「よ、よお、こんなとこでなにやってんだ?」
「…うん…ちょっとね……」
曖昧に答えながら、アキラも笑いかける。自分でも不思議なほど、自然に笑顔と言葉が出たことに驚いた。だがそれが
アキラの心の重みを取り去り、日頃の冷静さを取り戻すきっかけとなったらしい。気負わず話しかけることができた。
「ここ……座ったら?」
「うん」
ヒカルもアキラの笑顔に安心したのか、いつもの素直な笑みを浮かべて隣に腰を下ろした。アキラには見えないが、ヒカ
ルの横には佐為もちゃっかり座って、二人の様子を優しく微笑みながら見詰めている。
「そういえば…、プロ試験の予選に通ったんだよね。おめ……」
「……その言葉はプロになってから聞かせてもらうことにする。まだプロ試験は途中なんだからな」
アキラの声を遮ったヒカルの強い瞳に少なからず心が揺れ動いた。碁打として、また進藤ヒカルという少年に惹かれる、
塔矢アキラ自身として、瞳を奪われずにいられない。一瞬ヒカルと打ちたいとアキラは感じたが、時期尚早であるという天
の思いからか、ヒカルの次の言葉により泡のようにその考えは消え去っていた。
「それよりも、おまえここでなにぼけっとしてんだよ」
「夏休みの課題のことで考えてたんだ」
――あれまぁ…ヒカルと違って塔矢はもう終わらせてそうな感じですのに…珍しいですねぇ
(佐為、おまえオレにモーレツに失礼こいてるぞ!オレはあと英語さえ終わらせればいいんだからな!)
――私が散々手伝ってあげたからでしょ、英語だけになってるのは
(……それでもここまで終わらせてるんだからいいだろー)
むくれて言い返すヒカルに苦笑を零しながらも結局はヒカルに甘い佐為は、にっこりと笑って頷く。
――そうですね、プロ試験があるというのに、よく頑張ってますよ。ヒカルは
実際ヒカルはよくやっていると佐為も思う。古文や歴史などは佐為も少し手伝ったが、数学や美術などの科目はヒカルは
殆ど自力で終わらせたのだ。最近よく通っている碁会所で多少は教えてもらったりしていたものの、中々のものだ。
しかしヒカルがこうして夏休みの宿題もちゃんとするのは、佐為の影響もあった。いくら兄弟のようにいつも一緒に居ると
はいえ、元は赤の他人だ。さすがに見苦しいところを見せるわけにもいかないという思いもどこかにあったのだろう。勿論
それだけでもなく、佐為がヒカルに勉強をおろそかにするなと、言い聞かせていることもある。
ヒカルは佐為と一緒に居るようになってから、授業で居眠りも殆どしなくなり、宿題も以前よりするようになっていた。
昔は佐為に褒められるとヒカルはすぐに調子にのったが、最近は落ち着いてきて、嬉しそうに微笑むに留まるようになっ
ている。幼いヒカルを知る佐為としては、少しばかりの寂しさと成長したヒカルを微笑ましく思うのとで、複雑な心境だった。
「なあ、塔矢ができてない科目ってなに?」
ヒカルの持つアキラのイメージだと、夏休みの宿題はさっさと殆ど終わらせている。例え何かが残っていたとしても、せい
ぜい一科目だけという感じだ。そしてその予想は当たっており、アキラが吐息を吐きながら答えたのは一つだった。
「………美術」
好奇心もあって尋ねたものの、予想外の答えにヒカルは眼を丸くする。
「へぇぇ〜なんか意外。あ、オレは英語がまだなんだ」
「英語は何だか進藤らしいね。美術はいつもならすぐに終わらせるんだけど、今度のは難しくて」
「難しいって…美術だろ?絵とか彫刻とかすんじゃねぇの?」
「それならボクもここまで苦労しない。キミだってコレには困ると思うよ?課題は写真なんだから」
「しゃ、写真〜!?美術の宿題が?なんだよそれ!」
すっ頓狂な声を上げるヒカルに、アキラは特別講師の出した夏休みの宿題についてかいつまんで話して聞かせた。
「……とまあそういうわけなんだ」
「はあぁ…それはまた大変だよな〜」
話しだすと、やはり同年代であるお陰か、二人の話は意外にも弾んでいた。最初こそお互いに気後れしていたが、少し喋
っただけでまるで旧来の友人同士のように話すようになっている。
元から全く面識がなかったわけでもなく、ヒカルは人懐っこい性格でもあるし、アキラもヒカルと話すことが楽しい。お互い
にこれまでの垣根をあっさりと越えてしまい、今までの時間を埋めるように日常の事を喋り合っていた。
「海王中ってやっぱりすげーんだ…そんなエライ先生を呼ぶなんて」
「偉い先生というのはおいといて、生徒の立場としは、こんな課題を出されて困惑させられているのが本音だよ」
「クラスのヤツらはどうしてんだ?」
「皆それぞれ。適当に撮ってたりもするし、ボクみたいに悩んでいる子もいる。半々ぐらいかな?」
学年十指に入る成績からか、アキラは何人かの同級生に泣きつかれたりもしたのだが、自分自身ができていないことな
のにまともなアドバイスができるわけがない。それでも少し話したらあっさりとヒントを見つけていって、課題をクリアしたク
ラスメイトもいる。
皆、自分の愚痴を聞かせる相手が欲しいだけなのだ。だがその相手に選ばれてしまうのは、恐らく人望もあるのだろう。
別にアキラはクラスから孤立しているわけでもなく、昼休みに一緒に話すクラスメイトや友人もそこそこいる。ただし、あく
までも校内だけの話で、プライベートな付き合いは殆ど皆無といっていいほどない。そこがアキラらしいともいえる。
「う〜ん、オレだったらどうするかな?……花火とか夏祭りにするかも。やっぱ夏の風物詩といえば花火だもんな」
「花火か……いいね」
「あ!そういえば今度花火大会があるんだぜ?オレ、見るのにスゴクいい場所知ってんだ、一緒に行かねぇ?」
「……え?」
予想もしなかったヒカルの言葉に、アキラは咄嗟に返事ができず声を失った。
「なんだよ、オレとだと不満なわけ?」
そのアキラの反応にヒカルはムッとしたように唇を尖らせる。
「そ、そんな事はない!行くよ、一緒に行く!」
自分でも何故こんなにも嬉しいのかさっぱり分からなかったが、アキラは頬を紅潮させて何度も勢いよく頷いた。
「よし!じゃあ決まりだな」
にこりと楽しげに笑ったヒカルの笑顔に、心臓の鼓動が突然高鳴る。今更ながらヒカルと二人で居ることを意識しだしてし
まう。けれどこうして一緒に居ることが心地よくて、何よりもヒカルの笑顔を見れることが嬉しくて堪らない。
もっと一緒に居たい。ヒカルと話していたい。傍でこうして笑顔をみせていて欲しい。
ふとしたヒカルの笑顔や仕草に、アキラは自分の心が奪われていることに唐突に気がついた。囲碁と同じぐらい、ある意
味それ以上に心が惹かれる存在なのだ、ヒカルは。『心奪われるもの』としての被写体は、ヒカル以外に有り得ない。
そう思うといてもたってもいられなくて、アキラは殆ど無意識のうちに口を開いていた。
「あ、あの…ところで進藤、急で悪いんだが……キミ、これから時間ある?」
「時間?今日は用事なんて何もないぜ」
「じゃあ、モデルをしてくれないか?ボクはまだ人を撮ったことがないし、まだカメラの扱いにも慣れてないんだ。キミを撮ら
せて貰えると嬉しいんだが」
緊張のため普段よりも早口に一気に喋ってしまうと、アキラはヒカルを窺い見る。
「え〜モデル?オレが?やだよそんなの、恥ずかしい!」
「でも、ボクにはキミ以外考えられないんだ。承諾してくれないか?」
「……う…う〜けどよう……」
ヒカルは基本的に人に頼まれたことはどうも断りきれない。頑と突っぱねる時は突っぱねるのだが、こういう困ったような
物言いで頼まれたりすると、弱い。ヒカルは救いを求めるように、傍らで無言のまま見守っていた佐為を見やった。
(どうしよう…佐為)
――どうもこうも…聞いてあげればいいじゃないですか。塔矢のことだからきっと悪いようにしませんよ。ヒカルだって本当
は塔矢の助けになりたいのでしょう?こういう時はお互い様ですよ、引き受けておあげなさい
佐為にまでこんな風に優しく諭されてしまうと、ヒカルはもう否とは言えない。
「……分かったよ。けど条件がある」
「条件?……何?」
「オレの英語の宿題の手伝いをすること!おまえのモデルをするってことは美術の宿題の手伝いなんだからな!」
「なんだ、そんなこと?いいよ、明日にでも図書館でしようか」
「マジ?もしかしておまえ英語とか得意なの?」
「得意かどうかは分からないけど、苦手ではないよ。じゃあ今度はボクの番。これから早速モデルをしてくれるよね?」
(こいつってば、相変わらず強引なとこは変わってねぇんだな)
ヒカルは半ば呆れ半ば感心しながらも、どこかくすぐったいような安心したような気持ちになった。
だがモデルという言葉と現実の恥ずかしさの前には、そんな思いもあっという間に吹き飛んでしまう。
「う〜…くそ!乗りかかった船だ!好きに撮りやがれ!」
半ば自棄気味に頷いたヒカルに、アキラは眩しいほどの笑顔を見せてカメラを取り出した。