夜の海は満天の星空と月の光を映して、どこか神秘的でいながら寂しい。
ヒカルはそっと瞼を伏せると、時折みせる物憂げな瞳で、昼間泳いだ海のもう一つの顔を歩きながら見詰めた。
隣を無言のまま歩くアキラの体温を感じながら、その僅かながらの存在感にすら安堵を覚える。そこにアキラが居るのだと、塔矢
アキラという者が存在するのだと、安心していられた。
波打ち際を歩く二人足跡は、月明かりで青く輝く波が跡形もなく消し去っていく。
どこまでも続いていく真っ白な砂浜の上を、二人はただ無言で歩いていた。部屋に居た時よりもずっと長い沈黙が訪れていたが、
不思議と気まずいものはない。むしろ今の方がずっと自然な雰囲気が醸し出されている。
手を繋ぐでもなくただ肩を並べて歩いているだけなのに、何も気負わず意識せずに自分達の存在を認めることができた。
海岸線に沿って足を進めていると、足先に何かが当たり、ヒカルは唐突にバランスを崩した。
「……うわっ!………」
「…進藤…っ」
小石に躓いてよろめいたヒカルの身体を、アキラが素早く支える。
月明かりに二人の影が重なり、波飛沫が輝きながらそんな二人を映して、砂に吸い込まれていった。
咄嗟に抱き締めた細い身体の温かさを感じた途端、離したくない気持ちがわき上がり、我知らず腕に力を込める。
金色と黒に縁取られたヒカルの頭髪からは、仄かなシャンプーの香りが漂ってきていた。甘く芳しい体臭と一緒に体温も伝わり、胸
の鼓動がどんどん速くなっていく。飛び込んだ腕の中と胸元で身体が危なげなく支えられ、ヒカルは無意識に息を呑んだ。
成長期の少年の身体は少しずつ大人に近付いているのか、見た目以上に胸は広くなって厚みもある。
空を掻いた手は支えを欲して、アキラの背中のシャツを握り締めた。押し付けた胸から鼓動が耳を打ち、それに触発されたように頬
に血が上る。ついさっきまで離れていた距離が突然ゼロになり、互いの体温と鼓動が直に伝わってきた。触れ合ってみると、信じられ
ないほどに安心感があって、離れたくなくなる。
無意識にアキラの胸に頬を摺り寄せたヒカルは、思いがけない自分の行動に気恥ずかしさの余り慌てて顔を上げた。すると、上か
ら覗き込んでいたアキラの顔を、予想もしなかった短い距離で見ることになった。
一方のアキラも腕にすっぽりと収まったヒカルと眼が合い、間近に迫った想い人の存在に常にないほどうろたえる。
至近距離で見詰め合い、瞳が交錯した刹那、咄嗟に声が出ずに凍りついたように固まった。
声も出せずにお互いの顔をまじまじと見合っていた時間はさほど長くはない。時を忘れたように見詰め合っていた二人は同時に我
に返り、首筋まで真っ赤に塗り替えながら素早く身を離して、背中を向け合った。
「け……怪我がなくてよかったよ」
気恥ずかしさで手をもじもじさせつつアキラが取り繕うように言うと、ヒカルも上ずった声で答える。
「サ…サンキューな、塔矢」
早鐘を打つ胸の鼓動が耳にこだましそうな気がした。羞恥で頬が熱くなり、いたたまれない気分になる。なるべくアキラを見ないよ
うにして、あらぬ方向に眼を向けた。先程のアクシデントで二人の距離は短くなり、雰囲気もこれまでとはまた違っている。
ホテルの部屋に居た時と近いけれど、それともまた何かが違う。アキラは密かに深呼吸をして自分を落ち着かせると、顔を海に向
けているヒカルの手を何気なさを装って握った。さりげなさを装っていたが、本当はあらん限りの勇気を振り絞っての行動である。
ただ手を握るという行為だけのために、これまでの人生の全てを賭けるような棋力を振り絞っていた。
手の中でピクリと震えたヒカルだが、振り払おうとはせずにおずおずと握り返してくる。決して離さないという意志を伝えるように指を
絡めると、応えるようにヒカルも絡めてきてくれた。
これまで自分が感じてきた感情を全て上回る、歓喜が身体を駆け抜ける。
嬉しさでさっきまで怖気づいていた心とは裏腹に、力が戻ってきた。アキラは決意を固めると、戸惑うヒカルのことなど意に介さず、
腕を半ば強引に引っ張って手近な岩まで歩く。海に面した大きな岩の上に二人で並んで腰掛けた。
だがいざ腰を下ろすと、アキラの決意は途端に鈍ってしまう。何とか口を開こうとするが結局閉ざしてしまう。
互いに何も言わず、押し黙ったまま漣の打ち寄せる音と、青い月の光を浴びながら潮風に髪をなぶらせていた。
遠くの水平線には、月の光と一緒に魚の鱗が反射して、地上に落ちた星のように輝いている。
横に居るヒカルにそっと眼を向けると、彼はじっと海の上空に浮かぶ月を見上げていた。どことなく憂いを帯びた瞳が、あの頃のよう
に全てを投げ出していたヒカルの危うさを浮かび上がらせる。日頃の元気な彼とは違って、今にも青い光の中に消えてしまいそうな、
儚い雰囲気を醸し出していた。
ヒカルは空を見上げて美しい月を瞳に映してはいるけれど、実際には何一つ見ていないのかもしれない。
碁を打つ時の彼の視線は厳しく、普段にない鋭さと威圧感がある。いつもの彼の瞳は明るく元気でありながらも、時折物憂げで儚く
もあり、不思議と静で落ち着いた雰囲気をも感じさせる。 月の光に照らされて、ヒカルの前髪が金色に燃え立つように輝いている。
瞳の色もどことなく金色がかっており、その様はまるで虎のようだった。今のヒカルは、囲碁を打っている時の彼ともまた違うように
見えた。最近一部で囲碁界の竜虎と囁かれもするように、アキラは竜と位置づけられ、ヒカルは虎と評される。
そしてその碁の内容も、虎と呼ばれるに相応しい。猫科の獣のしなやかさと軽やかさで優雅に攻撃をかわすかと思えば、足の速さ
で素早く迎撃を行いながら、その速さを使って逃げる。また逃げる敵には追い縋り、一転して激しい攻めを課す。
時によっては辛抱強く気配を殺して獲物に狙いを定め、刹那の隙も逃がさずに鋭い爪と牙で猛然と襲いかかり、急所を的確に狙っ
て情け容赦なく確実に息の根を止めにくる。まさに獰猛な虎そもののだ。
ヒカルの持つ集中力もまた、獲物を狙う猫科の動物が特徴的に持つ集中力を髣髴させる。
ヒカルは集中し始めると周囲の雑音も視線も、他の事は一切感じなくなる。ただ碁だけに集中する。それはまさに猫科の虎ならでは
の『盲目の集中力』で、その凄まじい集中力にはアキラですら感服せざるを得ない。
生涯のライバルとして唯一認めた相手――それ故にヒカルには絶対に負けたくない。
どんな高段者と対局する時よりも、ヒカルとの一局は死に物狂いだ。
ヒカルは一局ごとに凄まじい進化を遂げる。昨日の一局と、今日の一局とではまるで違った面を見せる。極端な表現だが、ついさっ
き打った一局と今とでもヨミの深さや踏み込み方などが変わってくるのだ。
その驚嘆すべき進化能力は、アキラにほんの一瞬でも気を緩めることを許さない。
彼の前を常に一歩進むためには、自分の努力と研磨がどれだけ必要なのか、ヒカルと打つ度に再認識させられる。ヒカルと打つた
めに、彼を満足させるために、また自分の力を上げるためには、進藤ヒカルという存在は絶対に欠かせない。
戯れのような一局から真剣勝負に至るまで、ヒカルと打てば打つほど、否応もなくアキラはそう感じる。
何があってもヒカルを手離したくないと。どんな事があってもヒカルと共に居たいと。昔小学生だったヒカルと始めて対局したあの頃
よりも、今のヒカルがもっとアキラを熱く滾らせている。彼を求める心をより強くさせられているのは間違いない。
丁度このくらいの頃だったように思う。ヒカルがひどく空虚な瞳をしていたのは。
一年ほど前、碁を捨てようとしていたヒカルに何があったのかは分からない。けれどあの頃の彼はかけがえのない何かを永遠に失
い、そして誰かの遺志を継いで真剣に碁に向かっている。果てしなく遠い、神の一手へと続く道へと。
その道はアキラと共に進む道であると、アキラは信じて疑っていない。いや、その道を必ずヒカルと共に進むのだと、その権利を勝
ち取るのだと、アキラは心に誓っているのだ。他の誰にもヒカルの横を、そして対面を譲りはしない。
そこはアキラだけの場所だ。彼と神の一手に近付くためにアキラだけが座る場所なのだ。誰にもくれてなどやらない。
恐ろしく強かったヒカル、一転して初心者だったヒカル、そして成長し対面に座ったヒカル。
多くの謎はあるが、どのヒカルも真実で嘘はない。saiとヒカルが同一人物ではないかと疑った時期もあったが、今はそう思わない。
saiとヒカルはその碁の内容から見ても明らかに別人だ。それは確かな確信としてアキラにはある。saiと打った時にはヒカルを感じ、
ヒカルと打つ時にはどこかにsaiを感じることがある。
まるで別人でありながら、『ヒカルの碁』の中にはsaiは一緒に居る。そう、ヒカルの碁が彼の全てなのだ。
ヒカルと打った名人戦での一局で感じたように、それはまさしく真理だった。
アキラにとってヒカルは自分と共に神の一手を極める道へと続く、唯一の存在である。
それは決して驕りでもなければ思い込みでもない。魂に刻み付けられた本能の一部のようにある確信だった。
運命などというあやふやな言葉で片付けられるものではない。出会うべくして出会った宿命の相手なのだから。
暗い虚空を見据えて虚無を宿したせつな的な危うい瞳を持つヒカル、元気で明るい笑顔を振り撒く普段のヒカル、碁石を持ってとて
つもない集中力で痺れるような一手を放つヒカル。どんなヒカルもアキラは好きだ。
碁のことも彼の持つ謎も、何もかも全てひっくるめて、ヒカルを手に入れたい。彼とずっと一緒に居たい。
月明かりに照らされるヒカルの綺麗な横顔を眺めて、改めてそう思った。
「…………進藤……」
自分でも意識して呼んだわけでもなく、ただ囁くように呟いた小さな声に、ヒカルは反応してこちらに瞳を向けた。ついさっきまで月と
星を宿していた双眸は、今はただアキラだけを映している。
何もかも、全てを見透かされるような純粋な瞳を前にして、固めた筈の決心が大きく揺らいだ。
ヒカルに想いを告げることで、まるで彼を穢してしまうような罪悪感に捉われる。
自分がこのまま何も言わずにいれば、ヒカルは永遠に純真無垢なままだ。ヒカルを穢すだなんて、そんな大それた事を何故考えて
しまったのだろう。無垢な神の寵児を穢すなど、万死に値する大罪ではないか。
どうして自分がヒカルにこれまで想いを告げられなかったのか、天啓のように理解した。
穢したくなかったのだ、ヒカルを。自分のものにしたいと、手に入れたいと狂おしいほどに思いながらも、その実アキラはヒカルを純粋
で綺麗なままでいて欲しいと、このままでいさせたいとすら願っていたのだ。
(どこまでも甘いんだな………ボクは)
こんな考えはアキラのエゴに過ぎない。自分の気持ちを告げる勇気がないから、ヒカルを汚したくないという理由にかこつけて、逃げ
の一手を考えていただけ。ヒカルをアキラが諦めれば、他の誰かのものになる。後でどれだけ後悔しようとも、悲しんで泣こうが、怒っ
て叫ぼうが喚こうが、どんな事をしたってヒカルは本当に永遠に手に入らなくなってしまう。
こうして自分が躊躇っている間にも、いつか誰かに奪われてしまうことすら考えもせずにいたとは、随分と暢気なことだ。危機管理能
力がないにも甚だしい。ヒカルと共に歩む為には、自分がまず一歩先へ行かねばならないのは、どんな時でも変わらないというのに。
アキラは空を見上げて落ち着かせるように息を吐くと、ヒカルを強い意志を宿した瞳で見詰めた。だがヒカルは戸惑ったようにすぐに
視線を逸らして俯く。下を向いていて顔は見えないが、月明かりに輝く金色と黒の髪から狭間から見える耳と頬が、ほんのりと赤くなっ
ていて何とも色っぽかった。自分の顔もきっと火照っているだろう。何せさっきから鼓動が激しく脈打っているのだから。
「し、進藤……その……あの…」
ここまできたのだから、腹を括って告げようと思うのに、ホテルの時と同様に言葉が詰まってしまう。このままではさっきの二の舞だ。
何とか打開策を練らないと、折角の決意が無駄になる。
(落ち着け……いきなりヨセに持って行こうとするからダメなんだ。ここはまず最初の一手からだ)
自分なりに戦術を考えると、アキラは口を開いた。
「あ……あの…キミと出会った最初の頃…ボクはまだまだ子供で、自分の気持ちに余裕が持てなくて……でも、キミのことが凄く気にな
っていたんだ。何て言えばいいのかな……とにかくキミのことばかり考えていて…」
一旦言葉を切ってヒカルを密かに窺うが、彼は俯いて黙ったままだった。
反応のないヒカルの様子にアキラは内心焦りを覚えながらも、乾いた唇を舌で濡らして話を続けていく。
「その…ボクは…自分の気持ちを中々認められなくて、最初は囲碁の実力に惹かれたんだと自分には言い聞かせていたんだけど…実
はそうじゃなかった。囲碁部の大会ではキミに対してきついことも言ってしまったし、その後も言葉尻がどうしてもきつくなったのは、決し
てキミを嫌いだとか、疎ましく思っていたわけではなく、気になっていた気持ちの裏返しというか……」
(よし、この調子だ。すらすら言葉が出てくる。もう一息だ……)
アキラは自分自身に言い聞かせて、必死にもどかしい舌を動かしつつ言葉を連ねていった。
「な、何故きになっていたかというと、始めて会った時からキミは凄く可愛くて……正直一目で………その……あの頃から囲碁の実力よ
りも、ボクはキミ自身に惹かれていたんだ。囲碁は二の次だったというか……あ、でも一つ付け加えておくが、今のキミの碁の力をボク
は断じて軽んじてなどいない!キミの碁に夢中になってしまうのは、ボクの嘘偽りない思いだ。むしろボクにはキミ以外に生涯のライバル
たる存在は絶対に居ないと言い切れる!神の一手を極めるには、対局に居る者がなければ成し得ない。僕の対面に座るのはキミしか居
ないんだ!」
ついつい碁のことになると熱く語ってしまい、アキラははたと我に返ると、誤魔化すように軽く咳払いをした。
「……とにかく…ボクにとってキミの実力も魅力の一つといおうか……つまりその………キミという存在は囲碁と同様に切り離せないプフ
ァルツ真珠のようなもので……」
プファルツ真珠とは、俗に言う黒白真珠のことである。白い真珠層と黒い真珠層の二つの色が一つの真珠に宿る、非常に珍しい宝石な
のだ。端的な表現だと、碁石の白と黒を表裏合わせて丸くしたようなものというべきだろうか。囲碁一色に染まっているアキラが宝石を例
えに持ち出すとは意外だが、彼の心情を表す表現としてはこれほどしっくりとくるものはない。
ヒカルが宝石のことを知っているかどうかはともかくとして。
「キミという存在に、ボクはとても惹かれていた。いや、今も惹かれている。つまり…その……一目惚れだったんだ!初めて出会った時か
ら…ずっとキミのことが好きだった!ボクはキミが…進藤ヒカルのことが好きだっ!!キミを愛している!」
長々と喋り続けた上に愛の告白までもをまじえて、アキラはやっと自分の想いをヒカルに打ち明けた。
バクバクと激しく鼓動する心臓を落ち着かせる術も思いつかず、膝の上で緊張で汗をかいている手を握り締める。
波の音も潮風も何も感じられない。隣で無言のまま反応を返してこないヒカルの様子を窺う勇気もなかった。
下手にヒカルの顔を見て、拒絶の言葉を聞かされたりしたら、絶対に立ち直れない。そんな目にあうぐらいなら、見ない方がまだマシだ。
握り締めた拳を見詰めたまま審判の時を待ってどのくらい経っただろう。実際はほんの二、三分だったのだろうがアキラには非常に長く
感じられた。ふられるにしろ、やはり返事を貰いたい一心で、アキラはそろそろと顔を上げてヒカルを窺う。
「あ……あの………進藤…?」
恐る恐るアキラが呼びかけた瞬間、ヒカルが頭をもたせかけてきた。途端に胸が躍るように弾み、頬に赤みがさして一気に熟れた林檎
のようになる。これが返事の代わりなのだとしたら、ヒカルもアキラを好いていてくれている、ということである。自分でも信じられないくらい
幸せで、世の中にはこんなにも幸福な瞬間があるのだと、喜びが身体の奥底からわいてくる。
その歓喜の心の赴くままにヒカルの肩を抱き寄せると、アキラはそっと顔を重ねていった。