翌日はドライブとお土産の下調べと買物で午前中は潰れてしまい、午後からもスコールが降って結局コテージのプールでしか遊ぶこと
ができなかった。
むくれた天化に道徳が与えたものは、サービスのフルーツを使ってのフルーツサンドウィッチ。パンは市内をドライブした時に、デパ
ートで買い求めたものだ。勿論天化の機嫌は即座に回復した。そして今朝、道徳は市場とデパートで買った食材の残りで簡単な朝食を作
り、天化を起こしに行く。昨日も一昨日も天化の肌には触れていない。昼間はしゃぎ過ぎて天化がすぐに眠ってしまう事と、道徳も運転
や買物で夜になると疲れが出てそんな気力も湧かなかったからだ。
今日は1日ホテルのプライベートビーチで過ごすので、久々にのんびり出来そうな気がする。何せ初日から、体力の限界に挑戦するよ
うなハードスケジュールだったのだ。天化が迷子にならないようにしっかり手を握っていても、すぐに振りほどいてどこかに行ってしま
うし、姿を見失わないようにするだけで大変なのである。
プライベートビーチならホテルの泊り客だけなので、一般の海岸ほど人も多くないし見付けやすい。天化自身泳ぎたくてうずうずして
いるようだから丁度いいだろう。
朝食を食べ終ると早速海岸に出て、道徳はビーチパラソルの下にあるリクライニング式のデッキチェアを引き天化を座らせた。自分も
向かいの椅子に座り、タオルを渡す。
「なあコーチ。これ勝手に使っていいのさ?」
「構わないよ。ホテルに連絡して立てて貰ったんだから。パラソルに部屋の番号があるだろう?」
テーブルにサンオイルと日焼け止めを出すと、天化は日焼け止めを取って足や手に塗り始めた。道徳は何となく天化らしくないように
感じて首を傾げる。
「焼かないのか?天化なら絶対焼くと思ったんだがな……」
「だって真っ赤になって凄く痛いさ。それにひいたらすぐ元に戻るし」
そういえば天化と海に来たのは今回が始めてなのだと、道徳は今更ながら気が付いた。付合って三年にもなるというのに、これは間抜
けかも知れない。何せ二人で出掛けると遊園地や動物園、映画はアクション、後は道場で稽古をしたり試合を見に行ったりで、こういう
色気のありそうな場所に足を踏み入れたことすらなかったのだ。
それに夏は掻き入れ時で忙しいし、天化も合宿や田舎に行ったりで、二人でろくに出掛けた事がない。
だが天化はそれを不満だと言ったこともなければ、行きたいと言ったこともなかった。
「天化は夏休み中に俺と海とかに行きたいって言ったことがないよな?何で?」
「何でって……別に理由なんてないさ」
天化は道徳の言葉に少なからず動揺した。道徳はしつこく聞いてくるが、応えず口を濁してしまう。
とてもではないが恥ずかしくて、こんな事を本人に面と向かって言える筈がない。アルバイトとしてでも道徳の傍に居られただけで満足
で、海に行くという発想自体が思い浮かばなかった、だなんて。
「とにかくそんなのどうでもいいだろ!コーチはこれ塗るさ!」
照れ隠しにきつい口調で言うと、道徳はハイハイ女王様と肩を竦めて日焼け止めに手を伸ばす。
ちょんと触れただけで水着の肩紐をあっさり落とした。かなりしっかりした太い紐でも、コツ一つで簡単に落とせてしまう。天化と出
会うまでは結構遊び歩いていたので、こういったことはお手のものだったりする。
慌てて胸元を押さえ天化は抗議しようとしたが、濡れた手で肩を撫でられビクリと身を竦ませた。
肩の形をなぞるように手をゆっくりと動かし、背骨を辿って下ろしてゆく。天化の丸まった背中を余す所なく触れて、肌に指先を伝わ
せながら上へと移動した。
「…ん……ぁ……」
唇をかみ締めて声を我慢しているが、感じやすい天化にはこの程度の刺激でもきついのか、小刻みに背を震わせている。道徳は低く笑
って、掌全体で首筋を包むように触れてみた。
すっかり上気した頬が後ろからでも見える。きっと瞳は閉じて唇は引き結んでいるに違いない。
道徳の手の感触が首筋を緩やかに辿り、下りる時は悪戯のように鎖骨を撫でてきた。それだけでも声を上げそうになって必死に身体を
縮ませる。鎖骨から胸元を指先でするりとくすぐられ、何とか声を我慢した。
「や……ダメさ」
いつもと違ってクリームの滑りがぬるりとした感触で、余計に変な感じがする。道徳の手は決して肝心なところには触れず、素肌をさ
らしている部分だけを巧妙に撫でてきた。それが更にもどかしさを煽って熱くなる。
「……ハイ、おしまい。続きは今夜な?」
散々撫で回してからあっさり止めてしまうと、天化の耳に息を吹き入れ、腰が痺れるような低い声で甘く囁いた。
天化は瞳を微かに潤ませて、道徳をギロリと睨み付ける。道徳からすれば、そんなに色っぽい瞳で睨まれても少しも怖くない。むしろ
もっとイタズラしてやりたくなるほどだ。
「う〜!コーチのバカッ!!」
それが顔に出ていたのか、天化は真っ赤になってタオルを投げつけ、捨て台詞を残して波打ち際へと走り去ってしまう。
後に残された道徳は、顔にかかったタオルを首に巻き、声を殺して笑ったのだった。
昼食を終えても、天化は朝のことを根にもって膨れたままだった。食事を終えると道徳を荷物番にしてさっさと遊びに行き、もう随分
になる。そろそろおやつの時間だから戻ってくるだろうが、やはり心配だった。
道徳はサングラスをかけ、トランクスタイプの水着の上にヨットパーカーを着ていた。ヨットパーカーの前ははだけており、鍛えられ
無駄なく筋肉のついた鳩尾が見えている。店に出ている時はジャージやスノボウェアを着ているお陰ではっきりとは分かり難いのだが、
簡単な服装にすると細身だが引き締まった肉体が顕になった。
デッキチェアに寝そべって荷物番をする道徳に、女性が声をかけてくることは実に多く、それらをやんわり断るだけで彼は退屈しない。
こういう所に居る女は本当にヒマなんだな、と考えてしまう時点で彼の自らの容姿に対する無頓着さが顕著に窺えた。
腕時計を見ると、時刻は三時を回っていた。さすがに探しに行こうかと、視線を広々とした波打ち際を彷徨わせると見慣れた小柄な姿
が眼に入る。ワンピースタイプの水着からすらりとした手足を出して、天化は足首を水につけて歩いていた。
そろそろ戻るつもりではあるのだろう。
水着の柄に興味のない道徳にはまるで分からないが、かなりシャープな感じのするデザインで、天化には実によく似合っている。天化
の持つ天性の野性味をどこか表しているようでピッタリだった。尤も天化の場合、その野性味自体が可愛らしい顔とのギャップを感じさ
せ、不思議な色香を醸し出して魅力的なのである。
あの水着を買って良かった、と道徳は思う。何せ二人共最初、競泳用水着でいいかという安直な考えで、天化の母である賈氏にとんで
もないと一喝され、慌てて買出しに行ったのだ。
3人でデパートの水着売り場に出掛けて、道徳も天化もたった1時間でギブアップ寸前だった。反対に賈氏はそんな二人を叱咤し、色々
な水着を天化に着せて選んでいた――というより明らかに楽しんでいた。
何せビキニを着せようとすると『そんな下着みたいな水着なんざ着れるかい』と文句を言い、スカートタイプの水着にすると『スカー
トなんて足元がスカスカして嫌さ』と言う。反応を見ているだけで面白い。
元から天化は大のスカート嫌いで、崑崙大付属学園に通っているのも私服OKだからだ。道徳自身、天化がスカートを穿いているのを見
たのは、初めての夜を過ごした日たった一度きりである。それも本人の意思ではなく、『着替えがないから仕方なく』だった。
少し離れた場所から見ても、天化の肢体は素晴らしい。剣道と柔道で鍛えられた身体は均整が取れてしなやかだ。細身だが女である部
分を強調するように、細い腰や形よく膨らんだ胸は見事である。
一見すると分からないが、道徳は眼を満足げに細めて天化をサングラス越しにくいいるように見詰めていた。
(……何だ、あいつら……?)
身を起こし、天化の周囲に集まった数人の男の存在に形のよい眉を吊り上げる。ついつい天化だけに眼を奪われて、その周りに居たそ
の他大勢の男どもには気を向けていなかった。天化に言い寄る男はごまんといて、心配なのである。自分のことは完全に棚に上げて、道
徳は天化の元へと走り出した。
「一人で遊んでないで、俺達と遊ぼうよ」
突然の声に天化が顔を上げると、如何にも軽薄そうな雰囲気の男が眼前に立っていた。背後にも何気なく視線を向けると、三人の男が
退路を塞ぐようにいる。
それでも天化は全く動じなかった。柔道三段、剣道三段の少女には、彼らは男ではなく豚に見える。
天化にとって男として認められる存在は、自分の周囲にいる人々と道徳だけだ。他の存在はただの男の皮を被った『馬鹿』なのである。
特に今声をかけてきた男達は『大馬鹿』と言えた。
こういったリゾート地にも、女と見れば食い物にしようとする日本人の男は多くいる。特に海外だと、『どうせバレない』という馬鹿
げた考えで徒党を組み、よってたかって嬲ろうとするのだ。
2日前に天化を空港で見かけて声をかけられず、同じホテルと知って早速近寄ってきたらしい。
彼らには天化が小動物のような愛らしい存在に見え、自分達の獲物だと信じて疑っていない。
しかし現実は彼らの方が餌食となるべきものものなのだ。女らしいまろやかな曲線を描く肢体の内側には、野生の黒豹が獰猛な牙を剥か
んとしているのだから。
「俺っちは今忙しいさ」
天化は俯き加減にそう応えた。愛らしい口元に、恐ろしく不敵で不遜な笑みを浮かべて。
男達には天化の表情は全く窺えず、怖がっているのだと勝手に思った。勘違いも甚だしいだろう。
「そんな事言わずにさ〜。俺達って紳士だし遊ぼうよ」
「……紳士ねぇ……」
皮肉な笑みを湛えて呟き、男の脇を擦り抜けて歩き出す。無視されたことで恥をかかされたと思ったのか、男は天化の肩を掴んで引き
寄せようとした。
「おい!待てよ。下手に出てやりゃつけ上がりやがって」
「つけ上がってんのはあんたらだろうが」
冷笑すら浮かべて、少女は自分の肩を掴んだ男の腕を反対に取り、軽々と海に投げ飛ばした。どこから見ても女である筈なのに、天化
のその行動には妙な男臭さがある。派手な水しぶきを上げて海面に沈むと同時に、他の三人が逆上して襲いかかってきた。それすらもあ
っさり天化は料理する。
一人は砂浜、もう一人は海、最後の一人も頭を冷やせとばかりに海へ投げ込んでやる。ふと背後の気配に気付いて後ろを振り返ると、
髪は勿論服もずぶ濡れになり、最初に声をかけてきた男が物凄い勢いで走ってきた。
「このアマ……――!!」
その先を男は言うことが出来なかった。声と同時に男の姿が天化の目前から消え失せる――否、天化ですら捕らえきれない速さで男が
投げられたのだ。
(い………一本背負い……)
集まりかけの野次馬も呆気に取られていたが、投げられた本人は更に驚愕した。小生意気な小娘を視界に捕らえたと思った時には背中
に衝撃を受け、空を見上げていたのだ。しかも、その空を塞ぐように、サングラスをかけた男が怒気も顕に自分を見据えてくるのである。
「悪いがあの子は俺が先約済みなんだよ。手を出すなら覚悟を決めてからにするんだな」
ガラス越しに見える冷たい瞳、低い静かな声音に込められた恐ろしい迫力に、文字通り腰が抜けてしまう。
道徳は男から離れると、騒ぎを聞き掛け付けてきたホテルの従業員に早口に何事か話し、天化の腕を引っ張ってパラソルの下に戻る。
そして荷物を手早く纏め、追い縋る従業員を無視して足早に立ち去ったのだった。