明日への扉U明日への扉U明日への扉U明日への扉U明日への扉U   明日への扉W明日への扉W明日への扉W明日への扉W明日への扉W
 好きなのかと問われれば、好きだと答えられる。だが、それがどういった意味での『好き』なのかが分からない。ヒカルは和谷も伊角 
も好きだし、祖父母も両親もあかりも好きだ。そして佐為は誰よりも大好きだ。
 
 アキラに対しての『好き』は佐為に対してとはまるで違う。伊角や和谷などの仲間に対してとも違うし、家族に向けてのものとも違う。
 
 だからといって、アキラのことを考えて今更胸がときめくなんてことも余りない。
 
 恋をすると、相手のことを考えただけで苦しくなったり、胸がドキドキするというが、そんな感覚がわいたことはないような気がする。
 
 少なくとも、アキラの気持ちに勘付いてからは自覚症状がないのだ。アキラとの対局前に心臓の鼓動が高鳴るのは、緊張と神の一
 
手への期待からくるもので、恋ではないだろう。けれど、アキラが佐為のように自分を置いてどこかに消えてしまうのには、耐えられな
 
いと思う。もう一度あの喪失感を味わったら、二度とヒカルは立ち直れない。碁も打てなくなってしまうかもしれない。
 
 そこに居て一緒に碁を打ってくれればいい。傍に居てくれたら、それだけで構わない。存在を確かめられたらいい。生きていてくれさ
 
えしたらいい。ヒカルの望みはこれだけだ。自分を好きでいて欲しいとは、よくよく考えると思ったことはなかった。
 
 確かに好きでいてくれたら嬉しいけれど、それは相手の気持ちによるものである。ヒカルが押し付けていいものではない。
 
 でも、アキラのあの真剣な眼を自分に向けさせたいと思ったのだ。佐為ではなく自分に、ヒカルだけを見詰めるように。
 
 それだけは、どうしても譲れなかった。
 
 時折、アキラのふとした表情や言動に胸の鼓動が早くなったり、ときめいたりするのは、やはり『好き』だからだろう。
 
 アキラが居なければヒカルはプロになろうとは思わなかったし、囲碁を真剣にすることもなかったに違いない。
 
(早く戻ってこないかな……塔矢)
 
 こうして待っていれば戻ってくると分かっているが、少しでも早く戻って傍に居て欲しい。
 
 そういえば、アキラに会えると思うと嬉しくて胸がどきどきしたり、早く会いたいと思って苦しかったのは、中学二年の夏の頃から春
 
にかけてだった。アキラと話をしたり、写真のモデルをしたりしている時、ふと眼が合う度に何だか息苦しく感じたこともあった。
 
 いつからだろう?あんな風にどきどきしなくなったのは。佐為が消えてしまてからだというのは確かだが。
 
 しかし不思議なことに、あの頃よりもアキラと居ると帰り際は離れ難いものがある。むしろ、以前以上にアキラと一緒に居たいと思っ
 
ているし、『好き』な気持ちは一際強くなっている。
 
 余計に頭がこんがらがってきそうだった。答えの出ない問題を考えていても仕方がない。自ずと結果はいつか出るだろう。
 
 ヒカルは思考を打ち切ると、アキラを待つ間に日焼け止めを塗っておこうと思い直して、荷物から取り出した。
 
 碁を始めてインドア生活が増えたせいか、ヒカルの肌は以前よりも白くなっている。元から肌は白い方だし、母親から日焼けのしす
 
ぎはやけどになるからと、子供の頃から海に行くと日焼け止めを塗られていた。
 
 小さな頃はそれが嫌だったが、本当に火傷になって散々痛い思いをしてからは、海に入る時もなるべく上着を着るようにして、日焼
 
け止めも大人しくつけるようにしている。それでもやっぱり不満で、女じゃないんだしとぶつぶつ文句を言いながらクリームを塗ってい
 
ると、軽薄そうな男が二人、傍に近付いて声をかけてきた。
 
「彼女、一人?」
 
「オレらと遊ばない?」
 
 ヒカルは自分が呼ばれたことが分からなくて、完全に無視する。
 
「……君だよ、君」
 
「似合ってるね、その黄色のパーカー」
 
 男達はヒカルが無視したことに少し不愉快な気分に陥ったらしく、一人は語気を強めていい、もう一人はそれを誤魔化すようにフォ
 
ローに回った。彼らの言葉を受けて、着ているパーカーをじーっと眺めてからきょろきょろと周囲を見回し、他にも誰も該当者が居そ
 
うにないことを確認して、やっとヒカルは自分を差して小首を傾げながら二人を見上げた。
 
「そう、オレら君に声かけてんの」
 
「……彼女…鈍いって言われない?」
 
 ナンパ男二人組は余りにも反応が遅かったヒカルに、少なからず驚き呆れたようだったが、自分が男だという自覚があるヒカルにし
 
てみれば、女だと間違えられて声をかけられたことの方が驚きだった。ヒカルはちゃんと少年らしい容貌をしているし、今まで女の子
 
と間違えられたことなんて殆どないのだ。そりゃあ、一度もなかったなんてことは言い切れないけれど。
 
 だからといって、大多数の人はヒカルを男の子だと思っているのは間違いない。
 
 自分が女に見えるということは、こいつらの目は相当おかしい決まっている。
 
 ヒカル本人は気付いていないことだったが、ヒカルには少年らしさの中にも中性的な魅力もあって、服装によっては少女のように見
 
えることも稀にあるのだ。尤も、普段のヒカルを女の子と間違える者はそうそういない。
 
 ただ今回はパーカーが可愛らしいデザインであったことと、色白でほっそりとした足のラインが男臭さを感じさせなかったのが要因
 
の一つといえた。第二次性徴もそろそろ終わる頃だというのに、体毛の薄いヒカルには髭が生える兆候もなければ、声も少年期の高
 
さを保っている。その点ではアキラも似たようなものだが。
 
 本人に少しも自覚はないが、下手なアイドルも顔負けな整った顔立ちをヒカルはしている。印象的な金色の前髪、明るさの中にも憂
 
いを含んだ砂色の瞳、淡く桜色に色づいた唇、すっきりと通った鼻梁、形よい輪郭、どれをとっても綺麗に整っている。
 
 佐為が消えてからは、儚い雰囲気までもが加わり、より一層存在感が増して人を惹きつけるようになった。
 
 しかしヒカルは一緒に居た佐為がずば抜けて美しい容姿をしていたことと、周囲にアキラ、伊角、和谷、社、冴木、といったビジュア
 
ル系の棋士が揃っていることもあり、自分の容貌には少しも理解ができていない。
 
 彼らのような棋士達の中に自然と溶け込んでいる時点で、ヒカルも容姿自慢ができる方になるのだが、顔よりも碁の実力、そして美
 
味しい食べ物(ラーメン)に心を奪われる色気のない性格では、仕方のないことだった。
 
 それにまずヒカルの基準では、佐為やアキラのような和風美人が美形のトップとして位置づけられている。思春期に寝ても覚めても
 
の状態で美貌の囲碁幽霊と一緒に居たのだから、ヒカルは無自覚ながら相当な面食いなのである。
 
 しかし自分の容姿については無頓着で、一向に自覚がなかった。ヒカルは男達が声をかける以前から、周囲の視線を集めていたの
 
だが、やはり気付いていなかった。自分の考えに没頭していて、そんな余裕もなかったのである。
 
 視線の意味合いは様々だった。三分の一はヒカルを女と勘違いし、アキラの存在に声をかけるのに遠慮していた。彼が傍に居る時
 
の様子で、既に負けを認めざるを得なかったのだ。更に三分の一は男と判断していたがアイドルと勘違いして、テレビカメラがあるか
 
もしれないという野次馬根性で眺めていた。残りは男か女かどちらかで悩みながら、声をかけられずに見守っていたのだった。
 
 軟派男二人組の場合は、たまたま通りがかったところにヒカルが居て、可愛い子がいると思って早速行動に出たに過ぎない。
 
 見たところ、二人とも大学生くらいの年齢だろうか。アキラやヒカルよりも男らしい体つきをしていて、日焼けした肌は浅黒くなってい
 
る。顔は並程度だが、いかにもこの辺りの海で遊んでいそうな雰囲気だった。
 
 ヒカルとしては、彼らの勘違いに対して怒りを覚えるよりも、面白さを感じる方が先に立つ。
 
「あのさー……」
 
 どうやって指摘してやろうかと、悪戯心一杯に思案を巡らせながら口を開きかけた瞬間、待ち人の声が背中から聞こえてきた。
 
「遅くなってごめん。待たせてしまったね」
 
 二人組に気付いていない筈もないのにわざと無視して、アキラはテーブルにジュースを置いて微笑みかけてくる。男達がアキラの
 
登場に驚いて固まっていても平然と眼中に入れもせずに、腰を屈めてヒカルに顔を寄せてきた。
 
「………誰……?」
 
 ヒカルの耳元に触れんばかりに唇を近付け、問いかける。見ようによっては二人の姿は何とも色っぽく、立ち入れないような雰囲気
 
が醸し出された。勿論これら一連のアキラの行動は、男達へのあてつけである。
 
「知らない人。オレのこと女だと勘違いしてナンパしてきたんだ」
 
 アキラの登場に唖然としている二人の反応が面白くて、ヒカルはどこか楽しげな笑みを浮かべてアキラに耳打ちした。ヒカルが男
 
だと知っているアキラは聴いた瞬間こそ珍妙な顔をしたが、軟派という言葉には眉がピクリと跳ね上がった。
 
 一瞬凛々しい眉がきりきりとつり上がり、眉間には険しい縦皺が刻まれる。しかしそれもほんの僅かな間だけで、彼はすぐに平常
 
心を取り戻した。ヒカルは日頃の元気さからでは余り繋がってこないが、可愛いし綺麗な容姿をしている。中性的な雰囲気も持って
 
いるし、服装によっては女の子と間違えられても、一応分からないでもない。
 
 アキラですら以前、浴衣の後姿とはいえ、ヒカルを少女と勘違いしとうになったこともあるのだ。
 
 だが自分が眼を離したとはいえ、軟派なんて言語道断である。アキラはヒカルをナンパするような相手に対して心も広くなければ
 
優しくもない。むしろ独占欲に火が点いて冷ややかな空気を身に纏って戦闘態勢に入る。アキラはヒカルのデッキチェアの横に立
 
って肩に手を置くと、対局相手を気迫で押し潰す時のような刹那の睨みを放つ。
 
 白刃のきらめきにも似た一睨みで見据えてから、次には口元のみに笑みを浮かべた。
 
「すみませんが、ボクの連れなんです。声をかけるのでしたら他をあたって下さい」
 
 言葉遣いも丁寧で育ちの良さを窺わせる品の良い笑みを浮かべているが、眼は笑いもしなければ愛想もない。鋭くて冷たいもの
 
である。一回り以上年が上の棋士ですら尻込みする眼光に、ただの大学生と思しき二人が動揺しない筈がなかった。
 
「な…なんだとこのガキ……!」
 
 アキラの醸し出す威圧感に腰が引けながらも、それでも鼻白んで反駁しようとするところが、若さたる所以なのだろう。
 
(……ったくオレはもう知らねぇぞ!)
 
 にっこりと営業用の笑顔と言葉で他人を切り捨てる自分の連れに、ヒカルは顔の表情にはださねど内心冷汗をかいていた。
 
 こんなところで騒ぎを起こして、ビーチから叩き出されるのだけは勘弁して貰いたい。折角泳ぎにきたのに、一度も海に入れない
 
のはさすがに辛いものがある。それに喧嘩になったら、碁しかしていないアキラが勝てるはずがない。相手は背の高いがっちりとし
 
た大学生だ。身長ではそれほど差はなくても、肩幅や体格が成長途中の少年とほぼそれが終わった青年とでは明らかに違う。
 
 だがヒカルが心配するほど、アキラは腕っ節が弱いわけではない。精神力と体力の向上のために合気道の道場などに通って、
 
段位こそとっていないが有段者クラスの実力がある。その気になれば投げ飛ばすくらいのことはできるのだ。
 
 アキラの言葉にすぐに納得できないのか、動こうとしない男達に追い討ちをかけるように彼は口を開いた。
 
「何度も言わせないで下さい。ボクの連れだと言ったんですよ」
 
 アキラの台詞に腹立たしの余り、男達の顔はみるみる真っ赤に染まる。
 
(オイオイ…怒らせてんじゃねぇぞ…)
 
 さりげなく自分のものだと強調するように、アキラはヒカルの肩にしっかりと手を置いている。だがそんな事にも気付かずに、いざ
 
となれば加勢しようと心に決めて、ヒカルは呼吸を整えて拳を握った。
 
「こいつ!ガキのくせに……」
 
 なめた口ききやがって!と続くはずだった軟派男二人組の言葉は、寸でのところで飲み込まれた。
 
 笑みを消したアキラの氷柱のような冷ややかな目線と、すっくと立ち上がったヒカルに気勢を削ぐようにぎろりと睨みつけられ、二
 
人の迫力に思わず声を失ってしまう。碁会所で二人が睨み合う標的を互いにではなく、目前の軟派な二人に向けただけなのだが、
 
勝負の世界に身をおいたこともない半端な若造が太刀打ちできる気概ではない。
 
 ヒカルとアキラと対峙した棋士達の中には、相手の棋力と子供とは思えない気迫に押されることも多いのだ。子供相手の投了に
 
躊躇して、彼らの一睨みで負けを宣言した棋士も少なくない。それだけの威圧感のある二人を前にしているだけに、ただの大学生
 
である彼らには十分に手が余りつつあった。既に尻込みし始めている。
 
「……あんた達さ、勘違いしてるよ」
 
 無言のまま睨み据えていたヒカルの唇から、少女の持つ高い声ではなく、少し低めの声が零れた。柔らかな響きではなく、硬質
 
の、厳しさすらある声音だった。
 
「か……勘違い…だと……?」
 
「…うん……そう…」
 
 問いかけに対して頷いたヒカルに、どことなく艶っぽさすらある上目遣いの目線で見上げられ、我知らず生唾を飲み込む。
 
 どことなく色っぽさのある目線だった。
 
「だって………」
 
 パーカーのファスナーにもったいぶった手つきでヒカルの手が伸び、二人の男の視線は当然の如く釘付けになる。止めにこそ入
 
らないものの、ちらちらとさりげなく窺っている野次馬の目線もまた、今まさにあけられようとしている胸元に集中していた。
 
「――オレは女じゃねぇしなっ!!」
 
 ヒカルは悪戯っぽく唇の端を吊り上げてにやっと笑うと、パーカーのファスナーを一息に下ろして広げてみせる。そこには洗濯板
 
のように平坦な男の胸があった。
 
「………………!!」
 
(う………うっそ〜!?詐欺だーっ!!)
 
 軟派男二人は勿論、固唾を飲んで見守っていた周囲の人々も、全員が顎を白い砂地に落とさんばかりに驚愕し、瞳も零れるほ
 
どに見開いて茫然とする。対してヒカルは勝ち誇ったように大威張りで胸を反らして、誇らしげにぺろりと舌を出してみせた。
 
 その隣で、アキラは指を額に当てて嘆かわしげに溜息をついて首を左右に振った。あんな男共にヒカルの素肌を見せるだなん
 
て、勿体無くて仕方ない。寸でのところで、見るなと叫んでしまいそうになったくらいだ。
 
 何にせよ、ナンパをした彼らには相当にショックだったのだろう。女の子だと思って声をかけた相手が、実は少年だったのだ。
 
 公衆の面前でのこの間違いはかなり恥ずかしい。男としての面目など完全に丸潰れになる。へなへなとその場に崩れ落ちるよう
 
に膝をついた二人の存在など完璧に無視して、ヒカルはあっさりパーカーを脱ぎ捨ててシャツを羽織ると、アキラを振り返った。
 
「泳ごうぜ!塔矢!」
 
「……あ、うん」
 
 輝かんばかりの笑顔は真夏の太陽すら霞んで見える。ヒカルに差し出された手を取ると、アキラは未だに呆気に取られている
 
ギャラリーの横を通り抜けて、波打ち際へと二人で向かった。