COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)   夏の風景写真U夏の風景写真U夏の風景写真U夏の風景写真U夏の風景写真U
 8月半ば、そろそろ秋の風が空気の中に入ろうとする季節。それでも日差しはまだ夏の名残を残し、照りつけている。 
 午後2時という時間帯だとまだ日中はうだるような暑さだ。大抵は涼を求めて屋内にいるか、プールや海で泳ぐかで
 
外に出ている人間はまばらだろう。まるでその証明であるように、この公園にはたった一人の人物しか居ない。
 
 小規模な公園でありながらも、中々立派な噴水の脇をどことなく疲れた足取りで歩く少年。
 
 塔矢アキラである。囲碁界において現在注目を浴びている若手棋士だが、若干13歳の少年でまだ中学2年生だ。
 
 基本的にはインドア生活の多いアキラは、色が白く線も細い。容赦なく照りつける太陽の中を歩いている姿は、身体
 
の弱い繊弱な少年という印象すらうけるだろう。しかしアキラは、運動神経が鈍いわけでも体力がないわけでもない。
 
 体育の授業にも真面目に出ているし、囲碁は意外にも体力がいるのでまめに動くようにしている。
 
 一見大人しそうな外見とは違って、情熱的な性格で激情家でもある。
 
 プロとしての生活も忙しいというのに、アキラが小さな公園に一人でやってきている理由は、『未だに夏休みの宿題が
 
できていない』からだ。後半月ほどで夏休みが終わるというのに、これはアキラにしては珍しいことである。
 
 大抵彼は7月中には休み前に出された課題は終わらせる。しかし、今年に限ってはそれができていない。とはいえ、
 
できていないといっても、一教科だけである。他の教科は全て片付けてあり、後は提出するだけという状態に持っていっ
 
てあった。伊達に進学校の海王中学でも学年十指に入る成績はおさめていないという、表れともいえる。
 
 そんな優等生なアキラが未だにできていない教科…それは美術だった。
 
 美術は美術でも、絵を描くという課題ならアキラも苦労はそうしない。実際、去年はさっさとテーマを描いて提出した。
 
 さすがに「身近にある夏の自然」というテーマだと、庭先にある朝顔や向日葵を写生するだけでOKだ。
 
 だが今年は違う。2年の美術の課題を出した先生は、海王中が招いた特別講師で、少し変り種の人物だった。何でも
 
某美大の写真専攻学科を卒業し、コンクールでも入賞して意外と名の知れた写真家らしい。元々は海王中の生徒で、
 
校長たっての願いでこの仕事を引き受けたそうだ。その人が特別講師として、2週間という短い時間だが、美術の授業
 
で写真を教える事になり、生徒に夏休みの間に「写真を撮る」という課題を出してきたのである。
 
 2学期に入ってからだと生徒が撮る時間がないから、時間のある夏休みの間にしておく方が良策、という思惑だろう。
 
 だがこれが難題だった。ただ写真を撮るのではなく、二つのテーマを入れた写真を撮らねばならないのだ。
 
 一つ目は「夏」、二つ目は「心奪われるもの」。最初このテーマを聞かされた生徒達の反応は、不平の声を上げる者、
 
眼を丸くする者、うんざりした顔をする者とそれぞれだった。アキラもまた驚いて声を失っていた。
 
 最初の「夏」はまだ分かるが、二つ目の「心奪われるもの」は実にあやふやなテーマで、何を撮ればいいのかさっぱり
 
分からない。不満たらたらな生徒の質問攻めになった講師は、笑いながら「心奪われるもの」についてこう話した。
 
 「心奪われるもの」とは、つまり自分が興味を持つものだと。それは趣味でも、飼っている猫や犬でも、夕暮れに染ま
 
る雲、夜空、風景…何でも。趣味でなくても、感動、喜び、憎しみ、楽しみ、そういった感情の表れでも構わない。
 
 ただ、自分が持った興味が強ければ強いほどいい。
 
 例え一瞬でも、己の心を捉えて離さなかった存在…それが「心奪われるもの」だと。
 
 この二つのテーマを一枚の写真に納めてもいいし、一枚ずつテーマを一つに絞って撮ってもいい。とにかく必ず二つ
 
のテーマを撮った写真(5枚以内)を提出すること。カメラは使い捨てでも何でもいいが、カラーフィルムで撮ること。
 
 それがこの先生の出した課題だった。
 
 これを聞いた瞬間、アキラは他の宿題を先に済ませて、一番難しいと思われる美術を最後にすることにした。
 
 写真はいわば感性の問題だ。最初から無理に取り組んで、他の課題ができなくなる可能性を無しにしてからでないと、
 
安心してできそうにない気がしたのである。そしてその判断は正しかった。
 
 アキラは7月末までに美術以外の課題は全て済ましたというのに、これだけにもう半月以上頭を悩ませている。
 
 この課題の為に最初は使い捨てカメラを買おうとしたのだが、カメラのことで週間囲碁のカメラマンに尋ねると、「どうせ
 
なら小型の一眼レフの方が遥かにいい写真が撮れますよ」と言われ、結局一眼レフにしたアキラだった。
 
 取材でよく一緒になるからか、アキラにも気さくに声をかけてくる人で、カメラについても尋ねやすかった。
 
 使い方もそのカメラマンから教わり、構図などについても色々教えてもらって、この一ヶ月程の間にカメラの腕も上達し
 
ている。それに意外にもカメラの面白さに目覚めてしまい、ちょっとした趣味になりつつある。
 
 アキラは昔からこだわりだすととことん追及し探求する方だ。やはり写真に関してもそうで、どうしても自分にとって納
 
得のできる作品が撮れなくて、こうして悩んでいるのである。
 
 適当にするのなら、「夏」のテーマは季節の花や入道雲、「心奪われるもの」はアキラが生涯をかけて追求するであろう
 
「碁」、ということで碁盤でも写せばいいのだろうが、実際に撮ってみるとかなりイマイチだった。
 
 朝顔と碁盤を並べて撮ってみても、はっきりいって意味不明である。
 
 開け放した障子から見える入道雲、庭にある向日葵や朝顔、そして部屋の中央には碁盤…ただの風景写真か、旅館の
 
客室紹介としてならまあまあいい写真が撮れているかもしれない。しかし美術の課題としては、センスを疑われそうだ。
 
(……囲碁は碁を打つ人がいなきゃ意味がない。ただ碁盤を撮るだけなら、誰にでもできる。それに囲碁は一人で打ってい
 
ても神の一手には近づけない、二人いないとダメなんだ。囲碁に心を奪われているのは確かだけど…それをテーマにして
 
撮ろうとすると本当に難しいな)
 
 アキラは足の向くままに訪れた公園のベンチに疲れたように腰を下ろすと、盛大な溜息をつく。
 
 最初は父である行洋と碁を打つところにしようかとも思ったが、何だかそれも違う気がしてやめた。庭や碁盤を撮っても埒
 
が明かないと思い立ち、仕方なく家で撮るのは諦めて、出かける際には必ずカメラを持って好きなときに撮る事にした。
 
 しかし、実際にはそんな機会はとんと現れない。
 
 提出期限は新学期が始まる一週間前の登校日。そんなに日は残されていないのだ。
 
 カメラの面白さにも目覚めてきたので、本当は無難な写真なんて撮りたくないが、そうするしかないかもしれない。
 
 物事にこういう妥協をすることを好まないアキラは、大きく溜息を吐いてベンチに座りこんだまま天を仰いだ。何とはなしに
 
見上げると、木漏れ日から夏の日差しがキラキラと落ちてくる。
 
 自分が心を奪われているもの…囲碁…そして…。
 
 まるで今受けている明るい光そのもののような少年のことを考えてしまい、アキラは慌てて木漏れ日から眼を逸らした。
 
 彼のことを少しでも思うと、気になって逢いたくて堪らなくなる。だからなるべく思い出さないようにしているのだ。
 
 逢いたい…けれど逢いたくない。だが、逢いたくないのは囲碁の棋士として、また幻滅させられることを恐れているからか
 
もしれない。プロ試験の予選には通った…ならば、近い将来本当に彼は自分の目の前に立つ時が来る可能性がある。
 
 もしもヒカルがアキラが心を奪われるような棋士として現れてくれれば…どれだけ嬉しいことだろう。
 
 だがアキラが抱くヒカルに逢いたいという気持ちはもっと他からきている。そうでなければこんなにも胸が張り裂けそうに
 
苦しくなったり、痛くなったり熱くなったりしないだろう。
 
 この気持ちがどこからくるのか分からないから、思い出すのはやめようと余計に依怙地になってしまう。
 
 しかし気がつくと、アキラはいつも彼のことを考えてしまっていた。……進藤ヒカルのことを。
 

――ヒカル、ヒカル!あそこにいるのは塔矢アキラではありませんか?
 
 優雅な平安時代の衣装を身に纏った青年、藤原佐為の呼びかけにヒカルは眼を向けた。
 
(……ん?……ホントだ、あんなとこでなにやってんだぁ?あいつ)
 
 公園なんかでぼけっとして爺むせえ奴だな、と呟くヒカルに佐為は「失礼ですよ」と兄のように窘める。
 
 佐為は碁盤にすんでいた俗に言う幽霊というヤツで、ヒカルが小学6年生の秋にヒカルの持つ碁の才能に引き寄せられ
 
て降臨した天才棋士である。ヒカルにしてみればただ単なる囲碁好きの幽霊ともいえてしまう。
 
 しかし一人っ子のヒカルは佐為のことを兄のように、また碁の師匠としても慕っている。二人は兄弟のように口喧嘩をし
 
たりもするし、また何でも相談できる大切な親友でもあり、気楽に話せる友人といえる関係でもあった。
 
(だってよ〜あいつってオレと同い年のくせに妙に考え方とか老けてんだもん)
 
――ヒカルが子供っぽ過ぎるだけでしょ。それよりも声をかけなくてもいいんですか?
 
(ええ!?やだよ!だって前にあいつ二度と逢わないってオレに言ったんだぜ!?若獅子戦の時も無視だしさ!)
 
――大丈夫ですよそんな事。一度逢ってるんですからもう時効です
 
(なんかすっげーこじつけっぽくないか?それ?)
 
――とにかく声を……おや?どうやら塔矢の方がヒカルに気がついたようですよ
 
 佐為に言われてヒカルがアキラの方に眼を向けると、自分をじっと見詰める瞳と視線が絡み合った。ヒカルも気がついた
 
しアキラもヒカルの存在に気付いている。今更無視して通り過ぎるわけにもいかないので、ヒカルは仕方なくアキラの居る
 
ベンチにゆっくりと歩み寄っていった。
 
 口ではなんのかんの言いながらもヒカルはアキラのことが嫌いなわけではない。かといって好きかと問われても、首を傾
 
げてしまうだろう。何せ、囲碁以外の事で顔をあわせたことも余りないし、友人のように雑談をしたり喋ったりした数も決して
 
多くはない。友達づきあいをまともにしていないような相手だから、判断のしようがないのだ。
 
 けれどヒカルにっとっても少なからずアキラは気になる相手である。
 
 囲碁ということに関しても、追いつき追い越す相手として常に念頭にある人物なのだから。
 
 対等の存在として見て貰えないのが悔しくて、アキラの真剣な瞳を向けるために頑張ってここまでやってきた。
 
 『好き』『嫌い』という単純な答えでは導き出せない複雑な思いが、アキラと同じようにヒカルにもあるのだ。
 
 一方アキラは、思いもしなかったヒカルの登場に無言のまま固まってしまっていた。
 
 今一番逢いたくて、同時に逢うのが辛くて逢いたくない人物がこちらに向かって近付いてきているのである。
 
 碁なら一瞬のうちに的確な判断をする明晰な頭脳が、完全に思考を拒否して真っ白になっていた。ベンチから動くことも
 
できず、また話しかけるような言葉も思いつかないうちに、ヒカルは眼の前に立ってどこかぎこちなく笑いかけてきた。