崑崙山脈では数年に一度、『崑崙山脈1週旅行』というイベントが行われる。
数年に一度、と確定していないのは、元始天尊が思いついた時にする為、年数の間隔など完全にバラバラになっているからだ。しかも、突然
3日前に開催を宣言されたりと、参加する側の準備やら心構えなど完全無視という、元始の我儘一杯の企画なのである。
この『崑崙山脈1週旅行』は、名前とは裏腹に常人では想像もつかない程超ハードなものだ。旅行とは名ばかりで、実際にはサバイバル戦で
ある。宝貝、術、何でも有りの骨肉の戦いを繰り広げ、目的地まで敵を倒しながら進んで行く、行軍戦なのだ。
因みに、崑崙に住んで百年以上の道士、仙人、崑崙12仙は強制参加である。一応は、百年以下でも任意参加は可能となっているが、百年に
も満たない道士では耐えられないと言われている。
その事で頭を悩ませている仙人が青峰山紫陽洞にいた。言わずと知れた、崑崙12仙が一人、清虚道徳真君である。彼が悩んでいるのは、現
在7歳の弟子、黄天化のことだった。彼の愛弟子は今回参加することになっているのだ。弟子は参加させないでおこうと道徳が考えていたにも
関わらず、現実は無情である。
3年前に一度、この企画があったのだが、道徳は天化が仙界入りして間もなかったこともあり参加したがる少年を宥めて、前回は一緒には連
れていかなかった。ところが今回、彼はどうしても弟子を連れて行かざるを得なくなってしまったのだ。
「師父、今年は俺っちもさんかしてもいいさね?」
報せを受けた弟子の期待に満ちた声に、道徳はいかにも申し訳なさそうに首を横に振った。
「悪いけどね、天化。お前はまだまだ小さいから無理だよ。今回も洞府でお留守番しておいてくれないか?」
「いやさ!俺っちついていくかんね!師父がなに言っても一緒にいくさーっ!」
地面に寝転がって足をじたばたさせ、我儘を言う天化を見下ろし、彼は心底困ったように肩を竦める。この年頃の子供は何をやっても、堪えよ
うがないぐらい可愛らしいそうだ。今でも足をばたつかせる天化の姿を認めると、思わずぎゅっと抱き締めて『いいよ』と言ってしまいそうになる。
こう感じるのは子供全体に対してかそれとも天化に対してだけなのか、天化以外に幼い弟子をとったことがないだけに、甚だ疑問に道徳は思う。
元々可愛くて仕方ないだけに弟子だけに、少しでも聞いてやりたかったが、こればっかりは無理なのだ。この旅行は、7歳の天化がついてこれ
るほど生易しいものではない。怪我をしてからでは遅いのである。
「駄目といったら駄目!お前ではまだまだ無理だ。身の程を知りなさい。いい加減にしないと怒るよ!?」
可哀想に思いながらも心を鬼にして厳しい声音でぴしゃりと言うと、不意に天化は黙り込んでしまった。さすがに言い過ぎたかと道徳は思い、
地べたに座って顔を俯かせている弟子の様子をこっそり窺う。天化は押し黙ったまま、顔を上げようともしない。
二人の間に、何とも言いようのない重苦しい沈黙が訪れる。だが、しばらくすると天化は口を開いた。
「師父は俺っちとの約束、やぶるつもりさね!?」
顔を上げた天化にギロリと睨みつけられ、道徳は柄にもなくうろたえた。何千年も生きているのに、彼はどういう訳か天化の怒りはひどく苦手
で、情けないことに機嫌が悪くなるとついつい下手に出てしまうのだ。
このままでは天化の怒りにつられて、ほいほい言うことを聞きかねない。道徳は内心の内心の動揺をひた隠し、素早く表情を威厳ある師匠へ
と作り変え、鋭い視線で射抜くと、天化は負けん気を奮い起こして睨み返してきた。
「し、しょうこだってあるさ。ちゃんとビデオテープにとってあるんだかんね!」
「馬鹿なことを言うんじゃないよ。あの頃4歳だったお前に、そんな事できる訳ないだろう。嘘をつくのなら、もう少し……」
ましな嘘をつけという台詞は、道徳の喉の奥に引っかかったまま出てはこなかった。彼は絶句して、その場に立ち尽くすことにこととなったから
である。道徳の眼前に、3年前の光景がまざまざと見せ付けられる。いつのまに用意したのか、テレビ画面にはくっきりはっきり彼が天化と指切
げんまんをしている姿が写っていた。
「さあ、これをどうせつめいするつもりさ。日付も時間もちゃんときろくされてるさね」
言い逃れのしようのない証拠を突きつけられ、道徳はぐうの音もでない。今度は道徳が石を呑んだように黙り込み、ただひたすら証拠を撮られ
るヘマをした自分を呪う。随分と時間が経ってから、彼はやっと声を出した。苦渋に満ちた声には、背筋が寒くなるような冷たさが含まれていた。
「一つ訊きたいんだがね……。これは誰が撮ったのかなぁ……?」
気味が悪くなるほど優しい言葉遣いに、天化の背中にぞわりと悪寒が走る。ゆっくりと時間をかけて顔を動かし、満面に笑みを湛えて、道徳は
本物の虎のように金色がかった瞳で少年を見詰めた。にこやかな笑顔がこれほど恐ろしい男も珍しいだろう。
「え…えと…あの……太乙さんさ…。師父ジジイだから、なんねんかしたら忘れてるだろうと思って、とっといてもらったさ……。しょうこになるし」
逃げ出すことも出来ないほど恐ろしい威圧感に、天化はビクビクしながら答える。先刻の威勢など道徳の怒りの前に消し飛んでしまっていた。
決して大柄ではないこの師匠の身体が、内から滲み出す気で驚くほどの巨体に見える。まさに獲物を食いちぎらんとする獰猛な虎そのものだ。
「フフフ………そう、太乙がねぇ……。ふ〜ん」
「あ……あの…師父/………?」
道徳の低い笑声に益々脅えて恐る恐る声をかける弟子に、彼は不気味な笑顔のまま頷いてみせる。
「いいよ、天化……。一緒に連れて行ってあげるよ?太乙には後でお礼をしないとなぁ・・・。可哀想だけどねぇ」
可哀想ってなにが!?とは怖くてとても天化には訊けなかった。例え自らの敗北を認めても、ただでは済まさない師匠の性格を見習うべきか、
それとも反面教師とするか、天化は悩むところだ。道徳は気持ちを切り替えるように息を一つ吐くと、いつも通りの顔に表面上だけ戻して、天化
に笑いかけた。瞳の色も、元通り黒に戻っている。彼は感情が高ぶったり、強力な術を唱える時など、眼の色が変わるという特徴があるのだ。
「そうと決まれば、商業はいつもより厳しくなるからね。覚悟しておきなさい」
そりゃないさーと情けない声を出す弟子を目線で黙らせ、道徳は旅行用に天化を鍛える計画を練り始めた。
あれから5日経ち、道徳の怒りは完全に収まっている。というのも、後日太乙に『火吹き饅頭』なるものを届けて報復したからだ。わさびや芥子、
唐辛子入りの特性激辛饅頭である。お陰で数日間太乙は水の傍を離れられなかったそうだ。悪戯大成功で、道徳は最近すこぶる機嫌がいい。
しかし、彼は完全に太乙が悪いと決めつけているが、第三者が撮らなければならなかった為に太乙が撮っただけで、発案し指示を出したのは
天化である。並みの年頃の子供よりも、天化は利発で聡明な少年だったからこそできたことなのだ。考えにようによっては将来が末恐ろしい。
道徳は余程のことがない限り、愛弟子に怒りの矛先を向けたりしない。そんな事をするぐらいなら、哀れな第三者に向ける男なのだ。彼にして
みれば、指図した天化よりも、素直に録画し片棒を担いだ太乙の方が悪いということになるらしい。罪を擦り付けられ責任転嫁の上に、報復を受
けた太乙にとっては迷惑極まりない話である。
「師父ただいまさぁ。はらへったー!メシ、メシ、メシ〜!」
天化の元気な声と共に抱きつかれ、道徳は途端に我に返った。立ち上がろうとしたものの、膝の上によじ登ってきた少年がちょんと座った為に、
すぐに元通り腰を降ろす。
「こら天化。そこに座ったら、御飯が作れないだろう?」
口調だけで叱って、苦笑しながら髪を梳いてやると、天化はへへっと笑って背伸びをし、道徳の頬にただいまの接吻を軽くした。道徳は微笑ん
で天化の額へお返しにお帰りの口付けを落とす。両親の代わりに行うようになったこの行為も、最近ではすっかり定着してしまっている。
天化は食事よりも道徳に甘える事を選んだようで、横座りしたまま腰に腕を回してきた。7歳の天化はまだ小柄で首には手が届かないのだろう。
身体をすり寄せてぴたりと密着させると、顔を上げて大きな碧の瞳を好奇心に輝かせ、道徳の顔を覗き込んできた。
「むずかしい顔して、なに考えてたさ?りょこうせんのこと?」
「いいや、天化は賢いなーと思っていたんだよ。まあ、旅行戦のこともちょっぴりね・・・・・・」
余り詮索されるとまだ何も考えていないことがばれるので、道徳ははぐらかすように応える。
「こないだのビデオテープのことかい?あたり前さ!俺っち師父の弟子だもん。これくらいとうぜんさ。師父ならもっとあくどい手思いつくっしょ?」
ニカッと笑う弟子の姿に、彼はがっくり肩を落とす。自分でも極悪非道な手を使うこともたま(?)にはあるが、まさかそれが弟子にまで伝染して
いるとは夢にも思わなかったのだ。しかも僅か1年にも満たない期間で。もうすぐ8歳の天化の将来が、ちょっぴり怖い道徳だった。
「いくら私でも、これ以上の手は思いつかないよ。人のことを鬼みたいに言わないでおくれ」
天化は心の中で鬼のくせにと呟いたが、何も言わずにおいた。彼は師匠の不興を買うような愚かな行為は極力避ける、賢明な少年なのである。
「さてと、食事の準備に取り掛かろうかね」
道徳は天化の頬を軽く啄ばんで床に下ろすと、気分を変えるように明るく笑った。爺臭い仕草でよっこらしょと立ち上がり、厨房へと歩き出す。
とにもかくにも腹ごしらえだ。腹が減っては戦はできぬ、である。