この話を書こうと思いついたのは、作中にも登場している抹茶マーブルチ○コを私が買ったことがきっかけでした(笑)。現物は結構小さなサイズのもので、ヒカルが持っているような大きなサイズのものはない筈です。もしあったら教えて下さい(オイ)。
イベントでは、差し入れを頂くとこのマーブルチョコをお返ししたりしてました〜。ヒカルと同じ味を楽しみたい方は、是非ご賞味下さい。
一話目と二話目は順調にUPしたのに、三話目をUPするのに足掛け一年以上かかってしまいました。色々忙しかったのもありますが、実は三話目は、以前にパソが壊れてしまった時に手違いで保存し損ねて消えてしまったという、曰くつきな代物だったりします。
一旦消えてしまうとなかなか続きを書く気になれなかったのです…。
とはいえ、ブランクがあっても最初と内容的には同じものが書けていると思います。むしろ更に強烈になっているかも?(汗)
私としてはかなり楽しんで書けました。ヒカルに心酔する野郎共もですが、緒方先生の長台詞もあれこれと言葉遊びをしてかわすのが楽しかったです。バレンタインネタは思いついたらまた書きたいですね。
棋院職員が姿を消して数分後、怪しげな影がその場に少しずつ増え始めた。
怪しいというよりも、対局を終えた棋士や、棋院に用事に来ている棋士が大多数を占めているように見える。しかし、今ここに居る者
達の目的はあくまでも別のところにあった。今日という日がバレンタインデーというのも重要な要素の一つだ。
決して広くはないロビーでも、さる一角だけには誰一人居ない。他の場所には一般人を含めても多くの人々が集まっているというの
に、そこを遠巻きにして眺めるように、ぽっかりと何も無い空間が広がっている。
彼らが視線を注ぎつつ遠巻きに見詰めている場所こそが、つい先程ヒカルがマーブルチ○コをばらまいたところだった。
まるでお互いを牽制するように目配せを交わし合いながら、じりじりと妙にあいた空間に近づいていく。少し離れた階段から見下ろせ
ば、マーブルチ○コの落ちた場所を中心に、円が少しずつ狭まっていくのが見えただろう。
奇妙な緊張感が周囲に張り詰め、針を落としても響きそうなほど静まり返っている。
そんなピンと張った糸を思わせる緊迫感が漂う中、職員達は事務所の中で固唾を呑みながらカウントダウンを開始していた。
(5…4…3…2…1…)
0!とカウントダウンが終わると同時に、巨大なドーナツを作っていた人々が一斉に動きだした。
いや、それは動くというよりも、ダイビングやタックルをいきなりかましたと表現した方が合っている。
彼らは一気に、散らばったマーブルチ○コに向かって突撃したのだ。その勢いたるや、闘牛が真っ赤な布を持った闘牛士に突っ込
む姿を彷彿させるほどである。それだけの素早さと突進力だった。
日頃碁盤の前に座ってばかりいるというのに、一体どこからこんな運動神経を捻り出すのか不思議だ。
恐ろしい勢いで突撃した彼らは、全員で綺麗に掃除された床に散らばった色とりどりのマーブルチ○コを奪い合う。
とてもではないが、まともな神経の持ち主では見るに耐えられない凄まじい争いが起こっていた。
「ええい!離せ!このチョコはオレのものだ!」
「馬鹿もん!それはオレのだっ!」
互いに足蹴しあい、一粒のマーブルチ○コを取り合う者も居れば。
「ああ…ヒカルしゃま…」
「……女王様…もっと厳しい一手を…」
「はあ…はあ…このチョコがヒカル様のお手から…」
「このチョコを使った女王様の一手で打ち据えられたい〜!」
「扇子越しに睨みつけて下さい、女王様ぁ…」
ちょっぴりというか、かなり変態さんチックな発言を鼻息も荒くかますアブナイ一団も居る。
どうも女王様は女王様でも、ちょっと違った意味と趣味でヒカルを崇め奉る信奉者のようだ。
そんなにも女王様が好きなら、どこかの秘密クラブで鞭と蝋燭を垂らす女王様を相手にすればいいのだが、彼らにはそんなもの
では少しも満足できない。おかしな道具ではなく虎の牙や爪を思わせる一手ときつい目線が一番ぞくぞくするのだ。
彼らの中には、わざとヒカルを怒らせて憎まれ役を買い、殊更厳しい手に打ち据えられて酔いしれる強者も居るほどである。
人の趣味をとやかく言うことはできないが、変態さんの世界は色々と奥が深いらしい。
尤も、元から居るのは変態ばかりなのは分かりきっているが、他にもこんな集団が居た。
「さあ、ヒカル様の掌にあったマーブルチ○コを誰が落札するか、ハンマープライス!まずは五千円から」
「五千五百円!」
「一万!」
「三万だ!」
「十万!」
「十五万!」
「五十万!」
「何のこれしき!百万!さあ、譲りやがれ」
「誰が譲ってやるかーっ!百五十万!」
「もってけドロボー!二百万!」
即席の競売場と化した一角では、たった一粒のマーブルチ○コを巡って百万単位の金が動いている始末だ。
あまり子供や弟子に見せられる光景ではない。一般客にも見せられる姿ではないが、彼らはおかまいなしだった。何故なら、一
般客も混じって競りに参加してるだけでなく、変態さん会合にも出席してアヤシゲな萌えトークを行っているのだから。
「ヒカル様の指先萌え〜!」
「あのツートンカラーの髪が可愛いんだよね…」
「ああ…ヒカル様に睨まれて踏まれたい」
「このチョコを、『這いつくばってありがたく受け取りやがれ』なんて言われたら最高だ!」
萌えトークの一部は頷けるものの、大半は訳の分からないことを語り合っている。こういう内容の話は、どこかのメイド喫茶で頭
をつきあわて語り合ってもらいたいものだ。神聖なる棋院のロビーでくっちゃべらんでいい。
ともかく、そこは対局場とは違った意味での戦場だった。間違った意味での方向性を持つ、マニア集団の争いの場なのである。
ヒカルの落としたマーブルチ○コを家宝にする、家宝なんて勿体無いから食べるという意見の相違で、血で血を洗うような奪い
合いに発展していたり、二粒持っているなら一粒寄越せ!と不毛な言い争いをしている輩も居た。
どれにしろ、あまり心地いい風景とはいえない。むしろ見苦しいだろう。
思わず遠い眼をして、少しでも癒しを求めて例えニセモノでもいいから水槽の魚を見詰めたくなるというものだ。自宅で熱帯魚を
飼う緒方の気持ちが分かる人も居るに違いない。
越智と辻岡二段が対局室から出てきたのは、そんな凄まじい光景が繰り広げられている真っ最中だった。
しかも彼らに追い討ちをかけるように、対局を終えた棋士達までもが次々に参戦していく。余りにもとんでもないもの見てしまっ
たお陰で、二人の意識は一瞬、黄色いお花畑で「うふふ〜追っていらっしゃい」「あははは…待てよこいつぅ」というありがちな世界
に飛んでいったほどである。それくらい信じがたいものを見たのだ。
(あ…阿鼻叫喚……!)
(……地獄絵図だ!)
現実に立ち返った越智と辻岡の感想は至極まともであると同時に、最も的を射た表現でもあった。
その場に立ち尽くして呆然とする二人にとっては、この無秩序な争いを何とか収められる中立の存在は居ないのかと、本気で
思った。例えばさる人気テレビアニメシリーズガ○ダム種に登場するアークエ○ジェルとか。
一層のこと大砲でもロ○エングリンでも何でもいいからぶち込んで、この場をどうにかしてほしいとすら越智は感じた。
彼ら自身はそんな大役を務めるという責任感も、自己犠牲精神もまったくといって良いほどわかなかった。
あまりの衝撃に、自分がそれをするという考えすらも及ばなかったのである。尤も、これを見ただけで意識が現実逃避をするよ
うでは、できるはずもないが。
(……助けて…おじいちゃん)
(神様、仏様、今日から毎日ご先祖様の墓参りに行きます。ですから救いの手を…!)
救いを求めたり祈るだけでは何も始まらないが、それでも彼らの願いを聞き届けたかのように救世主は現れた。
世紀末救世主で北斗なんとかという拳法が使えるわけではないが、この人物はある意味棋院の良識であり代弁者であった。
この場を収めるのに最も相応しく、適格な人物といえる。その人物とは棋院の厳しい親父さんこと、坂巻氏であった。
アキラの外面の良さに誤魔化されて彼のことはすっかり信用しきっているが、ヒカルを叱れる極少ない人物の一人でもある。
「いい加減にしなさい!みっともないっ!!」
ロビーでの狂乱を一気に鎮めさせる大喝であった。この一喝に、その場で争っていた人々は全員即座に正座して畏まる。
背後に越智と辻岡を従えて立つ姿は、さながら助さんと格さん(まるで役に立っていないが)を連れた水戸のご老公のような貫
禄だった。印籠はないが棋院のマークを背景に持ってくれば結構似合うかもしれない。
「まったく…いい大人が情けない。こんなところで争う暇があったら、対局場で雌雄を決すればいいでしょうが」
それからしばし坂巻の説教を聞くこと数分、その間も彼らは冷たいロビーの床に正座したままであった。まるで生活指導の先
生に叱られる中学生のようである。本当にいい大人が情けない姿を晒している。
「とにかく、進藤君から事務局にチョコを貰ってます。それをお譲りしますから」
坂巻の善意の申し出にも、彼らは少しばかり不満そうだったが、ぎろりと睨みつけられて押し黙る。ヒカル様の手から落ちたチョ
コを拾うのが下僕としての快感を味わえていいのに、と考えた者は根っから救いようがない。
「一人ずつ並んで下さいよ。はい、越智君はこれを被って」
どういうわけか変な紙袋みたいなものを強引に頭に載せられた越智は、抗議をする間もなく強引に手伝わされた。辻岡はという
と、ふらふらと列に並びにいってしまい、越智としては「あんたも同じ穴のムジナかい!」とツッコミどころ満載な行動であった。
「越智君、配っていってくれないか」
わけもわからずうやむやのうちに、越智はマーブルチ○コを一人一粒ずつ渡す破目に陥り、巻き込まれた自分に涙すら覚えた。
何だってこんな目に合わなければならないのか。一層のことトイレに閉じこもってしまいたかった。
散々な思いをして全て配り終わった時には、越智はすっかり疲れきっていた。坂巻から残ったチョコは持って帰っていいよと言
われるまでもなく、半ばやけくそ気味にその場で全部口に放り込む。抹茶味のチョコレートを咀嚼しながらこれまで被っていたも
のを乱暴に脱ぎ捨てた。ふと見れば、紙袋には進藤ヒカルの笑顔がくっきりとプリントされている。
越智の今の心境としては、悲しくなるほど眩しい笑顔だ。
今日の不幸な被害者二人目となった越智は、物悲しい気分で家路につく破目に陥ったのだった。
(進藤…あんな奴らに好かれて哀れな奴……)
ヒカル本人が全く気付いていないだけまだマシだが、それでも深く同情してしまう。ヒカルの性格上、きっと一生気付かないだろ
う。知らぬが仏とはまさにこのことである。彼にとって唯一の救いは、囲碁ファン並びに棋士は全てがそんな変態さんばかりでは
なく、ほんの極一部であるといことだ。
しかし、越智としては例え一部でもお近づきにはなりたくない。なるべく離れていたいのが正直な気持ちだ。
(まあ、進藤には塔矢がいるからな。心配する必要もないか)
ヒカルにはアキラがべったり張り付いているから、彼らを蹴散らせる役はアキラに任せればいい。いつも通りのスタンスで距離を
とっていれば、実害も減るはずだ。あの二人がいちゃついているのはいつものことなのだから。
自分の考えに少しだけ気分がよくなって、越智は一人頷いたのだった。
さて、その頃ヒカルとアキラは塔矢邸で二人きりの時間を過ごしていた。甘い恋人の時間というよりも、今日のヒカルの碁の検討
が中心という余り色気のないものであったが。
その検討も粗方終えて、アキラがお茶を出して座ると同時に、ヒカルが素っ頓狂な声をあげる。
「あ!忘れてた」
「何を?」
「これ」
問いに答えたヒカルはほんのりと頬を上気させて俯き、マーブルチ○コをアキラに見せた。
「………?」
わけがわからず小首を傾げる少年の眼の前でチョコに軽く口付けると、ヒカルは指先で一粒のチョコを弾いた。それは放物線を描
いて、唖然となったまま開いたアキラの口にするりと入り込む。いきなりな展開に頬を赤く染め、眼を白黒させながらも味わいつつ、
アキラは茫然とヒカルを見やった。まさかこんなにも唐突にチョコ貰えるなんて思いもしない。
ヒカルがすっかり渡すのを忘れていたというのもあるかもしれないが、それでもいきなり過ぎる。
抹茶マ○ブルチョコという、抹茶とチョコの二つの味を楽しむ余裕などどこにもない。
だがそんなアキラの動揺をよそに、ヒカルは平然としたものだ。一粒のチョコを嬉しさと一緒に噛み締めていると、胸倉を掴まれて
引き寄せられて、間近からヒカルが顔を覗き込んでくる。
「オレからの本命チョコだぜ。ありがたく受け取れよ」
急に近くなった距離に鼓動を跳ね上げさせながら、ぼんやりしたまま頷いた。
「あ…うん」
「百倍返ししろよ」
「うん、千倍にでも万倍にでもするよ」
素直に頷いたアキラの胸に、ヒカルは背中を預けて笑う。そんなに沢山もマーブルチ○コばかり貰っても仕方ないけれど、アキラ
からならそれでも嬉しいのだ。アキラの腕の心地よさを感じながら、ヒカルは甘えるように頭を摺り寄せた。
ヒカルからのチョコレートをもらった者は数あれど、本当にヒカル自身の手から直接食べさせて貰えたのはアキラただ一人だけで
ある。そういった意味では、たった一粒のチョコでも本命チョコとしての価値は十分といえるだろう。
バレンタインデーは恋人同士の幸せの日である。少なくとも、約二名にとってはそれは確実だった。
2006.3.31