別れは、余りにも突然だった。少年は、それが有り得ることを考えもしなかった。思いつきもしなかった。
いつもいつも一緒だった。傍に居るのが当り前で、お互いがお互いにかけがえのない存在だった。少年にとって棋聖は、家族であ
り、兄であり、友人であり、親友であり、師であり、愛玩動物のようですらあった。
どれほど奇異なことであっても、空気のように棋聖がそこに居るのが普通で、少年にとってはそれは極々自然なことであったのだ。
ずっと、ずっと、これからも続く日々だと、信じて疑っていなかった。それが当然なのだと、思い込んでいた。
保証など、どこにも有りはしないのに。
ある晴れた五月五日。少年にとってかけがえのない存在である、棋聖は静かに役目を終えた。
誰に別れを告げることなく。
静謐に、音もなく、彼は役目を全うし、少年に最期に一言語りかけた。
楽しかったと。
このたった一つの言葉に、彼の想いがどれほど集約されていたのだろうか。それを知る術は、誰も知ることはない。そう、誰も。
その言葉を、少年は聞くことはなかった。聞けば、彼は後に続くであろう苦しみから救われたかも知れない。だが同時に、これを乗
り越えねば少年は先へ進むことはできない。神の用意した最大の障壁を、自ら乗り越え答えを見つけなければならないのだから。
出会いは突然だった。別れもまた突然だった。そして、出会いと別れは必然でもあったのだ。
棋聖は少年が居なければ現世に降臨することはなかった。棋聖と出会わなければ、少年は囲碁と関わることもなかった。少年が
先を進む対等者に出会わなければ、少年は碁を愛することもなかった。
それは宿命という名の業。少年は棋聖と出会い、そして別れを経験せねばならない。
全ては、少年の為に。
運命のようにあやふやなものではなく、あるべくして起こった必然。大いなる意思の流れによって。
見つからない棋聖を探して、追い求めて、少年は真相に辿り着いた。棋聖が別れを告げずに役目を終えたことを。
少年は後悔し、自らを責め、涙した。彼は、有りもしない可能性に縋り、自ら答えに眼を背け、遠ざかり、あまつさえ切り捨てようと
すらする。自分の中にある真実を。
深く、心より愛する囲碁を。棋聖と自らを繋げる絆を。好敵手である対等者と共に歩むべき、果て無き道を。
自らそれらを切り捨て、自分自身をも壊そうとする理由は『罪』。少年は自らの宿命を、業を、『罪』だと解釈する。
棋聖と出会ったからこそ少年は囲碁を愛し、好敵手である対等者を限りなく愛し、棋聖を深く愛する。
どんなに後悔し、懺悔し、時間を戻してやり直したいと思っても、少年は碁を愛してしまう。自らが打つことを選んでしまう。
少年は、自らが無垢であり純粋であるが故に、棋聖が残し捧げた尊い愛にも気付かない。
余りにも傍にある故に、見つけられないたった一つの答え。まるで、彼を慈しんだ棋聖のように。
それ故に少年は慟哭し、慙愧の念を抱き、迷い、彷徨い、懺悔し、懊悩し、どんなに捨て去ろうとしても切り捨てられない真実を見
つける為に、もがき苦しむ。
日常が非日常に叩き壊され、現実が空想に押し潰される日々の中で。
自らが作り出した迷宮の中を彷徨いながら。唯一つの真実を見つける為に。
どうして?ねぇ?応えてよ、佐為。
どこ行ったんだよ?おまえ。
オレは打たない。二度と打たない。打たないから…。お願い、帰ってきて。
おまえが打てばいい。オレなんていらないから。オレが消えるから。オレはもう打たないから。二度と自分で打ったりしないから!
ごめんなさい。ごめんなさい。許して、許して…。
打ちたいなんて思わない。佐為に打たせる、打って貰う。皆が求めている佐為が打つから。オレなんていらない!消えるから!
佐為は好きなだけ打ったらいい。オレが打った分も、何百局も、何千局も。
塔矢とも、誰とでも、好きなだけ……。好きなだけ、おまえが打てばいいから。
おまえの大好きな碁を、愛する碁を、好きなだけ打って。オレは打たないよ。絶対に打ったりしない。
だからさ、戻って来い。本当だよ、打ったりしないから。約束する。
打たない、打たない、オレは打たない。打たない、打たない、打たない。
だから!
時間を戻して!
佐為、佐為、佐為。
お願い、応えて!お願いだから!神様……!
不意に瞳が開いた。頬が濡れて冷たい。瞬きをすると、涙が滑り落ちて掛け布団に小さな染みを作った。
朝はいつもこうだ。佐為のことを思って泣きながら目覚める。
毎朝、毎朝、毎夜、毎夜、日毎繰り返される日々。
ずっとこのままの状態でいれば、そうすれば自分は消えることができるだろうか?佐為に打たせてやれるのだろうか?それがで
きるなら、自分は何でもするのに。そう、どんなことでも。
ヒカルが死んでしまうと、佐為を打たせてやれないから、生きておかねばならない。どんなに生きていることが苦痛でも。
けれど、自分が消えて佐為が戻るなら、喜んで消える。だっていらない。『進藤ヒカル』なんて誰も望んでなどいない。
ヒカルがいるから、佐為は戻って来ないのだろうか?ならば自分など消えてなくなってしまえばいい。そうすれば佐為は好きなだ
け碁が打てる。彼の望むだけ。ヒカルが奪ってしまった分も、それ以上に。
あんなに佐為は打ちたがっていたのに、ヒカルが奪った。いつだってそうだった。佐為が打ちたがっているのに、すぐに自分で打
って、打たせてやらなかった。ヒカルが打ったから、佐為は消えた。だから、今度はヒカルが消えればいい。ヒカルがいなくなれば、
打たなくなれば、きっと佐為は戻ってくる。
好きなだけ打たせてやるから。オレは打たないから。
胸の内で呪文のように繰り返す。そうすれば、佐為が帰ってくる。必死に自分に言い聞かせて。その方法以外に、心にぽっかりと
空いた空虚な穴が塞がる術を知らないように。
この間の大手合も行かなかった。今日は若獅子戦のある日だ。でも行かない。行って打ったりしたら、佐為が戻ってきてくれない
かもしれない。だからヒカルは行かない。行ってはならない。行ったりしたら駄目なのだ。
一瞬、アキラのことを考えた。彼はヒカルを待っていてくれているだろうか?
だが、それも小さく浮かんだ自嘲の笑みに消される。アキラが自分を待っている筈がない。アキラが待っているのは、追いかけて
いるのは、ヒカルではなく佐為だ。最初から彼はヒカルを見たことなんて一度もない。
自分に眼を向けさせようと考えたこと自体、ヒカルは望んではならないことだったのだから。
ヒカルには佐為を越えられない。彼の天才棋士の才能は、ヒカル自身が一番よく知っている。
のろのろと起き上がり、学校に行く支度を始める。アキラの顔も、院生の仲間達の顔も、一緒にプロ試験に合格した和谷や越智
の顔も、他のプロ棋士の顔も、見たくなかった。
鏡に映った自分の小さな面は、何ともひどいものだった。泣き過ぎで瞼も頬も腫れて、顔色は青白く幽鬼のようだ。だが、今の自
分にはこれが相応しいように思う。一層のこと佐為の代わりに幽霊にでもなれればいい。
小さく笑ったヒカルの笑みは、その暗澹たる心の闇を映し出すように、ひどく歪んでいた。まるで以前の、明るく元気一杯で、無邪
気だった頃の笑顔を忘れてしまったかのように。
眠れない夜。例え眠っても、佐為のことを考える。考えながら眠る。それしか、できない。
何故消えた?もっと打ちたかった筈だ。佐為が消える理由なんてない。神の一手を極めるのだと、あんなに言っていたのに。
打ち足りないに決まっている。だって、佐為は神の一手を極めていない。
ヒカルが居るからいけないのだ。ヒカルが、あんなに打ちたがっていた佐為の分まで打ってしまったから。
佐為を顧みずに、自分ばかり。いつもそうだった。佐為は後回しにして、ヒカルは自分のことばかり。
ヒカルが奪った。佐為の大切な時間を、ヒカルが奪ったのだ。
――ごめんなさい、ごめんなさい…
涙が頬を伝い落ちていく。何度も、何度も、何度も、心で謝る。謝罪の言葉を連ね、懺悔し、許しを請うた。
誰に向かって謝っているのかすら、もう分からない。
佐為に対してなのか、碁の神に対してなのか、佐為と打ちたがっていたアキラに対してなのか、それとも佐為を求めていた多くの
棋士達に対してなのか…。
慙愧の念は深く、ヒカルに侵食していた。
それなのに、心の奥底では分かっているのだ、一つの答えを。自らが犯すであろう罪を。
必ずヒカルは同じ事を繰り返す。自分が打ちたいと、思ってしまう。佐為を顧みずにアキラを追う。あの真剣で真っ直ぐな瞳が欲し
いと、貪欲に望んでしまう。
何度でも繰り返す。それが分かる。時間を戻しても、きっとヒカルはまた同じ罪を犯す。何度も罪を重ねていく。それがヒカルの持
つ業だ。深い、深い、決して拭う事の出来ない、逃れることも許されない宿命。
罪を重ねるその度に、ヒカルは後悔するだろう。慙愧の念に囚われるだろう。懺悔し、許しを請い、二度としないと誓っても、再び同
じ罪を犯す。何度でも、何度でも。
だから、ヒカルは消えなければならない。ヒカルが居るからいけない。
ヒカルが存在する限り、佐為は消えてしまう。そうしない為にもヒカルは消えねばならない。
それなのに、どうして自分は消えることができないのだろう。こんなにも消えたいと思っているのに。願っているのに。佐為の為にも
消えなければならないのに。
布団の中で身じろきする。佐為が居た頃は、眠れないと彼が優しい声で語りかけてくれた。
――眠れないのですか?ヒカル。駄目ですよ、寝ないと。明日に響きますからね
そう言って、額をそっと撫でて微笑んでくれた。安心させるように。
決して触れることはできなくても、佐為の手はどこかほんのりと温かみを感じさせてくれた。
――傍についていますよ。ずっと一緒にいますから
(……嘘つき)
一緒に居ると言ったくせに。そう言ってくれたのに。ヒカルが死ぬまで一緒だと、いつまでも一緒だと、言っていたのに。
それなのに、それなのに、それなのに!何故?何故?何故?どうして!?どうして!?
ヒカルが身勝手だったから?あんなにもヒカルを大切にして、可愛がって、慈しみ愛してくれた佐為を蔑ろにしたから?
でも、ヒカルにとっても、佐為は大切だった。何よりも大事だった。
家族のように優しく、兄のように時には頼れ、友人のように親しみ、親友のように何でも相談でき、ペットのように可愛くて、師匠とし
て尊敬し、敬愛していた。誰よりも愛していた。
いや、愛している。今でも。
しかし、ヒカルの想いは恋愛感情ではない。愛の形は不変ではなく、様々な形があるように。もっと別の、違うもの。けれど、愛とい
う形の一つであることには変わりない。
ヒカルは碁を愛している。それと同じように佐為を愛している。
愛する故に、ヒカルは罪を重ねてしまう。何度でも、同じ事を繰り返す。
佐為と出会えば囲碁と出会い、囲碁を通じてアキラと出会い、アキラを追い求め、囲碁を愛するようになる。
メビウスの輪を回るように、必ず同じ場所に辿り着く。それは逃れられない宿命。
何故なら、ヒカルが居なければ佐為は現世に復活はしなかったのだから。
ヒカルが囲碁と出会い、愛するようになるのは当然であり、必然なのだ。囲碁と同じく、二つの存在に違う形の愛を持つことも。
そして、囲碁を捨てることは佐為を、アキラを捨てることに他ならない事を、ヒカルはまだ気付いていない。
何よりも追い求め、終わらない道を共に進む塔矢アキラという存在すらも、切り捨ててしまうことを。
囲碁を、佐為を、アキラを、ヒカルが魂を込めて愛する存在全てを、自らの手で捨てようとしていることを。