冷房のきいた機内から一歩外に出ると、湿気を帯びた南国特有の熱い大気を肌に感じる。入国手続きを済ませて空港ロビーに入ると、渡されるのは靴を
しまう専用の袋だった。
この国では人々が素足でリラックスして過ごせるように、国内に入ると靴の使用が制限されるという、変わった風習がある。
アキラも最初は随分と驚いたが、何度も訪れるうちに感覚も慣れてすっかり麻痺し、今では当り前のように受け入れている。
世界でも有数のリゾート地であるこの国では素足で過ごすのは当り前である。当然、無防備な足が傷ついたりしないよう安全に過ごす為の工夫がなされ
ている。煙草のポイ捨ては勿論、歩き煙草も厳禁。空缶、空瓶、その他もろもろのゴミは専用のゴミ箱に捨てねば、例え観光客といえども罰則を食らって罰
金を払う羽目に陥るのだ。尤もこの程度の事は一般常識であり最低限のマナーであるが。
素足になるという決め事に相応しく、この国の道路にはゴミなど滅多に見当たらず、いつもとても綺麗だ。そういった努力はリゾート国家としてのイメージの
向上だけでなく、自国の自然を守る上にも観光客を守る上でも役に立つ。
十数年前に津波と地震による被害で国の存亡すら危うかったというのに、逞しく復興して今では当時の面影すら感じられない。
靴も靴下も袋に入れて素足になると、アキラは空港を出た。
迎えに来ている人物の居る方角に自然と足が向く。愛しい人の姿が見えなくても、世界のどこに居ても、アキラにはそれが分かる。
空港の外は観光客と彼らを迎えに来たガイドで溢れ返っていた。
島自体が空港であるので、他の国ほど大きいわけでもなくこじんまりとしている。
この国ならではの一番の特徴は、空港から程近い場所にヨットが係留できるような桟橋が幾つもあることだろう。
アキラは小型のスーツケースと靴を持って人々の間を縫うように歩いた。観光客とも思えないような、背の高い赤毛の青年とすれ違ったが、さして気に
せずに先を急ぐ。アキラも他人から見れば観光客には見えないだろう。
前髪を上げて額を晒し、髪を全体的に後ろに流して眼鏡をかけたこの姿だと、若手のビジネスマンが関の山だ。
自分としてもそんな風に見えるようにわざと工夫している。
普段の姿だと少し幼く見られがちで、一人で行動したりするのに余計な目立ち方をしてしまうからだ。
子供が親や保護者と共に居らずに、ふらふらとあちらこちらを出歩いていたりしたら、警察官に声をかけられたり補導されたりする。
立場上、そういった細かなトラブルすらも避けておいた方がいい。
アキラの肉体は普通ではない。おいそれと気安く行動できるほど軽々しい秘密を持っているわけではないのだ。
何故なら、アキラは十八歳のままで成長を止めてしまっているから。それどころか、大怪我をしても数時間で傷は癒え、死んでしまったとしても一日と経
たずに生き返る。不老不死という言葉をそのまま体現する身体なのである。
十八歳の頃、『聖杯』と呼ばれる不可思議な遺物の力によって、アキラは不死身の肉体を得た。ただし、普段の見た目はせいぜい十七歳までが関の山で、
大抵は十五歳か十六歳にみられがちである。
十代の成長期だった1930年代は混沌とした時代で、周辺各国の戦争や経済封鎖などの影響で食料も不足がちで栄養不足だった。
そういった影響もあって身体の成長が少し遅れてしまったことが、幼く見える一因の一つに挙げられる。
もう一つの最大の理由は、『聖杯』の持つ力である。
『聖杯』から零れる雫は、さる条件を満たせば不死身の肉体を飲む者に与える。その効果は絶大で、どんな大怪我も治し、例え命を奪われても生き返る
という、想像を絶する脅威の力なのだ。
その力の影響で、多少の傷は数秒で跡形もなく消える。日焼けすら殆どせず、多少しても数時間もすれば元の白い肌に戻ってしまう。
つまりそれだけ細胞が活発に活動しているということだ。そして細胞の若さはそのまま身体の若さに繋がる。
アキラが『聖杯』を飲んだ十八歳という年齢は確かに若い。だがそれでも、気付かない身体の不具合や老いは多くある。
『聖杯』の力はそれら全てを完璧に修復して一番良い最高の状態に活性化させて保ち、不具合ができれば即座に修正するように働きかける、といった
類のものなのだ。だから傷などはすぐに癒え、疲れや病気の回復力も高く早い。
神経の伝達速度も上がって反射神経も鋭くなり、筋力も増した。
あくまでも元の能力からおまけ程度に上がったくらいだが、元々が高い運動能力を誇っていたこともあり、常人からすればとんでもない存在に見えるだろう。
当然肌の張りもよく、髪も艶やかで美しい。これらは全て『聖杯』の力による、体細胞の活性化の為せる業だ。
その結果、アキラの身体は十八歳よりも少しだけ若返り、本来の年齢よりも幼く見られがちになってしまったのである。
あれから百年近い月日が流れ、自分達を残して多くの友人はこの世を去っている。この身体になったことで、危険な目に遭ったことなど数え切れないほどだ。
今では身を守るための術も手に入れ、協力者も世界各地に居る。
百年という時間は地球の歴史や宇宙的な時の流れの中では微々たるものだろう。しかし、百年という時をそのままに体験した彼らにとっては、決して無視
できるものではない。
自分一人であったなら、この先も正気を保って生きていけるかどうかは分からなかった。いや、それ以前に、彼を喪った世界でなど生きていけない。
彼なしの人生など無意味だ。だがアキラは一人ではない。彼には悠久の歳月を共に生きる何よりも大切な存在が居る。その人とならば、例え何千年、何万年
でも人生を謳歌できるに違いない。
桟橋の一つに足を踏み入れると、花のような甘い香りがふわりと漂ってくる。
アキラが世界で一番愛する人がすぐそこまで来ていると、芳しい香りが教えてくれていた。だがアキラは香りがなくても彼の人がどこに居るのか分かる。
それは自分達の間にだけある特殊な感覚だ。二人は当り前のように互いの存在が認識できるのである。
どれだけ離れていても、アキラは彼がそこに居るのを感じていた。
同時に、会いたくて、会いたくて堪らなかった。ほんの数日でも、腕に温かみを感じられないと寂しい。声を聞けないと辛い。
たった数日が、何十年何百年に感じるほど待ち遠しかった。
この数日、気が狂いそうになるほど会いたいと思った、アキラの大切な人が軽やかにヨットから降りる。
金色の前髪が太陽に反射して明るく輝いた。
アキラの大切な想い人――進藤ヒカルが燦々と降り注ぐ光の中で、アキラに笑いかけながら腕を軽く上げる。
それを挨拶代わりにして、ヒカルはゆっくりと歩いてきた。
シャツにパレオという軽装は、こういった南国だと殊更ヒカルにはよく似合った。伸びやかな足が歩く度にパレオから垣間見え、短めのシャツからはほっそり
とした腰が晒されている。欧米では女性が主に使うパレオだが、この辺りの国々では男性も着用する民族衣装の一つだ。空港に出迎えに来ているからシャツ
を着てはいるものの、ヒカルは普段、シャツも着ずに裸の上半身を晒して楽な服装で過ごしている。
どれだけアキラが忍耐力を駆使して自制し耐えているかなど全くお構いなしで、一切頓着しない天然ぶりは健在だった。
好奇心旺盛で元気でやんちゃなところも相変わらずである。とてもではないが実年齢は百歳を超えているとは思えない。
その行動はともすれば十代の少年と何ら変わることなく、身体だけでなく精神も老成せずに若さを保っている表れだった。
アキラと共に不老不死の運命を選びながらも、ヒカルの笑顔は一点の曇りもなく綺麗で、少しも変わらない。ヒカルという名の通り、彼の持つ光の輝きは
褪せるどころか増している。同じようにアキラのヒカルへの想いは何年経とうとも衰えず、それどころか愛しさは溢れんばかりの勢いで増える一方だ。
初めて想いに気付いた新鮮な気持ちも、年を経ていく毎に深くなる愛情も、全てをひっくるめてヒカルに向かう。
いつもどんな時でもアキラにとってヒカルは、永遠に沈まず輝き続ける太陽のようである。
ヒカルの姿を認めた途端、飢餓状態といえるほど欲していた存在を求めて、アキラは数歩の距離を大股で一気に詰めた。
持っていた小型のスーツケースも、靴入れも、ヨットの中に投げ入れ、ヒカルを腕の中に閉じ込める。すっぽりと心地よくおさまる細身の身体からは、初めて
出会った頃と同じ香りが立ち上った。この時、アキラは心から感じずにいられなかった――命を奪われてもなお、蘇えったあの日のように。
目覚めてヒカルの姿を見た瞬間、心に去来した一つの幸せを。
還ってきたのだと。ヒカルの傍に、大切な人の元に。
「進藤…会いたかった…」
「な、何言ってんだよ。ほんの三日くらいじゃんか」
頬を摺り寄せながら溢れる想いのままに囁くと、ヒカルは微かに顔を赤らめてぶっきらぼうに言い放って眼を逸らす。だが口ではそんな事を言っても、ヒカル
はどこか嬉しそうにアキラの背に腕を回していた。アキラは小癪な口をきく可愛い唇を軽く啄ばんで塞ぐと、ヒカルの膝裏を掬い上げて横抱きに抱える。
「うわぁっ!バ…バカ!人前で何すんだっ!」
項まで真っ赤に染めて文句を言いながら、ヒカルは慌てて降りようと腕の中で暴れた。だがそれも一瞬で、そんな些細な抵抗は掠めるように送った口付け
一つで大人しくなる。 ヒカルは益々赤くなって酸欠の金魚のように口をパクパクさせていたが、アキラには手放すつもりが毛頭ないと察すると、程なく観念
したように力を抜いて身体を預けてきた。熟した林檎のように赤くなり、照れ臭さに上目遣いで睨みながらも、腕を首に絡めてくる。
上気した顔を隠すように俯いて身体をくっつけてくるヒカルに微笑みかけ、アキラはゆっくりとヨットに向かった。
ヒカルの身体は軽い。同じ男でも、抱き上げるのにそんなに力が必要だと思ったことはない。抱いたままヨットに移ることも、走ったりすることも少しも負担
にはならなかった。ゆらゆらと波間に揺れるヨットに危なげなく移り、宝物を扱うようにヒカルを降ろすと、すぐに桟橋から離す。
一刻も早くヒカルと二人きりになりたかったからか、普段よりも行動は迅速だった
光に薄青く染まった海をヨットは快調に滑り出す。風向きを考えて方角を調節すれば、目的の島には二十分ほどで着くだろう。
昔、その島をヒカルが買ったことで大喧嘩をし、外に叩き出されて別居を余儀なくされた期間は本当に辛かった。
島に近づくことはおろか、同じ国に居ることすらヒカルは赦さず、アキラを日本に追いやって赦すまで出てくるなと言い放ったのだ。
この点、ヒカルは非常に理不尽で我侭である。アキラの言い分が例え正しくても絶対聞き入れずに我を通し、何故か本来正しく正当な意見を述べたアキラが
謝って赦しを請う羽目に陥るのだ。
アキラはアキラで我侭でプライドが高く、傲慢で不遜なところがある為、どっちもどっちであるが。
そんなプライドの高いアキラが折れて、謝罪の手紙を何度も何枚も書いて送ったものの、返事が来たと思ったら『鬱陶しいから手紙を出すな』の一言である。
ヒカルから返事が来たと思って大喜びで開封した分だけ、愛情の欠片も見当たらない味も素っ気も無い文章に、眼を通したあの時はショックで気絶しそうだ
った。本気で『捨てられるかもしれない!』と、凄まじい危機感を覚えたものである。
どうやって赦しを請うか必死に優秀な頭脳をフル回転させて悶々と過ごした日々は、今思い出しても目頭が熱くなってくる。
その十日後にヒカル自らがアキラを迎えに来て『赦してやる』と居丈高に告げ、アキラの辛い別居期間は終わった。仲直りにこの島に訪れ、甘い生活を味
わったのは言わずもがなであろう。ヒカルは気持ちよさそうに潮風に髪をなぶらせながら、アキラを見上げた。
彼はいつもの髪型ではなく、額を出して伊達眼鏡もかけているからか、随分と大人っぽく見える。
この姿は決して嫌いではないが、やはりヒカルにとっては日常の彼が一番身近で落ち着け、何よりもアキラらしいと感じるのだ。
力強い意志を感じる瞳も、さらりとした黒髪も、全てが彼を司る一つ一つの大事な要素である。眼鏡で眼を隠すなど勿体無い話だ。
他人の前でならどうでもいいが、少なくともヒカルの傍に帰ってきたのなら、早くいつもの姿に戻って欲しい。
アキラはヒカルの視線に気付いた風もなく、帆を固定しながら周囲の位置確認をしている。ほぼ真っ直ぐにヒカル所有の島に向かっていることは、何度も
この辺りを行き来しているお陰でいくら方向音痴のヒカルでも分かった。この風向きなら放っておいてもヨットは島に辿り着くはずだ。
ヒカルはアキラが傍を通りがかったのを幸いに、彼のスーツをぐいと引っ張る。
「……っ!な、何…?」
出し抜けの行為にバランスを崩しかけたものの、上手く立て直して驚いたようにヒカルを見やった。
「いいから座れよ」
アキラの疑問に対して、一切答えず告げるヒカルを訝しそうに見詰めながら、アキラは素直に腰を下ろす。その膝の上にヒカルが座ってきたのに、更に
驚愕した。ヒカルは昔からよくこうしてアキラの膝にのるが、余り薄着の時にされると理性がもたなくて困ってしまう。
今もヒカルの甘い体臭が風にのって鼻腔を擽り、堪らないほど蠱惑的なのに。
臀部の柔らかな感触に、薄手のシャツからうっすらと見える細い身体の線はひどく扇情的で、特に今回は横座りしているのでパレオから伸びたすんなりと
した白い足も眩しく、眼のやり場に困った。
ヒカルはアキラの内心の動揺など知らぬげに、彼の顔をしげしげと眺める。そして徐に伊達眼鏡を取り去ると、髪に手を差し入れてぐしゃぐしゃに掻き回した。
「ちょっ…!何するんだっ!進藤」
ヒカルの突拍子もない行動の数々に、アキラは堪らず抗議する。
「うん、やっぱりこっちの方がいい」
しかしヒカルはアキラのことなど完全無視で、一人納得していた。ヒカルの眼の前には、いつものように髪を下ろしたアキラが居る。
やはりこちらの方がヒカル的には落ち着くのだ。
「……は…?」
対してアキラはというと、きょとんと瞳を見開いて小首を傾げていた。さっぱり何が何だか分からない。
ヒカルの行動は時折アキラの理解の範疇を超える。
頬にかかったアキラの髪を整えてやると、ヒカルはにこにこと上機嫌に笑いながら、胸元に頬を摺り寄せて懐いた。
アキラは手櫛で髪を整えたが、さっぱり行動の意味が分からずに首を傾げるばかりだった。取り敢えず、ヒカルの機嫌が良いようだからこれでいい。余り深
く突っ込んで考えるだけ無駄だろう。
程なく島にヨットが着くと、アキラは碇を下ろして船が流されないようにしっかりと大きな岩にくくりつけておいた。
ヨットに座ったまま手伝いもせずに見詰めるヒカルを、疑問に思うことはない。ヒカルには自然とそれが似合い、反対に手を貸される方がアキラにとっては
奇異なのだ。アキラが手早く作業を終えると、ヒカルはゆっくりと立ち上がって桟橋に近づき、ヨットの端で立ち止まって片手を少し上げる。
それにアキラは心得た仕草で、恭しくヒカルの手を取った。尊く高貴な人に対するように桟橋にエスコートし、島へと導く。
ヒカルはそんなアキラに、輝くような綺麗な笑みを向けた。燦々と輝く太陽の光は、美しい海に反射してより強い光となっているようだ。
けれどアキラにとって太陽は一つではない。この輝きを守る為ならアキラはどんな事でもするだろう。
例え世界が滅んでも、ヒカルとならばいつまでも共に居る。アキラの腕の中に、もう一つの輝ける太陽が居る。
燃え立つような金色の髪、星のように瞬く砂色の瞳、月のように光る白い肌。彼を構成する全ての要素が輝いている。
太陽よりも綺麗に光り輝く存在感を放つ、ヒカルが。
ヒカルこそ、アキラにとっての何よりも愛しい太陽なのだから。
2005.6.5 脱稿/2019.9.20 改稿










後書
ここまでお読み下さり、ありがとうございました。
随分以前に書いただけでなく、途中までUPしていたこと自体を忘れていたお話です。
二人の初夜をテーマにした「ROMANCE」という本に載せていた話になります。
この話のラスト部分は同シリーズの本編とリンクするようにしておりますので、もしお持ちの方がおられたらご確認頂けると嬉しいです。
トレジャーシリーズのアキラさんはちょっぴり苦労人な部分もあって、気の毒に思いつつ書くのが楽しかったですね。
本編はのんびりペースですが、これからも連載をしていきたいと思います。