ACTT 日曜日(SUNDAY)
この日、九州地方は快晴であった。五月下旬だけあって爽やかな空気だがスーツだと暑く感じる気候だ。
棋院主催の囲碁イベントが行われたホテルのロビーからは、明るい陽光に照らされた外の風景が垣間見えた。
多くの人々は夏向きの服装を着込んで、道を歩いている。
午後三時過ぎという時間であっても、だんだん夏至が近づいてきているこの時節だと、夕刻に迫ろうとしているようには見えない。
進藤ヒカルはきっちりとしたスーツから開放されたことに安堵しながら、すぐ隣で自分と一緒に友人を待つ塔矢アキラを見上げた。
昨年の夏に彼に告白されて肌を重ね、恋人同士という関係になってしばらく経つこともあり、二人の関係は少し落ち着きつつある。落ち着いた
といっても、決して悪い方向ではない。碁会所で口喧嘩をすることも同じで、碁では譲り合わないのも変わらない。
恋人としても冷えているのではなく、当初の甘い雰囲気を残しつつも、浮かれたものがなくなったと表現するべきだろう。
アキラがヒカルを一番に優先して、大切に愛情を注いでいるのは全くもって変わることがないのだ。むしろ初めより強くなっている。
泊りがけの囲碁イベントが終わった後であるにも関わらず、ロビーは随分と閑散としており、座れそうな席もあるというのにヒカルを一人掛けの
ソファに座らせて、アキラは自然と脇に立っていた。
それはいつも通りのことであると同時に、彼がヒカルを無意識のうちに自分よりも優先させている何よりの現われだ。
そうしていると、まるで一幅の絵画のように二人の姿はしっくりとはまっている。日本人形めいた容姿を持つアキラと、西洋のヴィスクドールを
思わせるヒカルだからこそ持ちえる、独特な雰囲気ゆえに。
アキラはヒカルのように着替えておらず、未だにスーツ姿だった。
イベントの最後の最後まで開放して貰えなかったこともあるが、元より楽な服装は持ってきていない。とはいえ、まだ僅かに残った人々はスーツ
を着込んでいる。棋院の関係者は勿論のこと、棋士でもある程度年嵩の者はスーツ姿だ。
イベントが盛況に終わったこともあり、客も棋士も棋院職員も立ち話に興じるよりも、さっさとどこかに繰り出したらしい。
ロビーのテレビは最新のニュースを流していたが、ちらほら見える人影の誰もがそれには眼を向けていなかった。
アキラが腕時計の時間を確認するとほぼ同時に、エレベーターが開いて背の高い少年が小走りに走り寄ってきた。
ヒカルとアキラと一緒に北斗杯に出場した社清春も、今回は関西棋院も協賛したこともあって一緒にイベントに参加していたのである。
事前にそれを知った三人は、帰りの新幹線も途中まで一緒に乗ることに決め、イベント中も何かと行動を共にしていた。
これから帰ろうという段になって社が忘れ物に気付き、二人はこうしてロビーで彼が戻ってくるのを待っていたというわけだ。
「すまん!遅なったわ」
「遅い〜社」
「忘れ物を取りに戻るのに所要時間は六分というところだな」
片手を顔の前に上げて謝る少年に、ソファに座ったままのヒカルが笑いながら文句を言い、アキラは冷静に事実を述べる。
「時間はかっとったんかい……」
「キミがどれくらい急いで帰ってくるかと思ってね」
思わずツッコミを入れてくる社に、アキラはしれっと答える。
北斗杯を共に戦った経緯からか、彼ら三人には不思議と仲間意識のようなものができているだけあって、お互いに遠慮のない会話をする。
同年代の中でも突出した実力を持っていることもあり、互いの実力を認めている者が持つ気安さも含まれているのだろう。
アキラと社がこんなやり取りをするのは珍しいことではない。ヒカルは二人の様子を笑いながら見詰めていた。だが、不意に翳った光に窓の外へ
何気なく眼を向ける。ほんの僅かな間に急激に陽光が隠れたことに違和感を覚えて首を傾げた。
暖かな春の日差しに満ちていた通りは、今では夕方のように薄暗い。
「あれ?さっきまで晴れてたのに急に暗くなってきたぜ」
窓際の席から外の様子を見ていたヒカルは、二人の漫才めいたやり取りを尻目に、唐突に暗くなった空を指差した。
さっきヒカルが外を見た時はよく晴れていたのに、今にも雨が降りそうなほど雲が厚く垂れ込めている。時間としては恐らくほんの数分だろう。
そんな短時間で天気が変わるなど奇異な現象だ。ヒカルはどことなく奇妙な胸騒ぎを感じて空を見上げ、アキラも同様に窓に近づいて流れる雲
を見詰める。社もまた、アキラの隣に立って、太陽が隠れて灰色に覆われた空を好奇心混じりに見やった。
「そういえば…最近ニュースでヨーロッパやアメリカなどで、こんな現象が多いって言ってなかったか?」
「へぇ?そうなん?」
「オレも知らねー」
北斗杯で三将を務めた関西人と、副将として隣に居た可愛い恋人の台詞に、アキラは呆れたような一瞥をくれてやりながら溜息を吐く。
この二人がまともにニュースを見ていると思った自分が浅薄だった。
「急に空が暗くなって、雷のような閃光現象が起きて電子機器などがきかなくなるという、自然現象が多発しているんだ。場合によっては雹が降っ
てきたり突風が吹いたりもするらしいけどね」
「ふーん…原因は何なん?」
「電磁波とか太陽風や色々な仮説があるらしいけど…まだ解明されてないみたいだ。――ああ、丁度ニュースが始まったよ」
アキラの言葉を受けてテレビに眼を向けると、今と同じ空をバックにしたアナウンサーがニュース原稿を読み上げているところだった。
『世界各地で最近一ヶ月ほどの間に報告のある現象が、ここ東京でも先刻より発生の兆候をみせております。雷雲らしき雲が空を先ほどから覆
い始めまして、ここからでは見えませんが閃光が走っている地域もあるとのことです。また現在確認されているだけでも、大阪や九州などでも同
様の現象が起きているようです。この現象については、太陽風からくる磁気嵐の影響という説が最も有力ではありますが、現在でも原因は不明
です。この現象により、都市機能が麻痺すると確実視されています。
これまでの報告によると、アメリカや、ヨーロッパ各地では停電のみならずコンピューター管理のデータが消えるなどの被害が続出し、また電
車やバスなどの交通機関、電子機器全般が機能しなくなるなどで混乱も起きており、東京でも市民生活の影響が懸念されます。
政府は例え都市機能が麻痺しても一時的なものである為、冷静な対応をするようにと呼びかけております。以上首相官邸からでした』
アナウンサーが画面から姿を消すと、女性キャスターが次のニュースを読み上げ始めたため、三人は再び空へ視線を戻した。
ニュースを聞いている間に周囲は益々暗くなり、遥か上空で渦巻く雲は厚くたれこめ、ずっしりと地上にのしかかってくるようだった。
時折走る光と雷鳴が不吉な予感を漂わせていて、ヒカルは無意識のうちにアキラの手を探り当てて握り締めていた。握り返された手の温かさ
に安堵を覚えたものの、それでも不安は全て拭い去れない。
テレビからは相変わらずニュースが流れているが、雲が増えて空が暗くなるに従って、画面にノイズが走り始める。
これから起こる現象をまるで裏付けするかのように。
ついさっきまで僅かに残っていた数人の客も話を止め、誰もが窓辺に寄って空を見上げた。
いつのまにか、ホテル全体がしんと静まり返り、固唾を呑んで成り行きを見守っている。
唐突に青白い閃光と同時に大音響が轟いた。
窓ガラスが雷鳴でビリビリと震え、光の強さに一瞬眼が眩む。
思わずその場に居た全員が伏せ、テーブルの下に隠れようとしたりしたほど、その音と光は凄まじいものだった。
アキラは咄嗟にヒカルを庇うようにソファに伏せ、社も背もたれに隠れるようにして蹲る。ただの雷ならこんなにも驚いたりはしないが、音も光も
何か異質で不気味なものを感じた。ただの自然現象ではないと、無意識に思ったのである。
ヒカルはディバッグを抱き締めるように持ちながら、アキラの腕にしっかりとしがみ付いた。
殆ど無意識の行動であったが、そうしないとアキラがどこかに行ってしまいそうで怖かった。
稲光が走り、腹の底に響くような重低音が何度も窓を震わせた。風が唸りを上げて吹き、看板が道路を凄まじい速さで転がっていく。
急激な天候の変化に、誰もが驚いて茫然と外を見詰めた。
雷鳴と雷光は相変わらず激しくホテルを打ち据えている。それだけでなく、雹までもが降りだして窓ガラスにぶつかってきた。
大体は小指の先ほどの大きさだが、大きいものになると、野球のボールやソフトボールくらいの大きさがある。
そんなものが空から重力の加速というおまけもつけて降ってくるのだ。十分な凶器といえるに違いない。雷鳴の中でも外を歩いていた人々は軒下
に身を潜め、雷と雹の迷惑な共演から少しでも逃れようとする。
とても五月の天気だとは思えない。今年は北斗杯の開催が遅くなってまだ選手の選考も始まっていないが、こんな荒れ模様の天気の中での開
催にならないことを切に願いたくなる。今年はネット配信だけでなく、テレビ中継も入るのだから。
そんな一部関係者の懸念をあざ笑うかのように、奇妙な初夏の嵐は唐突に始まって、唐突に終わった。
さっきまでの天気が嘘だったのかと思えるほど、いきなり雲が晴れて五月の陽光が外に満ち、遠雷も聞こえてこなくなったのである。
僅かに残った名残は、道端に転がったり、窓ガラスにぶつかって砕けた氷の塊や、ボンネットや屋根がへこんだ車だけだった。
ロビーに居た人々は一様に安堵の溜息を吐きながら、そそくさとホテルを後にしだした。帰りの新幹線や飛行機の運行が、異常な気象現象の影
響をどれだけ受けたのか不安を覚えたのだろう。だがアキラは、もっと別のことに意識が向いていた。
ロビーのテレビがいつの間に画面が暗くなり、動いていない。それだけでなく、外の光の明るさで気付きにくいが電灯も消えている。
つまりこの辺りは停電しているのだ。
携帯を開いて確認すると、液晶画面は真っ暗になっていた。電池がなくなったはずはない。アキラは今朝携帯の充電を終えたばかりだ。
それに電源を入れようが何をしようが携帯は反応しない。
アキラだけでなく、ヒカルと社の携帯も、また彼らが身につけている最新型の腕時計もすっかり止まってしまっている。
唯一この中でまともに動いているのは、アキラのオートマチック式の腕時計だけで、規則正しい秒針の音がやけに大きく響いて聞こえた。
電子機器の類が今の雷の放電現象で一切動かなくなっていた。車も、電車も、新幹線も、パソコンも、全てが機能を停止している。
ホテルの従業員の動きも慌しくなり、あちこちに電話をかけているが、当然ながら電話も使えないようだった。
余り考えたくはないが、ここしばらく全世界で起こっている異常現象がこの九州にも訪れたらしい。
恐らく東京や大阪でも同様の事態が起きているだろう。
不安げに椅子に座ったまま周囲を見回すヒカルの肩に手を置くと、華奢な肩がビクリと震え、大きな瞳がアキラを見上げた。
怯えた小動物のように瞳は揺れ、縋るようにディバックを強く握り締めている。基本的には大らかで暢気なヒカルは、この程度のことでこうも顕著
に反応することはない。彼には珍しい様子だった。アキラはそんなヒカルの姿に内心驚きながらも声をかける。
「進藤…少し外の様子を見てくるから、ここで待っていてくれないか」
アキラを見詰める眼は行くなと訴えかけているが、敢えて見ないふりをして殊更優しげな口調でヒカルに言い聞かせる。
ヒカルは基本的に芯の強い少年ではあるが、弱く脆い部分も持っている。今の現象によって、普段の明るく元気なヒカルの中に隠れがちな、最も
弱い部分が表面に出てしまったらしい。
アキラとしても今のヒカルを置いて外に出たくはないが、現状を把握するためにはホテルから出て外の様子を見なければならない。交通機関が
動いているか、他の場所も停電しているかなどを確認するだけでも必要である。
場合によっては、このホテルにしばらく缶詰になるかもしれないのだから。
小さな子供のようにこくりと頷いたヒカルの髪を撫でてやり、頬に掌を添えて互いの額をぴたりとつける。一見すると熱を測っているように見える
が、アキラなりにヒカルを安心させる一つの方法だった。体温をこうして分かち合うことで、ヒカルの心は安定する。
アキラの考えは正しかったらしく、それだけでヒカルはほっとしたのか、少し笑みを浮かべて「行ってこい」というように胸を小突いた。
目線を合わせるために屈めていた腰を上げてスーツを整え、ドアに向かって歩きながら、
「社、進藤を頼む」
すれ違い様に低い声で社に囁きかけると、彼は無言のまま小さく親指を立ててみせた。
それに微かに笑って頷き返し、アキラは奇妙なほど明るい通りに出て行った。
五月の爽やかな風が吹く通りは、人々の不安げなざわめきと足早に歩く足音が全てだった。
店から漏れ聞こえてくる流行歌も、音楽も聞こえてこない。派手な電飾も色を失い、灰色に変わっている。
大通りでは信号が止まり、車が立ち往生して、あちこちで追突事故もあったらしく小さな騒ぎが起こり始めていた。
当然ながら電車も動いておらず、人々が手動でドアを開けて次々に車外に降りている。
(新幹線は使えないな)
在来線がこの状態で、新幹線が動いているとは到底思えなかった。
アキラはホテルを出てから二百メートルほど歩いて大体の様子を掴むと、ヒカルの元へ戻るために踵を返しかけた。しかし、数メートル先の曲が
り角に人だかりができているのを見て、そちらに足を向ける。漏れ聞こえてくる言葉の内容によると、どうも落雷がそこにあったらしい。
好奇心もあったが、現在の状況を作った原因の一つである落雷の威力を、自分の眼で確かめたかった。
野次馬の中を縫うように進んで現場が見えるギリギリの場所まで辿り着き、アキラはアスファルトを穿ったひび割れと穴を観察する。
亀裂は通りを縦に裂くように走り、穴は小さいが随分と深い。
通常の雷は、これだけの威力を持っているものなのだろうか?
疑問を感じながら落雷地点からアキラは離れて歩き出した。だが数メートルも行かないうちに小さな揺れによろめき、思わず街灯に掴まった。
落雷地点を囲んでいた人々も同様に立っていられなくなったのか、揺れが大きくなるに従って道路に伏せていく。
雷の後は地震だった。けれどその地震は、アキラの決して長くはない人生経験の中で感じたものと微妙に異なっていた。
東京で時折感じる、地震特有の揺れとはまた違い、工事現場の傍などで感じる人工的なものにどこか似ている。
揺れと同時に地響きが起こり、激しくなるに従って大きくなる。
道路がぐにゃりと波打ち、蛇のようにうねった。
それによって道を縦に裂いていたひび割れも、割れ目が広がり坂道の上に向かって更に裂け始めた。
そんな中、アキラは地響きに混じって奇妙な音を聞いた。サイレンを重低音にしたような、耳障りな音を。
どことなくその音は、船の汽笛と似たもののように感じられた。
それが彼らに悪夢をもたらした最初の笛だった。まるで黙示録の始まりを告げる、第一のラッパのように。
数分間続いた地震が収まり、安堵に胸を撫で下ろしながら、掴まっていた街灯から離れて歩き出したのも束の間、再び地鳴りが響く。
地震もないのに亀裂が凄まじい勢いでアキラのすぐ傍にまで迫り、逃げ惑う人々を追いかけるように割れ目が縦横に走った。
急激な加重の変化のためか、幾つものビルが裂けて崩れ落ちる。ショーウィンドーが粉々に砕けてガラスの破片を降らせた。悲鳴を上げて逃げ
惑う市民に向かって、容赦なく看板が落ちた。
アキラも人々に混じって、少しでも亀裂から離れられるように走りだし、安全だと思える所でやっと立ち止まる。
落雷地点を中心に地面が陥没すると、やっと静けさが戻ってきた。
騒ぎを聞きつけた警官が警笛を鳴らしながら人々を遠ざけるが、野次馬の多くは陥没場所を好奇心混じりに見詰めている。
坂道から交差点の十字路が十数メートルのクレーターを作り、綺麗に抉れて本来の土がむき出しになっていた。
砂埃に咳き込みながら、アキラも陥没地点を眼の端に捉える。
アキラには、砂埃が舞う市街地の一角に、さながら巨大な蟻地獄の巣が誕生したように見えた。
「そこの君、危ないからもっと離れて!」
仲間の警官と一緒に市民を近付けないように現場をテープで囲う警官の指示に従って、アキラも脇へ退いた。
今度こそホテルに戻ろうとしたアキラだったが、地震の最中に聞いた汽笛のような音が響いて思わず足を止めて振り返った。
一体どこでそんな音がしたのか分からなかったが、人々の眼は陥没現場の中心に注がれている。
音が聞こえた瞬間から、勘の鋭い彼ならではの危機的本能なのか、無意識にアキラは後退りを始めていた。そう、誰よりも早く。
低音のサイレンは高く低く鳴り、再び地鳴りが地中から響いた。
――そして『それ』は姿を現した。災厄の象徴であり悪夢の源泉が。








