某日○棋院の地下(と思われる)場所に広がる光景を、若手棋士8人は茫然とした顔で眺めていた。
彼らのこれまでの人生の中で、こんな所に足を踏み入れた経験など一度としてなく、ただただ、声をなくして唖然としたまま
周囲を見回すしかなかった。
思い起こせば、緒方十段・碁聖から『手合いの後、エレベーター前に集合』と対局前に呼び出しをくらい、早めに手合いの終
わった者も遅くなった者も件のエレベーターの前でたむろっていたのが15分前。囲碁イベントで東京に来ていた社が、慌てて
エレベーター前に走ってきたのが14分前。
彼らが今まで何度も訪れた棋院でも、こんな場所にエレベーターがあるなど、誰も知らなかった。だから余計に社は場所が
分からず、さんざん迷った末にここに辿りついたということだ。関西○院所属なのに呼び出されて可哀相に。
緒方が現れてメンバーを確認して、すぐさま有無を言わさずにエレベーターに乗せられ、普段は隠されていると思しき何や
らアヤシゲなボタンを押したのを見たのが、12分前。
えらく長い間エレベーターに乗って、どこかの地下に降りたのが3分前。つまりエレベーターには9分間も乗せられていた事
になるだろう。一体どこの地下に行ったのだかは、企業秘密だそうだ。
そしてそこから歩いて妙に近未来的な自動ドアからこの部屋に入ったのが、つい今さっきのことである。
彼らが入った部屋は、良く言えばどこかの軍隊の作戦司令室。別の言い方をすると、朝にしている子供向けの特撮番組に
出てくる、正義の味方の秘密基地だった。
ヒカル、和谷、伊角、門脇、本田、社は子供の頃こういった番組を観ていたこともあり、どことなく不審に思いながらも憧れの
籠もった視線を周囲に飛ばしていた。ヒカル達が好奇心を交えてきょろきょろしているのに対して、テレビの戦隊ものとは無縁
なアキラと越智のお坊ちゃん組は、胡散臭げな顔で辺りを見回している。
正面奥には大型のモニター。その下にはコンソールパネルや通信機器らしきもの。側面にはパソコンなどが置かれている。
部屋の中央には半円形の大きな机が三つ平行に並べてあり、モニターに向かって座れるように配置されていた。
机とモニターだけなら、どこかの大学の講義室のようなのだが、いかんせん周囲にある近代的な機器類がそれを裏切って
いる。入ってきたドア以外にも扉が幾つかあって、スペースが広いことが窺えた。
実際、この司令室は天井も高く、大きさにおいては小さな一戸建てが入るだけの空間があるほどだ。
一頻り眺めて好奇心を満足させたら、今度は「こんな場所に連れてきて何をさせるつもりだ?」という疑問が彼らの中に芽生
えてくる。一人一人が近くに居る者と相談するように顔を見合わせ、ゆっくりと一人の青年に視線を合わせた。
こんな時ばかり貧乏くじを引いてしまうのは、彼というキャラクター故なのであろうか。
「あのぅ……緒方先生…ここは一体……?」
全員から質問しろという痛いほどの無言の目線を浴びて、仕方なく代表者のように口を開いたのは伊角である。
緒方は彼らの反応にこの上なく満足しているらしく、伊角の質問にもすっかり余裕だ。いつもの白スーツ姿のまま、やれやれ
という態度もそのままにフッと気障に鼻で笑う。
「君達、棋院内ではともかくとして、ここではオレのことは副司令と呼んでくれたまえ」
「「「「「「「「………はぁぁ~!?」」」」」」」」
全員で見事にはもるのも仕方がない、何で囲碁棋士が副司令なのか、耳を疑うのは当然だ。
「ここに連れて来たのは他でもない。君達は地球の平和を、ひいては囲碁界を守るため、選ばれた正義の戦士達なのだ」
しーん………。
若手棋士全員が全員、どう反応すればいいのか分からず一瞬にして固まった。こんなアヤシイ台詞は聞かなかったことにし
て、回れ右をして即刻帰りたいという衝動が襲ってくる。
(地球の平和?囲碁界を守る?……っていうか囲碁の棋士が何でそもそも正義の戦士になるんだ?)
ぐるぐると回る思考は同じなれど、誰も口を開いて尋ねようとは思わない。ここで尋ねて、理由を聞かされたりしたら、きっと
ドツボに嵌ってしまうことは確実だ。できれば関わりたくない。というよりも、絶対にこんな事には関わらない方がいい。
これからの人生にとんでもない暗雲が立ち込めることになる。
一刻も早く何とかせねばと思うのだが、誰もどう行動に移せばいいのか分からず、異様な空気の中でただ重い沈黙だけが積
み重なっていく。そんな針が落ちても響きそうな静けさがしばらく続いた後、どこか疲れたような盛大な溜息が空気を裂いた。
「進藤もう帰らないか?今日の手合いの検討にボクの家に寄る予定だろう?折角手合いも早く終わったのにこんな時間になっ
てしまっているよ。検討の後に一局打ちたいし、緒方さんの話は後日聞くということで……」
ここでとんでもない爆弾を落とせるのは、囲碁界の貴公子塔矢アキラ以外にはいない。ついでにいうなら、緒方相手にここま
でさりげなく慇懃無礼な態度に出れるのも、アキラならではである。本人は別に喧嘩を売っているわけでも、意識して言ってい
るわけでもなかったりする。ごく普通に振舞ってこれだ。特にアキラはヒカルに囲碁のことが加わると、品行方正で礼儀正しい
いつもの彼に、何故か無礼者と傍若無人が加味されてしまうのだ。
故に、こんな時でも周囲の迷惑も顧みずにぬけぬけとヒカルを誘う台詞が吐けるのである。
「両親が居ないから、時間を気にせずゆっくり碁も打てると思うしね」
「なんだよ、それはオレに泊まれって言ってるのか?」
「ああ。できればそうしてくれると嬉しいな」
アキラがヒカルだけにみせる極上の笑顔で頷くと、微かにヒカルは頬を赤らめて瞳を逸らした。
「ちぇっ!しょうがねぇな。泊まってやる」
物言いこそぶっきらぼうで不遜で恩着せがましいが、照れてこんな態度になることが分かっているからか、宥めるようにヒカ
ルの頬に触れてアキラは嬉しそうに微笑んだ。そんなアキラの手を慌てて払ったりして、甘い空気を醸し出しすっかり二人の
世界を作ってしまっている。お陰で、彼らの傍にいるものにとってはたまったものではない。
(…なにもこんな所でいちゃつくなよ……)
「社…お前よく北斗杯であいつらと一緒に居られたな」
既に諦めモードで達観しているような和谷に話しかけられ、社はひきつった笑みを唇の端にのせて答えた。
「受け流しとったら気にせぇへんなるわ……オレも大分と免疫できたで」
慣れたくもないことだったが、さすがに囲碁界での付き合いが長くなってくるとそれなりに耐えられるようになる。人間は以外
にも図太い生物なのだ。そんな社に同意を込めて、和谷は励ますように肩を叩いてやった。
アキラとヒカルの空気に当てられて辟易している周囲の者は、いつもなら「またこいつらはよ~」と呆れてしまうのだが、今回
に限っては彼らの言動に救われたようにホッと息をつく。これぞまさに渡りに船。
「伊角さん、リーグ戦の続きもしたいし帰り寄れよ」
「そ、そうだな。門脇さん、本田、越智も行こう。社君も来るだろ?」
「勉強になりそうやし、そうさせてもらうわ」
「じゃあ緒方さん、ボク達はこれで」
アキラですらさっさとこの場から出て、何もなかったことにしてしまいたいという思いで一杯だった。下手に長居して、おかしな
事に巻き込まれるのは真っ平御免である。嫌~な予感がすると、彼ら全員の第六感が桑原本因坊なみに告げてくるのだ。
そそくさと背を向けてて出口に向かったものの……肝心の扉が開かない。接着剤でも貼り付けているように、ぴったりとくっつ
いてしまっている。他の部屋のドアも勿論開かず、彼らは閉じ込められたという現実に、物凄い目付きで緒方を振り返った。
「おい!正義の味方の副司令が、善良な囲碁棋士を監禁してもいいのかよ!?」
天然であるが故に我侭で無神経大王のヒカルは、ある意味アキラ以上の無礼者だった。十段位を獲得し、碁聖と二冠を達成
している棋士に対して、その台詞はいくらなんでもまず過ぎる。アキラを除いた、他の6人は「なんて事言うんだ!」と内心悲鳴
をあげているが、それにすら気付かずにヒカルはぷんすかと怒っていた。
(進藤…キミは怒っている姿もキュートだよ!)
そんな怒る姿にすらアキラには可愛くて、思わず抱き締めてしまいたくなってしまう。ヒカルの無礼極まりない言動よりも、その
可愛らしさに眼を奪われてしまうのは…恋する男の性なのだろうか。
「進藤……いや進藤イエロー。これは監禁ではなく、これから始まる作戦会議の機密を漏らさない為に、していることだ。分かっ
たらさっさと席に着きたまえ」
「はぁ?…進藤イエロー?……なにそれ!?ってまさか、オレのことなの?」
「アキラ君…じゃなくて塔矢ブラックは進藤……ではなくて、進藤イエローの隣の席だよ」
(……塔矢ブラック~!?何なんだそれは!)
緒方の呼びかけにショックを受けた様子でいるヒカルと同様に、アキラも唖然として声を失う。
だがアキラが我に返って口を開くよりも先に、ヒカルがムッとしたように頬を膨らませて不満をぶちまけた。
「ずっりー!塔矢が黒でなんでオレが黄色なわけ?黄色なんてずっこけキャラじゃん!黒って昔から戦隊ものじゃ一番格好よく
て強いやつがするんだぞ!?オレが黒したいよ!緒方先生…じゃなくて副司令!」
(なんで色!?拘るのはそこなのか!?っていうかいつのまにか論点ずれてるし!)
ヒカルを除いた全員がビシリと心の声でツッコミを入れた。緒方ですらもこんな反応は予想外だったのか、ぽかんと口を開けた
間抜け面でいるほどだった。だがすぐさま大人の余裕を取り戻し、一つ咳払いをして口を開く。
「我侭を言うんじゃない。大体からして棋士としての戦績も経験もアキラ君の方が上なのは周知の事実だ。それにこれを決めた
のはオレではないし、もしも文句があるなら決めた司令と総司令に言え」
「司令と総司令もいるんかい!」
思わず声に出してしまったのは社だった。緒方が副司令というのだから上司もいるだろう。だがここで考えてみると、緒方の上
役になるだけの棋士となると、相当な実力者になる。彼らは日○棋院に緒方の上役になれそうな人物がいるかどうか思案して
みたが、どうしても相応しい人物が思い浮かばない。
(まさか…桑原本因坊とか……?)
嫌過ぎる。もしもあの妖怪爺が総司令だったら、自分達はその手下の『もののけ』になってしまう。そうなると正義の味方ではな
く、悪の組織である。反対に地球と囲碁界の平和を脅かす輩ということで、正義の戦士に成敗されそうだ。
「全員さっさと座れ、話が進まんだろうが。和谷君は和谷グリーン、伊角君は伊角ブルー、社君は社レッド。門脇君は……」
「あ、いや、オレはもう25歳越えてて年寄りですから、アクションは無理ですし。辞退させて頂きます」
「まあ、そう言うな。君と越智君と本田君は後方支援要員で簡単に言うと控え選手だ。前線はこの5人がするから安心したまえ。
区別がつくように、コードネームも変えてある」
(一番きつい現場仕事はオレらかよ……)
がっくりと肩を落として、和谷は自分の名札が立てられている、一番前の席にどっかりと腰を下ろした。この札だけを見ると、
まるで国会議事堂の議員席のようだ。だが実際は政治屋のようにもうかるわけでもなく、むしろいらぬ恥をかかされることだけ
は間違いない。最悪である。
「門脇君は学生三冠、本田君はそばかす、越智君はメガネきのこだ」
「コードネームというよりニックネームですね。なんだかそこの5人に比べる扱いがいい加減じゃありませんか?」
神経質そうにメガネを押し上げる越智を眺め、緒方は否定も肯定もせずに軽く肩を竦める。
「色のコードネームでいいのならそっちにさせてもらおうか。越智君は越智ピンク、門脇君は門脇ブラウン、本田君は本田オレ
ンジだ。やはりチームは統一性がないといけないからな」
ふっと笑った顔は勝利を確信していた。越智は自分がピンクなどというリリカルでファンシーな色に指定されたことに愕然と
する。こんな事ならまだメガネきのこの方がマシだった。同じ扱いを求めるような言動をした自分が憎い。完全な墓穴である。
しかしそんな越智とは裏腹に、門脇と本田はほっとしていた。少なくともピンクじゃなかっただけまだマシだった。