夏の風景写真\夏の風景写真\夏の風景写真\夏の風景写真\夏の風景写真\   COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)
 私にとっての初の連載ものがこの「夏の風景写真」です。今まで書き下ろす方が多かっただけに、連載は勝手が掴めなくて戸惑ったりしました。今もですが(笑)。
 始めとラストが噛み合わないような気もしますが、許してやって下さいませ。
 この話の後も「地上の星」というシリーズで、彼らの歩みを書いていきたいです。
 二年後の話にオフ本「Butterfly(完売済)」もあります。
 それから、アキラさんは日記と同一人物設定です。日記だと本音が出てはじけてしまい、変な人に。本人読み返したら落ち込むでしょうね〜(笑)。まともアキラさんの筈が、へたれアキラさんになっているのはご愛嬌。眼を瞑っておいて下さい(汗)。
 ところで、このシリーズのコンセプトは「子供の不器用な恋愛」です。
 「目指せ!可愛くほのぼのとした恋物語!」を無謀にも目標に掲げております。既に主旨から外れてそうですが、生暖かい眼で見守って頂けると幸いです。
 二人の距離が少しずつ近づいて意識し合う姿を書きたいと思っておりますので、宜しければ今後ともお付き合い頂けると光栄です。
 因みに純愛は伊角×和谷、大人の恋は桑原×緒方ってことで(笑)。
 明るい光と派手な音に、アキラは我に返ったように上空を見上げる。一つ一つの夜店を見て回り、いよいよヒカルの不在に 
不安を覚え始めた矢先のことだった。
 
 巨大な花が夜空に開き、周囲に居た多くの人が思わず立ち止まって、顔を上へ向けて感嘆の吐息を洩らしている。
 
 アキラは茫然と空を見詰めて、五つ目の花火が散るまでその場で動くこともできずに立ち尽くした。
 
(……何てことだ…)
 
 自分の馬鹿さ加減にほとほと呆れてしまい、声を出すことはおろか、息をすることすら嫌になりそうだった。花火を見るまで、
 
完全に失念していたのである。ヒカルと神社で落ち合う約束であったことを。
 
 こんな簡単なことすら忘れるぐらい、自分を見失っていたという事実よりも、まず悔しさで眼の前が真っ赤に染まる。
 
 自分は一体この一時間を何に使ったのか。というよりも、使ったことすら腹立たしかった。
 
 こんな情けない、無駄な時間の過ごし方をしただなんて、今までの人生の中で一番最低、最悪だといえる。ヒカルと一緒に
 
過ごせるはずだった一時間を、自らの間抜けさで失ったという現実に、アキラはヒカルに囲碁で負けた時と同等(それ以上)
 
の衝撃を味わっていた。
 
 時間を戻せるのなら、戻したい。戻して一時間前の自分に、ヒカルの元へ行けと喝を入れてやりたかった。しかし実際問題と
 
して不可能なことで、既に起こった事象を戻すことはできないのである。
 
 様々な色に変わっていく光の花を虚ろな眼に映していたが、滝のように流れる金色の花火が上がった瞬間、アキラの瞳にい
 
つもの強い輝きが戻る。こんな所で悠長に惚けている場合ではない。一刻も早くヒカルが待つ神社に行って、一時間分を取り
 
戻さなければならないのだ。
 
 そうと決めればアキラの行動は素早い。すぐ様踵を返して、猛然と人込みの中を走り始める。余りの勢いに数人の男女が驚
 
いて振り返ったが、殆どが花火に見惚れてアキラに注意を払う者は居なかった。
 
 アキラは大人しげな外見に反して、意外と足が速い。体育祭ではクラス対抗リレーの走者に選ばれたりもする程である。
 
 神社までの距離をもどかしく感じながら、アキラは必死に足を動かし続けた。露店で埋まった明るい目抜き通りを抜けて路地
 
を回り、仄かな街灯の明かりに照らされた狭い道をひたすら走る。やがてアスファルトで固められた道を外れて奥へ進むと、
 
都心とは思えないほどのどかな田園風景の広がる場所に出た。
 
 この辺りまで来ると、先ほどまでの喧騒も届かない上に街灯すらもない。星と月と花火の明かりだけが頼りになる。だが暗さ
 
に慣れた眼にはたったそれだけの光でも十分だった。道は田園地帯を縫う様に枝分かれし、その内の一本がこんもりとした緑
 
の山で行き止まっている。迷うことなく小さな山の麓に着くと、雑草に半ば埋まって見えにくい急な石段を上った。
 
 鳥居を大急ぎでくぐり抜けた瞬間、正面の本殿に座る人物の姿が見えて胸に安堵が満ちる。もしも居なかったら、という考え
 
がなかったわけではなく、居ると信じていてもどこかしら不安に思っていたのだ。
 
 全速でここまで走ってきたせいか、境内に数歩入って膝に手をつき、肩が上下するほど乱れた呼吸を整える。その間もアキ
 
ラはヒカルから眼を外さなかった。またさっきのように、どこかに消えてしまいそうで逸らすことがどうしてもできなかったのだ。
 
 額から流れ落ちる汗を拭い、境内の脇にある手洗い場で手を清めて、ゆっくりとヒカルの傍に歩いていく。
 
 縁側に座っている為自分よりも目線が高いヒカル声をかけようとし、アキラは不意に口を閉ざした。何故か、声をかけてはい
 
けない気がしたのである。神聖な場を穢してしまうようで、横合いからの邪魔を入れてはならないと思ったのだ。
 
 本殿の板張りの縁側に正座し、ヒカルは一人で碁を打っていた。どこから持ち出してきたのかちゃんとした足つきの碁盤だ。
 
 足音を殺してすぐ傍にまで近づいてよく見ると、ヒカルの横には碁笥が二つある。どういうわけか、アキラはそれに奇妙な違
 
和感を感じた。盤面はアキラの身長では覗くことができないものの、ヒカルの様子が棋譜並べをしているようにはどうしても見
 
えなかったのである。
 
 まるで誰かと対局しているように感じられるのだ。淀みなく打っているようでも、時折手が止まって考えるみたいに瞼が伏せら
 
れる。白石は決まって一定の速度で放たれるのに、黒石は明らかにヒカルの思考によって早くなったり遅くなったりしていた。
 
 今のヒカルが見せる盤上への凄まじい集中力と鋭い瞳、何よりも相手に対する闘争心のようなものが彼からは醸し出されて
 
いる。棋譜並べなら、もっと淡々としていてもおかしくない。これではまるで、今誰かと闘っている最中のような印象を受ける。
 
 しかし、ヒカルは一人である。それに碁笥はヒカルの横にちゃんと二つ並べられている。だから棋譜並べのはずなのだ。
 
 けれどどうしても納得できない。ヒカルは誰かと碁を打っているようにしか見えないのだ。
 
 恐る恐るヒカルの正面に眼をやるが、そこにはやはり影も形も有りはしない。誰も居るはずがなかった。それなのに、アキラ
 
にはそこに何者かが座っているように思えた。ヒカルの対面に、何者かが座して碁を打っているのが見える気がした。
 
 居るかどうかも分からない存在に、自分の座るべき場所を取られたような嫉妬と疎外感。同時に、心の奥底からそこはまだ
 
自分の場所ではないと、告げてくる。そう、そこはまだアキラが座してはならない所だった。ヒカルの対面は未来の自分が座る
 
べき場所であり、今の自分にそれは許されない。アキラの持つ鋭い勘に直接何かがそう働きかけてくる。
 
 ヒカルの座る縁側とアキラの立つ境内。ここには明確な差異がある。それが、まるで今のヒカルとアキラの相容れない一つ
 
の敷居を作っているように感じる。今こうして傍に居ながらも、同じ舞台に立てない二人そのものだった。
 
 盤面の宇宙を見たい。好奇心もあるが、ヒカルが今どれだけの実力を持っているのかが知りたい。でも見てはならないと無
 
意識のうちに思った。この神聖な対局の間に入ることはできないと。
 
 ヒカルとアキラとの間には物理的にも段差はある。だが、殆どアキラはヒカルの真横に居るというのに、彼が気付いている様
 
子は全くなかった。恐らく人の存在はおろか、気配すら感じていないだろう。その集中力に感心するアキラだったが、ヒカルの
 
横顔が花火に照らされる様を眺めてはたと写真のことを思い出した。
 
 ヒカルが気付かないうちに、今の姿を写真に収めておいた方が良さそうだった。棋譜並べをしているように見えながらも、誰
 
かと打っているようにも見えるヒカルだからこそ、被写体として申し分ないように思える。
 
 アキラは音を立てないように注意をしながら、本殿の軒下にしまっておいた鞄から道具一式を取り出して準備を整えた。スト
 
ロボを焚くとヒカルの集中を乱す可能性があるので、焚かなくて済むようにフィルムを普段とは変えて暗くても解像度の高いも
 
のにする。それで幾つもの角度から碁を打つヒカルの姿を写して、自分でも納得できる枚数を撮り終えると、今度は三脚ごと
 
花火の方に向けて角度を調節する。どうせなら、花火も撮っておかねば来た甲斐がない。
 
 確か当初の目的は花火を撮ることだった筈なのだが、いつのまにやら花火はヒカルのおまけになっていることに、アキラは
 
全く気付いていなかった。
 
「………ぅ」
 
 背後で微かにヒカルの声が聞こえて、アキラは勢いよく振り返る。花火の音でかき消されて聞き取り辛かったが、気のせい
 
か『投了』と言っていたような気がして、益々誰かと対局していたような錯覚に陥りそうだった。
 
「あれ?塔矢。いつからそこに居たの?」
 
 ヒカルは碁石を片付けつつ、初めてアキラの存在に気付いたように声をかけてきた。
 
「…あ、ごめん。結構前からなんだけど……」
 
「わりーな、打つのに夢中になってて全然知らなかった」
 
 屈託なく笑って碁盤を元の場所に戻すと、階段を下りてアキラの元に小走りに寄って来る。
 
「あの碁盤って…もしかして神社の…?」
 
「うん。汚れてたから、綺麗にするついでに打ってたんだ。面白かったぜ〜」
 
「……そう…」
 
(進藤……ボクにはキミが誰かと打っていたように見えたんだけど、気のせいなんだろうか)
 
 相槌を打って頷きながら、もう少しで出そうになった奇妙な錯覚を口にすることなく喉の奥で呑み込む。こんな事を下手に
 
訊いたら、何をおかしなことを言っているんだと思われても文句は言えない。どう見てもヒカル一人だったのに、対局者が居
 
ると考える方が常識的にみても奇異だろう。自分でも馬鹿げた言葉を投げかけようとしたものだと苦笑を浮かべた。
 
(おかしなことを考えているな、ボクは。進藤は一人だった。もう一人誰かが居るなんて……有り得ない)
 
 無意識のうちに考えを打ち消すように首を振る。考えても仕方のないことだった。
 
 そんなアキラを眺めて、佐為は気遣わしげにヒカルを窺って心配そうに眉根を寄せる。
 
――塔矢は勘が鋭いですから…あの様子からして何かを察したかもしれませんよ
 
(何かって何だよ)
 
――そんな事私に訊かれても分かりませんけど……
 
(例え何か勘付いてても、あいつは訊いてこないんだからいいじゃん。こっちからわざわざ波風立てることねぇだろ)
 
――それはまあ…そうなんですけどね…
 
 佐為が不承不承ながら頷くと、ヒカルはどことなく話題を逸らすように横に立つアキラに視線を向けた。
 
「なぁなぁ、塔矢。何でこのカメラ三脚に置いてるの?」
 
 アキラがカメラを持たずに三脚に固定したまま触ろうともしないことが不思議で、上目遣いに見上げて尋ねてみる。
 
「ああ、これ?暗い所で撮る時は、光を多く取り込めるようにシャッタースピードを落とすから、固定しないとぶれるんだよ」
 
「へぇぇ〜何か小難しいこと知ってんだな、おまえ」
 
 暗い場所で花火や人を撮るときは、手ぶれを防ぐ為にカメラを三脚にセットし、リモコンでシャッターを操作するのはそこそ
 
こ写真の知識を持つものなら誰でも知っていることである。しかしヒカルは知らなかったのか、感心してしげしげとカメラを見
 
ていた。しかし、カメラをただ見ていても面白いわけもなく、すぐに夜空に舞い散る花弁へと瞳が奪われる。
 
 アキラから少し離れた位置で立ち尽くし、無言のまま星と月と共演する花を見上げて、無意識のうちに口元を綻ばせた。
 
 そんなヒカルと花火が一緒にファインダーに収まるように、アキラが調整していたことにも気付かない。
 
「お!今の魚だったぜ。あれなんて円盤だな。UFOみたいなのもある、それとも土星かな?」
 
 オーソドックスな形以外の、様々にユニークな模様の花火に楽しそうにヒカルは笑う。
 
「あっ!あの金色の花火オレ一番好き。キレーだよな」
 
「うん、凄く綺麗だ」
 
 夏の夜空を流れる滝を思わせる金色の花。光に照らされて振り返って微笑んだヒカルに、アキラも頷いた。
 
 だが、ヒカルとアキラの言葉の意味合いは大きなずれがある。アキラは花火の美しさにも感嘆したが、幾つもの光の花を
 
頭上に頂いて振り向いたヒカルの綺麗な微笑に一番心を奪われた。
 
 正直、シャッターを押したかどうかも記憶にないほど、ヒカルにだけ意識が向かっている。それを自覚することすらできず
 
に、ただアキラは花火の閃光の中に佇むヒカルの姿を見詰め続けていた。
 

 気がつくと、地鳴りのように轟いていた炸裂音も、鮮やかな輝きもすっかりなりを潜めて辺りは静まり返っていた。
 
「花火ももう終わりだね。そろそろ帰ろうか、進藤」
 
「そうだな。遅くなるとまずいし帰るか……。ん?そういや花火で忘れてたけど、おまえどこに行ってたんだ?勝手にいなくな
 
るなよ、心配するだろ」
 
「あ……ごめん…」
 
 さすがに神社で落ち合うことを忘れてましたとは言えないので、アキラは少しでもこの話題から逃れる為に早々に謝ること
 
にする。自分の間抜けさ加減が余りに格好悪くて恥ずかしく、穴があれば入りたいほど情けない気分だった。
 
「いや…ま…その…なんだ。とにかく会えたからもういいや。今度からはぐれんなよ」
 
「うん」
 
 アキラが拍子抜けするほどあっさりと神妙に謝ったので、ヒカルは気勢をそがれてそれ以上言うことができず、どことなく照
 
れを感じて頬を指先で掻いて視線を逸らす。それに、アキラがとても嬉しそうに頷いたりしたものだから、余計に照れ臭い。
 
(なんか…調子狂っちゃうんだよな〜)
 
 どうも変な感じだった。さっきからアキラの顔をまともに見ることができない。先刻振り返ってアキラに声をかけた時、花火の
 
光の中で淡く微笑を返してくれた彼の姿がとても綺麗で。あの笑顔がずっと頭から離れなくて、胸もどきどきしはじめて自分
 
でもどうすればいいのか分からず、花火を見るふりをして一度もアキラに顔を向けずにいた。アキラの視線はずっと感じてい
 
たが、振り返るのが妙に気恥ずかしくてできなかったのである。
 
 佐為も男だとは思えないぐらい綺麗だがこんな風に感じたことはない。アキラの笑顔に見惚れてしまった時のように、胸の
 
鼓動が早くなって微かな痛みを覚えたことは全くなかった。どうしてアキラの傍に居るとこんな感覚が訪れるのか、分からな
 
くて混乱する。それも普段は何てこともないのに、彼のふとした仕草で唐突にやってくるから余計に困るのだ。
 
「帰ろう、進藤」
 
「う…うん」
 
 アキラに手を握られた瞬間、頬がカッと熱くなる。他意があるわけではなく、自転車の置いてある神社の奥へヒカルを促す
 
為だと分かっているのに、掌から伝わる体温に安心感と胸の高鳴りが同時に押し寄せて、より一層混乱しそうだった。かとい
 
って振りほどくことなんて到底思いつきもせずに、無意識のうちに握り返していた。
 
 仄かに握る力が強くなって応えてきたヒカルの手の温もりに微笑むと、アキラはヒカルを誘うように歩き出した。例え何があ
 
ってもこの手を二度と離さないと、密かに心に決めながら。
 

 月と星明りに照らされた坂道を、アキラは慎重に下っていく。だがヒカルにはそれが不満なのかさっきから「もっととばせよ」
 
とせっつかれて正直困った。
 
「こんな坂道でこけたら危ないだろ?ボクはキミに怪我をさせたくないんだから」
 
「こっから先はカーブも緩いし、大丈夫だって。それに坂道は下りが醍醐味なんだぜ?とろとろ走ってねぇで一気に行けよ」
 
「でも……」
 
「何だよ、怖いのか?」
 
「怖くなんかない」
 
「じゃあ行けよ」
 
 売り言葉に買い言葉という諺通り、思わずムッとして答えた自分の浅はかさを呪いたくなる。どうもヒカル相手だと、負けん
 
気がつい出てきてしまうのだ。しかし言ってしまったからには後には引けない。アキラは観念したように溜息をついて頷いた。
 
「……分かった…」
 
 ブレーキを緩めて徐々にスピードを上げ、緩やかなカーブを曲がる毎に早くなる自転車をコントロールしながら走った。自分
 
にしがみつくヒカルの温もりに頬が熱くなるが、涼やかな風に撫でられてその熱を奪いとられてしまう。それを残念に思いなが
 
らも、背中にある気配と温かさの確かさに嬉しくなった。
 
「うっひょう!塔矢!もっととばせー!」
 
――とばせ〜!
 
 ヒカルの後ろで佐為も一緒になって同じように歓声を上げている。そんな佐為にヒカルは楽しげに笑いかけて、もっと速くと
 
アキラにねだった。ヒカルの笑顔を佐為が好きなように、ヒカルも佐為の笑顔が大好きだ。佐為が大切だから、その望みを少
 
しでも叶えてやりたいとも思う。アキラのことも大切だ。でもそれは佐為に対してとはまた違う。ヒカルにはその違いが何かま
 
るで分からなかったけれど、アキラはアキラで何よりも大切なことは変わりなかった。
 
「無茶を言わないでくれ、これが限界だよ」
 
 アキラはどことなく焦ったような困った声を風にのせて答えてくる。
 
「おまえまだブレーキしてんじゃねぇの?」
 
「してないよ。……でもそこを曲がったら一直線に下るからスピードは上がるな…。しっかり掴まってて」
 
「おう!」
 
 一段と風の唸りが速くなったのを感じながら、ヒカルはアキラの腰に回した腕の力を少し強めた。 前髪が揺れ、浴衣の袂が
 
風を孕んで膨らみ、激しくはためいて自転車の速さを実感させてくれる。
 
 坂を下りきって風が緩やかになっても、ヒカルは力を緩めずにいたが、自宅に着いてしまえば否が応もなく腕は外さなけれ
 
ばならなくなる。何となくアキラから離れるのは寂しくて嫌だった。
 
 さっさと自転車を門の中に入れてしまうと、離れがたい気分に便乗して、アキラに途中まで送ると口実をつけて一緒に歩いて
 
行く。肩を並べて歩きながら、寂しさを誤魔化すように他愛もない話をしていた。
 
 しかし明るい大通りに面した道に出たところで、アキラが足を止める。
 
「……進藤、ここまででいいよ。夜も遅いしキミはもう帰った方がいい」
 
「んだよ、折角ここまで来たのに。どうせなら駅まで送るよ」
 
「ここから先は充分明るいしボク一人でも平気だ。でもキミは今の道で帰るだろ?暗いしボクが送り届けたいぐらいだよ」
 
「そういうのを本末転倒っていうんじゃねぇ?」
 
「自分でも充分承知しているよ、矛盾してるってことぐらい。とにかくここまででいいから」
 
 ヒカルはひどく不満そうに頬を膨らませていたが、アキラが譲る気配がないのを察して仕方なしに頭を縦に振った。
 
「……分かったよ。塔矢、写真出来たら見せろよ」
 
「勿論だ。じゃあ今度はいつ会おう。学校の帰りにしようか?」
 
「うーん…やっぱりプロ試験終わったら会うことにする!おまえと同じ舞台に立ってみせねぇとな」
 
「……それは…合格できればの話だろ」
 
 事実を鋭く指摘されて、プロ試験に向けて折角盛り上げようとした気分が一気にしぼんでくる。これでは意気を高めようとし言
 
った台詞も台無しだった。ヒカルはアキラを睨みつけたが、さらりと受け流されて余計に腹が立ってくる。
 
 アキラは更に続けて、情け容赦もなく、有り難味の欠片すらもない居丈高な言葉をヒカルに投げつけてきた。
 
「大言壮語を吐くのなら、もっと実力をつけてからにするんだな。今のキミは猫が毛を逆立てて威嚇しているのと同じだよ」
 
「可愛げのねぇ奴だな、もう!」
 
 不意にヒカルの手が伸びて胸倉を掴んで引き寄せられると、間近から顔を覗き込まれてアキラは声も出せずに硬直した。
 
 触れそうなほど近くにヒカルの唇があり、微かな息遣いすら伝わって、心臓の鼓動が俄かに激しくなる。
 
「こういう時は、お世辞でもいいからエールを送るもんじゃねぇの?」
 
「……キミがボクからそんな台詞を望むとは思えないな。それにボクはキミを待つつもりはないし、歩みを止めるつもりもない。
 
追いつきたければ力をつけて追いかけてくるといい、進藤」
 
 ムッとしたように頬を膨らませて睨んでくるヒカルは本当に可愛かったが、内容にはどうも引っかかりを覚えて、アキラはすげ
 
なく言い返した。さすがに突然で驚きはしたが、この状況に慣れてくると多少は冷静さを取り戻し始めたようで、すらすら言葉
 
が出てくる。自分で言うのもなんだが、憎まれ口ならつらつらと出てくるのには困りものだ。どうせ言うのなら、もっとヒカルが喜
 
ぶようなことを言えれば、お互いの距離も縮まるというのに。
 
「この野郎…絶対にいつか負かしてやるからな!覚悟してろよ!」
 
「ボクもキミに負けるつもりはない」
 
 しばし二人は無言のまま睨みあっていたが、どちらからともなく目線を離してぷいっと身体ごと顔を背ける。ついさっきまで仲
 
良く自転車に乗っていたとは信じられないほどの変わりようであった。そんな二人の様子に、佐為はやれやれと大きく頭を振っ
 
て嘆息する。前途多難どころかスタート地点にすら立つかどうかという状態では、この先の歩みも想像がつきそうな気がした。
 
 それでも次の瞬間には、ヒカルとアキラは再び向き合うのだから、何とも奇妙なものである。 口ではなんのかんのと言い合
 
ったりしていても、根底ではお互いのことを認め合っているという現れだろうか。
 
「………じゃあ、オレ帰るから。……またな」
 
「うん……また会おう」
 
 そう言いながらも、本当は離れがたいのが本音だった。このままヒカルを自分の家まで連れて帰りたいと思ってしまいそうに
 
なるぐらい、別れるのは嫌だった。次に会うのがプロ試験の本選が終わってからということは、2ヶ月以上ヒカルに会えないこと
 
になる。そう思うと、より一層離れたくなかった。会えなくなれば、またあの胸を裂くような痛みと苦しみに襲われることも大体想
 
像がつく。しかし会えると思えば乗り切れるような気もした。ヒカルの存在が何よりもアキラの心を満たしてくれるから。
 
 離れがたく後ろ髪を引かれるような思いを味わいながら、アキラとヒカルは同時に視線を外して背中を向け合い、真っ直ぐに
 
歩き始めた。しかしアキラはどうしてもヒカルに一言声をかけたくて、勢いよく振り返った。
 
 すると、まるでアキラが振り返るのを待っていたかのように、仁王立ちしたヒカルの厳しい視線と絡み合う。
 
「し……」
 
「塔矢!オレも立ち止まったりしないからな!」
 
 アキラが口を開きかけたのを遮って、ヒカルは斬りつけるような鋭い瞳を向けて言い放つと、くるりと背中を見せて暗い路地の
 
奥へと走り去った。
 
 その場にアキラはしばし茫然と立ち尽くしていたが、やがて唇の端に笑みをのせてヒカルに応えるように小さく頷く。
 
 神の一手を究める道に終わりはない。そして碁は、対面に座る存在が居なければ打てないのだ。それが未来のヒカルであろ
 
うことを、既にアキラは確信し始めていた。
 
 ヒカルは決して振り返ることなく、唇を噛み締めて前を見据えて家までの距離をひた走りに走る。やっと自宅の小さな門まで
 
来て、背中を見た。そこにはいつものように、佐為が柔らかく微笑んで佇んでいる。それにどこか安心感を覚えながらも、いつ
 
までも佐為に甘えてばかりいてはいけないのだと、自分に言い聞かせた。
 
 絶対に追いつき、そして追い越す。アキラにだけは負けたくない、アキラだからこそ負けたくはないのだ。自分自身の力で彼
 
と戦わねば、何も始まることはないのだから。
 
 頭上を振り仰ぐと、秋をどこか感じさせる円い月が夏の夜空に浮かんでいる。同じ頃アキラもまた空を見上げて月を眺めた。
 
 真夏の月は、二人の少年の頭上に平等に光を降り注ぎ、地上の星を照らし出していた。
 
 まるでメビウスの環を永遠に走り続ける、二人の果てしない道程を指し示すように。
 

                                                 2003.8.29