「あ〜終った、終った。……にしてもさっきのスケベ親父の顔は見物だったよな」
爺臭く肩を叩いて首を軽く回し、道徳はスノボウェアを脱ぎながらニヤニヤ笑う。
「確かにスッとしたけどあれは誇張し過ぎさ。俺っちは柔・剣・合気道合わせて10段もいかねぇよ」
シャッターを半分閉めてしまうと、カウンターに凭れて道徳を睨みつけ、天化はブツクサ文句を呟いた。最後に店に訪れた
客が天化にしつこく付きまとった為、道徳が『この子は格闘技が得意でしてね、柔道・剣道・合気道合わせて10段なんです。
全国大会で優勝もしてるんですよー』と言って追っ払ったのである。
何を目的で付きまとっていたのか分かるうろたえようで、慌ててその客は店を後にしたのだった。
「俺っちは柔道と剣道合わせて6段さね。合気道なんてしたこともねぇよ。コーチだろ、10段いってる危険人物は」
「失礼な。俺は柔道・剣道に併せて書道2段が入って魔の13段だ」
にやりと不敵に笑う男に、大してかわんねぇさ口の中で言い返し、諦めたように肩を竦める。何を言っても道徳に口で勝て
る訳がないのだ。勿論腕っ節でもまるで適わないが。昔の天化にとって男は弱くて頼りない生き物で、父親以外男として認め
られる存在がいなかった。自分が守らねばならない相手は不満しかない。互いに背を預け、守りあえる人でなければ嫌だった。
道徳と最初に出会ったのは4歳の時だが、殆ど覚えていない。道徳は同じ道場に通う門下生で、道場で何度か会って多少話
もしたが、大抵時間がずれていて挨拶しかしていなかったように思う。
本格的に道徳と親しくなり始めたのは天化が中学に入学してからだ。
きっかけは、師範代として天化付きになった道徳に稽古で鮮やかに1本を取られたことだった。それから何かにつけてつっ
かかるようになり、その度にこてんぱんにされて反感しかなかった筈なのに、気が付くといつのまにか道徳をコーチと呼んで
慕うようになっていた。負けた時は悔しくて堪らなかったが、道徳の強さと教え方の旨さにどんどん打ち解けてしまったのだ。
元々人懐っこい性格でもあったし、近くのスポーツ用品店でバイトをしているのを見て親近感をもったこともきっかけの一
つであったように思う。親しくなるにつれ、家庭教師として来て貰うようになり、その時両親とも知り合いだったことが判明
して、家族全員で笑ったものだ。
思い出を振り返っていても腹の足しにはならず、天化の腹は食料を要求して盛大に鳴った。時間は既に8時を回って、いつ
もなら夕食も終って寛いでいるところだ。しかし、今夜は勝手が違う。天化の両親は弟2人を連れて夕方からキャンプに出か
けている予定だし、兄も友人と夜行バスで旅行に行くとかで家にはいない。
3連休になるので誰もが出払ってしまい、家に一人残る天化については、両親は隣家の道徳に食事の世話を依頼していた。
2人が付き合っていることは双方の家族に公認なのは言わずもがな。隠れて付き合う筈が、周囲には最初から完全にバレバレ
という典型的なパターンだった。初めてのデートの時がその代表で、出掛けようとすると、『道徳さんは明日もお仕事なんだ
から、デートは早目に切り上げて家で夕食も御一緒して貰いなさい。食事の用意も手伝って頂けて、母さん大助かりなの』と
母親に釘を刺されついでに頼まれたのである。
何せ道徳はアルバイトで様々な職業をこなし、一人暮らしもしてきたお陰で、料理などの御三どんは得意だ。調理師免許も
持っているほどなのである。天化は『御三どん』と呼ばれる種類のものができた試しのない娘で、『道徳さんと結婚したら丁
度いい』と常に家族から囃されているのだ。
空腹感は既に限界だったが、道徳はまだ帰る様子もなく売上の計算をしていた。少しでも我儘を通らせようとするように、
道徳の背中に抱きついて、頭をぐりぐりと押し付け甘えてみる。
「コーチまだ〜、腹減った〜、今日の晩飯何さ〜」
「ふふふん……聞いて驚け今晩はすき焼きだ!」
「すき焼き!?やったー!!肉が食えるさ!」
「肉なら好きなだけ食っていいぞ。けど野菜もちゃんと食べろよ」
『好きなだけ』という言葉に天化は瞳をうるうるとさせた。大所帯の天化の家では、野菜はともかく肉はほんの少ししか当た
らない。感動もひとしおだった。
「早く早く!すき焼き食いたいさ」
「もうすぐ終るから待ってな」
こくこくと頷く天化の様子に、まだまだ花より団子だな、と道徳は苦笑する。Bより先にいけないのは、天化のこんな顔を見
る度にまだ駄目だと思うからだ。急ぎ過ぎて天化を傷つける事が一番辛いし怖い。時折どきりとするほど大人びた表情を見せた
り、反対にひどく子供じみた顔もする。大人と子供の中間地点にいる天化とどう過ごせばいいのか分からなくなったりすること
があるのも確かだった。
「よし!そろそろ帰るか。これを表のシャッターに貼ってくれ。戸締りを確認してすぐ行くよ」
殴り書きされた貼紙を眺めると、『店舗内清掃の為3日間休業させて頂きます』と書かれていた。勿論大嘘である。このスポ
ーツ用品店はいつも整理整頓されていて清潔で、棚卸の時にあれが無いこれが無いと大騒ぎした事など一度もない。だがその字
に込められた道徳の心遣いが嬉しくて、不良店長と呟きながらも天化はいそいそとシャッターに貼りつけた。
「嬉しいだろう。俺と3日間二人きりだぞ」
明かりを消して片方のシャッターを閉めた道徳は、頭をぽんぽんと叩いて顔を覗き込んでくる。その笑顔に胸が高鳴って、天
化は照れ隠しにわざと素っ気無く顎をつんと反らしてみせた。
「とか何とか言って、中間と大会が近いから勉強とトレーニングでしごくつもりじゃねぇさ?」
「それもいいかもな」
ニヤニヤと底意地悪く笑う道徳は本当にいい性格をしている。頬を膨らませて睨みつけてやると、道徳は天化の頭をくしゃく
しゃと撫でて冗談だよと笑いながら応えてくれた。その手の温もりが嬉しくて我知らず微笑んで頷いてしまう。
道徳は天化の額に軽く口付けを落とし、自分のマウンテンバイクの前で荷物を背負った。
「家まで早く着いたほうが肉を沢山食えるってのはどうだ?勿論ハンデはつけるけど?」
「構わねぇさ。ま、ハンデのつけ過ぎで吠え面かかねぇようにな」
ハンデ無しでいいと言いたいところだが、負けん気を抑えて天化は頷いた。道徳と何かをする時は、ハンデを付けてもらわね
ば勝負にすらならない。自分と彼との力の差を十分理解しているから。
「弱い犬ほどよく吠えるっていうからな。精々頑張れよ」
「勝手にほざいとけば?お先に!」
理解しているからこそ、多少のズルをして出し抜いてやっても構わないのである。道徳が鍵を外そうと屈んだ隙に、天化はマ
ウンテンバイクに跨った。
「ああ、待て!俺はまだ鍵だって外してないんだぞー………!」
道徳の情けない声を風の中に置き去りにして、一路家へと向けて天化はペダルに力を込め続けた。