「進藤っ!」
割り込んできた別の少年の声と同時に、男は戸棚に身体を叩きつけられる。戸棚から様々なものが落ちて、土に塗れた床に散乱した。
床に這いつくばらされた男は、痛む腹を擦りながら闖入者を睨みつける。ソファに座っている少年を背中に庇いながら、腹に蹴りを入れてきた生意気な眼をした
子供が、息を乱して仁王立ちしていた。激しく肩を上下させ、額にうっすらと汗をかき、乱れた黒髪を頬に数本張り付かせている少年の形相は、まさに鬼神か仁王か。
瞳は怒りと嫌悪でギラギラと輝き、男を睨み据える切れ長の眼は吊り上って、般若の趣きすらあった。
世の中にこんなにも恐ろしい人間が居たのかと思えるほど、少年から醸し出される圧力は凄まじい。
顔立ちが生半可でなく美形であるだけに、迫力も一入だった。大の大人でも、この少年に睨み付けられれば腰を抜かすだろう。
たじろぐ男に更に追い討ちをかけるように、もう一人の大柄な少年も地下室に走り戻ってくる。不利な形勢に、男は視線を泳がせた。
いくら心が崩壊しかかっていても、完全に狂気に陥っていない男の中には、まだ理性的で打算的な面が残っている。
この場を何とか収めたいと思う一方で、歪んだ支配欲に突き動かされ、凶暴なまでに眼の前の少年達を粛清したくてたまらなかった。
自分に刃向かい、逆らおうとする不遜な輩に、罰を与えたい。
利己的な怒りに支配されている男の意思に呼応するように、指先が何かに触れた。それは棚から落ちた果物ナイフだった。
男はそれをしっかりと握る。この凶器で少年の柔肌を傷つけるのはさぞかし楽しいだろう。泣き叫び、許しを請う彼らに何度もつきたて、切り裂くのは堪らない
快感に違いない。ナイフを握った男の様子を見て、アキラは警戒感を強めた。さっきまでとは醸し出す凶暴な雰囲気が段違いに増えている。ヒカルも身体に緊
張感を漂わせ、社もまた二人に加勢できるように身構えた。
男はゆらりと立ち上がると、持ったナイフを振りかざし、狂気じみた喚き声を上げながらアキラに向かって刃を下ろす。
ヒカルを庇ったまま背もたれを乗り越えて素早くかわしたアキラは、ソファを挟んで男と対峙した。
アキラの隣に並んだヒカルは、刃を向けてきた男を睨みつける。獣じみた吐息を零して、男はあちらこちらに眼を彷徨わせている。
そこには既に理性の欠片もなく、殺意と狂気が明滅していた。男には三人を殺そうとする明らかな意思がある。
生きてこの地下室から出すつもりがないと、はっきりと分かった。
この場から逃げるよりも、殺されるくらいなら反対にやり返さねばならないかもしれない。
三人が心のどこかでそう思った刹那、ガラスの砕ける音が響いた。
全員が眼を向けた先には、触手の先に眼のようなものがついた異様な物体が、壊れたガラス窓から入ってくるところだった。
男から身を護るのに夢中でまるで気づかなかったが、物音をかぎつけて、侵略者はこの家に何かがいると察知したのに違いない。
咄嗟にアキラとヒカルはソファの背凭れに身を隠し、社は立ったまま階段の影に身体を貼り付ける。
窓から入ってきた触手の眼が室内に向けられたその瞬間、そこで息をしている生物は男しか居なかった。
否、男が居るだけにしか見えなかったのである。一瞬早く三人が身を隠したお陰で。
取り残された男は、思わず周囲を見回した。明らかに触手は男を獲物として狙いを定めたようで、自分に向かってくる。
「――ひぃっ!」
男は社が潜んでいる階段を駆け上り、外へと走って逃げ出した。彼は知っていた、この触手は眼だけの役割ではないことを。
今までに何人もの人間が、触手から伸びる吸引用の細い管によって血を抜かれ、殺されていることを。
男は生き残るために、妻も子供も見捨てて逃げ出した。
偶然見つけたペンションに逃げ込んで、入れてくれとせがむ妻と子を見殺しにしてまで、彼は今まで生き延びてきた。そして自分の目の前で、愛する家族は
死んでいったのだ。
どうしてこんな時に限って全てを思い出してしまうのだろう。狂気の中に居れば、事実と向き合わなくて済んだのに。
何故、自分の目の前は徐々に暗くなっていくのか。そしてその暗がりの中に、在りし日の家族の幸せな姿が見えてくるのだろう。
男は自分が走って触手から逃げ続けていると思っていた。だが実際にはまるで正反対だったのである。
ペンションから飛び出して数十メートルもいかないうちに、彼は本体から伸びた別の触手に走りながら血を吸引されていた。
恐怖と混乱で痛みを感じなかっただけで、必死に逃げているつもりでも既に捕えられていたのだ。
全てと向き合い受け入れた瞬間、彼の人生は終わった。男が最後に見たものは、今際の際に見る走馬灯であり、断罪の記憶であった。
男がペンションから走り出て行くと、触手も後を追いかけるようにするすると割れた窓に戻っていく。三人はほっとしたように息を吐いたものの、それは束の間
の安息に過ぎなかった。
外に出るかと思った触手が、再び戻ってきたのだ。もしかしたら、何かの気配を察知したのかもしれない。
それは音を殆ど立てることなく静かに迫り、ソファの裏側を覗き込む。彼らが望む存在はそこにはなく、触手は階段へと向かった。
アキラとヒカルは触手の眼を掻い潜ってソファの横に移動し、社も足音を潜めて作り付けの戸棚の陰に隠れた。
階段を舐めるように見ていた触手は、正反対の方向でゆっくりとそれぞれに動く三人に気づかず、今度は社が隠れていた戸棚に眼を移す。
やはりここにも居ない。獲物を求める触手は再び室内に眼を向け、スチール製の棚や一人掛けのソファの傍を通って獲物を探した。
アキラとヒカルは素早く階段の影に隠れ、社はソファに蹲り、ずるずると動いていく触手の下で身を硬くする。
まさに命がけのかくれんぼだった。
僅かに音を立てるだけでも、息遣いだけでも、触手に気づかれてしまえば殺される。三人は死と隣り合わせの恐怖と戦いながら、ひたすら触手の追求を逃れ続けた。
それでも長く伸びた触手は、確実に三人の逃げ場を奪っていく。
いつの間にか彼らは固まって行動し、少しでも安全な場所を求めて移動せねばならなくなった。
触手は微かだが、生物の存在を感じていた。利用価値の高い人間には知能があり、自分達の手から逃れるために何らかの手段を講じることも分かっている。
だからこそ執拗に、納得いくまで探す。室内を物色し続ける触手は、いよいよ三人を追い詰めようとしていた。彼らには既に、逃げられる場所は殆ど残っていない。
アキラとヒカルと社は、クローゼットの横に移動した。そんな彼らを追うように触手はするすると蛇のごとく動いて着実に近づいてくる。
ここで見つかってしまえば、これまでの努力が無駄になる。三人にとって、まさにここが正念場だった。
触手はクローゼットの横を覗き、奇妙なモノを見た。それは自分とそっくりの姿をしている何かだ。近づけばそれは大きくなり、少し離れると小さくなる。
軽く触れてみても、何の反応も無い。首を傾げるように触手は眼を傾けた。
その触手の眼の前、大きな姿見の影で三人は息を殺している。
緊張に冷汗を流し、恐怖から吐き気すら感じながら、音一つ立てずに必死に触手の様子を窺っていた。
触手はやがてこれは障害物だと認識すると、姿見に沿って上がっていき、上から空いた空間を覗く。――何もいない。
触手が覗く前に先手を取って三人は移動し、クローゼットの反対側に回っていた。だが触手からはまだ眼と鼻の先の距離である。
今ほど、男が穴を掘っていたあの部屋の扉を開けて中に入りたいと思ったことはない。あそこに入って鍵さえかけてしまえば、触手からの追求を逃れることが
できるのだから。
触手は獲物の気配がするのに捕らえられなくても、まるで焦りはしなかった。彼らにとっては大それたことではない。
一回の探索で成果がなかったところで、大勢に影響は及ばない、
ゆっくりと長く伸びた触手が窓に吸い込まれるように短くなっていくのに安堵した瞬間、社は割れたガラス片を踏んでしまった。
本当に微かに、ガラスの澄んだ音が響いた。
それと同時に触手の動きがピタリと止まり、窓の淵まで戻っていた眼の部分がゆっくりとこちらを向く。
この部屋に興味を失って窓から戻ろうとした触手は動きを止め、微かな音を聞きつけて室内に眼を巡らせた。人間の身長以上のクローゼットの扉が全開に開いた
まま、中の衣服がぞんざいに晒されている。
その下に何かが動いていた。小さな生物だ。眼はそれに一定の距離を保って近づき、採取用の触手を伸ばして一瞬にして捕えた。
どうやら感じていた気配は、この生物だったらしい。俗に言うドブネズミを手土産に、触手は窓から本体へと戻っていく。
本体の戦闘機械の足音が遠退き、微かな地響きが完全に聞こえなくなっても、室内で動くものは全くなかった。
やがて一陣の風がクローゼットの扉を元の通りに閉めると、そこには三人の少年が紙のように真っ白な顔色で立ち尽くしていた。
触手が戻ってこようとした瞬間、彼らはクローゼットの扉を開け、その背後に隠れることで身を護ったのである。たまたま大きめの作りだったお陰で、壁との間に
できた三角形の隙間に身を潜められたのだ。
影から明るくなったその場所で、彼らは腰が抜けたようにへなへなと座り込む。今更のように、生きていることを実感しながら。
触手の追求を逃れてしばらくは、三人とも動く気になれなかった。
風で勝手に入口の扉が閉まった時、その音に驚いて飛び上がったくらいで、それ以外は呼吸音すらひどく静かにしていた。
社はいつのまに彩が腕の中から出てソファに丸くなったことにも気づかず、抱きかかえた姿のまま茫然としていたくらいである。
何とか無事に済んだと安堵したのは、何時間も経ってからだった。
アキラも、ヒカルも、社も、最後に隠れていたクローゼットの傍から一歩も離れずに、ずっとその場に座り込んでいた。
割れた窓から入ってくる明かりが茜色に染まり、周囲が薄暗くなり始めてやっと、誰からともなく安堵の溜息を吐く。
当初考えていた、ここから早急に移動する案は、ショックで頭から綺麗さっぱりなくなっていた。どこかで男の危険性を感じていたアキラと社は、さっさと東京に
向かおうと考えていたのである。二人の勘は確かに正しかったのだろう。彼の不用意な行動のお陰で三人は命の危険に晒されたのだから。
尤も、三人には男を責めるような心理的余裕は微塵もない。とにかくあの触手から逃れられたことだけが、全てだった。男の運命を気の毒に思ったのは、緊張感
から解放されて随分経ってからである。ほっとした気分で大きく深呼吸すると、アキラはクローゼットに背中を預けた。
こんな緊張感は、対局でも味わうものではない。
いや、度合いとしては同じくらいのものは何度もあるかもしれないが、緊張の種類が全く違うのだ。
本当に命の危険を感じた緊張感と、対局はまるで別物だ。
己の精神を高め、集中する対局と、命を護るために相手を観察し、先の行動を読んで動いたさっきのものとは明らかな差異があった。
とはいえ、碁打としてこれまでに何度も極限まで集中力を高めてきた彼らだからこそ、あの危機を乗り越えられたとも言える。
触手の次の行動を予測し、先を読み、それに対する対処を冷静に考えられたのは、培ってきた集中力の賜物だった。
アキラは薄闇の中で、ヒカルと眼を合わせて笑いかける。それと同時に少年の細い身体が抱きついてきた。
「進藤…」
ヒカルの背中を撫で擦り、アキラは彼の体温を実感して吐息を零す。
社はそんな二人を横目で眺め、軽く肩を竦めた。いい加減見慣れてきたとはいえ、眼の前でされるとやはり眼のやり場に困る。
だがアキラとヒカルは社のことなどそっちのけで、抱き締めあったまま互いの無事を確認するように離れようとしない。
ヒカルの柔らかな頬の感触を味わい、布越しに伝わってくる血流から命を感じる。アキラはヒカルの存在感に心底安堵した。
だからこそ、彼はヒカルの手がいつのまにか背中から離れていることに気づかなかった。もぞもぞと何かが自分の胸元を探っていることに。
「え…?ちょっと…進藤?」
アキラがいつになく焦った声を出したので、社は訝しんだ。
見るとヒカルはアキラの首筋に口付けを落としながら、彼のシャツのボタンを外そうとしている。
まさかこんな事をするだなんて予想もしていない。アキラは思いがけないヒカルの行動に驚き、慌てて制止をかける。
「待てっ!……進藤!」
強い口調で押し留めたアキラを、ヒカルは涙を溜めた瞳で見上げた。
どうしてそんな不安げな、捨てられた子猫のような目で自分を見るのだろう。アキラは凝然とヒカルを見詰め返した。
「…いやなの?」
「嫌だとか、そうじゃなくて…」
言葉を濁しながら様子を窺う。ヒカルの行動の理由が分からないこともあり、アキラとしても態度を決めかねている。
だが少なくとも、ここで対処を誤ってはならないことだけは分かっていた。
「オレ…汚い?………いや?」
「……え?」
アキラはヒカルが何を言わんとしているのか、一瞬理解できなかった。だが少ない言葉の中から、持ち前の頭の回転の良さで合点する。
あの男に触れられたから、穢されたから、アキラが触れてこないと思っているのだ、ヒカルは。そんな事はないのに。
ヒカルは穢されてなどいない。あの男がヒカルに触れたといっても、本当に多少のことだ。口付けもされなかったに違いない。
それなのに、ヒカルは自分が穢されたと思っている。男がまともに触れてもいないのに。彼にとってはその事すらも許しがたいのだ。
アキラはこの瞬間、既に命を失っている男に対して憎悪すら抱いた。
ヒカルの心に余計な負担をかけたのだ、あの男は。ほんの僅かな間とはいえ、ヒカルは元のヒカルに戻っていた。
しかしそれは風船が無理矢理限界まで膨らまされただけのことで、針でつつかれればあっさりと割れて萎んでしまう。
今のヒカルはまさにその状態だった。一番安定し、多少のことでは破れたり割れたりしない強さをもった、しなやかな心に戻っていない。
完全に萎縮し萎んでしまった、壊れる寸前の状態だった。いたたまれなさと切なさに胸をつかれて、ヒカルを引き寄せる。
力強く腕の中に抱きこみ、アキラはヒカルを苦しげな声で呼んだ。
「……進藤…っ!」
首に絡んでくるヒカルの腕に頬を寄せ、瞳を固く閉じる。しばらく瞑目して自分の心を落ち着けると、社に視線を向けた。
予想通り、社とはすぐに眼が合った。小さく頷いてみせると、社は心得たように立ち上がる。二人の様子を見て概ねの事情を察していたのだろう、そのまま階段
を上って入口の扉に鍵をかけた。そうして一人掛けのソファに背中を向けて寝転がる。
先にソファを占領していた彩を胸元に抱き寄せて丸くなると、二人の様子が見えないように視界から遮断した。実際のところ、社は男同士の色事など興味もな
かった。できることなら何も聞かずに済むように、眠ってしまいたい。それにアキラも、様子を窺われていたくないだろう。
社は敢えてアキラとヒカルのことを意識的に考えないようにし、柔らかな毛並を撫でながら、ついさっきの出来事に思いを馳せる。
彩を抱きあげて今更驚いたのは、触手から逃れるために三人で逃げ回っている間、彩が一声も発さずに社の腕の中にいたことだ。
この猫は猫なりに、彼らの緊張感を敏感に嗅ぎ取って、危険が及ばないように気配すらも殺していたのに違いない。
事実社は、彩をずっと抱いていたことにすら気づかずにいて、奴らが居なくなって、彩が腕の中から出て行ってから初めて認識したのだから。さすがに猫の方
が図太いのか、三人が固まったままずっと動けなかったのに対して、ソファでのんびりと昼寝を決め込んでいたが。
社は彩の毛を撫でているうちに、眠気を感じ始めていた。
昨夜は殆ど寝ていなかったのだと思い出すと、更に眠りの誘惑は強くなる。社は誘惑に逆らわずに瞼を閉じた。
二人の気配はいつの間にか遠ざかり、優しい眠りが社を包んだ。








