道順など今更教えなくても、アキラは一度通った道は完璧に覚えているようで、危なげなくすいすいと先へ進んでいく。ヒカルにと
っては何度も通い慣れた道だから、この先に唯一にして最初で最後の難関が控えていることも、知り尽くしていた。
「なあ塔矢、オレ降りなくても大丈夫か?」
「何が?」
「だってさー……この先、前におまえが途中でギブアップした坂道じゃん」
「今度はそんな不名誉なことはしない。あれから二年も経っているんだから」
「オレの体重増えてるぜ」
「よく言うよ、そんな細っこい身体して」
「おまえだって身長も伸びたし増えてるだろ?」
「ボクはぶくぶく太ったりしてないから平気だ」
ムキになって言い返してくるアキラから見えないことを利用して、ヒカルは好きにしろとばかりに肩を竦める。人がわざわざ心配して
進言してやったのに、聞く耳をもたない奴が悪い。こんな事くらいで意地になるなんて、アキラは見かけによらず意外に子供っぽいの
だ。例え途中で降りてくれと頼んできても、今度は絶対降りてなんてやらない。
アキラの背中越しに心臓破りの坂が迫ってきているのを眺めながら、ヒカルはアキラがどの時点で耐えられなくなって音をあげる
のか、意地悪く見物してやることにした。
心臓破りといってもとても急な坂というわけではない。勾配があるのは確かだが、とにかくもかくにも長いのだ。頂上に向かうまで緩
やかに曲がりくねりながら延々と坂道が続いている。頂上の手前で一つ急なカーブがあり、一昨年の夏、アキラはその手前で膝を屈
したので、今年はリベンジに燃えているらしい。
こんなところが、アキラも人のことを言えないくらい、意地っ張りで頑固で負けず嫌いだと思う。
アキラはヒカルに気を使ってか、座ったままで立ちこぎに変えようともせずに進んでいった。
いつまでも頂上が見えない坂道をゆっくりと上り続け、以前にギブアップしたカーブの手前も難なく越えて、全く危なげなくスピードす
ら緩めずに走る。アキラに掴まったまま坂を見下ろすと、随分高い位置まで上っていた。
「凄くいい眺めだよ、進藤」
僅かに頬を紅潮させながら、アキラが肩越しに振り返って声をかけてくる。その艶麗さすら漂う美しい笑顔に、一瞬心臓の鼓動が大
きく跳ね上がる。誤魔化すように顔を上げると、沈みかけの真っ赤な夕日に照らされて、眩しいほどだった。
眩しさに眼を細めて手を翳すと、紅に染まって暮れなずむ街並がガードレール越しに一望できた。上空になるほど空は青みが増し、
蒼茫たる夕闇が近付いてくるのが分かる。その中で太陽は一日最後の光芒を放ち、赤く燃え立っていた。
「やっぱ、ここからの風景は最高だよな……」
「うん、これだけでも来た甲斐があるね」
自転車を停めぬ代わりに、走る速度を緩めて景色を眺める。何を話すでもなく、ただ赤い光に包まれる町を見詰めた。小さな山に遮
られて見えなくなってしまうまで、声を出すのも忘れたように無言のままで。
坂の勾配が緩やかになり、小高い丘を大きな半円を描きながら道は進む。その途中で道は二つに別れ、一つはそのまま真っ直ぐ続
き、もう一つは道幅を狭めて下りながらこんもりとした林に覆われた、目的地の神社へと誘っていった。
細い道を照らす茜色の夕日の中、ヒカルとアキラの影は寄り添ったまま、決して離れることはなかった。
「……はい、着いたよ」
「おまえ…マジで体力ついてんな。一人でも大変な坂なのに、よく二人でここまで来れたもんだよ」
一頻り感心しているヒカルに微笑みかけると、アキラは前籠から鞄を下ろして額に浮かんだ汗を拭う。
「…でもやっぱりきついな。後ろに乗っているのが進藤じゃなかったら、諦めて途中で降りていたかもしれない」
神社の裏手にある小さな空き地に自転車を停めると、何度か深呼吸をしてアキラは乱れた呼吸を整えた。
久しぶりに見た坂は昔ほど立ちはだかる脅威には見えず、長くも感じなかった。それだけ成長して体力もついたということなのだろう
が、距離的にも長いし勾配のある坂なので楽ではない。やはり相当な運動量になる。
「荷物を置かせて貰って、夜店見に行こうぜ。スゲー腹減った」
「そうだな。……でもまずお参りをしてからにしよう」
裏手の林から境内に入って本殿の正面に回ると、二人で賽銭を入れて拍手を打つ。
今夜ここで花火も見させて貰う承諾を勝手に得てから、荷物を神殿の軒下の隅に空いた穴に押し込んだ。当然ながら鞄をしまう前
に、アキラはヒカルの浴衣姿をしっかりとカメラに収めておいた。この点アキラは抜け目がない。
ここに荷物を預けさせて貰うことも一昨年ヒカルに教えられたのだが、二年も経っているのに未だに修繕されていないというのは、
何だかこの神社の神様が可哀想に思えてくる。
「あ!碁盤も碁石もまだあるぜ」
「進藤っ!罰当たりだぞ!」
ヒカルが勝手に本殿に入って、奉納物(御神体?)を眺めているのに、アキラは声を荒げて注意した。
「へーき、へーき。これがあるってことは、きっとここは碁の神様を祀ってるんだよ。オレもおまえも碁打なんだから、大目にみてくれ
るさ。どうさだから一局打たねぇ?」
だがヒカルはアキラに怒鳴られても平然としたもので、反対に対局を誘ってくる。確かにヒカルとの一局は魅力的だが、アキラとし
ては神仏の住む神殿にずけずけと足を踏み入れているヒカルの行動の方が気になった。いくらヒカルが碁の神に愛される存在であ
っても、眼に余る行動はさすがにまずいだろう。
「……それとこれとは話が別だ。早く下りてこい!」
「ちぇ〜ホント頭固いんだからな……」
渋々勝手に開けて覗き込んでいた格子戸を閉め、ヒカルは縁側から賽銭箱の横を通って戻ってくる。賽銭箱の前にある短い階段
を下りてくるヒカルに向かって、アキラは手を差し出して待っていた。
そんなアキラの手を当然のようにとって階段を下りるが、それでも未練がましげに振り返ってヒカルは格子扉を見上げている。
ヒカルの意識を逸らすように手を少し強めに握って引っ張りながら、アキラは鳥居をくぐって正面の階段に足を踏み入れた。
石造りの階段は長くて落とし穴のように急で、両脇は鬱蒼とした林に覆われている。上から見下ろすと、階段があることが分かるの
だが、下から見ると樹木の枝や雑草で階段はおろか、神社があることすら分からない。
ヒカルが穴場だと言ったのも頷ける気がする。原始的な林のお陰で、あの坂から神社の裏手に続く道があるようには見えないのだ。
しかもこの神社には境内にも階段にも明かりがなくて、存在感も希薄でつかめない。
日が沈めば、ここは本当に真っ暗闇になってしまうだろう。
一昨年はそんな暗がりの中で、ヒカルは一人で碁を打っていたのをアキラは見ている。月の明るい晩で夜空には満月が浮かび、
花火が次々に打ち上げられる中たった一人で、仄かな光に照らし出される盤面の宇宙を作っていた。
一人なのにまるで誰かと対局しているように、あの時のアキラには見えたものだ。
今でも、アキラにはあの時ヒカルが本当に一人だったのかどうか、時々分からなくなる。一人に見えたのに、対面に誰かが座って
いたような気がしてならない。二年経った今振り返っても、その思いは消えなかった。それもその筈、アキラの勘は決して外れている
わけではなく、確かにその時ヒカルの対面には見えない何者かが座していたのである。
本因坊秀策とも呼ばれた、平安時代の天才棋士である藤原佐為が。
神社の階段を降りてからしばらく歩くと、露店が立ち並ぶ賑やかな夏祭り会場に着く。茜色の光はもう届かなくなり、空には星が瞬
き始め、迫る夜の訪れを感じさせた。手を繋いだままぶらぶら歩いて、浴衣姿の男女が目立つ通りを、幾つもの夜店を横目で見なが
ら通り過ぎていく。河の傍ということもあって少しは涼しくあるものの、人が集まると熱気でやはり暑い。
横を窺うと、ヒカルは持っていた巾着から扇子を取り出してぱたぱたと顔を仰いでいた。
通りの行き止まりにある大きな神社から引き返す途中で、ヒカルは手始めに烏賊焼きを丸ごとぺろりと平らげ、更にお好み焼を食
べて、今度はたこ焼きをいそいそと買って戻ってくる。痩せの大食いという言葉はヒカルにぴったりだ。
三人前以上はありそうな大きな船を片手に持ち、爪楊枝でぷすりと突き刺して愛らしい唇にたこ焼きを幸せそうに運ぶ。浴衣姿で
しかも雑踏の中だというのに、その動きは全く淀みがなく慣れたものだった。基本的に立ち食いや買い食いといったものに慣れてい
ないアキラは、ヒカルのように歩きながら食べることにどうも抵抗がある。
その為か、食べ物を見ても敢えて食べたいと思ったり食欲がそそられることもなかった。
「おい、塔矢も食えよ」
「………はい?」
いきなり眼前に現れた、ソースと鰹節と青海苔が程よくかかった球体に、アキラは眼を丸くする。
「食ってみろよ、うまいから」
口元に爪楊枝の先に刺さったたこ焼きが差し出され、どう反応すればいいのか分からずに硬直する。まともに話すこともできずに、
口ごもって逡巡してしまう。
「……あ………え…いや…その……」
「遠慮しなくていいぜ、奢ってやるからさ」
他意のない笑顔をみせているヒカルは、アキラの躊躇を遠慮として受け取ったらしい。にこにこ笑いながら、更に口元にたこ焼き
を近づけてくる。どうやら何一つ気付いていないようだ。
(………こ、ここで…?……キミの持つコレを食べろ…と?)
さすがにそれは物凄く恥ずかしい。どう考えてもこの状況では『あーん』と口を開けて食べろと言っているのも同然なのだ。こんな
人込みの中でするような行為ではないと思うのだが、ヒカルをこっそり窺ってみると、彼はさも当り前のように笑顔を向けてくる。
「どうした?食えよ。おまえもたこ焼き好きだろ?」
「す、好きだけど……」
アキラはたこ焼きやお好み焼も嫌いではないし、好きな部類に入る。ただ、さすがに場所が場所であるだけにかなり気が引けてい
るのだが、ヒカルには一向に伝わらなかった。
「ならいいじゃん」
唇に触れんばかりの位置に持ってきて、ヒカルはアキラに食べろと促してくる。この暑さだというのに背中には冷汗が流れ落ち、ア
キラは進退窮まった危機感を感じずにはいられない。
「ほら」
「………う、うん」
散々迷って躊躇した末に、アキラは意を決してたこ焼きを口に入れた。ヒカルの持つ爪楊枝に顔を寄せて。
「うまいだろ?」
「あ…うん。……おいしいよ」
頷いて何とか飲み込むが、本当は味なんて少しも分からなかった。こんな時はヒカルの無邪気さは罪だと感じずにはいられない。
天下の往来のど真ん中で、しかも周囲には何十人何百人もの男女がいる人込みの中で、新婚夫婦の真似事のような行動をとる
のは、まだ十五歳のアキラには恥ずかし過ぎる。周囲が暗くなってきていて良かった。
そうでなければ、羞恥と照れで赤くなった顔をヒカルに見られていたことだろう。
「ほら、もっと食えよ」
(…………神様………助けて……)
嬉しそうな笑顔の愛らしさに見惚れながらも、またもや差し出されたたこ焼きを見て、アキラは心中で滝のように涙を流しながら神
に救いを求めた。しかし、ヒカルにこんな事をして貰えるのは途方もなく嬉しいので、自分よりも幾分背の低いヒカルに合わせて少し
屈んで大人しく食べる。周囲の人間からどんな風な目で見られているのか気にする余裕もない。半ばというか殆ど自暴自棄になり
つつも、毒を喰らわば皿までの諦めの心境で、アキラはヒカルに促されるままにたこ焼きを口にしたのだった。
暗くて足元の悪い階段を上りきって神社に戻ると、境内付近は満月と星の光で意外なほど明るかった。
今年もヒカルの大食漢ぶりは健在で、烏賊焼きとお好み焼とたて続けに完食した上にたこ焼きを食べ、その後に焼きそばととうも
ろこしもしっかり食べている。しかも別腹のデザートにたいやきとクレープも食べ、すっかり満腹してご満悦だった。あっさりとした和
風の味つけを好むアキラとしては、見ているだけで気分が悪くなりそうなメニューである。傍で食べているのがヒカルでなければ、う
んざりしていたに違いない。ヒカルだからこそ、食事風景を微笑ましく思いながら見ていられたのだ。
夏祭りの楽しみは食べるだけではなく、射的、投げ輪、ヨーヨー釣り、と定番のものはヒカルと一緒に一通りは制覇した。アキラは
コレでもヨーヨー釣りは得意で、ヒカルに自分が釣ったヨーヨーもプレゼントもしていた。
だがアキラが渡したヨーヨーをヒカルは今持っていない。二人の傍を通った子供がこけて自分が持っていたヨーヨーを割ってしま
い、ヒカルがアキラから貰ったヨーヨーを子供にやったからだ。アキラにはそんなヒカルが何よりも好ましい。折角くれたのにゴメン
と謝ってきたヒカルの、自分を気遣ってくれる彼の優しさが愛しくて堪らなかった。
あの場で抱き締めて口付けたかったほどだが、告白もしていないのにできるはずがない。それ以前に公衆の面前だ。
ヒカルにたこ焼きを食べさせて貰うよりも恥ずかしい行為をしたいと考えていたことに、アキラは少しも気付いていなかったが。
子供にヨーヨーをやってから射的をして、アキラは少しも上手くできなかったが、ヒカルは見事に豪華花火セットを手に入れられ
て、殊の外上機嫌だった。
「あれ?今日は花火撮らねぇの?」
花火セットを神社の軒下にしまったヒカルは、本殿の端にある階段に座ったまま、荷物を取りに行く素振りもみせないアキラに尋
ねる。一昨年は夏休みの課題の為に、アキラは写真を撮っていた。だから今年も撮るかと思っていたのだが。
花火大会が始まる時間よりも早めに切り上げて神社に戻ってきたのは、アキラが花火を一昨年のように撮影するのではないか
と、ヒカルなりに気を使ったこともある。ヒカル自身が花火をゆっくりとみたいと思っていたのも確かだ。
「今回は撮るよりも見たいから」
ヒカルにだけ向ける極上の微笑を浮かべてアキラはあっさり応えると、夏の夜空に双眸を向ける。
「……そっか」
ヒカルは小さく笑って同意するように頷くと、空に浮かぶ丸い月を見上げた。夏祭りの喧騒の中に居るのもそれはそれで楽しい
が、こうしてアキラと二人きりで静かに過ごすのも、居心地がよくていい。
「それにしても意外だな。キミは花火見物も夜店のある賑やかな界隈でしそうなのに、こんな静かな場所で食べ物も何も持たずに
大人しく見る方を好むだなんて……」
失礼なアキラの物言いに、ムッとしたようにヒカルは頬を膨らませる。
「おまえ…そりゃオレに失礼ってもんだぞ。オレはこれでも風流なの」
「そうだったね。キミは見た目の派手さとは違って風流人だし」
アキラが頷くと、調子にのったように胸を誇らしげに反らせた。
「花見も皆と騒いでするのも嫌いじゃねぇけど、桜の傍でじっと見てる方が好きなんだ。そうしてると時間も何もかも忘れちまう」
ふっと遠くを見て、ヒカルは懐かしい思い出に耽るように瞳を伏せた。ヒカルは時折こんな風に、ひどく寂しそうな横顔をみせる。
そしてそれに共通するように、ヒカルは一人を嫌う、というか畏れる。
碁を打っている時、またそれ以外でも、アキラが席を少し立つだけでも縋りつくような眼で見詰められたことが何度もあった。何故
それほど畏れるのか以前は分からなかったが、最近だんだん気付いてきた。ヒカルは一人残されることに不安を覚えるのだと。
ヒカルを残して、アキラがどこかへ消えるなど、有り得ないのに。
まるでそうなることを畏れているように、一人を厭うのだ、ヒカルは。彼の大切な『何か』を永遠に喪ったことに重なるから。
それはきっとヒカルが碁を捨てようとしていたあの時期と、密接な関わりがあるのだろう。
ヒカルが以前アキラに『いつか話す』と言っていたから、敢えて無理強いしてまで理由を聞こうとは思わないが。