女王様の下賜品T女王様の下賜品T女王様の下賜品T女王様の下賜品T女王様の下賜品T   女王様の下賜品V女王様の下賜品V女王様の下賜品V女王様の下賜品V女王様の下賜品V
 二人の間に走る見えない火花の巻き添えを食らいたくない四名の若手棋士は、無言のまま義理チョコを口にし、桑原本因 
坊は緒方の苦しむ様を肴に楽しそうにチョコを食べていた。緒方とアキラの水面下の戦いも見ていて飽きないが、ヒカルの鈍
 
さに完敗する緒方の姿も見ていて面白いものがあるのだ。やはりこういった娯楽には、ヒカルという存在は欠かせない。
 
 ヒカルはそんな人々の思惑など全く気付かずに、暢気にも自分の掌にマーブルチ○コをのせようと器を傾ける。まさにその
 
瞬間、バシンと背中を衝撃が襲った。
 
「やあ!進藤君」
 
 ひょっこりと顔の覗かせた芦原の声と同時に、筒から京都限定販売マーブルチ○コが大量に飛び出してヒカルの掌から零
 
れ落ちる。軽やかな音と共に色とりどりのチョコレートが床にばらまかれ、殺風景な床に奇妙な彩が添えられた。
 
「あ゛ー!オレのマーブルチ○コ〜」
 
 筒の中にはまだ少しは残っていたものの、殆どが床に落ちてしまったようで、情けない声をヒカルはあげる。
 
 食べ物に関しては結構意地汚いところがあるだけに、散らばるチョコを見る目は本当に残念そうだった。
 
「ごめーん、進藤君。後でアキラに買って貰うからさ」
 
「芦原さんがぶつかったのに、何でボクが買わなきゃいけないの?」
 
「気にしない、気にしない」
 
 反省の色なくアキラに笑いかける芦原は、鈍感さならヒカルといい勝負だ。そして当のヒカルはというと、芦原の台詞に渡り
 
に船とばかりに、アキラを責め立てる。
 
「塔矢のいけず、買ってくれないのかよ」
 
 上目遣いに睨まれると、怒るよりもヒカルの可愛らしさに心が奪われてしまい、ついつい甘くなってしまうのがアキラだ。
 
「分かった、今度京都に行ったらお土産に買って帰るよ」
 
「じゃあ五つ買ってきて」
 
 進藤ヒカル…彼は食べ物に関して遠慮という言葉を知らない。さしものアキラもこの発言には眉をピクリと跳ね上げさせた。
 
「五つも食べるつもりか!?一つでいいだろう。太るぞ」
 
「何だよ、いつもはもっと肉をつけろとか言うくせに」
 
「それとこれとは別だ。キミが問題のある食生活をしてるからだ。チョコレートばっかりなんて、栄養が偏り過ぎる」
 
「いいじゃん、好きなんだから」
 
「好きで何でも済むと思っているのか!?だから考えなしだと言うんだ!」
 
 これにはヒカルもムッとしたのか、勢いよく立ち上がってアキラを睨みつけた。
 
「一々うっせーんだよ、この小姑!」
 
 周囲を無視して喧嘩を始めたアキラとヒカルの姿に、若手棋士四名はこれ以上傍に居ると巻き込まれると勘よく察し、二人
 
のタイトルホルダーに挨拶をして素早くその場を立ち去った。桑原本因坊は義理チョコを貰った事で目的を果たしたとばかり
 
に、緒方に美味い義理チョコだったの、との言葉を残してエレベーターに乗る。
 
 最後に残った緒方はしばし茫然と立ち尽くしたままだった。二人のくだらない会話を聞くと、色々とツッコミを入れたくなるの
 
が普段なのだが、さっきの『義理チョコショック』から立ち直りきれておらず、何も言うことができずにいたのである。プレイボ
 
ーイの緒方は義理チョコと露骨に言われて渡されたことがなかっただけに、こういう時の免疫が出来ていない。 
 いつもだったら色々とアキラをからかうのに、今日はそんな気力もわかずにいる。
 
 因みに彼がアキラをどうやって言葉で弄りからかうのか、例を述べるとこんな風になる。
 
「『肉をつけろ』だなんて、まるでアキラ君は進藤の裸でも見たことがあるみたいだな。そういえばイベントは二人一緒が多い
 
よなぁ?部屋も大抵一緒だから一晩中してるそうだね。ちゃんと進藤を寝かせてやらないとダメだよ、アキラ君。いくら若くて
 
したい盛りで元気でも、何事もほどほどが一番さ。何をしてるのかって?碁打なら碁に決まってるだろう。それとも君は別の
 
ことをしてるのかい?汗を流すようなこととか。何に汗を流すかなんて……そんな野暮なことをオレが言える筈ないだろう?
 
温泉宿なら卓球が相場だけどね、裸で汗を一緒に流しているなら別だが。ああ、そういえば同室なら着替えも見るから、進藤
 
の裸を見るのも当然だったな。それとも着替え以外か?どういう意味かって?嫌だなアキラ君、オレに言わせるつもりかい?
 
男同士なら裸の付き合いなんて当り前じゃないか。そう……温泉に一緒に入って汗を流したりするなんてね。
 
そうそう…進藤にする時、ちゃんとアレはつけてやってるか、アキラ君。アレは男のみだしなみだよ。うん?アレが何かって?
 
全く……キミは子供だな。アレといえばアレだろう。ネクタイじゃないか。スーツにネクタイは欠かせないアイテムだぞ」
 
 言葉でネチネチとあれこれからかって遊びたかったのに、桑原の爺のせいで不完全燃焼だ、と心で毒づきながら、緒方は
 
二人の仲裁に入ろうとする芦原の襟首を掴んで、駐車場に向かった。
 
 これ以上二人の痴話喧嘩を傍で聞いていると、余計に疲れそうだった。
 
 余談だが、駐車場に行った緒方はそこで先回りをしていた桑原本因坊に捕まり、芦原と一緒に自宅まで送らさせられる羽
 
目になる。今日の緒方はどこまでいっても踏んだり蹴ったりなのだった。
 
 無論、そんな事はロビーに残って痴話喧嘩を続けるヒカルとアキラにはまるで関係のない話で、彼らは周囲の者が全員立
 
ち去ったことにも気付かず、有意義な(?)会話を続けていた。
 
「小姑だと!?ふざけるな!」
 
「口うるさくて細かいんだから小姑に決まってんだろ!」
 
「ボクが小姑ならキミはひよこ頭だ!」
 
「何だよ、ひよこ頭って!?」
 
「そんな事も分からないのか?三歩歩けば忘れる鳥頭っていう言葉があるだろう?キミは一歩も歩かないうちから忘れるか
 
らひよこ頭だ!」
 
 アキラは小馬鹿にしたように鼻の先で笑うと、わざわざ丁寧に説明し、目線の高さを利用して嫌みったらしく見下ろしてやる。
 
「この野郎!ムカツク〜!」
 
 棋譜以外のことはすぐに忘れてしまう自覚があるだけに言い返せず、ヒカルはギリギリと悔しげに歯軋りした。
 
 これが囲碁界の竜虎とも宝とも称される、期待の若手二人の口喧嘩である。二人の年齢にしてみると余りにもレベルが低
 
すぎる。小学校低学年の子供の喧嘩かと思える内容に、誰もが情けなさと馬鹿馬鹿しさに涙すら覚えるに違いない。
 
 棋院のロビーでまたぞろ痴話喧嘩をはじめたヒカルとアキラの姿を遠巻きに眺めながら、関わるのはゴメンだとばかりに多
 
くの棋士が足早に立ち去っていく。傍を通りかかりそうになった者は、険悪な二人のムードに慌てて数歩退いてわざわざ遠回
 
りするほどだ。馬に蹴られて、というより竜と虎に蹴り飛ばされるのは、絶対に遠慮したいのが人情である。
 
 こと、この二人に下手に関わったら、蹴り飛ばされる程度ではすまない。実にくだらない惚気のような痴話喧嘩に巻き込まれ
 
たら最後、対局の数万倍の疲れを味わうことになる上に、ヒカルを宥める為に食事を奢ることになって財布の中身は空っぽの
 
すっからかん(こういう時はアキラ同伴の為どうしても高級料理になり食費が嵩む)。
 
 それによってアキラの独占欲と嫉妬を煽ることになり、逆鱗に触れて睨まれ続けて神経と寿命をすり減らし(視線を感じる度
 
に「高給取りのお前が奢れ!」と誰もが思うが発言した後の恐怖に勇気が出ないのが現実の悲しさ)、仲直りをしたらしたで馬
 
鹿馬鹿しくいちゃつく姿を見せ付けられる。
 
 ヒカルがご機嫌に満面の笑顔でお礼を言ってくれるので多少は救われるものの、アキラからは口では礼を言われても剣呑
 
な眼で一刀両断にされた上に邪魔者扱いされるので、相殺されてよくてチャラ。
 
 後日アキラと対局したりしたら、碁で八つ裂きにされてプライドはズタズタ、捩じ伏せられて自信喪失、という非常に悲しいオ
 
チがつく。被害にあった棋士達は、二人の痴話喧嘩に巻き込まれた者の哀れで悲惨な末路を、涙ながらに周囲の友人に訴
 
えたという……。
 
 これが緒方や桑原本因坊なら財布の中身が減ろうが睨まれようが平気で、むしろ煽り立てて反対に喜ぶところでも、多くの
 
まともな棋士にとっては堪ったものではない。まさに踏んだり蹴ったりの目に合うのは分かりきっているのだ。だから誰も絶対
 
に近付かない。こいつらの痴話喧嘩は何があっても放っておけ、それは棋院全体の暗黙の鉄則である。
 
 しかし、ヒカルとアキラは自分達が周囲にとって台風のような存在であるという自覚は、これっぽっちもないのだった。何故な
 
ら、台風の目は暴風圏ではないが、目の回りはとんでもない大嵐になるのが気象学的常識なのだから。
 
「好きだからってラーメンとお菓子ばかりじゃダメだ!ちゃんと栄養のバランスを考えろ」
 
「へっ!んな面倒くさいことやってられっか!」
 
「面倒くさいだと!?体調管理も棋士の仕事だと、何回言わせれば気が済むんだ!キミは!」
 
「うっせぇな!そこまで言うんだったら、おまえがオレにその『栄養バランスのとれた食事』とやらを作ってみせろ!」
 
「いいだろう、作ってやろうじゃないか!」
 
「おう!食ってやらぁ!」
 
 いつものように売り言葉に買い言葉の勢いで言い切ってしまってから、ヒカルは首を傾げた。
 
「……あ、待てよ…」
 
 二人にとってはこれは喧嘩と呼ぶほどのものではない。むしろ可愛いコミュニケーションの一貫だ(周りにはたまったもので
 
はないが)。その為、あっさりと普通の口調に戻るのもいつのもことなのだった。
 
 だからこそ、余計に誰も関わろうとはしないのである。
 
 ヒカルはアキラにひよこ頭と称されたこともすっかり忘れ果て、これからの予定を頭の中でシュミレートする。こういうところ
 
が、切り替えが早いと表現すれば聞こえがいいものの、ただ単に忘れっぽいともとれる。ひよこ頭と言われる所以だ。
 
 だがそんな事はまるで関係なく、ヒカルの頭の中では予定が素早く組み立てられる。既に時間は夕方に近い。これから食
 
べると食事は夕食になる。検討もしたいし、アキラとも一局打ちたいから、これら全てをすると帰りは遅くなるに違いない。
 
 母に夕飯はいらないと連絡した方がいいだろう。ならばついでに…、とヒカルは勝手に納得すると、少し目線の高いアキラを
 
見上げて、悪戯を思いついた子供のようにニッと笑った。
 
「今日は泊まるぜ、塔矢」
 
「は?」
 
「だから、泊まるって言ったの」
 
「………」
 
 アキラは何を言われたのか咄嗟には分からなかったらしい。しばらく無言のまま惚けたようにヒカルを見ていたが、意味す
 
るところを理解して、途端に頬を赤く染めて慌てだした。
 
「…今両親は海外だし…泊まってくれるのは嬉しいけど。いや、その、でも…ご両親の了解が」
 
「あ、お母さん?オレ、ヒカル。今日は塔矢ん家に泊まるから。夕飯もいらない。うん、分かった。塔矢、お母さんが『いつもお
 
世話になってすみません、よろしく』ってさ」
 
 日頃のはっきりとした物言いとは違ってもごもごと呟くアキラを無視して、ヒカルは携帯電話を片手にあっさりと母の了解を
 
とりつけ、アキラに向かって屈託のない笑顔を振りまく。
 
「はあ、それはどうも…こちらこそ」
 
 事の成り行きについていけず、何とも間の抜けた返事をするアキラだった。自分から自宅に誘う時は平然としているくせに、
 
ヒカルから言い出すといつもアキラは慌てる。その焦りようにこっちの方が反対に恥ずかしくなりそうだ。
 
 だがヒカルとてアキラのことが嫌いなわけではないのだから、泊まりに行くと口に出すのが悪い筈がない。むしろ、アキラが
 
慌てるのは喜びの裏返しであるのだ。それが分かるから、こうして一緒にいるのが当り前になるのだけれど。
 
 膳は急げとばかりに、アキラの腕を引っ張って、ヒカルはロビーを出ようと促す。
 
「ほら、帰ろうぜ塔矢」
 
「あ…でも下に…」
 
「そういやそうか、掃除しないとマズイよな」
 
 足元に散らばったマーブルチ○コを見下ろして話す二人に、タイミングを見計らったように棋院職員が声をかけた。
 
「掃除ならしておくからいいよ。進藤君」
 
「え?でも…」
 
「いいから。二人ともこれから検討しに行くんだろう?時間がなくなるよ」
 
 職員はにっこりと温かく笑ってみせると、アキラが恐縮して頭を下げるのに慌てながらも、二人に大きな紙袋を一つずつ渡し
 
て出口へとさりげなく誘導する。
 
「これ、今日事務局に届いた君達へのバレンタインチョコだから。ちゃんと持って帰ってね」
 
 重い荷物を受け取った二人の姿が見えなくなると、彼はほっと安心したように溜息をつき、何故か掃除用具を取りに行かず
 
に大急ぎで事務室の中へと取って返した。
 
 その姿はまるで、爆撃機が来る前にシェルターに非難する一般市民のようであった。