アキラが立ち去った後も、ヒカルはしばらくぼんやりと立ち尽くしていた。 
 頬に手をやると、まだ熱を持っていて鈍い痛みを伝えてきている。口の中では、微かに鉄臭い味がした。
 
「痛ぇんだよ…あのバカ力……」
 
 口では悪態をつきながらも、ヒカルの瞳からは大粒の涙が溢れて頬を伝う。佐為を喪って以来、何度も流した涙だが、今回の
 
涙は少し違っていた。佐為を思って泣くのではなく、胸が熱くなって自然と涙が溢れた。
 
 あれはヒカルの完全な八つ当たりだった。アキラの気持ちも考えずに、自分のことしか考えずにいた。
 
 佐為に会えないから。碁を打ちたくても打てないから、アキラに八つ当たりをした。
 
 アキラに手を上げさせた自分がひどく情けなくて、悔しくて堪らない。アキラのことだから、誰かを殴ったり叩いたりするような
 
ことはきっと今までなかったに違いない。それに、こういう時は殴られた相手よりも殴った相手の方が傷ついているものだ。
 
 手を上げるしかないところまで、ヒカルが追い詰めた。
 
 恐らく今、ヒカルよりもアキラの方が泣きたい気分であるに違いない。ヒカルに手を上げてしまった自分を責めて。
 
 ただ怒って暴力的に手を上げたのではない。理由もなく、理不尽に振るったわけでもない。
 
 ヒカルにはそれが分かっている。だからこそ、アキラはより一層辛い思いをする。けれど、彼は決して謝らないに違いない。
 
 何もない空虚な場所へと全てを捨てて逃げ込もうとしたヒカルを繋ぎとめる為には、アキラはああするしかなかったのだから。
 
 頬を打たれたからこそ、ヒカルは生身の人間の温かさを思い出した。けれど、打った当のアキラはひどく傷ついただろう。
 
 そうやって、アキラを傷つけ苦しめておきながら、アキラ自身をヒカルは繋ぎ止めておきたい。
 
 どうしても彼を諦めきれない自分がいる。魂が求めているのだ、アキラを。アキラでなければ駄目なのだと。
 
 彼を傷つけても、血塗れにしても、ヒカルはアキラを求める。そして彼は、ヒカルに応えざるを得ない。アキラもまた、ヒカルを
 
求めているのだから。どんな存在よりも激しく、熱く、強く。
 
 引き合う磁石のように、二人は決して離れられない、絶対的な関係である。
 
 思ってはいけないのに、アキラと会ったら碁への欲求が強くなった。忘れることができない。忘れられない。
 
 望んではならないのに彼と打ちたいと思ってしまう。
 
 離れようと思っても、忘れようと考えても、打ってはならないと言い聞かせても、碁のことが頭から離れなかった。
 
 佐為に会いたい。彼に打たせてやりたい。そのためなら自分などいらない。その気持ちに嘘はない。心から思っている。
 
 ヒカルが打ったせいで佐為が消えてしまったのなら、ヒカルは打ってはならないのだ。
 
 佐為のためなら、ヒカルは自分の碁を捨てられる。彼のためなら二度と打てなくていい。
 
 神社の神殿の前で、境内の中に雨にうたれて立ち尽くしながら、ヒカルは祈るような想いを込めて黒々と曇る空を見上げた。
 
 佐為を返して欲しいと、天に向かって訴えるように。
 
 雷光が走り、遠くで遠雷の音が響く。それに紛れて何かが密やかに囁いた。
 
――嘘をつくな。おまえは何があっても捨てられない。結果的に佐為が消えると分かっていても、それでもおまえは自分の碁
 
を打つだろう?その飢えを満たす為に。
 
 厳然たる声が直接響いてきたような気がした。ヒカルから佐為を奪った神の声が。
 
 彼の魂に直接的に入り込む厳然たる意志が、勝負師の、碁打の鬼とも言うべき部分を突きつけてくる。
 
 ヒカルは無意識にその声を振り払うように、必死に頭を左右に振った。
 
(違う!違う!違う!)
 
 ヒカルの大好きな佐為。何があっても喪いたくなかった、大切な囲碁幽霊。佐為を戻してくれるなら、ヒカルは何でもできる。
 
 そう思うのに、碁を打ちたいという気持ちを押さえられない。求めずにはいられない。
 
 飢えている。確かにその通りだった。ヒカルは碁に対して恐ろしいほどの飢餓状態に陥っている。
 
 今までヒカルに糧を与え、適度に飢えを満たしてくれた存在が居なくなったが故に。
 
 優しく見守り、ヒカルにいつも栄養と滋養、慈愛の入った極上の糧を与え続けた最高級の存在が消えてしまったが故に。
 
 佐為はヒカルの糧となるために与えられた、贄であり、育てるために神が用意した親鳥のようなもの。親はいつかは子から離
 
れ、子は温かな巣から一人立ちしなければならない。
 
 巣立ちを促され、糧が得られなくなった虎の子は自ら獲物を狩らねばならなくなる。その飢えを満たす為に。
 
 動かなければやがては飢餓から自らを食い潰し、倒れてしまう。
 
 自分の想いを無視して敢えて眼を背け、強い渇望に気付いていないふりをしても、ヒカルは堪らないほどに碁に飢えていた。
 
 佐為を思うあまり自ら打つことを禁じ、より一層飢餓感を増長させている。
 
 飢えた虎は極上の餌を求める。多くの存在の中でも、最も欲しいものを求めていた。
 
 最上級の糧を常に与えられ続けていた虎は、普通の贄では満足できない。虎が唯一飢えを満たせる相手は、神が用意した
 
最高級の贄しかいないのだから。
 
 竜でなければ虎は満たされない。棋聖なき今、竜だけがその飢えを満たせる。
 
――巣立ちの時は既に来ている。虎は無限の荒野を自らの力で突き進まなければならない。
 

 雨の中長時間立ち尽くしていたからか、その夜は熱が出た。ずぶ濡れになって帰ってきたヒカルを、母は随分と心配していた
 
ようだが、構う余裕もなく風呂に入って身体を温めただけですぐにベッドに入ってしまった。食事をすることもないまま。
 
 だからだろうか、熱に魘されながらヒカルは奇妙な夢を見た。
 
 何もない砂漠のような場所で、一人で佇んでいる。茫漠と広がるそこはひどく静かで、ただ孤独と寂寥感だけが胸を満たした。
 
 寂しくて、寂しくて、堪らなかった。
 
『佐為っ!佐為ーっ!!』
 
 呼んでも返ってくる声はない。誰もいないそこで、ヒカルは独りぼっちだった。
 
 一人は嫌だ。誰か傍にいて欲しい。寂しい、寂しい、寂しい……苦しい。
 
『……佐為…こんなとこやだ…傍に来てよ…』
 
 呼びかけるヒカルに佐為は応えず、姿すら見せることはなかった。それでも諦めきれずに、幾度となく佐為を呼び続ける。
 
 いつだって呼べば佐為はヒカルに応えてくれた。優しい笑みを口元に湛えて『何ですか?ヒカル』と尋ねて微笑んだ。
 
 だからここでもヒカルが呼びさせすれば、彼がいつものように笑いかけてくれると、心のどこかで信じていた。けれど全てが徒
 
労にしかならない。ヒカルの声に佐為が応えてくることはなく、広大な世界の中でヒカルはたった一人きりである。
 
 不意にヒカルは気付いた。この場所は、孤高の棋聖がこれまでいた孤独の世界なのだと。
 
 対等者のいない彼は、こんなにも寂しい世界で一人きりでずっと過ごしてきたのだ。
 
 ヒカルもまた、この何もない孤独な世界で、一人でいなければならないのだろうか。そんなことは耐えられなかった。
 
 だからこそ、ヒカルはこの世界で探さなければならない、対等者を。――自らの力で。
 
 彼の気配がヒカルに伝わってこない。いつも感じていた筈の佐為の存在が、どこにもない。
 
 佐為は呼んでも来てくれない。彼はヒカルを置いて神の元へ帰ってしまったのだから。
 
 今更のようにそのことを実感して、茫然と立ち竦んだ。ヒカルはもう、佐為に頼ることは許されない。師として厳しく鍛える傍ら、
 
深い愛情を注いでヒカルを護り続けた麗人の庇護はなくなってしまったのだから。
 
 夢の中のヒカルは、佐為が二度と戻って来ないことを悟らざるを得なかった。彼は姿を消すことでヒカルを巣立たせ、自ら歩き
 
出すように示したのだ。いつまでも庇護の下でぬくぬくと甘えてばかりいては、決して一人立ちできないことを、佐為が身をもって
 
分からせようとしていることに、彼は納得できないまでも理解していた。
 
 獅子が我が子を千尋の谷に突き落とすという逸話のように、佐為がその役目を担っていることを。
 
 彼が傍にいるとヒカルはつい甘えてしまう。佐為もまた、ヒカルの傍にいると彼を護ろうとする。無理にでも引き離されなければ、
 
ヒカルはずっと佐為の傍で巣立ちを知らないまま過ごすことになるのだから。
 
 佐為は愛し子が懊悩と慟哭の苦しみの中から自ら立ち上がり、這い上がってくると信じて、天から見守るしかない。
 
 何もない寂しい孤独な世界の中を、ひたすら何かを求めて彷徨い続ける。
 
 時が経てば空腹になり、喉も恐ろしく渇いてくる。こんな渇きも、飢えも今までに経験がない。
 
 何故ならこれまでずっと、佐為がヒカルのために色々なものを与えてくれたから。
 
 ヒカルはいつだって、最上級の品ばかりのものを佐為から与えられ、蝶よ花よと大切に慈しんで育てられた。
 
 しかし最近では、ヒカルは満足できなくなり始めていた。
 
 佐為の与えているものは栄養価と味も非常に高く優れているが、巣立ち前の子供が好むもので、今のヒカルには少し不満が
 
残ってしまう。彼は昔摘み食い程度に齧った最高級の存在を渇望し始めていた。
 
 それは佐為では決して与えられない。ヒカルが自ら対峙しなければ、手に入れられない。だからこそ、ヒカルは巣立たなけれ
 
ばならなかった。自分自身の力で掴み取るために。
 
 この飢餓感を癒す為なら何でも欲しいと思いながらも、我侭なヒカルは無意識によりよいものを欲する。
 
 一番欲しいものは既に決まっていた。極上品のモノの味を、佐為を通してヒカルは知っているのだから。
 
 夢の中にあるそこには、食べるものも、飲み水も、何一つない。どんなに探しても見つからない。
 
 自らが最も求める存在。ヒカルの飢えと渇きを唯一完全に癒せる存在を彷徨いながら探す。
 
 何もない世界の中でひたすら探した。飢餓感で眼が眩み、足元も覚束ない。それでもヒカルは探し続けた。
 
 探して、探して、探して……とうとう力尽きて倒れそうになった時、一条の光が見えた。彼の探すものが、そこにある。
 
 光の中にあるのがそれだと、ヒカルは本能で知っていた。佐為の扇子が促すように導くように、光の傍で動いたような気がした。
 
 佐為は既にそこから、より高いところへと行ったのだ。だからヒカルに見つけられなかったのだと、奇妙に得心できた。
 
 自分に残る力を限界まで使って、光に向かって大地を、大空を駆ける。
 
 力尽きそうになる自分を叱咤しながら近付いていくと、誰かが光の中からヒカルを呼んでいた。手招きしてくる手だけが見える。
 
『おいで…ここにいるよ。……はここにいる』
 
 その手と声の持主が佐為でないことは確かだ。佐為でないのが寂しくて悲しいけれど、佐為の喪失で大きく開いた穴を彼は慰
 
撫し、埋めてくれるとヒカルには分かっている。飢えと渇きを満たし、ヒカルを寂しさから開放し癒せる唯一の存在だと分かってい
 
るからこそ、彼を求める。他では駄目なのだ。下手な相手では満足できずに、食い潰してしまう。
 
 ヒカルが彼を見つけ選んだ時から、彼しかいない。
 
 声に導かれるように傍まで何とか辿り着いたものの、体力は既に限界だった。
 
 寂寥感と飢餓感が最高潮に達し、気が狂いそうになっている。
 
 今にも倒れそうになった自分に、佐為ではない誰かが、ヒカルに向かって手を差し出した。
 
 ヒカルはその手の持ち主を知っている。誰なのか分かっていた。自分を満たせることができる唯一の相手であると。
 
 気力を振り絞り、ヒカルは迷うことなく手に向かって精一杯腕を伸ばした。
 

 ぱちりと眼が覚めた。目覚めた瞬間に、夢の記憶は綺麗に失せている。何か夢をみていたと自覚はあっても、自分がどんな夢
 
を見たのかさっぱり思い出せなかった。
 
 寝汗をかいたからか、ひどく喉が渇いている。その渇きが、ヒカルの渇望をどこかで暗示しているようだった。
 
 カーテン越しに入るぼんやりとした青い月明かりだけが頼りの暗い部屋の中、ヒカルは独りだけ。
 
(佐為。……佐為っ!)
 
 周囲を見回すが誰もいず、相変わらず佐為の気配はない。じんわりと目元に浮かんだ涙を袖で乱暴に拭い、ベッドから降りた。
 
 トイレに行くついでに水を飲んでもう一度布団を被る。渇きはなかなかおさまらない。
 
 今週の水曜日には手合がある。しかし、ヒカルには行く気が全くなかった。
 
 自分が打たなければ佐為が戻ってくると、盲目的に無理矢理思い込んで誤魔化すことで、現実から眼を背けていた。
 

 自宅に帰ってから、アキラは自己嫌悪に陥っていた。今更のように、ヒカルに手を上げたことの衝撃に胸が痛くて辛い。
 
 ずぶ濡れになって帰ってきたアキラに明子は随分と驚いたようだが、敢えて何も言わずに風呂に入るように促し、温かな粥を用
 
意して食べるように勧めてくれた。
 
 食欲は全くなかったものの、母の厚意を無下にできずに口をつけた粥は予想以上に美味しかった。
 
 こんな時でも空腹になって、食欲だけは衰えないのかと思うとより一層情けない。
 
 ヒカルはあれからどうしたのだろうか?家にちゃんと帰りついたのだろうか?考え出すときりがないほど彼を想う。
 
 自分の気持ちに気付いたお陰で、以前以上に胸が苦しかった。胸が痛くて堪らず、切なさで押し潰されそうになる。恋愛という言
 
葉から連想される砂糖菓子のような甘い恋や愛は夢物語で、現実はこんなにも苦く切ないものなのだと、アキラは初めて知った。
 
 人を愛することは、苦しみと紙一重でもある。
 
 それでも、アキラはヒカルのことが諦められない。愛しいと想う気持ちを押さえることができない。
 
 気を取り直すように自室で碁盤の前に座っても打つ気にならず、碁石を持つ気力もわかなかった。
 
 父から対局を誘われても断り、ただぼんやりと碁盤の前で誰かを待つように座り続ける。
 
 こんな経験は今までになかった。いや、違う。嫌というほど何度も味わってきた。
 
 ずっと、ずっと、アキラは自分の前に座るべき人を待っていた。期待しては裏切られ続け、いつしか諦め全てを拒絶して眠り、拗
 
ねて不貞寝を決め込んでいる竜だった。
 
 けれど、やっと彼を揺り起こそうとする存在が現れた。その相手がヒカルだと、今では確信している。これまで認めようとしなかっ
 
ただけで、初めての出会いの日から、アキラは彼をただひたすら待ち続けていたのだ。
 
 生涯の好敵手として、唯一の絶対的に愛する存在として。
 
 ヒカルを想うと愛しさで胸が一杯になる。同時に悲しく、苦しく、切ない。
 
 彼の力になれない自分。非力で待つことしかできない。それでも、ヒカルを諦められない。
 
 知らず、頬を熱い涙が伝い、碁盤に幾つもの染みを作っていた。
 
 低い嗚咽だけが暗い部屋に響く。夜明けはまだ遠かった。
 




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