「俺っちの勝ちさー!」
終盤に追い上げられたものの、序盤のリードを守りきり、ほんの僅少差で天化は勝利した。家の門前で得意げに胸を反らし、自宅の新
聞入れを探っていた道徳を見てやると、彼は悔しそうに頭をがりがり掻いて頷いた。
「くそう。負けは負けだ。涙を呑んで勝ちは譲ってやるよ。一旦帰ってシャワーでも浴びておいで。その間に用意は済ませとくよ」
分かったさという返事を隣家の門内から聞いて、道徳は車の脇にマウンテンバイクを停め、住み慣れた我が家に足を踏み入れる。一人
で暮らすには大きな家だが、大家族で住むには狭い家だ。すぐ隣が賑やかな上に、近所付き合いというより家族同様に扱って貰えている
お陰で、たった一人でこの家で過ごしていても不思議と寂しくはない。何よりも天化と頻繁に逢えるのが一番いい。
餌を要求して足元にじゃれついてくる飼猫の玉麒麟にドライフードをやり、腕捲りをしてまな板をさっと洗う。必要な食材を冷蔵庫か
ら出してまな板の横に積み上げた。コンロと鉄鍋をテーブルに設置して、切った野菜を入れるざるを用意すれば後は材料を切るだけだ。
白菜や葱などの野菜を切り終え、こんにゃくと焼き豆腐に取り掛かろうとしたところで玄関のチャイムが鳴り天化が入ってきた。後ろ
を振り返ると、悪さをしようとしていた玉麒麟を抱き上げている少女と眼が合う。
「着替えてこなかったのか?………さてはお前また鍵を忘れたな?」
天化は返事の代わりにペロリと舌を出した。家の鍵を自分の部屋に忘れるのが天化の癖で、その度に道徳の家から2階の窓を開けて中に
入るのが常だった。頭も決して悪くないというのに、これだけはいつまで経っても直らない。
「へへへ〜。ま、しゃあねぇさね。2階は開いてるだろうし、コーチの部屋から屋根伝いに行くさ」
「マウンテンバイクの鍵につけとけよ。そうすれば忘れないぞ」
今度からそうすると返事だけはいいが、反省の色無く次の瞬間には忘れているのが天化である。
天化が家の鍵を持っていることがあったら、密かにマウンテンバイクに付けておいてやろうと心に誓う道徳だった。一方天化は猫の頭
を撫でてやり、勝手知ったる人の家とばかりに二階へ上がる。
「ぎょく、俺っちはエサ持ってねぇからついてきても無理さ」
玉麒麟が階段下から窺っている姿が見えて声をかけると、すぐ台所に行ってしまった。猫特有の現金さに苦笑し道徳の部屋の扉を開け
る。道徳の部屋といってもここは仕事部屋で、寝室は別だが。
椅子を引いて窓の真下に落着けると、慣れた仕草で屋根の上へ出た。するとすぐ正面に見慣れた自分の部屋の窓がある。天化は嬉々と
して戸を引いてみたが、びくともしなかった。もう一度引いてみるが結果は同じ。さすがに青褪めて屋根伝いに他の部屋も確認したが全
て戸締りは完璧だった。
(こういう時に限ってなんでさ………)
いつもは天化の部屋まではチェックしないのに、今日みたいな日にはきっちりするのである。間が悪いにも程があった。しかも自分の
机には鍵が置いてあるのだ!窓さえなければ手が届く距離なのに掴めない。
窓を叩き割りたくなる衝動に耐えていると、後ろから道徳の声が聞こえた。
「どうだ?入れそうか?」
「駄目さ。今日に限ってみんな鍵閉めてるさ」
部屋に戻って報告し、肩を落として見上げてくる天化を安心させるように道徳は微笑んでみせた。
「…じゃあ諦めた方がいいな。とにかく腹ごしらえだ。今日は妹の服を貸すから着替えは明日買ってやるよ。ウチに泊まれば雨露もしの
げる。鍵屋を呼ぶ程じゃないだろ?動物を飼ってる訳でなし」
鍵屋を呼んで開けてもらうとお金もかかるし高い。窓を破ったりしたら親から大目玉を食らうに決まっている。道徳の言う通り、家で
動物を飼ってもいないので差当たってどうしても入らねばならないこともないのだ。着替えは買わなくてもこの服を洗って着れば済むこ
とである。道徳にそう告げると、彼は額を小突いて笑った。
「洗濯なんか出来ないくせに……。大人しくここは奢られとけ。天化の服ぐらいで俺の財布は痛まないからな」
「んじゃ奢られといてやるさ」
「か〜!生意気―!」
道徳は天化の頭をヘッドロックして、髪をくしゃくしゃに掻き回す。それを笑いながら解いて台所に入ると、もう準備は完璧に出来て
いた。コンロに火を付けた道徳に座るよう促され、席に着く。
「市販のすき焼きのタレなんぞ邪道だ。やっぱりすき焼きには醤油と砂糖、酒がいい」
道徳はうんちくをたれながら、慣れた手つきで赤い肉が少し色づいたところで砂糖をふりかけ、その上に酒、醤油を入れる。醤油の焦
げるいい匂いが漂ってくると、今度は野菜や豆腐などが入れられて同じように味付けされた。それからしばらく待てば、野菜から水が出
てグツグツ炊ける音が聞こえてくる。
「そろそろ食べるか。今日は豪勢に松茸入りだからな、感謝しろよ」
二人で声を揃えていただきますと言うと同時に、肉に向かって箸がのびる。
「コーチ、その肉俺っちが狙ってたのに〜!」
「うるさい。早いもん勝ちだ」
「勝負には俺っちが勝ったのにひどいさ」
「もう忘れた」
「女には優しくしろって教わらなかったさっ!?」
「都合のいい時だけ女になる奴に遠慮がいるか。松茸も〜らい」
「そういう態度に出るさ……。なら遠慮はしねぇぜ。肉ゲーット!!」
「うわ!そんな固まりで取るなよ。一切れしか残ってないだろが」
「聞こえねぇさ。取ったもん勝ちさね」
たった二人とは思えない騒がしさだ。鉄鍋を行き来する箸の勢いも凄まじい。瞬く間に鍋が空になった。材料が先程と同じように投入
され、煮えたところで今度は2ラウンド目が開始される。その後彼らの勝負が決着するには、5ラウンドかかったのだった。
遅いながらも賑やかな夕食を済ませ、二人は寛いだ様子で居間でテレビのクイズ番組を見ていた。
「俺っちは絶対Cだと思うさ」
「いや、Bだね」
問題が告げられると、二人して応えを言い合うところが妙に子供じみていて微笑ましい。
『答えは………Cです!優勝は△○さん!!』
「ほ〜ら!やっぱりCだったさ」
得意満面の天化の姿に笑いたくなるのを堪えて、道徳をわざと負け惜しみめいた事を言ってやる。
「当てずっぽうの奴に負けるとは、俺も堕ちたよな」
「負けは負けさ。……ふぁ〜もう眠…」
テレビからエンディングテーマが流れだすと途端に天化は盛大な欠伸をした。天化は健康優良児で、昔から11時を過ぎると眠る癖がつ
いている。こんな時間まで起きている事は滅多にない。道徳もそれを承知しているから、欠伸が聞こえると髪を優しく梳いて話しかけた。
「クイズも終ったし、風呂入ってそろそろ寝るか?もう12時だぞ」
「………う〜ん」
頷きとも迷いとも取れない返事が可愛い。我知らず微笑み天化の腕を引いて風呂場へ連れて行く。
「ほれ風呂だ。使い方は分かってるな?着替えはそこにあるから。客間に布団も敷いといてやるよ」
「コーチさあ……Cってどう思う……さ」
天化の背を押して脱衣所に入れ、客間に向かおうとすると不意に呼び止められて振り返った。
「うん?クイズの答えがどうしたって?」
「……風呂入る。布団は敷かなくていいさね。………俺っちコーチの部屋で寝るさ」
「は?」
ピシャリと戸が閉まり、道徳はその場に茫然と立ち尽くした。空気中を漂うのは、我ながら間の抜けた声だと思う一言である。意味を
理解できているが、今ひとつ現実味がなかった。一旦二階の客間に行きかけた足を止めて踵を返したが、再び回れ右をして階段に向かう。
客間ではなく自分の寝室に行くために。