明日への扉V明日への扉V明日への扉V明日への扉V明日への扉V   明日への扉X明日への扉X明日への扉X明日への扉X明日への扉X
 昼間はたっぷりと夏の海を満喫し、夕暮れに紅に染まった砂の上を歩いて、ヒカルとアキラはホテルに戻った。 
 夕食は緒方に高級中華料理を奢ってもらい、すっかり満腹になるまで食べた二人である。緒方にしては珍しく、アキラをからかう
 
ようなこともなく、食事は和やかな雰囲気で終わった。
 
 大人達はその後飲みに出かけたので、アキラとヒカルは早々に部屋に戻ることにした。だがいざ二人きりになってしまうと、妙に
 
気詰まりな感がある。窓辺に据えられた椅子にテーブルを挟んで向かい合って腰掛け、昼間のことや明日のこと、対局のことなど
 
を話し合うが、話が途切れる毎に微妙な沈黙が漂うのだ。
 
 ホテルの一室というものは、日頃とは違った緊張感を与えてくる。二人してそれを誤魔化すように饒舌になって話すこともあるの
 
だが、ふとした時に会話が途切れると、実に気まずい。
 
 ついさっきまで話していた話題が終わってしまい、二人の間で部屋に戻ってから何度目かになる沈黙が訪れる。
 
 お互いに視線を合わせないまま、無言のまま数分が過ぎた。
 
「あ、あのさ……」
 
「…あの……」
 
 探り合うような沈黙の後、やがて我慢ができなくなってヒカルとアキラは同時に顔を上げて声をかけ合う。一緒に顔を上げたから
 
か視線が絡み合い、どちらからともなくぎくしゃくと視線を外して俯いた。ほんのりと二人とも頬を赤く染めて向かい合って座る姿は、
 
初々しい恋人同士のようである。どんな話題を話せばいいのかわからず、手探りで互いを知ろうとする幼い恋愛を彷彿させた。
 
 或いは、一目惚れした者同士に対して、お節介にお膳だてした見合いの席のような感もある。この二人の場合、「趣味は?」と互
 
いに聞けば「囲碁」と出てくるあたり、息が合って相性は悪くないだろうが。
 
 二人にとっては長い静寂の後、アキラがヒカルを上目遣いに窺いながら先を譲ってくる。
 
「……し、進藤からどうぞ」
 
「あ、いや……オレのは大したことないから」
 
「…ボクも……それほど重要な話では…」
 
「……あ…そう…」
 
「その…すまない…」
 
「…えと、こちらこそ…」
 
「………………」
 
「…………」
 
 室内には再びしっくりとしない不自然な空気が流れ、沈黙が満ちた。今度も互いに様子を窺うが、二人とも口を中々開けずにいる。
 
 この気まずい静けさが居心地悪くて、適当な話題を持ち出そうとしたのに、結局二人揃って空振りしただけだった。こんな失敗の
 
仕方まで、息がぴったり合わなくてもいいのに。
恋に不器用な二人の様子が、これだけのやり取りでもありありと見えてくる。 
 普段は何を話そうかと、わざわざ考えなくても言葉が出てくるのに、今日はどうしてもそれがうまくいかない。大抵は自然と会話も
 
進んで、和やかに楽しい時間を過ごすことができる。なのにそれが少しもできず、波の音ばかりが部屋に満ちていた。
 
 ソファに向かい合ったまま眼も合わせず、変に緊張感のある空気の中で黙りこくるばかりだった。
 
 いつもなからこんな事はない。地方のイベントで同室になった時も、こうも奇妙な空気が場に溢れたりしない。
 
 話をしなかったとしても、ただ一緒にいるだけで互いの存在に安心感を感じで落ち着ける。ところが今日はひどく気まずく、何をす
 
るわけでもないのにだ固まってしまうのだ。
 
 緒方に検討を名目にマグネットの碁盤を取り上げられたのが、非常に痛かった。囲碁ができれば、二人ともこんな気まずい沈黙
 
など気にせず、一つの世界に一緒に入れる。会話なんて必要もなく、余計なことは何も考えずに互いに一手を追求し、検討して疲
 
れて眠ってしまえる、なのにそれができない。囲碁というのものがないが故に、二人は棋士ではなく個人として意識しあってしまう。
 
 特に今夜の雰囲気は、囲碁イベントのホテルや二人の部屋ともまるで違って、妙に意識させられてしまうのだ。
 
 こんな風に二人きりで部屋に居ると、昼間のように友達気分のままではいられない。
 
 アキラはついついヒカルに告白することを考えてしまうし、普段は鈍いヒカルですらアキラのこれまでにない真剣な表情に何かを
 
感じ取り、固唾を飲んでつい構えてしまっていた。
 
 お互いに眼を合わせないように何気なさを装って逸らし、向かい合ったまま黙り込んで何分が過ぎただろう。
 
「あ、あの………」
 
「……なに…?」
 
 沈黙を唐突を破ったアキラの声に胸の鼓動がどきりと跳ね上がり、ヒカルは上ずった声で尋ねる。
 
「…あっ、いや…その…なんでもないんだ……」
 
「ふ、ふーん…」
 
「……ごめん……」
 
「……ううん」
 
「……………」
 
 二人の間にまたも重苦しい沈黙が訪れた。こうして座っているだけでも、気まずくて堪らない。互いに意識しているからか、余計に
 
構えてしまう。しばらくすると、再びアキラが口を開いた。
 
「進藤…………!その…あの…」
 
「……うん…?」
 
「………あ…すまない。…気にしないでくれ」
 
「……そっか…」
 
「………」
 
「………………」
 
 視線を合わせずに顔を逸らして、二人は頬を赤く染めて眼をあらぬ方向に向けた。
 
 波と時計の音だけが静かに部屋にこだまし、時間の流れを示していた。彼らの間に何とも気まずい沈黙が訪れてから時計の針が
 
きっかり三分経った頃、今度はヒカルが躊躇しながら声を出した。
 
「と、塔矢…あのさ……」
 
「……あ、うん」
 
「…えっと……、ごめん…呼んだだけ……」
 
「……そうか……」
 
「………………」
 
「…………」
 
 こんな事の繰り返しが延々と続きそうな勢いが、今の二人の間にはある。例えどちらかが何かを話そうとしても、結局肝心のことを
 
言わずに、また静寂が二人の間を支配するのだ。
 
 飽きもせずにこんな事を繰り返しているのを、もしも緒方やあかりが傍で見ていたら、さぞや苛々するに違いない。
 
 『いい加減はっきりしなさいよ!あんた達!』と奈瀬あたりならキレているだろう。
 
 しかし、周囲にはどれだけもどかしくても、二人にとってはこれがギリギリの攻防だった。
 
 ヒカルにはアキラがさっきから何を言おうとしているのか察しがついている。アキラもまた、ヒカルが自分の言葉を待ってくれている
 
ことに気付いていた。ヒカルの方をそっと盗み見ると、ヒカルも同じようにアキラを窺っていて、ばっちりと互いの眼が合ってしまう。
 
 途端に火が吹いたように彼らは顔を真っ赤にして、二人揃ってぎくしゃくと瞳を逸らして俯いた。
 
(どうしよう……いざとなると言葉が出ない……)
 
 何とか告白しようとさっきから試みているのだが、少しも上手くいかない。何故自分はいざとなると、こうも口下手になってしまうのだ
 
ろう。火照った顔を手で押さえながら、アキラは激しく脈打つ胸の鼓動に耳鳴りすら覚えて、そっと溜息を吐いた。
 
 はっきりとした確信はないが、脈があるのは分かっている。ヒカルと一緒に過ごしてきて、彼の好意を感じたのは一度ならずあった。
 
 そうでなければ、ホワイトデーのお返しにあんな良いものを渡してくれる筈がない。他人にはどんなにつまらなくて価値がないもの
 
であろうとも、ヒカルに恋をしているアキラにとっては一生の宝物である。
 
 それに賭けて告白すればいいと分かっていても、中々言えるものではないのだ。
 
 あの時も礼の言葉しか言えなかったアキラに対して、ヒカルは苦笑とも呆れともつかない表情をしたが、「次は礼以外にしろ」と言っ
 
てくれた。ヒカルはアキラからの言葉をあれからずっと待っていてくれている。
 
 囲碁の先番を決めたように、自分達の間にあるのは告白はアキラからという暗黙の了解事項だ。
 
 アキラがヒカルに対してはっきりとした態度を示さなければ、二人これ以上前には進めない。だがしかし、不安がないわけでもなか
 
った。同性同士というリスクもあるだけに、ふられる可能性だって非常に高いのは否めない。それを考えると、とてつもなく恐ろしい。
 
 ここで何とか告白しても、『ごめん、オレおまえのことそういう風に見れないから』と言われてしまうことも有り得るし、『やっぱり男同
 
士には未来がないから』とヒカルから断りの文句を聞かされる羽目にもなり兼ねない。そんな見たくもない結果を想像すると、どうして
 
も二の足を踏んでしまい、喉の奥で言葉もつかえてしまう。
 
 告白によってヒカルとライバルと関係すらも切れてしまう可能性も考えると、目の前が真っ暗になりそうだ。そんな事になるくらいな
 
ら、いっそ告白などしない方がまだマシだ、とも思う。脈があると既に分かっているのだから、暗い想像をして弱気になるな!と自分
 
に言い聞かせても、最悪の結果ばかりを考えてしまって、どうしてもいつも告白もできずに終わってしまうのだ。
 
 今までに多くの棋士と対戦し、恐ろしいと思う相手にも勝ってきた。アキラは勇気がないわけでもなく、意気地がないわけでもない。
 
 むしろ強気で攻めの姿勢に定評のある力碁の棋士である。その強気さを生かして「好きだ」と一言告げるくらい何でもない!と、自
 
分に対して発破をかけても、できないものはできない。囲碁と恋愛はそれこそ別物で、怖さの次元が全く違うのである。
 
 いざ告白となると、普段の強気の攻めも、傲慢な姿勢も、一気に萎縮してしまうのだから。
 
 恋愛下手なアキラにしてみると、この最初の『告白』というハードルは異常な高さに感じられる。これさえ乗り越えることができれば、
 
開き直って自分らしさを取り戻せるような気もするのだが……。
 
 けれどいざとなると、告白の勇気が萎えて萎んでしまうのだから自分としても非常に困っていた。
 
 一方で、ヒカルの胸もこれまでにないほど鼓動が速くなっていた。心臓が張り裂けそうに脈打ち、頬を赤く染まっていると、自分でも
 
自覚できる。薔薇色に染まった頬を感じつつ、瞳を伏せたまま対局中のように膝の上に手をのせているアキラの様子をこっそり窺う。
 
 アキラも少し緊張しているらしく、手が普段と違って強く握り締められている。眼は物凄く真剣で唇は真一文字に引き結ばれ、頬も
 
心なしか赤く、色白な肌がうっすらと桜色になっていてどことなく色っぽさすら感じられた。
 
 ヒカルの想像以上に、アキラはこれまでにないほど緊張していたのだが、生憎というべきか表情にまでは余り現れていない。
 
 アキラとしては既にもう一杯一杯で限界ギリギリであったのだが。
 
 ヒカルはアキラの様子をそっと盗み見て、さっきのように眼が合わなかったことに、内心少し残念に思いながらもほっとしていた。
 
(……塔矢のヤツ…多分これから言うつもりなんだろうな)
 
 そう考えると、胸のドキドキがおさまってくれないどろこか、益々激しくなってくる。これからアキラにはっきりと告げられるということ
 
は、今までのような関係ではいられなくなるということだ。確かにもどかしくはあったけれど、ヒカルとしてはそれなりに居心地は良か
 
った。できれば何もいわないでこのままでいさせて欲しいと思う反面、早く言って欲しいと待ち遠しくて堪らない自分もいる。
 
 まるで、中学二年生だったあの夏の頃に、時間が逆戻りしたような錯覚すら覚えた。いや、その頃以上に胸の鼓動は激しい。
 
 あの時は自分の気持ちにすら気付いていなかったけれど、今なら違う新たな一歩が踏み出せそうな気がした。もしもアキラに告白
 
されたら、答えはヒカルの中で既に決まっている。自分もアキラが嫌いではないから。
 
 いや、むしろ……自分の気持ちを再確認して、ヒカルはひどく居たたまれないような気分に陥って気まずさに身じろきした。
 
 動いた拍子にふと視界の隅にベッドが入って、思わずヒカルは一気に頬に朱を散らせた。
 
 ヒカルは年頃の少年としては、性の知識は極端に貧弱だが、それでも学校で習った程度は持っている。平安貴族の佐為が傍に居
 
たこともあって同性同士の関係が禁忌という意識は乏しいが、男同士でどうやってするのかは全く知らない。
 
 佐為や虎次郎が過ごした時代では、同性同士の恋人関係は珍しくはあっても白眼視されるものではなかったと聞かされていても、
 
男女のように愛し合う行為に対して気恥ずかしさを覚えることには変わりない。
 
 アキラの告白を受けると、その可能性も出てくるということに、今更ながら思い至ってヒカルは大いに焦った。部屋に二人きり、ベッ
 
ドもあるとなれば、舞台装置は完璧だ。アキラはああ見えて碁は攻撃的で攻め手を緩めないタイプで、性格も情熱的な上に直情的
 
で情熱家という一面もある。碁はその人物の性格や内に宿る力などを、盤面に非常によく現すものだ。
 
 アキラは告白さえすれば、ヒカルを自分から逃がさないように逃げ道を塞いで、攻めて、攻めて、攻め捲くるに違いない。
 
 あれで意外と手も早そうだし、アキラの告白に頷いてしまうと、雰囲気に流されて一気に雪崩れ込んでしまいかねない。
 
 それに、いざとなるとヒカルにはアキラを拒みきれる自信がない。
 
(ど、どうしよう〜!オレ心の準備なんてしてきてねぇよ!)
 
 正直頭を抱えたくなってきた。告白されたくないと、今ほど思ったことはない。だが同時に、それに対して期待してしまっている自分
 
がいるのも確かだ。告白されたくないけれど、アキラに告白されたい。
 
 彼をもっと間近に感じたいと望む自分が居て、それを否定するなんてとてもできない。
 
「……あ、あの……進藤!」
 
(うわぁっ!きたっ!!)
 
 内心大いに焦って、ヒカルは胸元のシャツをぎゅっと握った。
 
「……な、何だよ…?」
 
 思わず身構えてしまいながらも、ヒカルは期待に膨らむ胸の鼓動を押さえるように手を握って、赤くなった顔を見られないように俯
 
いて先を促す。きっと今の自分は熟れた林檎のようになっているだろう。
 
「…その……外に出ないか?……今夜は月も綺麗だし………」
 
「う……うん。夜の散歩っていいよな…」
 
 告白かと期待していたので少しばかり残念ではあったものの、素直に頷いた。二人とも微妙に視線をずらしつつ、お互いに胸の奥
 
で一先ず安堵したように息をついていた。
 
 密室で向かい合ったままお互いに胸の探りあいをして過ごすより、開放的な外で風に当たりながら方策を考える方がずっといい。
 
 それは二人の共通の思いであった。