ヒカルの慟哭、アキラの懊悩、佐為の祈り、ヒカ碁の同人を書く上で、原作ベースで書きたかったテーマであり、エピソードでした。
 関西人の私が珍しく、一切笑い要素を排除して挑んだ話です。
 原作を何度も読んで、泣きそうになりながら書いた記憶があります〜。
 当初はちまちまとサイト連載をしていた話でしたが、後半はオフ本「Labirinth(完売済)」にて完結した話になります。
 表紙はジンライ様に描いて頂きました。素晴らしくイメージ通りの表紙を描いて下さり、本当にありがとうございました!素敵な表紙はこちら!→
 サイトに遊びに来て下さっている方には、連載を始めてから完結するまでかなりお待たせして申し訳ありませんでした。
 オフ本ではこの話の次が「SUKIYAKI」という打って変わってギャグ形式の話だったので、ギャップの激しさに驚かれたり、雰囲気へったくれもねぇ!と思われた方も少なからずいらっしゃるんじゃないかなぁ…と(笑)。
  この後に続く二人の初対決の話も書きたいんですが、できればオフ本でじっくりと腰を据えて書きたい想いが強く、まだ書けていません。
 やっぱり二人の初対局は書きたい話ですね〜。
 二人の初対局を描いた145局〜147局は、アニメでは作画監督が恩田さんだったこともあって、まさに神回!DVDを何度も観返しています。
 2013年1月からブルーレイで発売とのことで、もしもお持ちでない方は必見です!(宣伝)
 アキラと会ったあの日から、ヒカルの中で少しずつ何かが変わりつつあった。それでも相変わらず、対局に行くことなく学校に行って帰るだけの毎日がずっと 
続いている。佐為が消えてしまって以来、一度として部屋で碁を打っていない。
 
 これまでは、毎日のように打っていた。家に帰って一局、夕食を食べてから一局、風呂に入ってから更に一局、寝る前にもう一局。
 
 電車の待ち時間や乗っている間も佐為とはいつでも打っていた。プロ試験や院生研修の検討をした後も、また打って。
 
 佐為はいつだって楽しそうに打っていた。碁を打てる喜びを全身で表わす、ヒカルはそんな佐為が大好きだった。
 
 碁を覚えたてでへぼなヒカルを相手にしていても、怒ったり呆れたりせず、どんどん力を引き上げてくれていった。
 
 少しずつ成長していく自分を、彼は嬉しそうに見つめていた。思えば、ヒカルは佐為から多くのものを与えて貰った。
 
 技術だけでなく、碁に対する心構えや姿勢。
 
 院生になりたての頃は、佐為の強さに恐れて手控えたこともあったけれど、恐れから立ち向かう勇気を教わった。
 
 時には厳しく叱られ、反発して喧嘩をしたこともあった。佐為は碁に関しては容赦がなく、甘い手を打てば鋭く返された。
 
 いつも一緒にいて、兄弟みたいだったから意識をしなかったが、優しげな外見と反して、師としての佐為は意外と厳しかった。
 
 何故なら、ヒカルが力をつけていくに従って、彼に褒めてもらえることがどんどん減っていったからだ。
 
 最初のうちこそよく褒めてくれた。初心者の力を引き上げるには、褒めて伸ばすのが一番だから、彼は実に褒め上手だった。けれどヒカルが力をつけてくると、
 
彼は甘い手や失着を見逃さずに指摘し、鍛えていくようになっていった。
 
 優しく微笑む佐為の姿をよく思い出すと同時に、囲碁においては意外と辛辣で手厳しいことも言っていた。
 
 だからこそ褒められる時、微笑んでくれるのがとても嬉しかった。佐為の笑顔を見たくて、喜ぶ顔が見たくて碁を打つようになった。
 
 褒めてくれると嬉しく、一局でも多く打って強くなりたかった。対局を終えて振り返ると、いつも佐為がいて微笑んでいた。
 
 彼はずっとずっと、そうやって傍でヒカルを見守ってくれていた。
 
 アキラを目標に見据えると、前に進む後押しをしてくれた佐為。
 
 いつもヒカルと打って、優しく、時に厳しく指導をしてくれた。何よりも、碁の楽しさを彼はヒカルに教えてくれた。
 
 碁だけに限らず、数え切れないほどのものを彼は与えてくれた。
 
 自分がどれだけ大切にして貰っていたのか、佐為が居なくなってしまったことで実感しても、もう遅いというのに。
 
 プロ棋士としての活動もせず、部活をするでもなく、図書室で受験勉強するでもなく、今のヒカルは中途半端な状態だった。
 
 学校が終わってそのまま家に帰ったヒカルは、玄関に入った瞬間、美津子が声をかける間も与えずに階段を駆け上った。
 
 自分の部屋に誰かの気配がしたのだ。もしかしたら、帰ってきたのかもしれない。ヒカルの祈りが通じて、彼が。
 
(…佐為……!)
 
 部屋の扉を開けると同時に、心で呼びかける。乱暴に開けられた扉が抗議の声を上げるように大きな音を立て、中にいた人物がすぐに振り返った。
 
 佐為かと期待した一瞬も、すぐに相手の顔を見て落胆に変わる。
 
「……い、伊角さん………か」
 
(佐為じゃなかった…)
 
 浮上しかけた気分が一気に萎む。久しぶりに再会した伊角に挨拶する気も失せ、母の気遣いも素っ気無くあしらった。
 
 そんなヒカルの様子を、美津子は複雑な表情で見やった。伊角に冷茶を出して、階段を下りながら閉じた扉を振り返る。ここ二ヶ月、五月頃からヒカルはめっ
 
きり笑わなくなった。泣き腫らした眼をして、辛そうに眉を顰めて、何もない虚空をぼんやりと見ていたことなど数え切れない。
 
 今までは元気な明るい子供で、煩いくらいだったというのに。
 
 そんなヒカルが余りにも突然に笑わなくなり、理由も言わずに黙り込んでしまい、自分の殻に閉じこもるようになった。
 
 何があったのか、聞いてもヒカルは一切答えない。
 
 急に変わってしまった。五月のある一時から、自分の息子は別人のように殆ど笑わなくなり、食欲もめっきり落ちて痩せてきている。
 
 これまではご飯もたくさん食べて、健康で元気一杯な少年だった。
 
 一人っ子で我侭なところはあるが、明るくて憎めない性格をしており、基本的に素直で真っ直ぐな心を持っている。親の欲目で見ても可愛く、心根の優しいヒ
 
カルは自慢の息子だ。干渉されることは嫌うくせに、そのくせ甘えたがりな普通の子供で、極一般的なただの少年だったのである。
 
 急に囲碁を始めたかと思うと院生になり、気がつくとプロ試験を受けて合格し、いつの間にか自分の行くべき道を見つけてしまった。
 
 囲碁のプロになるというのは確かに変わっているかもしれないが、世の中に色んな職業があることを思えば、大した問題ではない。
 
 元来のんびりやの美津子は、ヒカルの走る速さについていけず、ここ最近になってやっと現状に追いつき始めたような感覚でいた。
 
 そこでいきなりヒカルは変貌してしまった。思春期の反抗期だとか、そういったものではない。
 
 けれど、今のヒカルが何か重大な局面に立っているのは、何となくだが察せられる。だからといって、美津子にできることはない。
 
 元気のない息子を前にしながら、見守ることしかできずにいる。自分が何か口出ししようがしまいが、ヒカルが自分自身の力で乗り切らねばならないと、心の
 
どこかで理解していた。だから勉強をしろと口煩く言わずにただ見守っている。
 
 プロとして生きないのならば、受験勉強をさせなければならないが、ヒカルが簡単に囲碁の道を捨てるとは思えない。
 
 夫も自分も、ヒカルを見守るしかないのだ。
 
 美津子が立ち去ると、ヒカルは学校鞄代わりのディバックを下ろして、伊角の横に座った。和谷やアキラに続いて、伊角までもがやってきて、ヒカルとしては
 
逃げ出したいような気分でいる。かといって、久しぶりに会った伊角を置いて出て行くのも失礼だ。
 
 本音としては構わないで放っておいて貰いたい。佐為が戻ったら打つから、自分のことに干渉して欲しくない。
 
「おまえ、塔矢をライバルだって言っていたよな。塔矢を追うのはもうムリだと思ってそれでやる気がなくなったのか?」
 
 伊角の問いをヒカルは内心訝った。アキラのことが、何故自分が打たないことと関係するのか、理解に苦しむ。
 
「塔矢はカンケーないよ」
 
 佐為が戻らないことや、打たないこととアキラは関係ない。今でも自分にとってアキラは諦めきれない存在でいるのだ。
 
 そんなヒカルの本音を表すように、伊角に見せて貰った週間碁を見て、小さく息を呑んだ。
 
 アキラはあれからも勝ち続け、三段にまで昇段していた。しかも本因坊の三次予選決勝にまで上りつめている。
 
 自分の中にひた隠している、囲碁への情熱が再び燃え上がってくるのを感じた。アキラを追いたい、彼と打ちたいと心が騒ぐ。
 
 碁石のひんやりとした感触が指に甦り、盤面を石で打ち据える音が、脳内に凛と響いた。ひどく懐かしい思いと共に。
 
 アキラの現状を伝えた途端に、記事を読むヒカルの眼に強い輝きが宿っていくのを、伊角は静かに見つめた。碁盤や碁笥には埃が積もっていたが、彼の碁
 
への情熱が失われているわけではない。それは会ってすぐに感じたことでもある。
 
 プロ試験後、ヒカル達とはずっと会わずにいたので、久しぶりにヒカルと対面して内心ひどく驚いてもいた。半年近く会っていないとはいえ、それでも面差しが
 
随分と変わったという印象を受ける。身長は伸びたようだが、反比例して体重は落ちているだろう。
 
 院生になった頃の傍若無人なまでの元気でやんちゃな姿を知っているせいか、弱々しく儚げにすら見えた。
 
 まるでガラス細工の置物のように、透明な危うさがあった。大人っぽく成長しているけれど、見た目のそれだけではない変化がある。
 
 内面が以前と明らかに違う。一体何があって、ヒカルはこんなにも変わってしまったのか。
 
 打ってはいなくても、碁に対する思いも情熱もある。
 
 伊角にもそれは確かに伝わってきた。和谷が会いに行った時の経緯を聞いた印象でも、ヒカルが碁を忘れていないのは明らかだった。
 
 どうして打たないのか、聞いたところでヒカルは答えないだろう。自分自身の問題は、自分と向き合うことでしか解決しない。
 
 苦しみも、迷いも、悩みも、成長には必要なことである。それと向き合い乗り越えてこそ一つ皮を剥けて脱皮し、進化する。
 
 中国で碁を学び、伊角はプロになりたいという思いを新たにした。
 
 プロ試験は確かに目標ではあるが、ゴールではない。そこからが新たな始まりであり、果てなき道を進むスタートなのだ。
 
 前回のプロ試験や中国での経験があるからこそ、伊角はヒカルに敢えて『打て』とは言わずにおいた。
 
 ハガシの反則をして投了を躊躇った長い時間、反則を誤魔化せないかと考えた自分、心の弱さを如実に露呈した苦い記憶である。あのまま続きを打たずに
 
投了したのは、今思うとよい経験だった。精神の弱さと向き合い、乗り越える一つの足がかりになった。
 
 ヒカルが何に迷い、苦しんでいるのかは、伊角には分からない。だが、自分にも何かできることがあるように思えた。
 
 壁を一つ越えて再び戻ってこられた伊角だからこそ、ヒカルに何らかのきっかけを与えられると。
 
 かといって伊角ができるのは碁を打つことだけだ。言葉をかけてどうにかなるなら、誰かがそうしている。いや、むしろヒカルの力になりたいというのは詭弁
 
で、自分自身がプロ試験での一局が中途半端な状態になっているのが気になっているだけなのかもしれない。
 
 もう一度ヒカルと向き合い、ちゃんと打ち切りたいと思っていた。それは確かに本音で、ヒカルに会いにきたのもこれが目的だった。
 
 正直な自分の気持ちもあると同時に、彼の力にもなりたい。
 
 弟が二人いる伊角にとって、年下で面倒をずっとみてきた和谷やヒカルも弟のような感覚だ。だからより一層見逃せなかった。
 
 決して打ちたくないわけでも、碁を嫌っているわけでもない。むしろヒカルは打ちたいという思いを無理矢理押さえつけ、囲碁に向ける情熱を無視して、本音
 
から眼を逸らしているのである。一度でも打てば、打ってしまえば、向かい合わざるを得なくなる。
 
 ヒカルはそれが分かっている。だから打とうとしないのだ。
 
 自分のために打って欲しいと願い出ると、ヒカルは迷いながらも了承した。こう言われると、根の優しいヒカルは断れない。
 
 これは伊角だからこそできる手段だった。プロ試験での出来事は、ヒカルの中で消化しきれぬ問題でもある。
 
 彼にとってもアレは苦い経験であり、伊角ともう一度ちゃんとした対局をしたいと、恐らく思っていたはずだ。
 
 今回の一局で、その記憶を完全に昇華したいと思っているのは、伊角だけでなくヒカルもまたそうに違いない。
 
 伊角の知っている進藤ヒカルは碁に対してそんな実直さがある。
 
 盤面と碁笥を綺麗に拭いて、ヒカルと向き合った。先番はヒカル。あの時とは丁度反対だ。
 
 ヒカルは顔を伏せて、碁笥に指先を入れて碁石の感触を確かめた。
 
 二ヶ月ぶりに触れるというのにひどく馴染んだ感じがする。久しぶりの対局に、高揚する気分を抑えられなかった。
 
 心で佐為に弁明し、呼びかけても、相変わらず彼の気配はない。打つ時はいつも一緒にいた彼の不在に泣きたい気分だった。
 
(どこ行ったんだよ、オマエ!)
 
 悲痛な思いで問うてもヒカルに答えはない。
 
 盤面に石を放つと、伊角が応じてくる。石を交わせば交わすほどに、相手の強さがひしひしと伝わってきた。
 
 わくわくしてはいけないと思うのに、楽しさに心が沸き立つ。久しく打っていなかっただけに、胸が躍るのを抑えきれない。
 
 緊張感のある読みあい。相手のより先に進み、迎え撃つ楽しさ。佐為を呼びかけずに、いつしか打つことに夢中になっていた。
 
 ヒカルの中で押し殺してきた、碁打の本能が頭を擡げ始め、虎の牙が、鋭い爪が切り裂かんと表に現れ始める。
 
 中国で鍛えただけあって、伊角が更に強くなったことを実感した。強い敵を相手にした緊張感で身が引き締まり、より一層力が漲った。伊角の放った石を見
 
た瞬間から、脳裏に描く盤上に思い浮かぶ限りの石を何通りも置き、最善の一手を追求する。
 
(ここで右辺の白模様を荒らせば…)
 
 盤面に自ら放った手に、ヒカルははっと眼を見開く。伊角が苦しげに眉を顰めたことにも気付かず、返した一手も目に入らなかった。
 
 自然と瞳から涙がひとしずく零れ落ちた。
 
 頬を止め処なく、涙が伝い落ちる。
 
「………この打ち方」
 
 茫然と小さく呟く。懐かしい、彼の人の気配のある一手。
 
「アイツが打ってたんだ……こんな風に」
 
(いた………どこをさがしてもいなかった佐為が………)
 
 溢れ出てくる涙を止められない。嗚咽を噛み殺すこともできない。ヒカルは啜り泣きながら、一手の中に万感の想いで佐為を感じた。
 
(こんな所にいた――)
 
 探して、探して、どうしても見つからなかった大切な棋聖の存在。
 
 言葉に表現できない思いに胸が満たされ、ただ、ただ涙が零れる。佐為の扇子が、ヒカルの打った盤面と全く同じ場所を指していた。
 
(佐為がいた。どこにもいなかった佐為が。オレが向かう盤の上に、オレが打つその碁の中に―――こっそり隠れてた)
 
 とめ止めもなく流れる涙が盤にぽつり、ぽつりと落ちる。
 
 あんなにも会いたかった佐為が、自分の中にいた。余りにも自然に溶け込んでいて、気付きもしなかった。
 
 想像もできないほど近過ぎて分からなかった。こんな所にずっと一緒にいてくれていたなんて、思いもしなかった。
 
 こんなにも傍に居てくれているなんて、少しも考えつかなかった。二人で打っていた時と同じように、碁の中にいるなんて。
 
 佐為と打ち続けた楽しい日々が走馬灯のように甦る。
 
 当たり前にいつも一緒にいたあの頃と変わらず、彼は自分の碁の中に、かくれんぼをするようにこっそりといたのだ。
 
――待ちくたびれちゃいましたよ、ヒカル
 
 もっと早く見つけなさいと、悪戯っぽく笑っている顔が浮かぶ。佐為と会うための唯一の方法は、ヒカルが打つことだったのだ。
 
 打たなければ、彼と会う術はない。たった一つのこの答えを見つけるために、どれだけ遠回りしただろう。
 
 打てば会えると気付きもしないで、打たなければ戻ってきてくれると盲目的に信じて、苦しみ、後悔して何度泣いたか分からない。
 
 こんなにも身近に、彼と会える方法があったというのに。佐為とずっと一緒に打つ方法があったのに。
 
 碁を打てる喜びを、今も佐為と分かち合える方法があったのに。
 
(佐為、オレ――打ってもいいのかな)
 
――ええ、勿論ですよ、ヒカル。さあ、打ちましょう!
 
 いつも見せてくれる笑顔で、碁の中の佐為が晴れやかに頷いた。
 

 眠れる虎が目覚めようとしている。庇護者であった棋聖の手から離れ、大地を踏みしめ、自らの力で立つ時がきたのだ。
 
 巣立ちの厳しさを乗り越え、棋聖の祈りに応じて立ち上がった。棋聖との別れを糧に、より逞しく進化して。
 
 棋士としての心構えを、果てなき道を歩む覚悟を得て。
 
 虎は自身の力で広大な大地を疾駆し、獲物を狩る。
 
 身を切られる思いで彼を手放した棋聖の期待以上に強く、自分の能力で自由に生きていくことこそが答えなのだと知って。
 
 虎は竜を見つけるだろう。そして竜を眠りから目覚めさせる。竜は虎の目覚めを待ち、虎は竜の目覚めを待つ。
 
 彼らは未だに眠りについたまま、目覚めの時を待ち続けている。互いを揺り起こし、宿命の歯車を回す為に――。
 

 アキラは心で呼びかけ続けていた。あの日から、出会った時から。
 
 唯一のライバルの目覚めを促すように。自分が打ち続ければ、ヒカルが来ると信じて。
 
 全力でアキラが戦い続ける限り、ヒカルは必ず追ってくる。彼が院生となり、プロになって目の前に現れたように。
 
 自分が一歩進めばヒカルは追いつき、追い越そうとする。彼が進めば同じくアキラも追い、そして追い抜く。
 
 アキラはそのために、ここにいるのだから。
 
 二人は先を求めて、終わりのないメビウスの環を走り続ける。
 
(進藤来い!!ボクはここにいる!)
 
 ヒカルは必ず来る。アキラは信じている、そう確信していた。
 

 エレベーターを待とうともせずに、棋院の古びた階段を駆け上る。ヒカルはひた走った。アキラと会うことしか考えられない。
 
 息が切れ、背中を汗が流れていく。暗い階段の先に光があった。肩で息をしながら上りきると、アキラの背中が見える。
 
「進藤っ」
 
 驚いた顔をして、艶やかな黒髪を揺らして振り向いた少年に構わず、天野から棋譜を半ば奪うようにして手に取った。
 
 内容を素早く眼で追うと、アキラが勝利したことが分かった。厳しい碁の中で、彼は勝利をもぎ取りリーグ入りを果たしたのだ。
 
 ヒカルは真っ直ぐにアキラと眼を合わせる。強張った表情をしていたアキラだったが、すぐに顔を引き締め期待を込めて問いかけた。
 
「何しにきた?」
 
 眼を逸らさずに、ヒカルはアキラを見つめてくる。以前と同じ、いやそれ以上に強い光をその瞳に湛えて。
 
 その眼を見た瞬間に、彼が何を言わんとしているのか分かった。
 
「塔矢、オレ。オレ、碁をやめない」
 
 ヒカルの言葉にアキラの胸が高鳴った。
 
 待ち侘びたこの瞬間が、やっと自分の下に訪れる。求め続けた宿命のライバルが眠りから目覚めたのだ。
 
「ずっとこの道を歩く。これだけ言いに来たんだ、オマエに」
 
 先日、神社で会ったときとは別人のような、力強い瞳をしていた。あの時逸らされた眼は、確かに今アキラを捉えて見つめている。
 
 彼が追う気配を感じながらも、これまでの経験から、何度諦めかけたか分からない。信じていても一抹の不安は常にあった。
 
 長い間求め続けていた存在がアキラの目の前に現れた。真剣勝負の疲れなど完全に吹き飛び、身体に力が漲ってくる。
 
 宿命のライバルを前にした高揚感に胸が躍った。今までに感じたことのない、目覚めを促す強い躍動に自然と背筋が伸びる。
 
 覚醒した虎に応えて竜は宿命の存在を見据えた。アキラの瞳の中に、白刃の刃を思わせる鋭い輝きが宿る。
 
 見詰め合う彼らの眼の輝きは、超新星を凌駕する強さだった。
 
 碁は一人では打てない。
 
 等しく同等の才長けた者が二人いなければならない。
 
 一人の天才だけでは名局は生まれない。
 
 アキラだけでも、ヒカルだけでも、意味を為さない。
 
 二人が揃わなければ、真に名局と呼べるものは生み出されない。
 
 彼らが二人揃ってこそ、はじめて神の一手に――一歩近付く。
 
 果てしない道を、終わりのない迷宮を、この時彼らは歩き始めた。
 

 後に本因坊秀策をも越えた棋士と讃えられ、後世に語り継がれた伝説の棋士は、周囲の評価とは裏腹に驕ったことは一度もなかった。
 
 彼にとっての天才とは敬愛する師であり、たゆまぬ努力と共に歩んだ最強のライバルだったから。しかしそのライバルに千年に一人の天才と評されて
 
いたとは、本人は知る由もない。
 

 眠れる虎は目覚め、臥竜もまた眠りの中から目覚めた。覚醒した竜虎を止められる者などどこにも居ない。
 
 ヒカルとアキラは今初めて、棋士として対峙したのである。
 
 天才は天才を、無条件に受け入れる。
 
 互いに空回りしていた宿命の歯車がこの瞬間かみ合った。天壌無窮の宿運を暗示するように、メビウスの環と同じ形に。
 
 アキラはヒカルを見詰め、ヒカルはアキラの瞳を見据えた。
 
 二人の視線が絡み合い、束の間、その場に静寂が落ちる。
 
 永遠にも感じられる刹那の一瞬。
 
 期せずして、アキラが口を開いた。
 
「………………追って来い!」
 
 宿命の歯車は彼らの力を得て、回り始める――。
 


                                                                 2009年4月19日 脱稿/2012年10月15日改稿




















                                                             若葉の迷宮\若葉の迷宮\若葉の迷宮\若葉の迷宮\若葉の迷宮\   COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)COOL(ヒカルの碁)