ヒカルはアキラを探して、森の中に足を踏み入れた。森といっても小さなもので、数十メートルも歩くと突き当たりは川になる。迷うほどに広いわけではなか 
った。アキラの不在に心を不安で押し潰されそうになりながら、ヒカルは下草を踏みしめて周囲を見回し、か細い声で呼びかけた。
 
「塔矢……どこ?」
 
 返事は聞こえない。尤も、蚊の鳴くような小さな声では、アキラにすぐ届く筈もなかった。狭い森でも互いの姿は見えないのだから。
 
 アキラの声が聞こえない。彼が傍に居ない。それだけで、ヒカルはどうしようもないほどに怖くてたまらなかった。
 
 もしもアキラが佐為のように、何も言わずに消えてしまったら?
 
 突然に自分の前から姿を消してしまったら?
 
 彼があの恐ろしいモノに命を奪われてしまったら?
 
 アレの放った光線で一瞬にして灰と化した人々の姿が脳裏に過ぎる。想像するだけでも、ヒカルは気が触れそうな恐怖を感じた。
 
 いつも、いつも、怖い。けれど、アキラが傍に居てくれるとヒカルは安心できる。彼の体温を感じると、独りではないと理解できた。
 
 アキラはヒカルの大切な拠り所であり、支えでもあった。現実から逃避しそうになる心を、かろうじて繋ぎとめてくれる。
 
 また、アキラにとってもヒカルが必要なのだと、彼が傍に居て抱き締められることで、感じることができて嬉しい。
 
 こんな自分でも必要とされているのだと分かる。自分の存在意義を、ここに居てもいいのだという安心を、アキラはくれる。
 
 平和になったら一緒に暮らそうと言ってくれた。毎日、毎日、何千局でも何万局でも打とうと、言ってくれた。アキラはことあるごとにヒカルに楽しい未来を語
 
り、そうなると信じさせるような口調で、ヒカルに勇気をくれる。 明るい未来を、平和な日々を、アキラと居ることでヒカルは想像できた。それに向かいたいと
 
思う力を分け与えてくれた。アキラの言葉と未来を望む自分が、ヒカルの弱い心に現実に向かい合う強さを徐々に与えて、作り始めているところだった。
 
 もう少しすれば、ヒカルは再び元の自分に戻れる。弱い心を強化して、自分の足で大地を駆け、大空を飛べるようになる。
 
 アキラと一緒なら、ヒカルは前に進める。この先、辛いことがどれだけあっても、彼さえ居てくれれば乗り越えられる。
 
 でも、アキラが居ないとヒカルはダメなのだ。佐為を感じてくれた、自分の中に居る佐為を分かってくれたアキラでなければ。
 
 アキラが居なければ、ヒカルは生きていけない。彼が居ない荒れ果てた世界になど、居たくはなかった。
 
「返事しろよ…塔矢」
 
 ヒカルはアキラを呼びながら、森の中を真っ直ぐに歩いた。胸元でぎゅっと手を握り締めて、数歩進んでは周囲を見回す。
 
 しばらく足を進めていくと、大きな川が見えた。せせらぎに耳を傾けながら川の傍まで近づくと、穏やかな流れの中で陽光が水面に反射してキラキラと輝いて
 
いる。向こう岸にも緑に覆われたこんもりとした森が広がり、新緑の季節の美しさが澄んだ水に映し出されていた。
 
 あんなことがあったのに、自然の美しさは何一つ変わらない。
 
 ぼんやりと見るともなしに川を見詰めていたヒカルは、上流から木片のようなものが流れてきているのに気づいた。
 
川の流れに身を任せて近づいてくるそれが、はっきりと何であるのか理解した瞬間、身を硬くして息を呑む。
 
 それは木片ではなかった。
 
「あ……ぁ…ゃ」
 
 一歩足を後退させたものの、瞳は上流から次々に流れてくるものに釘付けになったまま離れない。川に浮かぶそれらは、今ヒカルが最も目にしてはならない
 
ものだった。ついさっきまでは青い色に染まっていた水が、今では赤黒いような、濁った不気味な色に染められている。
 
 次々に流れてくるモノの中には、壊れた家屋のようなものもあった。
 
 ヒカルは首を左右に振った。見たくないと思うのに瞼は少しも動いてくれない。この場から逃げ出したいのに、足も石のように動かない。
 
 瞬きすらできなかった。息もできない、声も出ない。
 
 流れてくるそれらは、どれ一つとして生きてはいなかった。不完全で、まともな形をしているものもない。
 
 千切れた腕や、足、胴体、首、様々な元は人間であった者達が、物言わぬ骸となって上流から川下に流されてきていた。その数は川面を多い尽くすほど膨大
 
で、水の色を染め替えてしまうほどおびただしい。
 
 過去の戦争では、遺骸が川を埋め尽くしたことがあったという。まさにそのままの光景が、ヒカルの眼の前で展開していた。
 
 無残な遺体の数々。大人も、子供も、老人も、男も、女も、全て。
 
 死の直前の恐怖にカッと見開いた瞳が、空を恨めしげに睨んでいる。
 
 中途半端に投げ出された手は、何を求めていたのか。
 
 奇妙な形に歪んだ足は、どんな悲惨な方法で命を奪われたのか。
 
 それらは既に、誰にも何も語ることはできない。
 
 流されてくるものは、全てが『死体』や『遺体』と呼ばれるものであった。美しい川は今や水の墓場と成り代わっていた。
 
 逃げることもできず、悲鳴すらも上げられずに、瞳を零れんばかりに見開いて、ヒカルはそこに立ち尽くしていた。
 
 切迫した早い呼吸音だけが、静かな世界に響いている。
 
 ヒカルにとっては、そこにあるのはただの骸ではなかった。彼には違った別のものに見えていた。
 
 大切な棋聖の死の原因が入水であったことを知っていたから、ヒカルは連想してしまったのだろう。
 
 そこにある全てが、ヒカルには何百、何千、何万という『藤原佐為』の遺体に見えた。入水した彼の『死』を見せ付けられるように。
 
 彼の存在が消えてしまった、原因を突きつけられるように。
 
「――――――っ!!」
 
 ヒカルの喉から、あらん限りの絶叫が迸った。正しく絶叫としか表現のしようのない、凄まじい叫び声であった。
 
 叫んでも、泣いても、ヒカルの前からそれらは消えない。何故助けてくれなかったのかと、責めているように。
 
 自分が声を出しているのも、瞳から涙を溢れさせていることにも気づかなかった。眼の前にあるものから逃れる術も分からない。
 
「見るなっ!」
 
 誰かの声がして、不意に視界が真っ暗になった。ヒカルは唐突な闇の訪れに恐怖を感じて、闇雲に暴れた。
 
 温かな何かが眼を覆っていると、眼の前の闇が、ヒカルを怖いものから護ってくれたと分からずに。
 
 耳元で誰かが叫んでいる。ヒカルを必死に呼んでいる。泣きながら四肢をばたつかせていると、何かが押さえ込んきた。
 
「進藤!」
 
 声が聞こえた。でも、ヒカルにはそれが誰か理解できなかった。
 
(…誰だ?佐為じゃない…)
 
 腕を拘束した何かは温かい。佐為は実体がなかったから、こんな直接的な体温は感じられなかった。それはもう一度ヒカルを呼んでくる。
 
「進藤っ!」
 
(この声…怒ってるみたいな…泣いてるみたいな…誰だっけ?)
 
 温かい何かの存在が、ヒカルの記憶と心の琴線に触れてくる。
 
 ヒカルの眼前にある闇は、意外にも心地よく優しい。混乱と恐怖が遠退いてきた。それに伴い、暴れていた身体から力が抜けてくる。
 
「進藤!!ボクを見ろっ!!」
 
 今度こそ、しっかりと呼びかけられた。
 
(ああ…塔矢だ…やっぱり怒ってら)
 
 唐突にヒカルは理解し、ふと笑みを浮かべる。けれど、心が恐慌から戻ってくると同時に、現実的な恐怖が押し寄せてきた。
 
 川を覆っていた恐ろしい遺体の数々を見た、その光景が。
 
 再びヒカルの唇から悲鳴が迸る。視界を覆われている暗さが、今度は生ある自分を闇に引きずり込もうとしているように思えたのだ。
 
 その瞬間、ヒカルの眼の前には明るく輝く空が広がった。太陽の光と暖かな風が吹く、優しい世界。ヒカルの居場所。
 
 瞬きをすると、眼の前に切れ長の瞳をした、美しい黒髪の少年が顔を覗き込んできた。とても心配そうに。それでいて、どこか辛そうに。
 
「…塔矢……」
 
 茫然と呟くと、怒ったように必死な形相をしていたアキラはくしゃりと顔を歪めたものの、すぐ嬉しそうに笑いかけてくる。
 
「進藤……」
 
 整った顔が近づき、柔らかく温かい感触が唇に触れた。しっかりとした腕がヒカルを支え、力強く抱き締めてくる。
 
 アキラの背中に腕を回して、ヒカルは瞳を閉じた。怖い……けれどアキラがすぐ傍に居るから大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
 
 閉じた眼の奥にはもうあの恐ろしい光景は蘇えってこない。ヒカルが感じることができたのは、アキラの存在だけだった。
 
 
 アキラは下流に向かって歩きながら、水を手に入れられそうな場所を探していた。スポーツ用品店で見つけたキャンプ用品の中には、汚れた水を真水に変
 
えるものがあったからである。それを使って水を補充しようと考えていたのだ。まだ水に余裕はあるが、できるだけ持っておくにこしたことはない。
 
 空になったペットボトルを片手に、アキラは水辺に近づいた。
 
 その時だった。声が聞こえたのは。いや、それは声と呼べるような生易しいものではなかった。悲鳴とも違う。
 
 強いて表現するならば絶叫だ。恐怖、悲嘆、懊悩、憎悪、様々な負の感情が重なり合い、絡み合って作り出された、悲痛な叫びだった。
 
(――進藤っ!?)
 
 アキラには、壮絶な叫び声の主が瞬時に誰なのか判断できた。
 
 しかし疑問はある。ヒカルは車で眠っていた。例え外に出たとしても、ここにはヒカルに悲痛な叫びを上げさせるものなどないはずだ。
 
 ヒカルにあんな声を出させたのは一体何なのか?
 
 あの機械ではないことは確かだ。あれだけの大きさだと、どうあっても目に付いてしまう。分からないまでも、アキラはすぐに行動を起こしていた。
 
 ヒカルの声が聞こえてくる方向に向かって、一目散に走りだす。
 
 さして大きな森ではないのに、こんな時ばかりは随分と広く感じてしまう。そんな中でも、絶叫は途切れることなく続いていた。
 
 よく息が続くものだと妙なところで感心しそうになるほど、ヒカルの声は細く長く響く。逆説的な考えをすると、そのお陰でヒカルの居場所は特定しやすくもなっ
 
ていた。枯れ草と長く伸び始めた草に足をとられながら、アキラは声のする方へと着実に近づく。実際にはさして離れていなかったのだろう。
 
 アキラ自身の感覚では何分もかかったように思えたが、現実はほんの一分か二分で、ヒカルの元に辿り着いていた。
 
 木々の間から明るい金髪が見える。岸に背を向けて川辺に立っているようだった。
 
 ヒカルの細い華奢な後姿をやっとの思いで見つけたアキラは、勢いを止めずに一目散に駆け寄る。その間もヒカルの声は止まない。
 
「進藤っ!」
 
 アキラはヒカルの元へ走り寄ると、背後から抱き締める。その時、川の惨状は否応もなくアキラの視界にも飛び込んできた。凄惨な光景に、恐ろしさを覚える
 
と同時に強烈な吐き気がこみ上げてくる。しかしそれを息を呑んでやり過ごし、必死に眼を背けながら、素早くヒカルの目元を掌で覆った。
 
「見るなっ!」
 
 恐怖で恐慌を起こし、腕の中で暴れるヒカルを必死に押さえる。少しでも現場から遠ざけようとして失敗し、草地に二人して倒れた。
 
「どないしたんや!……うっ…!」
 
 すぐ近くで社の声がしたが、構ってもいられない。遠退く気配に、彼にも二人を手助けする余裕がないことは、アキラにも察せられた。
 
 まさに直視に耐えかねる光景であったのは確かなのだから。
 
 かといって、社の介抱に向かう気はアキラにはない。今の彼は激しく混乱して暴れるヒカルを宥めるだけで精一杯だった。
 
「しっかりしろ!進藤っ!ボクが分からないのか!?」
 
 ヒカルは自分が倒れたことにも気づかず、またアキラが傍に居ることも、社が来たことも分からない様子で泣き叫び続けている。
 
 手足を振り回して、闇雲に暴れ回っていた。そんなヒカルをアキラは四肢を使って何とか押さえこむ。
 
「進藤!」
 
 もがき続けるヒカルの耳元に、あらん限りの声で呼びかける。
 
 無意識に爪を立てて引っかいてこようとする腕をとり、手首をしっかりと掴んだ。足にも体重をかけて暴れないようにする。
 
「進藤っ!」
 
 もう一度呼ぶと、僅かだが抵抗が弱まった。ヒカルの目を塞いだまま押さえているだけに、ひどくやりにくい。
 
 まるで取っ組み合いの喧嘩をしているようだった。アキラもヒカルも息は絶え絶えで、衣服もすっかり汚れてしまっている。
 
「進藤!!ボクを見ろっ!!」
 
 アキラの必死の呼びかけが通じたのか、溺れる人のように四肢をばたつかせていたヒカルの動きが、ピタリと止んだ。
 
 ヒカルの中で、何かの整理がついたのかもしれない。だがしかし、それはほんの僅かな時間だった。
 
 ヒカルの唇から、今度はさっきとは違う種類の悲鳴が迸る。
 
 片腕で纏めていた手首が拘束を逃れ、空を掻いた。咄嗟にヒカルの眼を塞いでいた手を放し、両方の腕を掴む。
 
 地面に縫いとめるように手首を押し付けながら、顔を覗き込んだ。
 
 ヒカルの瞳からは涙が溢れ、頬もしっとりと水分を含んで濡れ光っている。もう声は出ていないが、嗚咽が零れ落ちていた。今更ながら、ヒカルを置いて車を離
 
れたことを後悔した。そうすれば、彼は自分を探してこんな場所には来なかったし、あんなにも凄惨で悲劇的な光景を目にすることもなかったに違いない。
 
「…塔矢……」
 
 自分自身を責めるアキラを労わるような、ヒカルの声が聞こえた。
 
 ついさっきまでの、恐慌をきたした喚き声ではなく、ヒカル本来の甘い声音に、アキラは心底安堵したように息を吐いて微笑む。
 
「進藤……」
 
 ほっとすると同時に、安心したのと喜びで涙が零れそうになった。
 
 ヒカルを抱き締めて泣きそうになる自分は抑えられたが、溢れんばかりの愛しさに任せて唇を重ねることは、我慢できなかった。
 
 久しぶりに味わうヒカルの唇は、涙の味で少しばかり塩辛かったが、以前と変わらずに柔らかくそして甘い。唇が離れると、ヒカルが腕を伸ばしてきた。アキラは
 
その腕をとり、背中から力強く抱き締める。細い肢体は腕の中にすんなりとおさまり、ヒカルはほっとしたように吐息を零して身体を預けてくる。
 
 背を擦っていると、ヒカルの呼吸はゆっくりと落ち着いていった。
 

 ヒカルを追いかけて社が森に入って数歩もいかないうちに、絶叫が狭い森中に響き渡る。あまりに悲愴な叫び声に、社は動くこともできずに硬直していた。
 
 こんな声を、アキラが出したとは思えない。――となると、残るはヒカルしかいない。一体何があったというのだろう。
 
 とにかく社はヒカルの声が聞こえてくる方向へ向かって走った。
 
 殆ど一直線の距離を青草を踏んで走っていると、黒髪を乱れさせてアキラが物凄い勢いで前方を駆け抜ける。その先にはヒカルの小さな後姿が見えた。
 
 どうやら川辺にいるらしく、ヒカルの前には赤黒く濁ってゴミの浮いた汚い川がある。こんな風光明媚な場所に流れる川だとは思えないほど汚れているのが、社
 
には気になった。社が追いつくまでに、アキラがヒカルを背後から抱き締める。
 
 叫び続けるヒカルを押さえつけているが、少年はアキラに気づかず凄まじい勢いで四肢を動かして暴れていた。一体何がそんなに恐ろしいのか、ヒカルの唇
 
からは絶え間なく悲鳴が上がっている。アキラがヒカルを引きずるようにして川淵から離すが、数歩もいかないうちに二人してもんどりうって倒れた。
 
「どないしたんや!……うっ…!」
 
 見るに見かねて社はヒカルとアキラに駆け寄ったものの、間近で眺めた川面の光景に絶句した。
 
 少し離れた場所から見た時は汚いゴミだと思ったものは、元は人間であった部分だった。無残にも、まともな形をしたものは殆どない。
 
 川幅一杯に覆いつくしたそれは、ゆらゆらと浮かんでは沈みながら、川下に向かってゆっくりと流れていく。
 
 赤黒く染まった水の色は、既に元の色がどうだったのか分からない。
 
 自分に向かって、助けを求めるように差し出された遺体の手を見た瞬間、強烈な吐き気がこみ上げてきた。その腕の持ち主には首はなく、他にも数えきれない
 
ほどの骸が漂っている。川から背を向けて思わず口元を覆ったものの、嘔吐感は一向に収まらない。
 
 咥内に酸っぱい何ともいえないものが広がり、口を押さえて川の見えない場所まで全速力で走って戻る。
 
 ヒカルとアキラの様子に気を配ろうとする気遣いは既に萎えている。
 
 木々に川が隠された瞬間、我慢できずに木の根元に嘔吐した。何度も、何度も、胃の中の内容物を吐き出す。
 
 胃液しか出なくなっても、社はその場に蹲って吐き続けた。
 
 一体どのくらい吐しゃ物を吐いたのか分からなかったが、もう一歩でもあの川には近づきたくなかった。背後すら振り返りたくなくて、半ば逃げるような足取りで
 
車に向かって歩き出す。今更ながら、あんなに混乱した中で、自分が子猫を腕の中から離さずにいたのには驚きだった。
 
 未だにこみ上げる嘔吐感によろめきながら戻ると、アキラがヒカルを半ば引き摺るようにして、森から出てくるところだった。
 
 ヒカルはまだアキラの腕にしがみついている。既に声は枯れてしまったのだろう。大粒の涙が頬を伝い、しゃくりあげてはいるが、声が漏れ聞こえてくることは
 
なかった。アキラは一歩二歩と、ヒカルを抱えたまま歩いてくる。
 
 髪はざんばらで衣服やネクタイには木の葉がつき、日頃の貴公子然とした容貌からは想像もできないほど、服装は乱れていた。
 
 社は震える手でペットボトルの蓋を開けて口を濯ぎ、背中をリムジンに預けて戻ってきたアキラを見上げる。
 
「……上流で何があったんかな…?」
 
「……虐殺だろう」
 
 すげなくアキラは答えると、ペットボトルをヒカルの口元に寄せ、ゆっくりと飲ませてやった。
 
 ヒカルはまだ啜り泣いている。あの光景が余程衝撃的だったのだろう。無理もない。社ですら耐え切れずに逃げ出したのだから。
 
 今回の出来事はヒカルにとって最悪だった。ただでさえ繊細で脆くなっている彼の心に、これ以上ないほど強い衝撃を与えたのは想像に難くない。
 
 幸いというべきか、すぐにアキラが気づいたお陰で狂気にまでは走らなかったようだが、非常に危うい状態でいることは確かだった。
 
 多少よくなったかと思ったらこれだ。もうヒカルはアキラ以外の存在を殆ど認知できなくなっているだろう。
 
 幼子のように泣いているヒカルをアキラは優しくあやしながら、後部座席に寝転ばせる。毛布をかけてやり、社が無意識にしっかりと抱き締めていた子猫を取り
 
上げると、ヒカルに預けた。ヒカルは子猫が何かの拠り所であるかのように、大事そうに抱え、身体を丸める。そんなヒカルの頬を子猫は舐め、頭をすり寄せた。
 
 毛布越しに背中を叩きながら、もう大丈夫だとアキラは何度も言い聞かせ、手を握り締める。
 
 ヒカルは子猫の毛並に顔を埋めると、小さく何か呟いた。それにアキラは少し驚いたようだったが、何も言わずにいる。
 
 社としてはヒカルが何を言ったのか気になったものの、アキラは知らぬげに優しいリズムで毛布を叩いている。
 
 しばらくすると規則正しい寝息が聞こえてきた。ヒカルはどうやら泣きつかれて眠ったらしい。程なくアキラは小さく息を吐いて、車から降りてきた。
 
「社…あの子猫の名前……『サイ』にしてもいいかな?」
 
「なんやな?藪から棒に」
 
「いや…進藤がさっきそう呼んでいたから…」
 
「オレは別にどんな名前でもかまへんで」
 
「そうか、じゃあ『サイ』にさせてもらうよ」
 
 アキラが何故唐突にそんな事を言い出したのか社には分からなかったが、敢えて追求する気はなかった。
 
 いつまでもこいつとか、子猫と呼ぶのも可哀想である。
 
「そうやな……けどあいつメスみたいやし、ただ『サイ』いうよりも、もうちょっと捻りきかせた方がええんちゃうか?」
 
 カタカナやひらがなで『サイ』というのは、何だか他の動物を連想させる気がして、社としては気に入らない。
 
 一応は見つけたのは自分なのだし、名前についてもうちょっと拘りたい気分だった。
 
「キミにしては粋な思いつきだな」
 
 アキラは社の意見に感心したように眼を見開いたが、すぐ頷く。
 
「オレにしてはっちゅうのは余計や」
 
 立っているアキラの足を蹴飛ばす真似をすると、彼は声をたてて笑った。何だか久しぶりにアキラの笑顔を見た気がする。
 
「そうだな…じゃあ漢字で『彩』はどうだろう?彩りいう字で『彩』」
 
「お!ええやん。塔矢にしては粋な名前やな」
 
「ボクにしては、というのは余計だ」
 
 同じ台詞の真似をして、憮然とした顔で文句を言うアキラを見やり、社も笑った。本当に久しぶりに笑えた気がする。
 
 やはり動物という存在は、人の心を和ませるものなのだろうか。ただ名前をつける相談をしただけなのに、不思議と心が軽くなった。
 
 とりあえず車にはもう少し気分がよくなってから乗りたい。さっき見た光景とは段違いに美しい茜色の空を見上げて、そう思った。
 


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