雨でぬかるんだ道を歩いてどのくらい時間が過ぎたか分からない。夜の帳から開放されても、空は雲って雨が止むことはなかった。
 傘もレインコートもないままに、三人はひたすら地図を頼りに歩いき、冷え切った衣服に震えながらたどり着いたのは、小さな温泉町だった。
 そこには既に多くの人々が訪れ、街の端から出て行っている。
 昼間だというのに薄暗いのは、人の心が投影されているのか、或いは雨空のせいなのか、それは誰にも分からない答えだった。
 それでも人々は江戸時代の宿場町のように、一泊の宿をとって休んでは先へ進んでいるのだろう。温泉宿の壁には、行方不明の家族や友人を探す張り紙が所狭
しと貼られていた。写真を添付して掲示しているものもあれば、身体的特徴やはぐれた時の服装を詳細に記して、連絡を請う紙もある。
 家族にとっては一縷の望みを託して、掲示しているに違いない。
 アキラはヒカルの手を握って、道行く人々の波に逆らわずに歩いた。その後を社が荷物を持って付き従う。
 町外れの喫茶店までくると、疲労は限界にきた。示し合わせたわけでもないのに、古びた喫茶店の扉を押してずぶ濡れのまま中に入る。
 店の主人は嫌な顔一つしなかった。彼にとっては、既に当り前になりつつあることだったからである。ここ数日で薄汚れていたり、彼らのように濡れ鼠で入ってくる客
など掃いて捨てるほどいる。だが、子供の三人連れという取り合わせは少し珍しかった。
 大抵は大人が一緒に居ることが多いし、子供ばかりであっても、もっと大人数であることの方が多い。
 主人が一番驚いたのは、この三人の顔ぶれを知っていたことだった。
 こういった温泉宿が集まる場所では、囲碁や将棋のセミナーが開かれることがあり、客の中にはプロ棋士もちらほら居たりする。
 それもあって、主人は囲碁や将棋関係のプロ棋士の顔を覚えていた。
 囲碁関係では最近若手棋士の台頭が目覚しく、確か昨年の北斗杯では三人の代表が健闘し話題を呼んでいる。彼らがその三人だった。
 主人は一番背の高い少年と眼が合うと、手招いてカウンター席を示した。彼らは重たそうな足取りでやってきて席に座る。
 傍目から見ても、顔をみれば疲れきっているのがよくわかった。
 注文はとらずに、主人はガスコンロでミルクを温めた。彼の友人が経営している牧場から毎朝もってきて貰っている特製の牛乳である。
 こんな状況だと普通は食料に困るが、田舎だけあって畜産や農業が盛んで、今のところ食糧危機には陥っていなかった。
 友人からの厚意もあってミルクに関しては無料にしている。それだけでなく、喫茶店は今のところ無料休憩所のようなものだった。
 三人の前にホットミルクを置いて、無言のまま飲むように身振りで促す。戸惑ったように見上げる少年達に彼は苦笑を浮かべた。
「サービスだから気にしなさんな。熱いから気をつけてな」
「すみません、ありがとうございます」
 礼を言う黒髪の少年に頷いてみせると、彼は自分の分に口をつけながら、隣に座って猫を撫でている少年にホットミルクを勧める。
「進藤、これを飲んで。温まるよ」
 金色の前髪をした少年は子猫を撫でていた手をぴたりと止めると、言われるがままに口をつけた。
 少年のどことなく機械的な仕草と危うげな雰囲気にいたたまれなさを感じて、店主は眼を伏せる。
 これまでにない異常な状況下にいるからか、精神が崩壊したり安定を欠いている者が店に訪れることは少なくない。
 短くない人生経験と温泉町の旅行者を相手にしてきたこともあり、一目見ればどんな精神状態であるのかわかる。
 わけのわからないことを喚きながら通りを走る者も居れば、茫然とした様子のまま家族に付き添われてくる者も多かった。
 あの機械によって、自分の身近な恋人や友人が悲惨な最期を遂げたのを目撃し、心が現実から遊離してしまった者は数えきれない。
 他にも二次的な災害現場に取り残され、精神崩壊した者も居る。
 恐らくこの少年もそうなのだろう。余程恐ろしいものを見たか、体験したかで心の均衡が崩れているに違いない。
 日本は平和な国で、日常生活において人が殺された現場や遺体を見るなど滅多にないことだ。そんなモノを見てしまったら誰でも相当な精神的ショックを与えられる。
 ましてや今はどうだ。こんな異常で恐ろしい状況など何十年も前の戦争でも例がないに違いない。
 あの時は人間が相手だったが、今回は人類外なのだから。
 心が崩壊するのも無理からぬ話だ。それでも、心を何とか安定させて正常を保つものも少なくない。
 耐えられる者は、意志や精神力が強いというのも一つのファクターとしてあるだろう。だが、それだけでもない。
 身近な存在が先に精神的に参ってしまうと、自分自身が参ることができなくなってしまうのである。命が関わる状況だとそれは尚更顕著に現れてくる。一緒に引きずら
れてしまうと自分の命まで危うくなるため、支える側に回らざるを得なくなるのだ。
 つまり完全に退路を断たれてしまうので、逃げたくても逃げられない立場となる。一番損な役回りといえるだろう。
 そしてその損な役回りは、黒髪の少年と背の高い少年なのだ。
 先に心が壊れてしまった者は哀れだがある意味幸せな立場でもある。
 悲惨な状況から逃れ、別の世界に逃げ込めるから。
 背の高い少年は目礼してホットミルクを一口のみ、ほっとしたように息を吐いていた。黒髪の少年も同様に少し緊張を解している。
 ホットミルクというものは、人の心を安定させる不思議な効果がある。前髪が金髪の少年もこれで少しでも落ち着いてくれるといいが。
 少年達がホットミルクを飲み終わると、主人はカップを下げて紙に簡単な地図を描き、上品そうな身形の少年の前に置いた。
「こう避難民が多いとどこも満杯で泊まる場所がないんだ。けどな、この先に建設前の温泉つきマンションがある。町外れの奥まった場所で遠いし、誰も行ってないはず
だ。休むならそこを使うといい。モデルルームには鍵もかかってないしな」
「いいんですか?勝手に使っても」
「どうせ誰も咎めたてしないさ。自家発電装置もあるから、いかれてなかったら使えるだろう。お子様はもう寝る時間だぞ、早く行きな」
「ありがとうございます。ご馳走様でした」
 茶化したような口ぶりで促すと、少年は深々と頭を下げて礼を述べ、残る二人を連れてそぼふる雨の中を出て行く。
 主人は少年達の背中に、よく響く低い声で手向けの言葉をかけた。
「あんまり気張りすぎるなよ」

 喫茶店の主人が地図で描いた通りの場所にマンションはあった。
 温泉街から徒歩で二十分ほどの距離にあり、道からも逸れている。
 建設前と主人が言っていたように、そこはコンクリートと骨格がむき出しになった廃墟のような建設現場で、傍にモデルルームがたった一軒建っているだけだった。
 雨の中で煙る作りかけ途中のマンションは、例え昼間であっても不気味さは一入である。
 街から離れていることもあって電気設備を整えきれていないから、自家発電装置を使っているのだろう。
 建設用のクレーン車などは外壁が作られたマンションの中に放置されている。モデルルームはマンションの裏側にぽつんとあった。
 三人がマンションを回って辿り着いたモデルルームは、主人の言葉通り鍵はかかっていない。隣接している事務所も同じ状態で放置されていて、自家発電装置も
そこにあった。取り敢えず試しに使ってみると、意外なことに部屋に照明が灯る。随分と久しぶりに電気の明かりを見た気がした。
「なんちゅうか…久々に普通に戻った感じやなぁ」
「…そうだね」
 濡れた衣服を脱ぎ捨てながら相槌を打ち、アキラは洗濯乾燥機にスーツを放り込んで、ヒカルの衣服も脱がせて毛布を羽織らせる。
 その間に社は風呂に湯を満たしていた。温泉つきマンションのモデルルームだからか、出てくる湯はどうもこのあたりの温泉らしい。
 そして温泉だけでなくこのモデルルームは予想外に大きかった。
 部屋は全部で五部屋あり、リビングとダイニングルームとキッチンがまず一つの部屋となっている。俗に言うLDKタイプだ。
 他に主寝室、子供部屋、客用の和室、書斎までもが揃っている。
 メゾネットタイプを想定しているのか半地下が作られており、そこが書斎と和室に分かれて作られていた。寝室から階段を降りていくと書斎に通じ、その隣の部屋
が和室というデザインである。恐らく家族向けの作りなのだろう。
 三人とも衣服を脱いで毛布を被った奇妙な格好のままで、幾つかの部屋を見てまわり、都心では見られない贅沢な作りに眼を丸くした。
 粗方見終わってダイニングに戻ると、ヒカルの腕から彩は身軽に降り、可愛らしく鳴いて足元にすりよって食事を要求してくる。それを見て、今更ながら空腹を覚えた。
 朝食は食べたものの、車を奪われてから歩き続けてエネルギーを消費している。時計をみると昼の二時を回っていた。
 彩には朝に与えた猫用の缶詰の残りを与え、三人は毛布を着込んだ姿のまま、遅ればせながら昼食にとりかかった。
 食事をしている間に会話は殆どなかった。全員が疲労の極みにあり、喋るだけの気力も体力も残っていない。それでも、食べ終わるとエネルギーが補給されて、
身体を動かす力が多少戻ってきた。
 浴槽に湯が満たされると、まず社が入って身体を温める。まともに風呂にはいるのは恐らく四日ぶりになるだろう。
 アキラは洗濯と乾燥が終わったスーツを部屋の隅にあったプレス機で簡単に皺をとると、ハンガーにかける。今更綺麗にしても意味はないと思うのだが、日頃の
生活習慣がこんな時も変わらずに出るらしい。
 ヒカルと社の衣服も、洗濯乾燥機に入れて洗う。アキラのスーツだけを先にしたのは、単に入れる洗剤が違ったからだった。
 最初は面倒臭くて一緒に洗おうとしたのだが、意外にも社にやめておけと止められ、こうして別に洗っている。
 スーツが着られるようになっても着る気になれず、毛布を身体に巻いただけの姿で、食事の後片付けも済ませた。
 その間もヒカルは彩の相手をずっとしている。ボールを転がしたり、どこで見つけたのか紐を使ってはじゃれさせて構っていた。
 彩を相手に遊んでいる間は、ヒカルは笑顔を少しみせようになった。
 相変わらず社が傍に居ることを認識できていないようだが、多少はマシな状態になってきていると思う。
 茶色い毛玉のように蹲って狙いを定め、彩はヒカルの垂らした紐に向かって突進し、白い前足で捕まえようと躍起になっている。
 彩は雑種だがとても可愛らしい猫で、頭もいい。前足は真っ白で、後足は足元が白いので靴下を履いているように見える。顔は目元から茶色い模様で頭全体に
広がり、口元や頬の辺りは白く、碧がかった青い目は澄んで人の心を見透かす鏡を思わせた。
 そして首から背中の一部と腹の辺りも白い。背の残りの部分と尻尾は全て茶色とこげ茶の縞に覆われ、色さえ変えれば子供の虎のようだ。
 ヒカルが彩を可愛がる気持ちも分からないでもない。アキラも社も、彩を構っていると心が和んでほっとするから。
 社が風呂から上がると、次はヒカルとアキラの番だった。
 アキラはヒカルを連れて浴室に入ると、毛布を取り払って湯をかける。これまでヒカルはアキラと風呂に入るのは照れ臭がって入りたがらなかったのに、今は平然
と裸体を晒していた。ヒカルの羞恥心が薄れているというよりも、思考がそういった方向にいかないだけだ。子供が保護者に頼っているのと同じようなものだ。
 アキラの言うことなら素直に聞くのも、アキラに対する無条件の信頼と愛情、そして彼が唯一頼れる存在だと認識しているから。
 モデルルームとはいえ変に細部まで拘っているらしく、ちゃんとボディーソープやシャンプーの類まで取り揃えている。
 それに少しばかり驚きながら、アキラはタオルを泡立てると、ヒカルの腕をとって洗い始めた。
 普段ならヒカルがアキラに素直に身体を洗わせることなどない。だが今日はひどく無防備にアキラに全てを委ねていた。こうも無防備だと、アキラの方もいかがわし
い真似をする気がなくなる。元より、アキラはヒカルをどうこうする気など全くなかったが。
 自分自身でも子供の面倒をみている親の心境と似たような思いで、ヒカルの世話をするのも同じ感覚だった。
 足の爪先の一本一本、指先に至るまで綺麗に洗う。
「後で頭も洗うからね」
「うん」
 素直に頷いたヒカルの頬に口付けると、くすぐったそうに無邪気に笑う。こうして触れ合っていると、あんな出来事が嘘のように思えた。
 とはいえ、ヒカルが楽しげに笑うのは、アキラと二人きりでいることと、現状を完全に把握できていないからだ。マンションの一室のような場所にいるので、安全だと思
いこんでしまっているのだろう。シャワーが出なかったので、洗面器で浴槽から湯を汲み、ヒカルの身体から泡を流すと、頭にも湯をかける。
 十分に髪を濡らし、シャンプーを手に取った。
 ヒカルの頭を洗おうとして、アキラは黒髪に白いものが混じっているのに気づいた。白髪ではなく、ゴミか何かのように見える。
 それを観察して、アキラは慄然とした。背中に一気に鳥肌が立つ。
 ヒカルの髪に付着していたのは、白い灰だった。戦闘機械の光線で犠牲となり、灰燼と化した人間の末路の一部だ。
 恐らくこの灰はヒカルだけでなく、アキラの髪にも付着している。社の髪にもついていたに違いない。
 考えるとぞっとした。自分達は文字通り死の灰を浴びたのだ。背筋が凍るような事実に、喉の奥でヒュッと息が詰まる。
 乱れかけた呼吸を必死に整え、自分を冷静に保つように、ヒカルに気付かれないように深呼吸する。
 アキラはもう一度ヒカルの髪に湯を流して灰を落とすと、優しい手つきで洗いだす。ヒカルは大人しく瞳を閉じていた。
「痒いところはない?」
 震えそうになる指先を叱咤しながら、努めて冷静な声音を使って尋ねる。
「…ううん、気持ちいい」
 眼を閉じているヒカルは、素直にそう思っているようだった。数日間洗えていなかったこともあり、念入りに洗って洗面器をとる。
 ヒカルの安心しきった表情に、アキラの心も少し軽くなった。
「進藤、眼は開けるなよ」
 ヒカルが頷いたのを確認し、湯をゆっくりとかけて泡を落としていく。ほっそりとした身体のラインを辿るように落ちる泡は何ともいいようのない色香があったが、アキラ
は敢えて眼を逸らした。今はヒカルと肌を重ねている場合ではない。
 それにアキラ自身が、精神的に弱っているヒカルにつけ込むようで、一瞬でも欲情を煽られた自分を許しがたいとすら思った。
 ヒカルに触れたいが、それは今度のことが全て終り、平和になってからにしたい。ゆっくりと愛し合いたかった。
 浴槽にヒカルを入れて温まらせ、アキラも身体と髪を念入りに洗う。次にこんな風に風呂に入れるのはいつになるのか分からない。
 東京に無事に着けるのかどうかすら、不安になりそうだ。湯を頭から勢いよく被って頭を振り、不吉な考えを打ち消す。
(大丈夫だ…ボクも進藤も社も、必ず生き残って東京へ帰る)
 自分自身に暗示をかけるように何度も言い聞かせ、気合を込めて両手でぴしゃりと頬を叩いた。
 弱気になりかけた自分を戒めるために。
 アキラは髪から雫を滴らせながら浴槽に浸かり、ヒカルを抱き寄せる。肩に湯をかけてやりながら、髪や頬、額などに口付けを落とした。
 うっとりとヒカルは瞳を閉じて、アキラに身体を預ける。まるで命も未来も何もかもを、アキラに委ねているように。
 風呂から上がった時には、既に社はベッドルームで横になっていた。
 主寝室にはセミダブルベッドが二台据えられ、その一つに社が眠っている。熟睡しているのか二人が入ってきても起きる気配もない。
 まだ夕方にもなっていない時刻だが、徹夜明けと日中も歩き続けた疲れで起きていられなかったのだろう。
 久しぶりに風呂に入ってリラックスできたのと、澱みのように溜まっていた疲れが出てきて、アキラも睡魔に瞼が塞がりそうだった。
 浴室にはバスローブが二着残っていたので、取り敢えずはそれを着せたヒカルと一緒に、社の隣にあったベッドに潜り込む。
 ヒカルを抱き寄せておやすみと囁いたのを最後に、アキラの意識はぷつりと途切れ、彩が枕元で丸くなったのにも気づかなかった。


                                                                       7DAYS ACT4 水曜日(前編)7DAYS ACT4 水曜日(前編)7DAYS ACT4 水曜日(前編)7DAYS ACT4 水曜日(前編)7DAYS ACT4 水曜日(前編)   7DAYS ACT5 木曜日(前編)7DAYS ACT5 木曜日(前編)7DAYS ACT5 木曜日(前編)7DAYS ACT5 木曜日(前編)7DAYS ACT5 木曜日(前編)