ヒカルが碁会所に来ないと告げた日から、もう一週間が過ぎた。この七日間「もしかしたら…」という思いを抱いて碁会所に
通いはしたものの、ヒカルが姿を現すことは一度としてなかった。
北斗杯に向けてのヒカルの意気込みも分かるのだが、会えないのはアキラとしてはかなり辛い。
ヒカルへの想いを自覚していなかった頃も会えない辛さに苦しんだが、自覚してからの方が万倍の苦しみがある。寝ても覚
めても、という言葉通り、会えない時間が長くなればなるほどヒカルのことを考える時間が増える。
今どうしているだろうか、から始まって、気がつけば見知らぬ相手とヒカルが一緒に居たらどうしようかと、見当はずれな焦り
を感じてしまうこともしばしばだ。自分の独占欲には、アキラ自身もほとほと呆れてしまう。
明日は2学期の終業式で、明後日からは冬休みが始まる。下手をしたら北斗杯までヒカルと会えない日々が続くのだろうか。
紆余曲折を経て、一緒に打つのが日常的になっただけに、突然のヒカルの宣言はアキラを打ちのめすのに充分過ぎる効果
があった。どんよりとした重苦しい空気を身に纏い、部屋の真ん中に置いた碁盤の前で茫然とアキラは座り続ける。
そんなよどんだ大気をものともせずに、不意に襖が開いた。
畳の上に一条の光が差し、そこに見慣れた女性のシルエットが浮かび上がる。
「……暗いわ」
母親の明子の声に、アキラはぼんやりと顔を上げると、うつろに呟いた。
「ああ…明かりを点けていませんでした…」
「そんな事じゃなくて、あなたが暗いと言っているのよ、アキラさん」
「……そうですか?」
半ば呆れたような言葉と共に、アキラは小首を傾げる。それに、明子は大きく頷いてみせた。
家に帰って来たらアキラは、大抵碁を打つかパソコンで棋譜整理をするので、それなりに気配というか活動的な感じが襖越
しからでも伝わってくる。ところが今日は何の気配も音もしない。心配になって覗きに来ると、真っ暗な自室で、碁盤の前に正
座したまま微動だにしない一人息子の姿である。見知らぬ人が見たら、部屋に妖怪が座っていると勘違いしてもおかしくない。
それだけ、座っていたアキラの姿には鬼気迫るものがあった。
だが母親の明子の感覚では、襖を開けた瞬間にアキラの発する何ともいえない暗澹たる空気が流れて出てきたのには、驚
きを通り越して呆れてしまった。そこまで落ちこむくらいなら、さっさと行動すればいいのに、と彼女は情けなくて涙すら感じる。
アキラの想い人が誰なのか既に察し、落ちこんでいる原因も分かっているだけに、息子の不甲斐なさに匙を投げたくなるど
ころか、ぶつけてやりたくなる明子だった。おしとやかな彼女らしくない粗暴な思考も、偏に息子の恋愛下手故だ。
碁となると強気で強引な攻めで定評があっても、恋愛になるとからっきしにダメになる。まさに明子の夫の行洋と、今のアキ
ラの姿は親子なだけにそっくりだった。相手が違うだけで。
(相手の方からアキラさんに…って無理ね)
ふと考えた思考を素早く自己完結して、明子はそっと溜息をつく。明子に入っている情報によると、アキラの想い人はとにかく
鈍いらしく、アキラに負けず劣らない囲碁馬鹿だそうだ。唯一の救いは、本人同士は自覚していなくてもお互いに想い合ってい
る点だけという、傍目から見ると面白いが扱いにくい状況である。
「何かあったの?」
「……いいえ」
原因は知っているが敢えて知らないフリをして優しく尋ねるのが、相談にのる側の親心だが、予想通りアキラは何も口にしよ
うとはしない。こういう頑固なところも、親子揃ってダブるものがあった。
「そう、ならいいわ」
無理に聞き出そうとはせずに明子はあっさりと引き下がり、息子に慈しみに満ちた穏やかな瞳を向ける。
「アキラさん、碁は明かりを点けてなさいね。まず点けてしないと、眼だって悪くなるでしょう?お母さんを心配させないで頂戴。
どんな事にしろ、男の人はまず行動で示すものよ」
「…はい」
力のこもってない返事を背中で聞きながら、明子はアキラが明かりを点けたのを横目で確認して、居間に戻った。年頃の息子
のことは気になるが、不器用ながらも自分で何とかしようと思っているのはよく伝わってくる。ならば、アキラは遠からず行動を
起こすに違いない。恋愛は当人同士が主役である。相談を持ちかけられない限り、親が口出しをするわけにはいかないのだ。
アキラは母が居なくなっても変わらず碁盤の前で正座をしたまま、碁を打つでもなくぼんやりとしたままでいた。ヒカルに会え
ないことで、ここまで虚脱感に襲われるとは考えもしていなかった。
そういえば以前、ヒカルを見失って何をやってもどこか上の空でぼんやりしていた時期があったが、あの時もこんな寒い季節
だった気がする。以前と違うのは、ヒカルを求める自分を素直に受け入れられる点だ。あの頃は求めていても無理矢理そんな
自分から眼を逸らしていた。でも今はどんな方法を使ってでも彼と共に居たいと思っている。
ヒカルが望まないなら、望んでくれる時まで碁を一緒に打たなくても我慢するから、とにかくひたすら会いたい。ただヒカルの
声を聞いて顔を見られれば、幸せなのに。
(進藤に会いたい。…会って声を聞きたい)
碁石の全く並んでいない盤面を見るともなく見ていたアキラは、唐突に天啓を受けたように顔を勢いよく上げた。
ヒカルは碁会所に来ないと言ったのであって、アキラと会わないとは言っていない。つまり、ヒカルが会いに来ないし打ちにこ
ないというのなら、アキラの方から行けばいいだけの話なのだ。男ならば行動で示さねばならない。まさに明子の言葉通りであ
る。アキラは動いてヒカルに示せばいいのだ。ヒカルに会いたい気持ちを、ヒカルに自ら会いに行く事で。
果断即行が信条のアキラだが、思い立ったが吉日とばかりに行動したくても、こんな時間帯からヒカルの元に行くわけにはい
かない。逸る気持ちを抑えて、明日まで我慢するしかないだろう。終業式が終わったら、すぐにヒカルの通う葉瀬中に行くことを
心に決め、アキラはヒカルと打った棋譜を思い浮かべながら盤面に石を並べ始めた。
葉瀬中の校門の近くまでやって来ると、生徒達が挨拶を交わして学校を後にしている姿が眼についた。
擦れ違う生徒達から向けられる視線が海王の制服を着たアキラをいぶかしんでいても、委細気にせずにヒカルの姿はないか
校門の外から素早く一瞥する。求める人物は、すぐに見つかった。
ヒカルは前髪が金髪で目立つ容姿をしているので、どんな人込みに紛れてもアキラには一瞬で識別できる。どれだけ離れて
いようとも、アキラにはヒカルをその他大勢から的確に見極める事ができるのだ。とはいえ、実際的にそれができるのはアキラ
だけなのだが、本人は未だに気付いていない。
視線の先で多くの友人に囲まれて話す彼は、アキラの視線に気付いたのか声をかけるまでもなく振り返ってこちらを見た。
「塔矢」
久し振りに聞く声に知らず口元に笑みを浮かべ、アキラは校庭に堂々と足を踏み入れてヒカルの元へ行く。
ヒカルだけに向ける柔らかな微笑みを垣間見た、ヒカルの周囲に居た女生徒達は、一様に頬を赤く染めた。
「誰?あの人?」
「カッコイイかも…」
「海王中の生徒よね」
ひそひそと女子同士で話し合いながら、半ば値踏みするようにアキラを見詰め、ヒカルとこっそり見比べる。
以前から女子の間でヒカルはそこそこ人気はあったが、子供っぽい行動や小柄な身体つきに、女としての物足りなさもあって、
さして注目されていなかった。ところが、最近の彼は急に背も伸び、大人びて格好よくなってきている。それでいて、屈託の無さ
の中に神聖で近寄りがたい雰囲気が漂い、どことなく儚げで綺麗だ。
男の子に対しての褒め言葉でないかもしれないが、皆ヒカルは綺麗になったと噂しあっている。お陰でヒカルは女子の間で急
激に人気が上がってきているのである。ヒカルの持つ独特の雰囲気に呑まれて誰も告白もできずにいるが、眼の前に現れた少
年は、ヒカルとはまた別の意味で異彩を放ち目立っていた。
制服も進学校の海王中のものだし、頭もきっといいのだろう。
「進藤の知り合いかよ?」
「ああ。オレより一年先にプロになった言わば同僚だよ。名前は…」
「塔矢アキラです。初めまして」
おっかなびっくりといった様子のクラスメイトにヒカルが説明と紹介をしようとしたところに、アキラが颯爽と傍に来てにっこりと
営業スマイルを振りまいた。それに少女達は恥ずかしげに俯き、少年達はどことなく面白く無さそうにアキラを見やる。
ヒカルが掴み所の無い風とするなら、彼は燃え盛る炎だった。真面目で物腰柔らかな口調とは裏腹に、強い意志の宿る瞳の
力は苛烈で激しい。容姿も凛々しく綺麗に整っていて、ヒカルと並ぶと、更に際立つ。
二人が一緒に居るだけで、互いの相乗効果で存在感が増しているようだ。
アキラはどうも同年代の同性に敬遠されがちで、大抵の少年は彼に反発する傾向が強く、ヒカルのクラスメイトの少年達もそ
うらしい。尤もアキラにしてみればいつものことなので、気にもしなかったが。
彼らが他校の生徒であるアキラを好奇心もあって眺めているのに気付かず、ヒカルは屈託なく笑ってアキラを促すように横を
見た。それにアキラが頷いてみせると、友人達に挨拶を残して踵を返す。
「じゃ、そろそろオレ帰るよ。新学期に会おうぜ」
ヒカルが手を振って離れていくのを見て、一人の女子生徒が慌ててヒカルを呼び止めた。
「ねぇ、進藤君。クリスマスパーティーにはやっぱり来れないの?」
「悪いけど、クリスマスはこいつと碁三昧って約束してんだ」
予想外のヒカルの返事に、答えられた女子生徒よりもアキラの方が驚いてしまう。
「――ったくおまえってマジ囲碁好きだな〜」
「頑張ってね、応援してるから」
「おう!じゃあな」
驚いたまま茫然とするアキラを余所に、クラスメイト達は笑って手を振り、ヒカルもそれに笑顔で応え、二人は校門の外に出
て並んで歩き始めた。しばらく無言のまま足を運んでいたが、沈黙を耐え切れずに破ったのはアキラの方だった。
「あの、進藤…約束って……?」
「してねぇけど、構わねぇだろ」
「え?あ、うん」
我ながら何て間抜けな返事だろうと思うが、アキラはそのまま頷いてしまう。もうちょっと気の利いた台詞の一つや二つは言い
たいのだが、いかんせんこういう恋愛ごとには優秀な頭脳もちっとも動いてくれないのが現状だった。
何にせよ、ヒカルと碁三昧のクリスマスというのはアキラにとっても嬉しいことで、現実になればこれほど幸せなことはない。
だから敢えて追及しようとも思わずに、どこに行くともなく二人は歩き続けた。