ヒカルの瞼は緩く閉ざされ、唇はほんの少し開いて受け入れるのを待っているように見えた。
アキラは高鳴る胸の鼓動を感じながらゆっくりと顔を近付けてゆき、唇が触れるというところまできて、不意に動きを止める。
間近まできて、ヒカルの顔をまじまじと改めて見詰める。
「……………」
規則正しい呼吸音と一緒に瞳は完全に閉ざされ、明らかに寝息というものがアキラの耳を打った。
それらが全てをアキラに物語っている。
(………寝てる…)
そう、ヒカルは眠っていたのだ。どの辺りから眠っていたのかは知らないが、頭をもたせかけてきた時にはすっかり熟睡し
ていたに違いない。あれだけ昼間泳いでいたから、疲れが出たのだろう。
(……前置きが長すぎたか……)
あれこれ喋っている間に、ヒカルが寝てしまったのも無理はないと思う。久々の休日とはいえ、これまでの疲れも溜まって
いたし、昼に散々遊んだこともあってアキラもさっきから眠気を感じていた。普段のアキラなら、大事な話をしている最中に
ヒカルに寝られてしまうと『ふざけるなっ!』の一喝が飛び出すところだが、今夜は何一つ気にならなかった。
例え空振りであったとしても、ヒカルに告白できたのはれっきとした事実なのだから。
アキラには滅多にないことだが、自分で自分を褒めたいとすら思った。
今日という日はこれからもずっと忘れられない。忘れられない、夏の思い出になる。
隣で眠るヒカルをそっと抱き寄せて、アキラは胸の内に広がる幸福感を噛み締めるように瞳を閉じた。
一泊二日の小旅行の数日後、塔矢邸に一本の電話が入った。
「……まあまあ、お声を聞くのも久しぶりなのねぇ……。いいえ、こちらこそこの間はどうもありがとう。また遊びにいらして?
アキラさんもきっと喜ぶわ。………はい、ちょっと待っててね」
明子は電話を一旦保留にすると、部屋に篭もって黙々とパソコンで棋譜整理を行う一人息子に声をかける。
「アキラさん、お電話よ」
「……電話…?」
集中して行っていただけに、棋譜整理を邪魔されたように感じたのか、返事をするアキラの声音は多少どころではなく不
機嫌だった。このたった一言でアキラの機嫌が分かるのは、勿論明子が母親だからである。他人にはアキラが普通に返事
をしたようにしか聞こえなかっただろう。もしも他に分かる者がいるとしたら、それは電話の主など極一部に限られる。
「ええ、お電話よ」
明子は僅かに険しくなった息子の目付きにも平然としたまま、殊更ゆっくりと繰り返す。
こうして振り返ってくる顔を見ると、プロになってから男らしくなってきて、母親としては嬉しい限りだった。小学生の頃は女
の子のようで、将来が不安だった時期もある。
それが今では細身ながらも肩幅も広くなり、背も伸びて顔立ちも凛々しく秀麗な少年になってきた。
これで想い人との仲が進展さえしてくれれば、明子としては文句のつけようがない。自分の夫も恋愛に奥手で中々前に
進んでくれなくて困ったが、息子もそんなところが似るのはやはり親子だからだろうか。
そんな明子の感慨とは関係なく、アキラは不機嫌な顔つきのまま口を開いた。
「……どなたからですか?」
尋ねるアキラの声音は、相手によっては言葉は丁寧でも冷たくあしらうであろうことが見てとれるくらい、気分を害している
ようだった。棋譜整理の途中で電話が入った程度でここまで機嫌が悪いのは、親子揃って囲碁馬鹿だからかもしれない。
それとも電話も邪魔に感じるほど大事な棋譜なのか。
明子にとってはそんな事はどうでもよかった。それよりも電話の相手を待たせてしまう方がよっぽど気になる。何といって
も彼は、明子が一番気に入っている少年なのである。初めて会った時から印象は良かったが、アキラを介して何度も会って
いるうちに、すっかり彼の魅力の虜になってしまった。
明るく素直な性格も、息子にはない元気でやんちゃな言動も、全てが愛しくて堪らない。
明子はアキラとは別の意味で彼に夢中で、息子より可愛がっているほどだ。
下手な嫁なんて貰わなくて結構。嫁よりも彼がいい。というか彼でなければ絶対却下だ。母としてはかなりというか相当間
違った思考だが、明子は委細気にしていない。
跡継ぎが必要だというのなら、夫ともう一頑張りすればいいだけの話なのだから。
ある意味、塔矢家では彼女が法律なのである。
振り向きはしたものの、アキラは椅子から少しも離れようとしない。いつもなら、声をかけられたら不承不承ながらも立ち
上がるというのに、そんな気配もなかった。余程パソコンの棋譜に未練があって気になるらしい。
しかしどんなに大切な棋譜でも、彼の名を告げればアキラの態度は即座に一変する。それが訪れる瞬間がいつも楽しみ
で仕方ない。息子の反応に期待しながら、明子は電話の主の名をにっこりと笑顔で教えてやった。
「進藤君からよ」
『進藤』の名を聞くなりガタッ!と派手な音を立てて、蹴倒しかねない勢いで椅子から立ち上がり、アキラは礼もそこそこ
に明子の脇を素早くすり抜けると、玄関横の電話に飛びつくようにして受話器を掴んだ。
何でもっと早く言ってくれないんです、と電話を取りながら恨みがましげな眼で訴えてきていたが、明子はどこ吹く風で無
視する。それよりも話の内容の方が重要だ。次のデートの誘いなら万々歳なのだが。
しかし囲碁馬鹿二人では、碁会所が関の山である。この二人ときたら、会うのはいつも碁会所で色気の『イ』の字も有りは
しない。せいぜい頑張ってもその後に食事に行くから、映画を観るかくらいだ。
一日一緒に居る時も囲碁ずくめになるか、アキラの写真のために二人で公園に行ったりする程度だろう。
写真を撮るにしても、もう少し河岸を変えようとは思わないのだろう。せめて、遊園地や動物園とかに。
「あ、進藤?待たせてごめん」
『おっす塔矢。この間は楽しかったなー。また行こうぜ』
「ああ、行こう。それにしてもいいタイミングだな、丁度キミとの対局の棋譜整理をしていたところだ」
棋譜整理をしながらヒカルのことを考えていたら、当の本人から電話がかかってくるとはアキラ自身思いもしなかった。
盤面の宇宙を描く棋譜も捨て難いが、ヒカル自身の声を聞ける幸せにはやはり勝てない。
『へぇ…いつの?』
「先週に打った分だ。旅行と手合で暇がとれなかったら、遅くなったけど」
『あれか……じゃあ、ついでにオレの分もコピーしといてくれよ』
「勿論そのつもりだ。キミはいつも棋譜整理なんてしないからね」
『だって面倒なんだもん』
ヒカルは面倒だからという理由で棋譜整理すらろくにしないのだが、アキラにしてみるとその必要がまるでないのである。
ヒカルの棋譜に関する暗譜力は並々ならぬものだ。自分が打ったものだけでなくアキラの打ったものなど、見かけた古
今東西の棋譜を暗譜し、いつでも自由自在に再現することができる。
誰でもおいそれと簡単にできるものではない。囲碁の棋譜においてならば、ヒカルの能力はパソコン以上である。
ただし自分が情熱をかける囲碁では素晴らしい記憶力を発揮しても、日常生活においてのヒカルの記憶力は決していいも
のではなく、スケジュールですらも時々忘れてしまいがちだ。ヒカルのマネージャーのように、アキラがスケジュールを管理
して、前以て促さなければならないこともままある。
アキラにとってはその程度のことは朝飯前で、むしろ頼ってくれる事実で嬉しさすら感じられる。
『ところで……あのさ……』
「……うん…?」
遠慮がちに話題をかえてきたヒカルの様子に、アキラは訝しげに続きを促す。
『………この間のことなんだけど……寝ちまってゴメン』
「なんだそんな事?いいよ、気にしていないから。ボクも眠かったしね』
アキラは塔矢夫妻が廊下の影から聞き耳を立てているとは露知らず、いつもの調子で楽しげに喋っていた。というよりも、
両親が家に居ることすらヒカルからの電話の嬉しさですっかり忘れてしまっていた。
「海辺のホテルで一泊と聞いて期待していたけど、あの調子だとやっぱり緒方さんの言う通り進展がなかったのね」
明子はアキラの様子を窺いながら、いかにも残念そうに頬に手を当てて嘆いた。そんな明子と同様に廊下の角から覗き見
ていた行洋はアキラをさりげなくフォローする。自分が若い頃も、明子にどう接すればいいのか分からなくてまごまごしていた
ものだ。アキラは自分に比べれば、まだ積極的に行動しているように見えるのだが。
「あの子は私に似て奥手なところがあるからな。……今年でやっと十六だしそんなに急がなくてもいいだろう」
窘めるような行洋の言葉に、明子が溜息まじりに不満を洩らした。
「だってあなた……うちの子も捨てたものじゃないと思ったのに、未だにアレなんですもの…」
「………うむ、確かに……煮え切れなくて付かず離れずな感じだな。アレは」
明子の言葉に、行洋も厳かに頷く。
「……もう…囲碁になったら強気で攻めるのに、こと恋愛に関しては不器用で不甲斐ないんだから……」
廊下の角から覗き込み、ぼそぼそと話し合う両親の声がアキラの耳にも届いてきていた。
ひくひくと頬を引きつらせ、なるべく電話の声があちら側に聞こえないように背を向けながら、一つの決断を下す。
(今度、絶対に携帯電話を買おう!)
普段は両親が居ないので、電話を受ける時は全く気にもしなかったが、まさかあんな所で隠れて聞いているとは思いもしな
かった。緒方がばらしたのだろうが、この間の旅行の詳しい内容に至るまでしっかりと知られてしまっている。自分達の周囲に
は、津川と中村をはじめ、緒方や両親など、なんて野次馬というかデバガメが多いのだろう。
『おい、塔矢聞いている?』
「あ…すまない。もう一度言ってくれないか」
両親のことに気を取られて、ヒカルの声をうっかり聞き損ねてしまった。何て勿体無いことをしてしまったのだろう。折角のヒカ
ルとの電話だというのに。
『……ったく、来月の夏祭り一緒に行こうって言ったの。去年手合だなんだかんだで、行けなかったじゃん』
「うん!行くよ。その日は手合課にお願いしてスケジュールを空けておくから」
ヒカルからの夏祭りの誘いに、アキラは弾んだ声で二つ返事で頷く。
『オレさ、多分また浴衣になると思う。ホントは動き難くて嫌なんだけど、ばあちゃんがスゲー燃えてんの。浴衣の生地を買いに
行くのにも付き合わされるんだぜ?』
「それはご愁傷さま。ボクとしてはキミの浴衣姿は新鮮で楽しみだけど」
『ちぇっ!おまえは笑ってられていいよな〜』
「まあね、他人事だもの」
『あ、そうだ!おまえ自転車で来いよ。あそこの神社で花火見物するんだからな』
「分かった、ちゃんと用意しておく。進藤こそ遅刻するなよ」
『うるせぇな、若獅子戦だっておまえより早く着いてたろ。いつも遅刻するみたいに言うな』
電話で喋っていても、ヒカルのむくれた顔が想像できて我知らず口元に笑みが浮かんだ。
「碁会所で待ち合わせる時は毎回遅刻するだろ、キミ」
『へぇへぇ、オレが悪うございました』
「分かっているのなら構わない」
(……それにボクはキミを待たせるより待つ方がいいから…)
と続きそうになった言葉を喉の奥で飲み込み、急に照れ臭くなって、赤くなった頬を押さえる。
『…………塔矢……おまえ何気に恥ずかしいこと考えたろ?』
「えっ!?………か、考えてないよ」
『ぷぷっ!やっぱ考えてたんだ?』
図星を刺されたというのに、くすくすと笑うヒカルの声だけで今どんな笑顔をしているのか想像して、不思議と満ち足りた気分
になった。でもこんな自分に気恥ずかしさを覚えて、ついつい素っ気無い口調で応じてしまう。
「……どうだっていいだろう、そんな事」
『追求はしないでおいてやるよ。んじゃ四時に公園で待ち合わせな』
アキラの誤魔化しなどばればれなのか、電話口のヒカルは笑っているようだった。笑みの滲んだ声を聞けばそれで気分はす
ぐに軽くなってしまうあたり、本当に自分は現金だと思う。
「分かった。………楽しみにしているよ」
比喩ではなく本当に楽しみだった。一昨年に行った夏祭りでのヒカルの姿を思い出して、アキラは頬を緩める。
『まあ、期待してろって!じゃあな』
「あっ!待て進藤!」
『……ん?まだなんかあんのか?』
言うだけ言ってあっさりと電話を切ろうとするヒカルに、アキラは名残惜しさもあってつい引き止めていた。それにどことなく不
審げに聞き返してくる声が聞こえてくる。けれど、アキラとしては取り立てて用事があったわけではない。
ただヒカルの声をもっと聞いていたいと思っただけで。
「…あ……、その…今度うちの碁会所にはいつ来れる?」
来月まで会えないなんてとても我慢できず、とりあえず次に会える日だけは設定しておきたい一心で言ったアキラに、ヒカルは
思い出すように少し間をあけてから告げる。
『うーん……そうだな…金曜かな』
「そうか、じゃあ待っているよ」
『おう、今度は負けねぇぞ!』
「ボクもキミには負けるつもりはない」
『吠え面かかせてやるぜ、覚悟してろ?じゃあな、塔矢』
「その台詞そっくりキミにお返しさせて貰うよ。じゃあ、金曜日に碁会所で」
相変わらず色気のない応酬で締めくくりながらも、アキラは上機嫌で電話を切った。
色々と喋ってお陰で乾いた喉を潤すために台所へと、弾んだ足取りで向かう。ヒカルと碁会所で会えるのも嬉しいが、夏祭りに
一緒に行けるのが何よりも楽しみだった。今年はどんな浴衣姿なのか、想像するだけでも胸が弾んだ。
そんな息子の姿を微笑ましいと思いながらも、余りの不甲斐なさに両親は溜息混じりで見送る。
後で塔矢夫妻は、数冊のデートマップをこっそりとアキラの部屋に入れに行ったのだった。