考えていたことだ。だから躊躇いはない。さすがに神社で
 
コトに及ばれそうになった時は焦ったが、殴って正気に戻す前に、初期の段階で我に返ってくれたから、それに関して責める
 
つもりも毛頭なかった。性に対する知識は極端に少なくても、ヒカルにも相手を求める気持ちはある。だからこそ、アキラの求
 
めてくる想いにも応えたい。
 
 ヒカルとてアキラに対して想いがないわけではない。むしろ、その想いは深く強いものだ。アキラにも負けないほどに。
 
 アキラと一緒にいられるなら、碁を打てるなら、それでいい。いや、彼が他の誰を愛しても、好きになっても、生きてくれてさ
 
えいてくたら、何も言うことはなかった。見返りが欲しいわけではない。自分を好きになって欲しいとも思わない。そんな贅沢
 
はヒカルには許されない。何よりも深い業を背負うヒカルには。
 
 それでも、ヒカルは本当は誰よりもアキラを求めている。かけがえのない棋聖を顧みずに貪欲に求め追いかけたほどに。
 
 後悔は死ぬほどした。自分の存在など消えてなくなればいいと、本気で思った。それができるならしてしまいたかった。
 
 探して、泣き喚き、拒み、慙愧の念に苦しみ懊悩して、やっと辿りついた答えを知り、受け入れた時、ヒカルは理解した。
 
 佐為の代わりに打つのではない。彼の力を、碁を受け継いだ者として、未来へと繋ぐ為に打つのだと。
 
 終わりなどない。神の一手へと、未来へと続く道に終わりはないのだ。アキラがヒカルに応えるように語ったように。
 
 アキラはヒカルを好きだという。ずっと一緒にいてくれると、共に歩むと言ってくれる。どんな存在よりも大切だと、あの真っ
 
直ぐな瞳で力強く想いを伝えてくる。こんなにも幸せで贅沢なことがあるだろうか。
 
 応えたくない筈がなかった。ヒカルにとってアキラは何物にも変えられない存在なのだから。
 
「………いいの?」
 
 唇を離すと同時に躊躇いがちに尋ねてくるアキラに、挑むような鋭い眼を向けた。
 
「オレが欲しいんだろ?」
 
「…あ、うん」
 
「じゃあ……いいぜ。次は言わねぇぞ」
 
「ああ」
 
 とてつもなく幸せそうに頷くと、アキラはヒカルを抱き寄せて羽根のように柔らかな口付けを落とす。
 
 徐々にキスを深くしていきながら、背に回した腕を動かして浴衣の帯を解いた。ヒカルの足元に鬱金色の固まりが輪を描
 
き、青い浴衣の裾が畳に小さな波を作る。折角の綺麗な浴衣姿だったのに、自分の手で崩してしまうのは何とも勿体無い
 
ものの、ヒカルの肌に少しでも多く触れたいと思ってしまう欲には勝てなかった。
 
「……灯り……消せ…」
 
「分かった…」
 
口付けの合間に切れ切れに要求するヒカルに応えて、電灯から伸びる紐を引っ張って灯りを落とした。
 



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