自転車を東屋の脇に停めて、アキラは詰碁集を開いて読みながら、ヒカルを待った。いつものように待ち合わせのきっかり十五分前。
殆どの場合先に着いているので、アキラはヒカルを待つのに慣れていた。
一昨年の中学二年生だったあの夏祭りの日は、ヒカルがアキラを待ってくれていた。ヒカルが着た浴衣が女物だったこともあり、その
後姿に女の子かと一瞬勘違いしてしまったのも、今ではいい思い出になっている。あれから随分してからヒカルはその時の浴衣が女性
用だったことを知り、アキラに散々愚痴ってきたものだ。
今回はアキラが自転車に乗ってきたが、二年前はヒカルが乗ってきていた。ヒカルが持ってきた自転車はサドルの高さが合わなくて、
扱ぎ難かった記憶がある。今日は母の自転車を借りてきたが、やはり高さが会わないので勝手に調整させて貰った。
気付かないうちに母の背丈を追い越していたことに、奇妙な実感がわいた瞬間だった。
幸いというべきか、両親は八月の半ばを過ぎると海外に赴いたので、花火大会のことではあれこれ詮索されずに済み、ほっとしている
のが本音だ。これでしばらくはヒカルを好きに泊めて、碁も自由に打てる。
お盆を過ぎると風の中に秋の涼しさがまじり始める。夕暮れも近付いていることもあって、こうして日陰の東屋にいると、暑さもそれほど
苦にならない。何気なく周囲を見回せば、意外に多くの男女が待ち合わせのために公園に来ているようだった。今日開かれる花火大会
と夏祭りは、近隣でも大きな規模を誇ることもあって、この辺りから出向く者も多い。
その為か、この公園に居る人々の中でも、浴衣姿はやはり眼を引いた。
(………もうすぐ四時だな…)
アキラは腕時計を見て時間を確認し、再び詰碁集に眼を落とした。友人や彼氏と待ち合わせをしていると思しき少女達が、そんなアキ
ラをちらちらと窺っていることにも気付かない。美しい容貌が人目を引くことにもまるで頓着していなかった。無自覚面食いのヒカルがア
キラの容姿を気に入っている点でも、彼は相当な美形なのだが、最近では男らしさも加わってきて美貌に益々迫力が増してきている。
本人にとっては自分の容姿などどうでもよく、囲碁の研鑽を積むことが大事なのだが、周囲の人々からすると、彼が強くなればなるほ
ど容姿も磨かれているともっぱらの評判である。
多くの人々の視線を集めていても気付いていないアキラにしてみると、ヒカルを待つことと眼の前の問題に意識が集中していて、刺さ
ってくるぶしつけな視線など意に介さない。それに塔矢行洋の息子として、アキラは人の目線に晒されることに幼い頃から慣れている。
北斗杯でもヒカルや社がカメラに驚いていたことに対しても、どうしてそんな事に驚いていたのか不思議だった程だ。
待ち合わせている人々にも相手がやってきて、一人、また一人と公園から立ち去っていく。人影が消え、また入れ替わってやって来る
中で、アキラは東屋から動くことなくヒカルを待ち続けた。ヒカルが自分との待ち合わせに遅刻するのはいつものことだし、口では文句を
言うが少しも気にならない。だから待つのは平気なのだが、心配していないわけではなかった。
ヒカルはあれでも方向音痴だし、結構危なっかしいところもある。
行き来し慣れた道で迷うとは思えないが、途中で事故に遭うことも有り得るのだから。
(やっぱり家まで迎えに行った方が良かったかな……)
少しずつ膨らむ不安からアキラがそう思い始めた時、いつもの元気な声が呼びかけてきた。
「塔矢っ!」
詰碁集を見ながらもまるで別の事を考えていたアキラは顔を上げると、茫然と見蕩れる。東屋の入口に立っている、心配しつつ心待ち
にしていたヒカルの姿を食い入るように見詰めていた。無意識に本を閉じて立ち上がって出迎えたものの、挨拶の言葉すらも忘れてヒカ
ルの姿に改めて見惚れてしまう。そんな自分を不審そうに見やっているヒカルの様子にも、全く気付いていなかった。
「……な、何だよ…そんなにこの浴衣変?これでもちゃんとした男物だぜ」
アキラはすぐに立ち上がってヒカルの傍までやって来たものの、何故かいつもと違って挨拶もしない。無言のまま立ち尽くして、穴が開
くかと思うほどヒカルをじーっと見ているのだ。まさに舐めるような視線というのはこのような目線に対していうのか、ヒカルは無性に居心
地の悪い気分になって身じろきする。自分としては、変なら変とさっさと言って貰いたい。何も言われないのが一番気になるというのに。
ヒカルの言葉にアキラは夢心地のような気分からはたと我に返った。
「あ、いやそんな事はない。凄くキミに似合っているよ」
アキラは蕩けるような綺麗な笑顔を向けてきて、どこか嬉しげに再びヒカルを見詰めてくる。
この笑みと態度だけで、アキラが本心から言ってくれているのは分かるのだが、じろじろ見るのはどうしてだろうか。ヒカルには、時折こ
うしたアキラの行動がよく分からない。一方のアキラは、上から下までヒカルをじっくりと眺め回して、眼福ものの姿にうっとりする。
月に照らされる夜の空を思わせる青い色調の浴衣には、真っ白な孔雀の羽のような花があしらわれていた。白い羽毛の先のように飛
ばされそうな細い線で描かれながらも、幾筋も纏まると強い主張を持つようになる。
裾や袖といった要所要所に配置されているだけなのに、自然な華やかさと艶やかさがあった。
こうして立っているだけで、普段は元気さに隠れがちな類い稀なる香気をまじえた匂い立つような色香すら漂ってくる。男に対しての表
現として相応しくないかもしれないが、最高に綺麗だ。本当に綺麗で可愛らしい。
(――――――いいっ!!)
心ゆくまでヒカルの浴衣姿を堪能したアキラは、北斗杯で敵を倒した時のようにグッと拳を力強く握り締めて、胸の奥で声を限りに叫ん
だ。この一言に、言葉では言い尽くせない深い想いが集約されているに違いない。
眼前のヒカルの浴衣姿は、二年前以上に綺麗だった。あの時はあの時で、幼さの中に愛らしさと大人びた雰囲気が同居していて絶品
ものの可愛さだったが、今回は以前とはまた違う魅力が溢れている。
一番の違いは色気だ。あの頃には見受けられなかった、儚く危うい雰囲気が加わって、例えようもない色っぽさがある。
二年の間に成長した度合いも大きいが、幼さとあどけなさが残っているのもこれまた良い。
背も随分伸びて、やんちゃ坊主で子供らしくころころしていた体型が細身に変わり、全体的なシルエットはほっそりとしている。
その為か、大人の男の雰囲気よりも中性的な魅力が増している点がヒカルらしく思えた。
男に対して綺麗だと思ったのはヒカルが初めてで他には居ないが、この言葉には性別なんて関係ないのだと、改めて思う。
浴衣の合わせ目からのぞく白磁の肌、ほっそりとした首、少年らしくもありながらも華奢さを残した身体つき、天真爛漫で元気一杯な瞳
の中に見え隠れする大人びた切なさの陰。
砂色のヒカルの瞳には憂いを帯びた儚げな雰囲気の彩も添えられ、濡れたように美しく光り輝いていた。
今日のヒカルの浴衣は確かに女性用の仕立てではない。だが生地の図案やウコン色の帯などは中々に凝ったもので、着物の知識が
薄いアキラにははっきりと確信できなかったものの、女性向けではないかと思えた。
ヒカルにはとても似合っているから、どうでも良かったが。
「……塔矢?」
余りにもぼんやりとしているアキラの様子に、ヒカルは訝しそうに首を傾げて上目遣いに覗き込んでくる。
「あ……すまない。自転車はそこに停めてあるんだ」
我に返ってベンチにおいておいた鞄を自転車の前籠にのせると、ヒカルはしげしげとそれを見詰めていた。
「どうした?進藤」
「この鞄……いつものやつと違うな」
「ああ…この間破れて使えなくなったんだ。進藤、持つのはやめておけよ」
「うっせーな、分かってらい。重たくて持てなかったら格好悪いし持たねぇよ」
「当然だ、手に怪我でもしたら取り返しがつかないぞ。キミの腕ってこんなに細いんだから」
アキラはヒカルの腕を掴んで眼の前の高さまで持ち上げる。最初に会った頃はぷくぷくとして柔らかく丸みを帯びていた手が、今では
関節が見えるほどほっそりとし、手首などアキラの指だけで掴めてしまいそうだ。
「……別に碁石が持てりゃそれでいいじゃん」
「いつも言っているけど、碁打は体力がないともたないよ。キミ、本当に少しは運動をして鍛えた方がいい」
「オレだって少しは鍛えてるさ。週一でボクシングジムに通ってるし」
ヒカルからのボクシング発言に、アキラは一気に眦を吊り上げる。
「ボクシングだと!?ふざけるなっ!!指を傷めたりしたらどうする!」
即座に却下してくるアキラの反応に半ばうんざりしながらも、ヒカルは慌てて馬を落ち着かせるように手で押さえる素振りをした。
「大丈夫だって。グローブも厚めのにしてるし、衝撃吸収用のゴムを巻いてテーピングもしてるんだから。それにストレス解消にサンドバ
ックを叩くくらいで、カリキュラムの殆どが基礎体力向上のジョギングとか軽い筋トレだぜ?手を傷めたりする心配はないんだってば」
「ダ・メ・だ!身体を鍛えるなら僕と一緒に合気道の道場にでも行けばいい」
わざわざ区切ってまで強硬に言い切るアキラは、断固として譲る気配がない。
「やだよ。合気道なんてジジ臭い」
「キミ……もっと爺臭いイメージの囲碁をしているくせに、よくそんな事が言えるな」
「そういうおまえも碁打だろ。――ってか、その台詞が一番失礼じゃん」
鋭いヒカルの指摘に、二人はどちらからともなくふき出し、笑いあった。
「……しょうがねぇなぁ…。ボクシングはサンドバックをなるべく叩かないようにして、ジョギングとか中心にすれば文句ないだろ?」
「それが懸命だな。前以て注意しておくが、ジョギングは夜じゃなくて早朝か昼間にするんだぞ。夜は危ない」
(おまえオレの旦那か女房かよ。一々口うるせぇな)
内心呆れたように突っ込んだものの、ヒカルは口には出さずに止めておいた。
ここでまた余計な一言を言おうものなら。アキラから矢継ぎ早に毒舌が返ってくる。困ったことにアキラの言い分はいつも正論で、どん
なに理論武装してもヒカルは勝てた試しがない。だから毒舌という表現は正しくはないのかもしれないが、相手の急所にぽんぽん言葉の
矢を打ち込む点では、余り変わりがないように思う。
それに遠慮がなくてきつい言い回しが多いから、ヒカルにしてみれば毒舌と言っても構わないのだ。そのうちアキラの通う合気道の道
場に行く代わりに、ヒカルの通うボクシングジムに連れて行ってやろうとヒカルはこっそり考え、自分の思いつきにほくそ笑んだ。
「ハイハイ分かりました。若先生の仰る通りに致します」
ヒカルが折れたことで、アキラは『それでよろしい』と言わんばかりに鷹揚に頷いてみせる。
こういうところが居丈高なのだ。日頃はさして気にならないが、話し方はやっぱり偉そうで尊大だ。こと碁になると拍車がかかり、毒舌も
相俟って余計鼻持ちならない。そのくせ、他人の前では愛想を振り撒いてにこにこ品よく微笑し、礼儀正しく物腰も柔らかい。北斗杯の時
でも何とも如才なく立ち回っていたものだ。ヒカルにはとてもアキラの真似はできそうにもない。
尤も、二人をよく知る者からみれば、ヒカルも無礼千万で傍若無人なところは似たり寄ったりなのだが。
ヒカルがアキラとこんな風につまらない言葉の応酬をするのはいつものことでも、見慣れない者にはちょっとした修羅場のように見える
だろう。しかし、二人にしてみればこの程度の言い争いは序の口である。それもあってついついいつも通りに痴話喧嘩をしていたのだが、
ふと気付くと痛い視線を浴びる結果となってしまっていた。
待ち合わせに来ている男女から不審げな白い眼を向けられ、ひそひそと話し合う声まで聞こえてくる。我に返ってみると、かなり恥ずか
しい状況に陥っていた。有象無象の視線を気にしない鈍いアキラですら気付いたらしく、ヒカルの腕を引いて、自転車を押しながらそそく
さと公園から出て行った。人目に晒されないところまでくると、二人揃って安堵の溜息を吐いて苦笑を零しあう。
「……行こうか、後ろに乗って」
「うん」
促されて二台に横座りすると、アキラの腰に腕を回して掴まった。浴衣ではどうしても女の子みたいな座り方になってしまうのが、ヒカル
にはどうにも癪なのだが、これも仕方ない。自転車では安定感が悪いので、怪我をしたくなければアキラに掴まる方が安全なのだから。
幾つかの不満な点さえ眼を瞑れば、これはこれでとても楽で、意外と快適だから構わないのだが。
何となく横を窺ってみるが、二年前は一緒に荷台に座っていた佐為の姿はない。佐為とこうして乗れないことが既に分かっていても、不
意に寂しさが胸に去来して、ヒカルは無意識のうちに温かみを求めるようにアキラにしがみ付いていた。
「進藤、走るよ」
「………ん…」
こくりと小さく頷いて表情を隠した金と黒の頭を見て、ふと思いついてアキラは優しく撫でてやる。何故か、そうしたい気がした。また何か
寂しい想いにヒカルが捉われたように思えたから。ヒカルは全く口をきかなかったが、腕に少しだけ力がこもって掴まる腕の温かさが鮮明
になる。アキラはもう一度頭を撫でてやり、無言のままペダルを踏み込んだ。
お互いに何も言わずに、ただ秋の匂いが仄かに香る風の中を前へと進んでいく。前に一度通った道だからか、アキラがヒカルに行き方
を尋ねることもない。静かで穏やかな時間が、ただ過ぎていった。アキラの背中に頭をのせると、彼の身体が想像以上に逞しくなっている
のに気付いて、ヒカルは唇を尖らせる。背が伸びただけでなく肩も広くなり、細くとも腰周りなど以前よりずっとしっかりしているのだ。
北斗杯の時も思ったが、アキラは明らかに男らしく成長していっている。背も、肩も、腕も、手も、全てにおいて出会った頃と違い、大きく
変わった。腕は掴まったままにして、密着していたアキラの背中と距離を少しだけ離し、彼の後姿をしげしげと眺めてみる。
背はすらりと伸び、肩幅は広くなり、腕は力強く、手は大きくなって、痩身でありながらも精悍さすら感じさせる男の身体へと変化してい
っている。顔立ちも少女のようだったのが、凛々しく眉目秀麗な少年になった。ヒカルはそんなアキラがちょっぴり羨ましい。
確かにヒカルも背が伸びて多少はマシだが、インドア生活が増えて肌は白いし、肩は華奢で狭い気がする。腕も手も足も女の子のよう
に細くて貧弱だ。佐為が消えて以来、ヒカルの身体は男として生育するのを拒んでいるかのように思えた。
アキラはヒカルより肌は白いが、他の点ではヒカル以上に男として成長しているのに。
以前、つい愚痴っぽく不満をあかりに洩らすと、彼女は不思議そうに小首を傾げたものだった。
『どうして?ヒカルはちゃんと男らしいじゃない。塔矢君と比べる必要なんてどこにあるの?……確かに前よりも中性的な感じが加わって
綺麗になったけど、全然女の子みたいじゃないもん。ヒカルの不満はただの我侭。だってそれもヒカルの魅力の一つなんだから』
あかりの言う通り、アキラと比べる必要がないのは分かっている。腕は細くても腕力はそれなりにあるし、足だって遅いわけではない。
男としては細身であるけれど、ちゃんと身体は成長しているし、こんなのはただの我侭だと自分でも思う。
けれど完全には納得できないものなのだ。日頃はそんな事は気にならないし、考えもしない。女の子と間違えられた海辺の一件など、
笑い話に過ぎない。こうしてアキラに掴まってみると自分との差を見せ付けられているようで、何となく悔しく感じてしまう。
「進藤、どうかした?」
背中に感じていたヒカルの体温が離れた感覚に、アキラは一瞬背後を振り返って尋ねてみる。
「なんでもない。それよりも塔矢、おまえってマジで自転車似合わねぇな」
「………そんな事わかっている。放っておいてくれないか?」
アキラにも自分がこんな風に自転車に乗る姿が似合わないという自覚があるから、わざわざ指摘されたくなどなかった。ヒカルにカメラ
が似合わないと、散々笑われたことは未だに忘れられない。
正面を向いたままのアキラから、憮然とした答えが風にのって返ってきて、ヒカルは声を立てて笑った。
何だか不思議だ。たったこれだけのやりとりで、さっきまで不満だったことがどうでもよくなってしまう。
もう一度ぎゅっとアキラの腰に腕を回して、ヒカルは頬を背中に押し付けた。そうするとアキラの温かな体温が伝わり、耳には心臓の鼓
動が聞こえてきて、彼の生命を実感することができる。自転車を漕いでいるからか、いつもより早い音が心地いい。
アキラはここに存在して、ヒカルとこうして一緒に居てくれる。自分を残して突然消えたりしないと、心音が告げている。それはどんな言
葉よりも分かりやすい、明確な意思表示だった。
温かくて優しい命の証。これだけは、ヒカルに囲碁を与えてくれた佐為にも与えられなかったことだ。
それでもヒカルにとっては、佐為は生きた人間と同じだった。誰の眼にも見えなくても、例えヒカルにしか見ることができなかったとして
も、確かに彼は居た。何故なら佐為の存在の証は『碁』として残っている。
ヒカルが囲碁をやめない限り、佐為は『ヒカルの碁』の中で生き続け、一緒に居られるのだから。