2月の冷えた玄関先の廊下を、電話の前をうろうろと動き回る人物が一人居た。塔矢アキラである。海王中学2年生、現在
14歳の彼は、もう30分以上もこの付近を落ち着きなく歩いていた。
誰かの電話を待っているのではない。自分が電話をかけようとしているのだが、中々ふんぎりがつかずに迷っているのだ。
彼の性格上、これは非常に珍しいことといえる。こうと決めたら猪突猛進、独断専行、一意専心、徹頭徹尾真っ直ぐに突
き進む。後ろを振り返ったり迷って立ち止まりもせずに、どんどん前へと向かっていく。彼の持つ真っ直ぐな眼差しのままに。
アキラが迷ったり立ち止まったり、躊躇したり回り道をする時、同時に周囲の存在を蹴散らす勢いで邁進する時、それに
はある人物が常に関わってくる。進藤ヒカル、アキラと同い年の少年だ。
アキラはそのヒカルに電話をかけようと思いながら、もう30分以上も迷い続けている。
友人に電話をするだけで、ここまで躊躇う必要はない。普段のアキラはさして親しくない相手に電話をする時でも、おおよ
そ躊躇はしないのだ。それが相手がヒカルであるというだけで、電話一本にも戸惑いを隠せない。
アキラにとってヒカルは一言で言い尽くせない相手である。友人というのもどこかしっくりこない、囲碁のライバルとも今の
段階では言い切れない、でもとてつもなく気になる。気になって、気になって、意識をし過ぎると思われても仕方ないほど彼
の存在はアキラの心を占めている。
いつの間にか、初めて会った時よりもその存在は膨れ上がり、アキラ自身でも心の収拾がつかない状態だった。
だからといってヒカルが疎ましいわけではなく、むしろ非常に好意的な感覚であるだけに、彼としては余計に困っている。
自分と同性の少年に対して、その感情は余りにも奇異ともいえるものだからだ。
それ故に、アキラは自分の気持ちを必死に否定し、結果的に必要以上に悩む羽目に陥っているのだが、本人は未だにそ
れを理解できずにぐるぐると同じ場所を延々と回り続けている。玄関先にある電話の前で行ったり来たりしているように。
そんなアキラの様子を、彼の傍を通りがかる度に両親は不思議そうに見やっていた。行洋は不審に思いながらも、思春期
を迎えている息子に敢えて余計な口を出さずに自室で棋譜並べを行い、明子はそっと口元の笑みを隠して微笑む。
明子は女性であるだけに、こういったことにとても敏感で、また面白がってもいるのだった。
アキラは間違いなく恋をしている。彼が電話の前で迷っているのは、好きな相手にどうやって電話しようか躊躇している姿
に他ならない。好きな子の声を聞きたいのに、それが中々できずにいる純情な一人の少年の姿に、明子は微笑ましくてつ
いつい頬を緩ませてしまう。囲碁ばかりのアキラに、まさかそこまで好きな相手ができていたとは思いもしなかっただけに、
母親としても見守りたい気持ちだ。
しかし、30分以上も廊下で落ち着きなくうろつきまわらているのも、いい加減鬱陶しい。囲碁になると一気呵成に決めてい
くのに、こういうことになると途端に足踏みするのは、父親譲りの不器用さだろうか。
明子は廊下の影でそっと溜息をつく。寒い2月の廊下は夜ともなるととても冷えていて、このまま放っておくと風邪だって
ひきかねない。さっさとかければいいのに、と内心嘆息しつつ、どうしたものかと考える。一言何か言ってやりたいところだが、
ここで口を出すのも憚られた。やはり恋愛は当人同士の問題であり、周囲が余計なことをするのは躊躇われるのだ。
明子が廊下の角から息子の様子を窺っているように、行洋もまた自室の襖の陰からアキラを見守っていた。そしてその
姿に、昔、妻となる明子に電話をしようとして躊躇っていた自分の姿を重ね合わせ、控えめな溜息を吐く。
何もこんなところが似なくて良かったのに…。行洋としてももどかしい気分だった。
親の心配げな二つの視線を余所に、アキラはとうとう決意したようで、思い切って受話器に手を伸ばす。
両親が内心ガッツポーズを決めていたことも知らずにアキラが受話器に触れた瞬間、静かな廊下に呼び出し音がけたた
ましく鳴り響いた。塔矢家の住人全員が緊張して、ありふれた電話に注目して固唾を飲んでいただけに、その音は大きく響
いたように思えた。
アキラはビクリと電話の前で一瞬固まったが、一度大きく深呼吸をしてすぐに受話器をとる。
「はい、塔矢です。……はい、ボクです…明日ですか?……いえ…午後からは取り立てて用事は…それぐらいでしたら、時
間はとりませんし寄ります。はい…はい…分かりました」
アキラは相手が電話を切ったことを確認すると、半ば叩きつけるような勢いで受話器を置いた。
普段と表情は変わらないように見えるが、相当に不機嫌な顔付きである。他人からは非常に分かりにくい表情も、親ともな
れば一瞥しただけで一目瞭然だった。しばらく切れたばかりの電話を睨みつけていたアキラだったが、急に何かを吹っ切っ
たように受話器に手を伸ばしてある番号を押す。その顔は常にないほど緊張していた。
「進藤さんのお宅でしょうか?…夜分恐れ入ります。塔矢アキラと申します。あの……ヒカル君は御在宅でしょうか?」
明子と行洋は耳をそばだてていたが、アキラの声は聞こえにくくて相手が誰かまでは分からない。そのうち付き合うように
なれば、家にも連れてきて紹介してくれるだろうと思うのだが。その時まで楽しみにしていたいが、やはり親としては気になる。
二人はアキラに気付かれぬように、それぞれこっそりと一人息子の様子を窺った。
そんな事とは露知らず、アキラは普段は呼ばないヒカルのファーストネームを形式的にとはいえ呼んだことに、思わず頬を
染めて嬉しげに微笑んでしまう。しかし、電話の応対主であるヒカルの母の美津子はまるで頓着せずに答えていた。
『ヒカルでございますか?少々お待ち下さい』
今時の子とは思えないほど礼儀正しい子ね、と内心感心しながら受話器を保留にして、美津子は一人息子を呼ぶ。
「ヒカルー、電話よ。塔矢君って子から」
「え?塔矢ぁ?」
ヒカルにしては珍しくすぐに顔を出して降りてきた。囲碁をしていると、集中していて呼んでも返事すらしないのだが、今日は
反応が早い。丁度一休みしていたところだったのだろうか。
美津子は勢い良く降りてきたヒカルの様子を微笑ましく思いながら受話器を渡す。
ヒカルは母親が台所に戻る背中を見送りながら、保留ボタンを解除した。
「塔矢?オレ、久し振りだな〜」
『……うん、久し振り…』
アキラが久々に聞くヒカルの声に、密かに感動していることにも気付かず、そのままヒカルは喋り続ける。
「11月に会って以来じゃん」
『……そうだね』
「――で?」
『は?』
「『は?』って…おまえ用事があったんじゃねぇの?」
『あ、ああ。アルバムを渡そうと思って……』
本当はアルバムなど口実で、ただヒカルの声が聞きたかっただけなのだが、アキラはそんな自分を敢えて無視した。
「へぇ〜できたんだ。いつ会う?明日だったら、囲碁イベントに出かけた帰りになるけど」
『ボクもその日は午前中に指導碁があるんだが、午後からならあいてるよ』
「アルバム渡すだけだったら大した時間とらねぇし、夕方でもいいよな?」
『あ、うん』
「そしたら…4時にあそこの公園でいいか?」
『うん』
「じゃあな。またゆっくり会おうぜ」
『あ…うん。おやすみ、進藤』
「おやすみ〜」
ヒカルは電話を切ると、どこかうきうきしたように階段を上る。自分でもよく分からないのだが、さっきよりも妙に浮かれた気
分になっていた。塞ぎがちな佐為を喜ばせてやれるかもしれないと思うからか、他に何かあるのか、今のヒカルにはどちら
でもいいことだった。そんなヒカルの後姿を眺めて、佐為はこっそり笑う。
――おやおや…嬉しそうにまあ…
「ん?何だよ?佐為」
自室に戻って碁盤の前に座ったヒカルは、にこにこしている佐為を見上げて小首を傾げる。
――いえいえ、何でもありませんよ
「へへ〜、明日はどんな感じなんだろうな。囲碁イベントってあんまり行かねぇから、スゲー楽しみ!」
――イ、イベントだけですか?……塔矢と会うのは楽しみじゃないんですか?
「へ?だって写真もらうだけじゃん。何を楽しみにしろってんだよ?」
――……可哀相に…塔矢はきっと前途多難ですね…
ヒカルは鈍い上にこういったことに幼くて、未だに何も分かっていないようである。佐為としても、アキラの進む道は相当な
茨道だと予想が出来て、同情すら覚えた。とはいえ、アキラもこと恋愛といったものに関しては特に不器用そうなので、釣り
合いはとれているかもしれないが。
――付かず離れずのままで、周りがやきもきさせられるかも……今でこれじゃ将来が思いやられます
「???」
ヒカルには佐為が何を考えているのかさっぱり分からず、不思議そうに瞳を瞬かせている。
「あーそっか。塔矢と会うんだよな…明日。嬉しいかな、やっぱ。久し振りだし」
ヒカルは今更ながら実感しだしたのか、はにかむように笑った。その頬が微かに赤くなっているのを佐為は見逃さず、袂
の奥で口元を柔らかく綻ばせる。
「佐為、ほら、打つぞ!」
その気配が伝わったのか、ヒカルは顔をほんのりと上気させたまま、照れを隠すように邪険に言い放った。
――ええ、打ちましょう。……いや〜青春してますねぇ、二人とも
(し…進藤と明日会う約束をしてしまった…)
電話を切った後も受話器を置いた姿勢のままで固まり、アキラは脈打つ心臓を宥めようと必死になっていた。
まさか明日会うことになるとは考えもしていなかっただけに、かなり動揺している。それだけでなく、また次の機会も会え
そうな感じだ。つまり、それを口実にヒカルに電話をかけても問題ないということである。
(明日の次はいつ会おう…ってしばらく対局が詰まってるな。それに指導碁もある…くぅ!断れば良かった!)
受話器を握る手に力が籠もり一瞬ミシリと音を立てたが、アキラは気付かずに離して顎に指を添えた。顎に手を当て、僅
かに俯いて考え込むのはアキラの癖である。
(学校の帰りとかに会うのはどうだろう?でもそれだとゆっくりできない……)
飽きもせずに電話の前で立ち尽くし、思考をじっくりと巡らせ続ける。
(それにしても悔しいな。明日午前の指導碁さえなければ、一緒に囲碁イベントに行けたというのに!今から断りたいが…。
そういうわけにもいくまい。……仕方ないな)
指導碁の相手に八つ当たり気味な思いを描き、きりりと奥歯を噛み締めた。しかしプロは客あっての商売でもあるのだし、
ヒカルと会うからにはちゃんと仕事はしなければならない。アキラはそう自分に言い聞かせ、納得させる。
明日については一応それでふんぎりはついたが、今後のことが肝心だった。寒い廊下であるというのに、アキラは気温の
ことなど全く意識せずに優秀な頭脳をヒカルとどうやって一緒にゆっくり過ごせるか、という事柄のみに傾ける。
(どうせなら一日休みを作って進藤と出かけたいけど…。出かけるにしても碁会所では二人きりになれないから嫌だし。海
とか遊園地はどうだろうか?……寒いな、季節的に。他、他、他は……一体どこに行けばいいっていうんだ!?)
塔矢アキラ14歳。デート(アキラは絶対に認めないだろうが)に遊園地と碁会所と海以外の場所を考えつかずに撃沈。
話題の映画もあるし、東京にはベイエリアや動物園にテーマパークなどなど、いくらでも遊びに行こうと思えばできるとい
うのに、全く何も思いつかなかったらしい。雑誌の一冊でも買うかインターネットで調べたり、せめて他の囲碁イベントに一
緒に遊びに行く程度のことは思いついても良かったのだろうが、アキラはそれすら考えられなかった。
囲碁と勉強になると明晰になる頭脳も、こういった事に関してはとことんまで回転率が悪いのであった。
(でも…明日には進藤に会える…)
明日会えるというのなら、次のことはまた考えればいい。とにかく会うだけで満足だった。
アキラは嬉しそうに一人微笑むと、軽い足取りで自室に向かう。鼻歌すら歌いそうな勢いで、幸せに自分の鼻の下が3セ
ンチばかり伸びていることにも気付かない。若武者のように凛とした風情も消し飛ぶほどすっかりだらしなく相好を崩し、囲
碁界の貴公子という異名もどこへやらだ。
そんな息子の姿をそれぞれ見やった両親は密かに確信していた。一人息子に一足早い春が訪れたのだと。