ピンポーンと鳴った呼び鈴の音に、真横で寝ている猫の耳がピクリと動く。呼び鈴に続いて短い廊下をバタバタと走る音が響き、居間の
扉が乱暴に開かれた。
「コーチ!海に行こう!」
「あん?」
唐突な台詞に、清虚道徳は見ていた雑誌から顔を上げ、怪訝そうな瞳を向けた。ずかずかと部屋に入ってきたのは、自分が経営するス
ポーツ用品店『青峰スポーツ』のバイト店員であり、恋人でもある黄天化だった。
尤も道徳にとって、こんな訪問の仕方をする相手は天化ぐらいしか思いつかない。
というのも、道徳は天化の剣道と柔道の師範で言わば師匠のようなものだ。天化が中学に入った頃から、師範としてまた家庭教師として
面倒をみていることもあって、『コーチ』とも呼ばれている。
しかも4年程前から道徳は天化の家の隣に住んでいる為、近所の気安さもあった。加えて店長とバイト店員、極めつけに恋人とくれば、
天化にとってこの家はもう一つの自宅といっても過言ではない。
なのに何故か天化は律儀に呼び鈴を鳴らすことを止めない。鍵も渡しているし、そのまま入ってきていいと言い聞かせているのだが、ど
うもそれは嫌らしい。変なところで他人行儀な天化だが、そこがまた良いと考えているあたり、まあご馳走様というべきか。
学校から自転車を飛ばして帰ってきたのか、近付いてきた天化の呼吸は微かに乱れていた。それにしても、遊びに来て開口一番『海に
行きたい』とはどういうことなのか、道徳のみならず誰でも首を傾げるところだろう。
彼はさっぱり事態が飲み込めず、僅かに眉を寄せて問うような視線を天化に送った。
だが天化は説明もなしなう絵に突然な言葉であるにも関わらず、まるで気付いていない素振りで、もう一度はっきりと自分の希望を伝え
てくる。相手の都合を考える余裕すらないらしい。
「俺っち、今すぐ海に行きたい」
普通なら恋人の急な我儘に振り舞わされるのが男の性だが、世の男と違って道徳は全くペースを乱されず、冷静というよりも恐ろしく冷
めた態度で天化に問う。
「なんで」
即座に尋ねられて天化は一瞬声を失った。実は学校で今日の昼休みに話題になったことがきっかけなのだが、こんな事を今知らせた
りしたら絶対に道徳は一緒に行ってくれないに決まっている。理由を言えずに口の中でもごもごと言葉を濁し、開き直った体で同じ台詞
を小声で繰り返した。
「……別に……ただ行きたいだけさ」
ソファの上で胡座をかいたまま道徳が伸びをすると、同じように猫の玉麒麟も伸びをし、トンと飛び降りて早速天化に擦り寄ってきた。
膝に広げていた雑誌をパタリと閉じて、時計をちらりと見やって天化の顔へと眼を戻す。
「……あのな、天化。もう4時だぞ?これから車で急いで行っても5時、遊べやしない。お前明日も学校だろうが。海なら今度連れてって
やるから我慢しろよ」
「何せ今日は折角の休業日なのだ。本心としては家でごろごろしておきたい。そんな気持ちも込め、腕時計を天化に向けて指先で文字盤
を叩き、子供に言い聞かせるような口調で諭すが、天化の反応はにべもないものだった。
「俺っちは今行きたいんさ」
きっぱりと言い切った天化の様子に道徳は束の間唖然とする。この3年の付き合いの間、天化がこれ程我儘な主張をしたことは一度と
してない。何かあったのかと疑いたくなるほどだ。
ここまで行きたがるからにはそれなりに理由もあるのだろうが、言う気配は全くない。聞き出そうにも強情っぱりな天化のことだ、現地に
着くまで(下手をすると着いてからも)絶対に口を割らないだろう。
知らず知らずのうちにくいいるように見詰めていたのか、天化が居心地悪そうにみじろきする。
「コーチ……駄目さ?」
天化は小首を傾げ、道徳の顔を覗き込むようにして尋ねてくる。胸に抱きしめている玉麒麟が天化の意思に呼応するようにニャオーンと
鳴き、じっと道徳を見上げてきた。まるで天化を応援するように。
天化自身、自分が我儘を言っている自覚は多分にあるのだが、どうしても『行きたい』という気持ちは止められそうにない。それに道徳の
態度も返事も全く乗り気でないことだって、ちゃんと分かっているのだ。
訴えかけるような視線で見詰めていると、道徳は頭をがしがし掻いて降参とばかりに大きく溜息をついた。
本当に自分は天化の『お願い』に弱い。他の奴ならちょっとでも無理を言おうものなら即座に別れを決意しているところだが、天化に頼ま
れると嫌だとはどうしても言えないのだ。これも惚れた弱味か、と半ば自分自身に呆れながら雑誌をソファに放り出す。
「……ったく分かったよ。連れてってやるけど、着いたらなんでいきなり海なのか言えよな」
仕方無しに立ち上がり、天化の腕の中から玉麒麟を抱き上げソファに降ろす。すぐに丸まってしまった猫を居間に寝かせたまま、鍵を取
って台所に向かった。念の為にガスを閉めて、猫の餌を小さな皿に盛り水も新しいものにかえておく。こうしておけば、多少帰りが遅くなっ
ても大人しく待っている筈だ。
クローゼットを開けてジャケットを羽織り、戸締りを確認してきた天化を促して玄関を出る。
このオフシーズンに海に行くとしたら、初日の出を見に行くぐらいだと心の中でブツブツ文句を言いつつ、道徳は車に乗り込んでシートベ
ルトを締める。助手席に座った天化もちゃんとシートベルトをしたことを確認すると、一路海に向けてオンボロ国産車は走り出した。
高速を約1時間走って目的地についた時には、日は随分暮れかかっていた。月も暗くなり始めた空にぽっかり浮かび、僅かな光を放って
いる。その姿は控えめな女性をどこか彷彿させた。
駐車場からでも夕日に照らされる海が見え、刻一刻と沈みゆく太陽は真昼と違って大きいように思える。
一々その理由を考えるのも鬱陶しくて、道徳は出発直後から静かな助手席をちらりと見やって嘆息した。
「おい、天化。起きろ、着いたぞ」
「……う〜ん…」
すっかり寝入ってしまっている天化の肩を軽く揺すってみるが、起きる気配はなかった。道徳はもう一度溜息をつくと助手席で眠ったまま
の天化を置いて、少し離れた場所にある自動販売機で冷たいジュースを買う。
まだ4月中旬で時期外れの上に、薄暗くなり始めていることもあって、駐車場に停まっているのは道徳の中古車と離れた場所に駐車して
ある2台だけだった。
何とも閑散とした雰囲気に気分が滅入ってきそうである。海水浴もできないし、夕方になって肌寒くなってきているというのに、なんだって
海に来なきゃならないのかと、情けなくなってくる。
2台のうち1台は道徳がジュースを持って戻ってすぐに、彼の愛車の後ろを通り過ぎて行った。煙草に火を点けながら出て行く車を眺め、
更に寂しさの増した駐車場の様子に肩を竦める。
とにかく天化を起こそうと助手席の扉を開けるが、風通しが良くなって少し肌寒くなったことにも気付かないのか、相変わらず気持ちよさ
そうに寝たままの少年に苦笑を零した。
夏の大会に向けて朝練にも出ているからか、天化は車に乗るとすぐに眠ってしまった。朝も早くて疲れているだろうに、弱音一つ吐かず
にバイトも休まずやって来る。別に無理をして来なくていいと言っているのに、天化は頑として休もうとしない。真面目なのはいいことだが、
身体を壊しやしないかと心配でもある。
本当は寝かせておいてやりたいのだが、折角ここまで来たのだから起きて貰わねば道徳の努力は水の泡だ。
起きないだろうと思いつつ肩を揺するがやはり反応は鈍く、むにゃむにゃと口の中で意味不明の言葉を呟いただけだった。
ならば、と今度は天化の頬にさっき買ってきたばかりの冷えたジュースを押し当てた。
「うひゃあ!」
余程冷たかったのか、天化の身体がビクリと跳ねる。周りをキョロキョロと見回して、道徳を見つけるとぽかんとした顔で見上げてきた。
どうやら寝起きで状況が掴めていないらしい。
「コ……コーチ………?」
「寝惚けてるんじゃないぞ。わざわざ俺が海にまで連れてきてやったんだから、せめて日没ぐらいは見て帰るからな。さっさと起きろよ」
じっと自分を見詰める男に、天化は慌てて何度も頷いてみせる。ジャケットにサングラス、唇の端には煙草という出で立ちで車を覗く道徳
の姿には妙な迫力があった。
(なんか………ヤクザみたいさ)
雰囲気的にそっくりなので声には出さねど正直に心の中で呟いて、シートベルトを外し車を出る。
ヤクザというよりチンピラと表現した方が適切かもしれないが、道徳にはチンピラ風情では太刀打ちできないような重厚な威厳が漂ってい
た。どっちもどっちであることには変わりないが。
とにかくこんな考えが道徳にばれたら後でどんな目に遭わされるか分かったものでないので、大人しく礼だけは言っておくことにする。
「ありがとさ、コーチ。連れてきてくれて……」
「ああ、有り難く奉れよ。高速代だってかかってんだからなー」
煙草を銜えたままニヤリと笑い、天化の頭をわしゃわしゃと掻き混ぜる手の暖かさに自然と笑みが零れた。
恩着せがましい台詞とは裏腹に、道徳の口調は明るく屈託がない。言葉とは全く正反対に、『気にするな』と言ってくれているようだった。
「ほら、眠気覚ましに飲め。海岸に下りるぞ」
もう一度天化の頬にジュースを押しつけ、冷たさに首を竦めた少年に缶を渡して先に立って歩く。
砂浜に着くまでの距離の間に飲み干してしまい、都合よくあったごみ箱に缶を捨てた。丁度寝起きで喉が渇いていたこともあって、小型の
缶は眠気を飛ばすのと喉を潤すのに丁度いい量だった。これがもっと大きな缶だったら、きっと全部飲みきれなかっただろう。
天化ですら気付かないようなところで、道徳は素っ気ない態度ながら気を使ってくれているのだと思うと、何だか凄く嬉しい。彼にこんな風
にさりげなく優しくして貰える自分の立場が誇らしく思える。
どんどん先に行く道徳の背中を追いかけながら、天化は幸せで胸が温かくなっていくように感じた。