卒業式が終わると、ヒカルは待ちきれなかったようにアキラが戦う場へと足を向けた。家に荷物を持って行ったり、食事をしたり 
していたので予定よりも遅くなってしまったが、そんな事はどうでも良かった。とにかく、早くアキラの対局が見たい。
 
 まだ桜の蕾も固く、肌寒い季節であるがヒカルの頬はアキラの対局を間近で見れる興奮にほんのりと上気している。
 
 今日彼は、芹澤九段と本因坊リーグの6戦目を戦っている。アキラのすぐ傍で、ヒカルはその一戦を見守りたかった。
 
 観戦の為に訪れた部屋は、ピリピリとした重い空気が満ちている。対局する二人が発する緊張感は、まるで抜き身の刃を突きつ
 
けられるような錯覚を覚えさせられる。
 
 ヒカルはコクリと唾を飲み込み、無意識に足音を忍ばせて、記録係の隣に腰を下ろした。棋譜に眼をやると、アキラはどうやら劣
 
勢のようであった。だが、彼ならば挽回できる余地があるとヒカルは感じた。アキラはいざという時、物凄い力で勝利を引き寄せる。
 
 いつも感じることなのだが、アキラは大人しげな外見とは相反して、随分と力強い碁を打つ。俗に言う攻めの力碁である。
 
 そのくせ、守る時は鉄壁の守りに徹して防御し、時を見て激しく反撃してくるのだ。
 
 色々な面で分析してみて、アキラの本質を碁というものは本当に良く表している。彼の強気で傲慢なところも、激情家で頑固なと
 
ころも、冷静でいて他者を顧みない冷徹さも、盤上からよく伝わってくる。尤も、他人と打った棋譜で受ける印象はアキラの攻めの
 
姿勢と強気な部分ばかりで、表層的な部分しか分からない。
 
 アキラの持つ優しさと繊細さ、意外と純情で奥手なところは、アキラ自身と会っているヒカルにしか分からないことだ。
 
 アキラと打っていると、彼との不思議な一体感のようなものを感じることがある。アキラの内面にまで入り込み、彼の考えも思いも
 
全てがヒカルに伝わってくるような、不可思議でいて愛しく幸福な感覚だ。
 
 それと同時に、ヒカルの中にアキラが直接触れてくるのが分かる。
 
 激しく凌ぎを削り、凄まじい戦いを繰り広げている盤面であっても、アキラとの一体感だけは変わらない。
 
 まるで溶け合っているような、どちらがどちらともいえない境界線のない二人きりの世界。そこはどこか寂しいけれど、とても幸せ
 
で優しい。その中で、ヒカルはアキラと共に更なる高みを目指すのだ。
 
 ただその感覚は、アキラとしか共有できないものである。どんな高段棋士を相手にしても、アキラとの対局に比べれば、ほんの表
 
層を一撫でした程度のもので、より深く、より高い場所へは行けない。
 
 だからだろうか、アキラとの対局はヒカルの中でも特別で一際別格の様相を呈している。
 
 ある意味、アキラ以外の棋士との対局は、ヒカルに与えられる糧でもメインというよりも前菜やデザート、飲物などの扱いに近い。
 
 極上のメインディッシュの味を知り、更にそれの旨味が成長と共に増しているという現実の前には、どれほどの技量を持つ棋士と
 
の対局でも、我儘な虎の子は満足しないのである。ヒカルはアキラの対局を見守りながら、桜色の唇にうっすらと笑みを浮かべた。
 
 もしも誰かが彼の笑みを見たならば、ヒカルの姿を何と評したであろう。
 
 清雅な天使の微笑か、嫣然たる悪魔の微笑か、極上の生贄を舌なめずりをして眺める虎の獰猛な笑みか、可憐な桜が天からの
 
雨に花を綻ばせたのか、それは見る者の印象によって、何通りにも変わるだろう。ただいえることは、微笑はヒカルの無垢で純粋な
 
一面をそのままに表した、綺麗で美しく他者を魅了するものだったことである。
 
 ヒカルが小さく笑んだと同時に、アキラの投了で対局は終了した。どうやら、最後まで差を縮めることはできなかったらしい。
 
 視線を感じて瞳を向けると、アキラがヒカルを見つめていた。その視線の意味を知りながらも、検討には加わらずにヒカルは無言
 
のまま対局場を出る。今回の負けでアキラの本因坊リーグ残留は不可能となった。
 
 だがそれでも、初めてのリーグ入りでも見事な戦いぶりであったことは確かである。彼はまた自分と同じように最初からのスタート
 
となる。そうなれば、またアキラと公式戦で戦う機会もあるだろう。検討が終わるまでの時間、ヒカルは売店などに立ち寄ったりして
 
適当に時間を潰した。というのも、後でアキラと会って二人きりで話したいと思ったからだ。
 
 先刻アキラと瞳が会った時に、アキラがヒカルに何か用があるとふんだのもある。
 
 しかしアキラの眼を見るまでもなく、ヒカルも彼に渡したい物があったので、都合は良かった。
 
 アキラの視線はひどく切羽詰ったようにも感じられたから、早めに切り上げて待っているかもしれない。
 
 ヒカルは売店を少しぶらぶらしただけで踵を返し、冷えたお茶の缶を買って対局場のある廊下に戻った。はたして、ヒカルの予想通
 
りにアキラはそこで人待ち顔でぼんやりと立っていた。そのままヒカルが戻ってきたのにも気付かない様子で、傍にあるソファに深く
 
腰を下ろす。さすがに少し疲れているのか、背もたれに寄りかかるようにして頭を預け、天を仰いだままゆっくりと瞳を閉じた。
 
 漆黒の髪がソファの形のままに流れ、殆ど日焼けをしていない白い項が晒されている。女性も羨むようなさらさらとした髪質と整っ
 
た顔立ちのアキラは、まるで眠り姫のようにとても綺麗に見えた。強い光を宿している瞳を閉じているだけで彼の印象は随分と違う。
 
 瞳を開けただけで、アキラを女性だと思う者は一人も居ない。彼の眼の強さはそれだけの力があるのだ。
 
 きりりとした男らしい眉も、微かにうっすらと浮かんだ喉仏も、男として持っているものが眼に入るのに、瞳を閉じただけで不思議と
 
中性的に感じてしまう。とはいえ、ヒカルにしろアキラにしろ、これでも声変わりもしたというのに、殆ど喉仏も出ない上に声の高さも
 
少年期の甘さを残したままだ。髭や脛毛の類とも縁がないのは、ちょっとばかり複雑な気分だが。
 
 ヒカルは気配を殺してそっとアキラに近寄り、出し抜けに白い首筋に缶を押し当てた。
 
「うわぁっ!」
 
 上ずった声と共に身体中で反応し、アキラはソファの上で文字通り飛び上がった。相当驚いたのか、びっくり眼でぽかんとした顔
 
のままヒカルを見上げる。つい先ほどまで厳しい表情で対局に挑んでいた棋士の姿はすっかりなりを潜め、子供らしさを残した年相
 
応な少年らしいアキラの姿に、ヒカルはにっと笑ってみせた。
 
「よお、お疲れさん」
 
「あ、ああ…ありがとう」
 
 アキラの首にくっつけた缶を差し出すと、素直に受け取って礼を言う。悪戯をされたことに怒るよりも、礼まで述べて素直に受け取
 
る辺り、アキラの育ちの良さが窺えるところだ。アキラはプルトップを開けて一口飲み、小さく息をついた。
 
 ヒカルもアキラの隣に腰を下ろし、少し目線を上げてアキラの横顔を見つめる。
 
「……負けちゃったな」
 
「そうだね。でも、ボクにとっては価値のある一敗だったよ」
 
「うん、いい碁だったぜ。見ててさ、オレが打ちたいって思ったもん」
 
 昔、佐為と一緒に幽玄の間に始めて訪れたあの日、武者震いで笑みが零れると語った佐為の気持ちが、何となくだが分かった気
 
がした。ヒカルもまた、アキラとの対局を思って知らず微笑んでしまったのだから。
 
「ボクもキミと打ちたいよ」
 
「ホント?」
 
「当り前じゃないか。……でもさすがに今日は遅いから無理だろうけど」
 
 アキラが頷いたのに、ヒカルは嬉しさを隠し切れずに身体を摺り寄せたが、続く言葉に少なからず残念な気分にもなった。時間が
 
遅いのも間違いではないし、アキラが疲れているのも分かっている。それでも最も彼を身近に感じられる対局をしたいと思ったのだ。
 
 アキラの傍に居たい、もっと彼と一緒に居たい、ここしばらく会えなかった分もアキラを感じたかった。それが本音として内にある。
 
「対局はできないけど、一緒に食事をして帰ろうか」
 
 そんなヒカルの気持ちをくんだように、アキラは小さく首を傾げてヒカルの顔を覗いて、にこりと笑った。
 
 不器用で奥手なアキラにとっては最大限に勇気を振り絞っての言葉だったが、表面上は穏やかに誘ったようにしか見えない。
 
 缶を持つ手が緊張で小刻みに震えていることを、見る人が見れば必ず気付いただろう。
 
「うん!」
 
 自分の心の奥底の想いに応えてくれた嬉しさを隠し切れずにヒカルは頷くと、唐突にアキラの膝の上に身体を乗り上げる。
 
「あ、あああああああ、あの…進藤…?」
 
 ヒカルにしてみれば既に何度もしていることで大したことではなかったが、驚いたのはアキラの方だ。
 
 これまでにも幾度かヒカルを『お膝抱っこ』してはいるが、何度しても慣れることができない。ヒカルはどうもアキラの膝に座るのが
 
好きらしいのだが、アキラにしてみると強烈な誘惑との戦いにもなる。
 
 好きな相手と密着状態でいるのに、何も感じない男などいる筈がないだろう。
 
 幸か不幸かアキラは正常な十五歳の男子であるので、ヒカルに好意を抱いているからにはそういった欲望もあるのだ。
 
 困ったことに、ヒカルは天然であるが故に奔放にアキラを振り回してくれる。そこがヒカルの魅力の一つであるが。
 
 殆ど最初から一目惚れであったアキラだが、持ち前の頑固さと負けず嫌いのお陰で中々恋を認めることができなかった。
 
 今でこそ愛情を認識しているものの、ヒカルが手合いに出てこなくなった昨年の夏に想いを自覚して以来、告白もできずに付かず
 
離れずのままずるずる来ている。アキラとしてはこの状態はまさに据え膳であった。
 
 はっきり言って大変に嬉しいことではある。ヒカルの柔らかな臀部や太ももの感触、首筋から立ち上る甘い香りを、直に堪能できる
 
からだ。スケベ親父のようだが、この際は味わえるものは味わせて貰うのがアキラに与えられた特権のようなものだと判断している。
 
 ただ、棋院の廊下のソファでこの体勢はどうかとも思う。ヒカルに告白すらもできていないのに、関係を危ぶまれることを恐れての
 
ことではない。こんな場所でヒカルを膝抱っこという体勢をしていてもいいのだろうかと、多少理性的な思考が働いただけのことだ。
 
 とはいえそれは一瞬のことで、ヒカルの臀部の瑞々しい弾力と体温の前には、あっさりとそんなものは瓦解してしまう。未だに慣れ
 
ないだけに、心が落ち着くまでしばらく固まってしまって時間を無駄にするのが少しもったいないが。
 
「何だよ、スーツが皺になるとかいう文句はきかねぇぞ……あ、なんだ、お茶くれるの?」
 
 ヒカルは何を勘違いしたのか、アキラの驚きも綺麗に無視して目の前に出された缶を取って勝手に飲んでいた。見事に間接キス
 
成立だ。膝にヒカルを乗せたまま、アキラが幸せと驚愕に硬直しているという事実は、ヒカルはこれっぽっちも気付いていなかい。
 
 やはり、ヒカルの天然な鈍感さは変わらないものらしい。
 
 硬直一筋だったアキラが何とか身体の力を抜いた頃には、ヒカルはすっかり懐く体勢で寛いでいた。
 
 猫のようにぐるぐると喉を鳴らして、満足げに背中をアキラの胸に預け、肩口に頭をのせている。
 
 ヒカルにとって、アキラの体温は安心できる心地のいいものだった。佐為から様々なことを学んだが、人の温もりに安堵を覚える
 
感覚を教えたのは紛れもなくアキラである。アキラにその自覚がなくても彼との僅かな触れ合いの中で、ヒカルはそれを学習した。
 
 まるで雛の刷り込みのように。
 
「ホント、おまえっていい椅子だよな」
 
「ボクはキミの椅子なのか…?」
 
 少しばかり、自分の立場というものが物悲しいようにも感じる。進藤ヒカルに椅子扱いされる棋士でライバルなど、きっと世界中に
 
塔矢アキラただ一人だけであろう。まあ、それがヒカルだけというのなら、悪くはない。
 
「そ、オレ専用な。誰も座らせんなよ」
 
 上機嫌なままアキラのネクタイを軽く引っ張って顔を覗き込む。いきなり間近に迫ったヒカルの笑顔に、心臓の鼓動が大きく跳ね
 
上がった。ネクタイを掴まれて引き寄せられたアキラは、悪戯っぽく輝く瞳の中に映る自分を見返してながら、何とか言葉を紡ぐ。
 
「頼まれたって座らせないよ」
 
「よろしい」
 
 ヒカルは尊大な態度で一つ頷いて微笑むと、ネクタイを解放して再び背中を預けた。ヒカルがネクタイを放したのに、アキラはこっ
 
そりと安堵の吐息を吐いた。胸倉やネクタイを掴んで引き寄せる行為もアキラにしかしないとはいえ、この癖にも未だに慣れない。
 
 余りに突然でいつも心の準備ができなくて心臓に悪かった。そうしてしばらく無言のままで過ごしていたが、時間が経つにつれて
 
足もだんだん痺れてくる。アキラとしてはいつまでもこうしていたい。だが身体はいつかは限界を訴えるものだった。
 
 小柄とはとはいってもヒカルは幼い子供ではなく、アキラとも体格的にそんなに差はない。同年代の少年を一人膝に抱いたままで
 
過ごせる時間はそう多くはないだろう。ヒカルとこうしていられるのは確かに幸せだ。
 
 しかし、いつまでもしているわけにもいかないのは事実だった。
 
「進藤、そろそろ行かないか」
 
 自動販売機に表示された時間を見て、さすがにアキラも空腹を覚えた。既に世間一般では夕食の時間になっている。
 
 ヒカルもお腹が空いているだろう。
 
「そうだな、腹も減ったし食いに行こうぜ」
 
 ヒカルが身軽に膝から下りてしまうと、温かみがなくなった寂しさを感じる。いざなくなってしまうと、足の痺れよりもささやかな幸せ
 
を享受したいと思うのだから、人間とは現金なものだ。だが今更ヒカルをもう一度膝にのせるわけにもいかない。
 
 アキラは内心で嘆息しつつ立ち上がり、肩を並べて歩きだす。
 
「何が食べたい?今日はボクが奢るよ」
 
「マジ?じゃあ來酒家でラーメン食いたい!」
 
「春巻や餃子とかの点心やチャーハンも頼もうか。ラーメンだけじゃ足りないだろう」
 
 アキラの提案はヒカルの食い気を完全に直撃するものだった。途端にお腹が栄養を要求しだして盛大に鳴る。
 
 静まった廊下に響いた腹の虫に、アキラとヒカルは見詰め合ってくすくすと小さく笑いあった。
 
「すっげー腹減った。早く行こうぜ」
 
 男同士であるので今更そんな事で恥ずかしがるようなこともお互いにない。腹部を擦って子供のように空腹を訴えるヒカルにせっ
 
つかれるようにして、彼らは棋院を後にした。
 



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