夏の風景写真[夏の風景写真[夏の風景写真[夏の風景写真[夏の風景写真[   夏の風景写真]夏の風景写真]夏の風景写真]夏の風景写真]夏の風景写真]
 手が離れたのはほんの一瞬だった。その瞬きほどの僅かの間に、ヒカルの姿は人の波の中に消え去ってしまってい 
た。ただでさえヒカルは小柄である。いくら前髪が金髪で目立つといっても、大人の中に埋もれてしまったら分からない。
 
 突然ヒカルの姿が見えなくなったことで、アキラはとてつもない焦りを感じ始めた。
 
 掌に残る温もりを感じながら、きょろきょろと周囲を見回すがどこにも見当たらない。背中に冷水を浴びたように、背筋
 
の温度が低くなっていく。気温はうだるように高いというのに、寒気すら感じた。暑さではない汗が全身を濡らしている。
 
 今まで感じたことがないような不安と焦燥に、心臓の鼓動が信じられないほど早くなっていた。
 
「……探さないと……!」
 
 アキラは自分でも気がおかしくなったのではないかと思うほど、焦っていた。 
 だからすっかり失念してしまっていたのだ。はぐれてしまったら、神社で落ち合うことを。たったそれだけを思い浮かべ
 
るだけの冷静な判断力すら、ヒカルが眼の前から消えてしまっただけで失ってしまっていた。
 
 ヒカルが傍から少し離れただけで、どうしてこんなに不安になるのだろう。まるで永遠に会えなくなってしまうような、そん
 
な焦燥と恐怖にかられてしまうのはどうしてだろうか。
 
 ただアキラはヒカルと一緒に居たいだけ。ヒカルの傍はとても心地よくて、あの笑顔を見ると胸に暖かさが訪れる。
 
 手を握ると存在が確認できて安心できた。何よりもヒカルに触れていたかった。
 
 だが何故自分がヒカルをそれほどまでに望むのか、ヒカルのことを考えただけで胸が痛むのか。ほんの少し離れたぐ
 
らいで、不安にひどく臆病になってしまうのか。理由がまるで掴めないだけに、余計に焦ってしまう。
 
 一つ一つの露店を見て回りながら、ヒカルの不在に滑稽な程怯えて恐怖を感じる自分を冷徹に見詰め直そうとするの
 
にそれすらもうまくいかない。纏まらない思考にひどく苛々する。不安に右往左往する自分に馬鹿馬鹿しさすら覚えた。
 
 とにかくヒカルに会うためには何とかしなければならない。しかしアキラにはその方法すら思い浮かべられなかった。
 

「塔矢、たいやき食わねぇ?……ってあれ?」
 
 たいやきの屋台の傍まで来て横を見て尋ねると、答える筈の人物がどこにも居ないことにヒカルは気付いた。いつも
 
すぐ傍に居る、囲碁幽霊を振り返って見上げてみる。
 
(佐為、塔矢どこに行ったか知らねーか?)
 
――おや?そういえば見かけませんね
 
 だが佐為もアキラの不在に今まで気付いてなかったようで、小首を傾げて周囲を見回した。
 
(いつから居なかったんだろうな?)
 
――急に姿が見えなくなったのは確かなようですよ。塔矢なら離れる時には必ず声をかけるでしょうしね。私もヒカルに
 
尋ねられるまで気付きませんでした
 
(こりゃ人込みではぐれたな)
 
――……そのようですねぇ…
 
(ああもう!手間のかかる奴だな、塔矢は。迷子になってんじゃねぇよ!)
 
――この場合、ヒカルの方が迷子の立場だと思うんですけど……塔矢はしっかりしてますから
 
 ヒカルに聞こえぬようにぼそりと真実を指摘する佐為に、ヒカルは耳ざとく聞きつけたように胡乱げな眼を向けてきた。
 
(あ?なんか言ったか?佐為)
 
――いいえ。それよりもどうしましょう?
 
(しゃあねぇ。探しに行くぞ!)
 
 ヒカルがずんずん歩いて行こうとするのを、佐為は迷子の鉄則を思い出して慌てて引き止める。
 
――お待ちなさい、ヒカル。それよりも、神社に行きませんか?はぐれた時はそこで落ち合う約束でしょう?
 
(そういやそうか。じゃあ神社に戻るぞ。佐為)
 
 あっさりと踵を返してヒカルは神社に向かって駆け出す。佐為が着いてくると確信しているからか、振り向こうとすらし
 
ない。そのヒカルが無意識に信じている通りに着いていく佐為には、小さな身体が人の流れの中を身軽に擦り抜けてい
 
く様は蝶がひらひらと舞っているように映った。
 
 一歩を踏み出す度に浴衣の袂がふわりふわりと優雅に揺れ、襟足から除く首筋と裾からは夜目にも眩しい白磁の肌
 
がくっきりと浮かんでいる。黒い髪と金色の髪が混ざって風になびいていた。佐為ですら、その姿に見惚れてしまう。
 
 真横を通り過ぎた人々の殆どが思わず振り返ったほどに、ヒカルは人を惹き付ける魅力を持ち合わせている。佐為は
 
アキラがヒカルに惹かれてしまうのも無理はないと、正直に思わずにいられなかった。
 
 尤も、突然横を走り抜けられて驚いた人も居たのだろうけれど。
 
 ヒカルが神社に向かって走るその途中で、アキラは雑踏の中でヒカルの姿を求めながら露店を確認しつつ歩いてい
 
た。しかしヒカルとアキラは互いを見つけることなく、擦れ違ったままの距離は開いていくばかりだった。
 
 まるで彼らが再び出会うことを、神が拒否しているかのように。
 

 乱れる呼吸を整えるのも、急な石段を登っていくのももどかしく感じながら鳥居をくぐったが、アキラの姿はどこにもな
 
かった。境内まで入って見回すが、やはり人の気配はない。ヒカルは必ず居ると思っていたアキラが居なかったことに、
 
どこか心細い気持ちを感じてはいたものの、それを誤魔化すように取り越し苦労の悔しさに地団太を踏んだ。
 
「もう!いねーじゃんか!佐為のバカ!走って損した」
 
――誰も絶対に居るなんて言ってません…。とにかくここで待っていたら塔矢は戻ってきますよ
 
 アキラの姿を確認できなかったことに、半ば八つ当たり気味に拗ねて文句を言うヒカルを、佐為は呆れと苦笑をまじえ
 
ながら宥める。はぐれたといっても大した距離でもないし、落ち合う場所も決めているのだからそんなに慌てることもない
 
とは思うのだが、ヒカルにはそういったものの考え方はまだしにくいのだろう。
 
 もしかしたら、この無邪気な少年は一生そんな思考を持つこともないかもしれないが。
 
 佐為はこれでもヒカルよりも年上で大人だ。物事を考える時には子供にはない見方をするし、ヒカルよりも冷静に判断
 
し、先を見越す術も長けている。江戸時代では本因坊秀作と共に城に何度も足を運び、平安貴族として生きていたこと
 
もあり、礼儀も弁えている。世間知らずのヒカルが礼を失する時は、横合いから注意するのが常なのだから。
 
「ちぇっ!つまんねーの。これからどうやって時間潰そう?花火大会までまだ一時間以上あるってのに。塔矢のバカ!」
 
 ヒカルは境内の砂利を爪先で蹴飛ばして、本殿に向かって憤然と歩いていく。
 
――うーん、今塔矢が戻ってきたりしたら、一悶着起きてしまうかも……
 
 一人っ子のヒカルは我侭で尊大なところが多分にある。今も自分の思う通りにアキラが居なかったことに腹を立て、理
 
不尽にもアキラに怒りを矛先を向けかねない様相だった。それでも初めて出会った頃に比べればヒカルは聞き分けもよ
 
くなり、我侭も言わなくなっている。人に対して八つ当たりめいたことも、傷つけるような言動もしないようになってきた。
 
 元々ヒカルはとても素直な子供だ。佐為が自分よりも大人であることもきちんとどこかで理解していて、対等に付き合
 
いながらも学ぶべきところは無意識のうちに吸収していっている。囲碁に関してもそうで、いつのまにか自らの実力も謙
 
虚に受け止めて真摯に囲碁に向かうようになった。
 
 ほんの少し前までは余計なことを口走っては、ひやひやさせられっぱなしだったというのに。
 
 この短期間の間に、ヒカルは急速に成長をしていて、佐為としてはどこか寂しいような気分だった。
 
 しかし、アキラに関してはヒカルはどうも我侭に振舞うようなところがあるらしい。
 
 多分それはアキラがヒカルの我侭に関しては意外にもあっさり受け入れる性格の持ち主でもあることと、彼もまたヒカ
 
ルの前では自身をさらけ出すからだろう。
 
 アキラもいい加減頑固で我が強いところがあるから、喧嘩になったら互いに譲らずに意地を張り合うに違いない。その
 
くせ次の瞬間には喧嘩をしていたこともけろりと忘れ果てたかのごとく、何事も無かったように接していそうだが。
 
 本質的には、二人揃って尊大で傍若無人の似た者同士なのである。そう考えるとある意味恐ろしい二人組だった。
 
――お似合いではあるんでしょうが………第三者にははた迷惑かも……
 
 佐為は今更ながら、将来的に二人が一緒にいる姿を想像して些かげんなりした気分になった。
 
 アキラが成長すれば獅子になるか龍になるか…、と以前ヒカルに彼の才能をそう評したことがある。そして現在のアキ
 
ラは間違いなく龍へと成長していっている。そしてヒカルはというと…まだ少し掴みにくいが恐らく虎だ。
 
 東洋において龍と虎は並び評される最強の生物である。かたや幻獣、かたや猛獣。どちらもお付き合いするなら謹ん
 
でお断り申し上げたくなる恐ろしい存在だ。この二つがいがみ合ったら、周囲が巻き添えを食らって被害がとてつもなく
 
甚大になるに違いない。しかし、一緒になってしまえば最小限に押さえられる。
 
 何せ意識が互いにしか向かないし、仲が良ければ大人しくなって扱いやすくもなる。喧嘩をしても攻撃対象は互いに絞
 
られるし、痴話喧嘩程度なら許せる範囲だ。こういう場合一番嫌なのは、喧嘩をしている自覚が当事者にない点だ。
 
 とばっちりに遭ったことすら後悔して、恐ろしく迷惑極まりない。
 
――こうして考えると一番いい組み合わせともいえますかねぇ……というより選択の余地が他になさそうなんですけど
 
 怪獣は怪獣同士。世界平和の為にはこれが一番なのである。
 
 一人納得して頷く佐為を無視して、ヒカルは足音も荒く本殿の階段を上り、板張りの縁側に座って足をぶらぶらさせて
 
いた。しかしそれも僅かの間で、ほどなく口元に手を当てて素っ頓狂な声を上げた。
 
「あ〜!?」
 
――どうしました?ヒカル
 
 慌ててヒカルの元に走りより、佐為は気遣わしげに黒と金の頭を見下ろした。
 
「塔矢から貰ったヨーヨーが無くなってる!」
 
 大きな瞳を零れんばかりに見開いて、ヒカルは持っていた筈のものがないことが信じられないように、自分の手や周囲
 
を見る。だがそこにはやはり白いヨーヨーなど転がっていない。走り出す前はあったと思うのだが、その後いつなくなった
 
のかさっぱり分からないだけに、ヒカルは残念で口惜しい気持ちと、アキラへの申し訳なさにうな垂れた。
 
――多分、走ってる時に落としてしまったんでしょうね……
 
「ちぇー、折角とってくれたのに……」
 
――そうですね。でも、ヒカルが残念に思う気持ちは、きっと塔矢には通じると思いますよ
 
「けどさぁ……」
 
 重苦しい溜息をついてしゅんとなってヒカルの姿に、佐為は落ちつかなげにうろうろする。いつも元気なこの少年がこん
 
な風になってしまうと、対処法が思いつかなくて泡を食ってしまう。
 
 どうやって気分を浮上させるべきかと縁側を歩き回って考えを巡らせながら、ふと瞳を格子扉に向けると、そこには二人
 
にとっては切っても切り離せない存在が鎮座していた。通常ならば、こんな場所にある筈のないものである。
 
 だが佐為はその疑問を敢えて胸に留めることなく、とにかく話題を別に移そうとヒカルに声をかけた。
 
――ほらほら!ヒカル御覧なさい。ここに面白いものがありますよ
 
「面白いもの〜?」
 
 懐疑的な視線を佐為に向けながらも、好奇心はあるのか、傍に寄って格子扉の奥を覗きにくる。
 
「あれ?碁盤と碁石じゃねーか」
 
 やはりヒカルも碁打であるからか、碁盤と碁笥を見ただけで、これまでの意気消沈振りもどこへやら、どこかうずうずし
 
たように声が弾み始めた。
 
「……何でこんな所にあるんだろ?」
 
――もしかしたら、ここは碁の神様を祀っているのかもしれませんね
 
「碁の神様か〜……。なあ佐為、一局打たねぇ?」
 
――ダメですよ!ヒカル!開けてはいけません。神様に怒られます
 
「なんで〜折角あるのに。使わなきゃもったいねぇじゃん」
 
 ヒカルは佐為の言葉も無視して、満月に照らされて比較的明るい縁側に運び出す。うっすらと埃のたまった十九路の
 
碁盤と碁笥を丁寧に拭き、中の碁石も汚れているようなので、神社には常にある手洗い場でキレイに洗った。
 
――……碁の神様も喜んで下さりそうですね……
 
 ヒカルが汚れた碁盤や碁石を無下にできない気持ちが、佐為にも痛いほどよく分かる。本来の目的の為に使われるこ
 
となく、小さな神社の本殿に収まって埃を被っているだけでは、これはただの木と石に過ぎない。
 
 碁は人が打ってこそ成り立つものなのだから。
 
 縁側に置いた碁盤の前で正座したヒカルは、いつもの明るい笑顔で佐為を対面に誘う一言を発する。
 
「打とうぜ、佐為」
 
――はい!
 
 碁を打てる喜びに佐為が大きく頷くと、ヒカルは澄んだ音を響かせて盤面に黒石を放った。