どこまでも続く青い海、燦々と輝く太陽、風に乗って運ばれてくる花の香り、それらは空港から一歩外に出た途端に感じること
ができ、自分が故郷から遠く離れた南の島に来たことを再確認させてくれた。
「うっわ〜!キレイさー!」
出口から少し歩くと見えた海岸線の青に目を奪われて、黄天化は歓声を上げる。
日本はまだ桜の季節も遥かに遠い時期なので、コートを着なければならないが、ここではそんな無粋なものは必要ない。短パン
からのびやかな足を惜し気もなく晒して、天化は落ち着きなくうろうろと散策した。
出掛ける前に、両親が『迷子になるな』『道徳に迷惑をかけるな』と口を酸っぱくして言っていたことも忘れ果ててしまってい
る。馬の耳に念仏だとか、馬耳東風という言葉がぴったり当てはまりそうだった。
しかし好奇心を一杯に湛えた大きな瞳を更に大きくして、物珍しげにあちらこちらに顔を覗かせる天化は、諺などどこかに消え
てしまいそうな程可愛らしく、太陽よりも輝いていた。
目鼻立ちの整った顔には真一文字の傷があるものの、それがアクセントとなって、気の強そうな外見を和らげ反対に愛嬌を感じ
させる。大きめのTシャツからだと身体の線ははっきりしないが、よく見ると若々しく張りのある胸元を想像させるように、服に
形がほんのりと浮き出していた。
そんな天化を放っておく男はいないだろう。数人の男がはしゃいでいる天化に近付こうと一歩を踏み出した瞬間、彼女は何かに
気付いたように、その場をぱたぱたと走り去ってしまった。
天化を手振りだけで呼び寄せた清虚道徳は、すらりと背が高く端正な顔立ちをした爽やかな雰囲気の青年だった。空港から出て
きた人々の殆どが、一旦は振り返ってしまうような偉丈夫ぶりである。だが本人はそんな視線にはほんの少しも気付かず、荷物を
レンタカーに詰め込んでいた。
やっと整理を終えて、トランクを閉めた彼は疲れたような溜息をつく。何せ天化が出発直前まで布団に包まって寝てた事と、荷
造りをしていなかった事とで朝はてんやわんやの大騒ぎだったのだ。
車の用意をして飼猫の玉麒麟を預けがてら隣の家へ行くと、天化の両親は困り果てた顔で寝ていると告げてくれたが、まだまだ
時間にも余裕があったので道徳は落着いていた。両親と道徳が泡を食ったのは、荷造りがまったく出来ていないという現実を目の
当りにした時である。
僅か一時間足らずで、本人抜きで海外旅行の荷造りをする羽目となったのだから。
起こしても起きない天化を当てにする暇は微塵も無かった。手ぶらで旅行に行かせる訳にはいかないので、用意だけ済ませて寝
ててもいいから本人も車に積んでしまえ、という事になったのだ。
二時間以上みていた時間はあっという間に残り一時間を切ってしまい、空港まで三十分かかるところを十五分で着かねばならな
くなった。初めて飛行機に乗る天化はあちこち見たがって少し眼を離すとどこかに行くし、朝食を食べられなかったのでちょっと
したことですぐ拗ねてしまう。
これで搭乗手続きやらを済ませて飛行機に間に合い、目的の南の島に着けたのは奇跡だった。
飛行機に乗って喜ぶ天化の相手と、朝の一件とで道徳は一日の体力を使い果たした気分である。
再び大きく息を吐くと同時に、腕に柔らかい感触が当たった。瞳を移すと、天化が花のような笑顔を満面に浮かべてしっかりと
腕を抱き締めている姿が眼に入った。
「コーチ!海が凄くキレイさ!」
「そうだな。とにかくホテルに行くから、海はその後な」
天化の頭をくしゃりと撫でて、助手席のドアを開けて中に入るよう促し、自分も運転席に乗り込む。シートベルトをしたのを確
認すると、天化がそっと手を握ってきて怖ず怖ず謝ってきた。
「ごめんなさいコーチ。俺っち寝坊しちまって……」
急に謝られて道徳は正直驚いたが、すぐに破顔して天化の髪を掬い上げ額に軽く口付けた。
「構わないよ。来れたんだから天化は気にしなくていい。とにかくホテルでゆっくりしよう?」
こくりと頷いた天化の笑顔を見ただけで、身体の疲れが随分取れた気がする。元気に走り回りながらも、自分の事を気にしてい
た天化が可愛くて、道徳は口が緩まるのを止める事ができなかった。
天化が道徳と出会ったのは四歳の時だが幼かったので殆ど覚えていない。道徳とは同じ道場の門下生だった。しかし時間がずれ
ていた為最初は挨拶程度しかしない関係で、親しくなり始めたのは、師範代として天化付きとなった道徳に稽古をつけて貰うよう
になってからである。まだ中学に入って間もない頃だった。
稽古でいきなり鮮やかに一本を取られてムキになり、倒してやるとつっかかってその度に負けて、いつのまにか道徳を師範では
なくコーチと呼んで慕うようになっていた。負けた悔しさよりも、道徳の強さと教え方の旨さの方が上まっていたのかも知れない。
天化自身人懐っこい性格であったのも確かだが。
親しくなるにつれ、家庭教師として来て貰うようになり、思い切って告白した時は中学三年生の時。
それから付き合いだしてもう三年以上になる。傍に居たくて道徳の経営するスポーツ用品店でバイトを始めたのは高校に入って
すぐで、気が付くと二年近くも続けていた。
来年になれば天化は三年生だ。大学にも進学するつもりでいるが、バイトを辞めるつもりはない。
成績も落ちてないし合格範疇に入っている。何よりも、もてる道徳の傍にいないと不安なのだ。
道徳は若干二十三才という年若い店長で、美形商店街の異名を誇る崑崙商店街の一店舗を構えるに相応しい格好良さだ。周囲の
視線には無頓着で本人は気付いていないが、道徳目当てに店に立ち寄る客はかなり多い。
天化の家のすぐ隣で一人暮らしをしている道徳とは家族ぐるみの付き合いで、親からもすっかり公認状態の上に、父親にまで、
『孫の顔は見たいがまだちょっと早いな』と冷やかされる始末だった。
この旅行に行くことになったのは、二ヶ月前に道徳が旅行優待券を手に入れたからである。道徳は日頃世話になっている黄家の
夫婦に渡したのだが、天化と行って欲しいと返されてしまったのだ。
『一緒に旅行なんて早過ぎます』との道徳の反論は、『親がいいと言ってるんだから行ってこい!』と一蹴されたのだった。正
に道徳の迫力負けであった。
店の経営もうまくいっているし、一週間程度休んだり、二人分の旅行代金を払ったところで道徳の懐は少しも痛まない。黄家の
夫婦の厚意に甘えて、道徳は天化と旅行に出掛けることにした。
たかだか一商店主の道徳が金に困っていない理由は株だ。何せ実家は旧家で財産家なのである。女性優位家系で家督や財産を継
ぐのは妹となってはいるものの、相続権を放棄した代わりに、成人祝いに株とその配当を渡された。それで祖父から譲られた用品
店を改装し、家を買い、気ままな一人暮らしを満喫している。
これだけだと道徳はただのオボッチャマのようだが、現実はそう甘くはなかった。彼の高校大学時代は、貧乏だったのである。
踏むと床が抜けそうな安アパートで一人暮らし、学費も生活費も小遣いも自らの手で稼がねばならなかった。実家からの援助は
一切無し。それが彼の家の方針だった。
数年とはいえ極貧生活をしていたお陰で、道徳の経済観念はかなりしっかりしていた。
余った金にもその後の配当にも一切手をつけず、地道に働いた収入で堅実な生活を行っている。尤も余りに身近でない数字は現
実感が無さ過ぎて敬遠していることも事実だ。どうせ使うならば、自分が汗水垂らして稼いだ金の方が使い易く、ささやかな贅沢
もできて道徳にとってはそれで十分なのである。そんな道徳だからこそ天化の両親も許してくれているのかも知れない。
ホテルはコテージ式で、塀で仕切った小さな家が一つ一つ建っていた。それでも日本の下手な一戸建てよりも広い。
天化はコテージに着くと、従業員と話す道徳をほったらかして早速内部を探検し始めた。
一階には吹き抜けのリビングとミニバー、キッチンと食堂、そして広めのシャワールーム。キッチンには冷蔵庫があり、そこに
はケーキが入っていた。他にも電子レンジや電気調理器など必要なものは全て揃い、材料さえあればいつでも料理できそうだ。
「冷蔵庫にサービスでケーキが入ってるからな。俺の分も食っていいぞ。テーブルの果物もな」
まるで自分の行動を見抜いたかのような道徳の言動に天化は内心焦る。慌てて後ろを振り返ったが道徳の姿はなく、代わりに二
階から足音がした。傍に居るようにはっきり聞こえたのは、吹き抜けのお陰らしい。
気を取り直して食堂のテーブルにある様々な果物の中からバナナを選び、食べながらシャワールームに戻る。外に続くドアを開
けてみるのを忘れていたのだ。外には小さなプールがあり、その横にはジャグジー。
(今夜早速入ってみるさ)
ウキウキした気分で今度は二階に探索範囲を広げる。二階には寝室が二つあり、一つは狭い部屋でシングル、もう一つはキング
サイズのダブルベッドの置かれた、二部屋分はありそうな広さの主寝室だった。
道徳はそのベッドに寝そべり、適当にテレビのチャンネルを変えていた。
「天化、下で靴からスリッパに履き替えたか?このコテージは一応土足厳禁だぞ」
「失礼さね。俺っちは一番最初に下駄箱開けて履き替えたさ」
「……なるほど。一番に眼についた所から開けて見た訳か」
図星を刺されて天化は黙り込む。確かに開けられる所は全て開けて、何があるのか見て回っているのだ。最初に見つけた下駄箱
を、開けない筈がないと道徳にはしっかりばれていた。
「とにかく履き替えてるんだったらいいよ。残りも回っておいで。それが終ったらメシにしよう」
どことなくしてやられて気分で納得いかなかったが、天化は寝室の奥のドアを開けてみる。そこはバスルームとシャワールーム
だった。そこで天化はトイレがどこにもなかった事に気付いた。
「コーチ、トイレがねぇさ」
「バスルームの反対側に一つあるだろ。一階のシャワールームの奥にもあるし」
何も見て回っていないように見えた道徳だったが、天化よりも細かくチェックしていたようだ。尤も道徳の場合は、ホテルの従
業員に案内されながら説明を聞いたのだからまあ当然ではある。
「もういい加減気が済んだろう?食いに行くぞ」
テレビを消して立ち上がった道徳に、天化は不満そうに頬をぷくっと膨らませた。
「コーチが作ってくれんじゃねぇの?」
「あのな、いくら俺でも食材がないと作れんぞ?冷蔵庫にゃ菓子しか入ってないのに……」
「俺っちはコーチの御飯食べたいさ。コーチは調理師免許だってもってるし作ってくれんだろ?」
「………今日は疲れてるから無理だな。明日か明後日に作ってやるよ」
呆れ混じりの吐息をつきながらも、本当は嬉しくて堪らない。ついつい緩んでしまう頬を引き締めながら、道徳は天化の髪を優
しく撫でてやる。
途端に甘えて擦り寄ってくる少女の身体を抱き締め、二人は仲良くコテージを後にした。